引用聖句:詩篇34篇7節
詩篇91:11
最近ずっと目に見えない世界、永遠の世界について考えてまいりました。 人間は正直になり、悔い改めるようになり、イエス様を自分の救い主として受け入れることこそが、永遠の世界の存在の証拠なのではないでしょうか。 この間、亡くなった子どものための記念会があったんです。子どもは産まれたときもう、死んでいました。死産だったんです。 もちろん兄姉にとっても悩みだったでしょうし、苦しみだったでしょうし、家族全体悩んでいたでしょう。 けどもこの間、家族も知るようになったのです。子ども三人がいまして、一番下の子は病気で歩くことができません。 体は大きいですけど、全然歩けないし、そして話すこともひと言葉も話せないし、それから見えないんです。 ちょっと考えられない状態だったんですけど、この間も姉妹のご両親、そしてお姉さん、それからお兄さん夫婦、それからお祖母ちゃん、みんなやっぱりイエス様の前に頭を下げて祈るようになったんです。 そして今話したあの子供は、悩みの種よりも家族の宝物だと言われたんです。普通の人はちょっと考えられない。 結局そういう子どもがいるからこそ、「もう縛られています。自由に動けない。」、ある人だったらそういう子ども隠すんです。恥ずかしくて。 けど彼らは、「この子は家族の宝物だ。」と言ったとき、やっぱり、イエス様は本当にまったく違う価値観を与えるお方であると新しく知るようになったのです。 ひとりのやもめになった方も、イエス様に頼る、イエス様を信ずるようになったのです。 七年前に彼女のご主人は自殺してしまったんです。やっぱり考えられない悩みだったでしょう。けども、「本物を得るために私にとっても必要だったのではないか。」と彼女は言ったのであります。 また、ある奥さんは、子ども四人持ってますけど心臓病なんです。やっぱりちょっと大変な悩みなんですけど、この間会う前に、何日間前に、彼女も癌だと、本人のお母さんは癌だと宣告されたのです。 初めて玄関に入ったとき、もちろん彼女は顔を見せなかったんですね。こういうふうに大きな声で泣いちゃったんです。 結局、「どうして?」、聖書の知識があったんですけど、「どうして神はそういうこと許すなのか。」 あとで、「どうしてかと今から考えないことにします。イエス様に頼る。」と言われたのです。 結局人間はこういうふうに変えられることとは、やっぱりひとつのすばらしい奇蹟なのではないでしょうか。 夕べの家庭集会で何ヶ月か前に会ったご主人とまた会ったんですけど、彼はそのとき本当にノイローゼだったんです。「もうおしまいですと。」 夕べ喜んだ顔で、「イエス様に頼るようになったから、もう元気です。もうノイローゼはどこか飛んで行ってしまった。」と言われたのです。 こういう人々は結局、目に見えない世界の証拠なる者です。 いわゆる天使たちについて聖書はたくさん言ってるのです。旧約聖書の中で108回、新約聖書で165回、神に仕える天使たちについて書かれています。 天使たちとはもちろん創造されたもので、けどもこの目に見える世界よりも先に存在したものであると聖書は言ってます。 いうまでもなく、天使たちはイエス様によって、イエス様のために創造されたものです。 天使たちの本質とはどういうものなのでしょうか。聖書を見ると言えることは、天使は勢いにおいても、力においても、人間にずっとまさってる。 天使の知恵は本当にすばらしいものであります。天使たちとは、栄光に富み給もうものであると聖書は言ってますし、けども天使たちの特徴は謙遜さです。従順です。 このイエス様によって、イエス様のために創造された天使たちの使命は、いったい何なのでしょうか。天使たちは主に仕えるために創造されたのです。 だからいつも主の周りにいて、主のみこころを行なおうと切に望むものです。主の命じられたとおりに天使たちは動くのです。 御使いの使命は、主の命令を忠実に行なうことです。また天使たちは、福音書を読むとはっきり言えることは、イエス様に仕えるものであります。 いつもイエス様とともにおり、イエス様とともに働いてることを聖書からはっきり読み取ることができます。 そして御使いたちの切なる願いは、イエス様を崇めることです。イエス様だけが中心になり、礼拝されるべきお方であるということです。 それから天使たちはわれわれのためにも創造されたのであり、われわれに仕えるために造られたものであると聖書ははっきり言ってるのです。 すなわち御使いは人間の肉体的な必要をも満たすものであると、エリヤは何回も経験したのであります。 また御使いは危険な状態をも守ってくれます。御使いは主のご計画を明らかにされるものであるとダニエルは何回も経験したのであります。 引用聖句である詩篇の2ヶ所もその証拠なるものなのではないでしょうか。 詩篇34:7
詩篇91:11
御使いの奉仕とは本当に大切な奉仕です。 御使いの数について聖書はいったい何と言ってるなのでしょうか。 私たちは多くの御使いが異なった指名をもっており、その使命の数が非常に多くから、御使いも大ぜいいないとその使命を果たすことができないことがわかります。 例えば御使いがよく出てくるのは、ダニエル書の中なんですね。ダニエル書の7章の10節に、御使いの数について次のように書かれています。 ダニエル書7:10
云々と書かれています。 結局ダニエルが主の御座を見たとき、主に仕える御使いたちはいっぱいいた。御座の前にはべる御使いは幾万だったとあります。 それから、ヨハネの黙示録の5章を見ても同じことが書かれています。 この間、御代田で歌われたコーラス、ヘンデルのメサイアでもこの5章の12節、歌ったのであります。 ヨハネの黙示録5:11
結局数えられない。 ヨハネの黙示録5:12
前に、合唱団の責任者の兄弟に頼んだんです。「どうしてもこれをやっぱり歌ってもらいたい。」 けど、そのとき彼は断ったんです。「いや〜、むつかしすぎる。オーケストラはちいちゃすぎる。ちょっと無理。」 だけど今度は本当に良かったんです。結局数えられない多くの御使いたちは、こういうふうに歌うようになります。今現在もそうでしょう。もうちょっとでわれわれも加えられるようになります。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 結局イエス様だけが栄光をお受けになってもらいたい。これこそが天国の雰囲気なんです。この世の雰囲気とは全然違う。 やっぱり人間は、「中心になりたい。役割を演じたい。自分、自分、自分、自分。」と考えるのはやっぱり人間の生まれつきの性質です。 「イエス様だけが中心になってもらいたい。」という心構えがあれば、もう溢れるばかりの祝福があるし、自由もあるし、喜びもあります。 イエス様がお生まれになった晩もやっぱり御使いたちが現われたとルカの福音書2章の13節に書かれてます。 ルカの福音書2:13
とあります。おびただしい天の軍勢が現われた。そして主を賛美した。真心から礼拝したのです。 旧約聖書の列王記第IIの6章の中でも、この目に見えない世界について次のように書かれています。 列王記第II、6:16-17
とあります。結局エリシャの御使いは目に見える現実だけを見たんです。敵の軍勢を見て驚き、もうおしまいだと思ったんです。 エリシャは主に祈り、主が召し使いの目を開かれたので、天の軍勢が見えるようになったのです。そうするともちろんわかったのは、心配することはおかしい。意味のないことだ。 天国で一致された告白とは次の告白でしょう。「生きてる間に心配したのはおかしかった。必要はなかった。一回も。」 当時の天の軍勢の数は、敵の軍勢よりもはるかに多かったことを見たエリシャの御使いは、解放され、安心したでしょう。 詩篇の68篇の17節にも次のような箇所があります。 詩篇68:17
とあります。 イエス様は捕まえられ、十字架につけられる前に次のように言ったのです。すなわち、「わたしが頼めばすぐに十二軍団の御使いが来る。自分を助けるために、解放するために来る。」と言われたのです。 当時の一軍団は六千人の数だったんです。もちろん天の軍団は普通の軍団よりも多いでしょうし、一軍団、六千人としても最低七万一千人はあったことがわかります。結局もう数えられない。 イエス様は一ことばだけ言ったならば、もちろんその十二軍団が飛んで来たのであります。ヘブル人へ手紙の12章の22節に、無数の天使という表現が使われてます。 ヘブル人へ手紙12:22
と書かれています。無数の御使いたちとあります。 もう一ヶ所、 詩篇148:2
詩篇148:5
とあります。主の御使いたちの数はもちろん数えられません。 天使たちについて考えると、ある人々たちはちょっとおかしいことを聞くんです。天使は男ですかね、女でしょうか。 そういう区別があるなのではないでしょうか。天使には幼児から大人に成長するというような過程はない。 また人間と違って、子どもを生むということもないと聖書は言ってます。絵などを見ると、女のように書かれた天使を見ることがしばしばありますけど、決して女ではない。 マタイの福音書22章の30節にイエス様は天使について次のように言われたのです。 マタイの福音書22:30
とあります。もう一ヶ所、似てる箇所ですけどルカの福音書20章の35節です。 ルカの福音書20:35-36
ですから天使には男とか女とかという区別はないと、このような箇所を通してはっきり知ることができます。 天使たちは死ぬことがないと書かれています。永遠に存在するものです。永遠に存在するけど、永遠のいのちをもっていないようです。造られたいのちしかもっていない。 けど、この造られたいのちは結局永遠に続くものです。 われわれはイエス様を信じ、受け入れることによって永遠のいのちをもつようになる。神のいのちをもつようになります。 永遠のいのちとは、もちろん貰うものよりイエス様ご自身です。「わたしはいのちである。」とイエス様は言われたのです。 御使いたちの住まいについて聖書はいったい何と言ってるなのでありましょうか。 御使いたちの住まいは天であるということは聖書の多くの箇所から学ぶことができます。 夕べ、家庭集会で子どもふたりに聞かれたことがあるんです。「天国は本当にあるの?」、そのあとで、「地獄もあるの?」 もちろん見たことがないし、けども結局イエス様は、はっきり天国についてたくさん言われたし、地獄についても話されたから、イエス様を信じたから私たちも信ずることができる。イエス様は嘘つきじゃないからです。 確かに想像することはできません。天国も地獄も想像することができません。 人間は時々打ちのめされた気持ちになるし、もう真っ暗やみになる。けどもそれは地獄じゃない。 あるいは天国のすばらしさについていくら考えても考えられません。 例えば主はこの地球を回復されたとき、六日間しか使わなかったんです。 本当は六日間必要ではなかったんです。一日でできたはずですけど、のんびりしてやっちゃいましたと思われたかもしれないけど、六日間この地球を回復されたのは、考えられないものなんです。 そしてイエス様は、わたしはあなたがたのために住まいを備えたらまた来ますと言ったんです。もう2,000年間準備中だよ。考えられない。もう想像することができない。 けども主は人間ひとりひとりのために栄光に満ちた住まいを造る。全部違うと思うよ。同じ壁紙はないはずです。 本当に栄光に満ちたものである。ですから天国ついて、地獄についていくら考えてももう全然ピンと来ないことですし、つかめられない。想像することもできません。 天使の住まいは天であるということは聖書の多くの箇所からはっきり知ることができます。 イエス様がお生まれになったとき、おびただしい天の軍勢が現われ、御使いといっしょになって、賛美し、やがて御使いたちは彼らを離れて天に帰ったと記されています。 急に現われて、それからまた天に帰った。意味は天国はそんなに遠く離れてるものではない。 宇宙ロケットに乗って、「いやー、神よ。見えなかった。」と、ある無神論者は言ったんですけど、当然でしょう。 天国はそんなに離れてるもんじゃない。ある人は、「二階だよ。」と言ってたんです。 もちろんそうよ。目に見えないことだけなんです。 ルカの福音書2:13-15
とあります。 マタイの福音書28章の2節。天から来られた使いについて次のように書かれています。 マタイの福音書28:2
使いが天から遣わされたのです。 パウロはガラテヤ人への手紙1章の8節。やっぱり天の使いという表現を使ったのです。非常に厳しいことばです。 ガラテヤ人への手紙1:8
パウロたちの宣べ伝えられた福音とは、十字架につけられたイエス様でした。またイエス様の言われた福音だったのです。 イエス様は、「あなたがたは生きている間に患難がある。」と言われたのです。病気が治る。 (テープ A面 → B面) イエス様の宣べ伝えた福音とは、「あなたがたは生きている間に苦しむ。悩みがある。患難がある。」と言われたのです。 ほかのことが宣べ伝えられることとは異なった福音です。パウロは、「異なった福音を伝える者はのろわれるべきです。」と言ってます。 列王記第I、22:19
ここで天の万軍と書かれてます。 またイエス様はマタイの福音書18章の10節に、天の御使いたちという表現も使われたのです。 マタイの福音書18:10
子どもは特に天の御使いたちによって守られてるのです。この御使いたちは、天におられる主なる神の顔をいつも見てるのですと。 マタイの福音書22章30節と同じく、ここでも天の御使いたちという表現が使われています。イエス様によって使われたのです。 マタイの福音書22:30
と書き記されているのです。このような聖句からわかるように、御使いの住まいは天にあり、そこには主のご臨在を見ることができるのです。 最後に、天使の現われについてちょっとだけ考えたいと思います。天使の現われは聖書にしばしば出てきます。 御使いは霊でありますから、人間と交わりをもつためには人間の形を取って現われます。 天使はしばしば人間と思われるようなことがありますが、しかし天使と交わったものは色々な点から考えて、根本的に異なったものであることがあとになってわかるものです。 ヘブル人への手紙の13章の2節です。旅人をもてなす大切さについて書かれています。 ヘブル人への手紙13:2
結局ある人々は気付かないで、御使いたちをもてなしたとここで書かれています。 旧約聖書の場合はよくあったことです。例えばアブラハム、創世記の18章に書かれてますけど、アブラハムと三人の御使いとの出会いも疑いなくそういうものでした。 創世記18:2
とあります。結局アブラハムは、この三人の者とは結局普通の人間と違う。どうしてわかったか、わかりません。 普通の人間だったら別にひれ伏して礼をする必要はない。 創世記19:1-3
とあります。ロトも二人の御使いの訪問を受け、彼らをもてなしたとがここで書かれてます。 確かに天使の現われはしばしば人間の形を取りますが、またあるときには、天的なため、それを見た人間は驚いて、恐れおののきます。 ダニエル書の10章の中で次のような箇所があります。 ダニエル書10:5-9
とあります。ヨハネの黙示録も似てる箇所があります。 ヨハネ黙示録10:1-3
云々と書かれています。 もちろん天使は目で見ることはできませんけど、神がわれわれの心の目を開いてくださったときに初めて、見えない世界の事実を、現実を知るようになります。 旧約聖書の中でそれがよくあったことなんですけども、ちょっと面白い箇所なんですけども、民数記の22章なんです。 民数記22:23
民数記22:31
とあります。 ろばは結局主の使いが立っているのを見たんです。バラムは見えなかった。 このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが立っているのを見て、ひれ伏したとここで書かれてます。 同じように、前にエリシャが天の使いを、天の軍勢を見、あとで召し使いも見えるようになったと前に読みました箇所を通して知ることができます。 私たちも気が付かないかもしれないけど、主の使いによって色々と助けられ、支えられています。 やがて将来、いつの日にか、私たちがどれほど御使いによって守られ、支えられたかを知るときが必ず来ます。 けど天使の現われは少なくなりました。旧約聖書にはしばしば天使の現われについて色々なことが書いてます。 新約聖書では初めに何回か見られる程度で、現在はほとんどないと言えます。どうしてでしょうか。 旧約時代では主と人間とが非常に離れていたため、主は目に見える形で御使いをお遣わしになったのです。 イエス様が人間になられたから、特に五旬節からあとになると、使いの現われはほとんどなくなった。 御霊は信ずるひとりひとりの心の中に宿っておられます。御霊は特に信ずる者を導かれ、あかしを守り、光を照らすことをなさいます。 ある人々は聞くんです。「御使いには翼があるでしょうかねぇ。」 画家はたいてい、天使を描くとき翼をいっしょに描くことが多いことを知っています。 聖書とは少なくても二回、天使が飛んでることについて書き記されています。ひとつはダニエル書の9章の21節です。すばやく飛んで来たという表現が使われています。 ダニエル書9:21
云々とあります。このガブリエルとは、天の使いたちのかしらです。 それから、ヨハネの黙示録の14章の6節を見ると、ヨハネはひとりの御使いが中空を飛ぶのを見たと書かれてます。 ヨハネの黙示録14:6
とあります。それから、イザヤ書の6章の2節に次のような箇所があります。 イザヤ書6:2
とあります。翼は何と考えるべきなのでしょうか。 翼は決して物質的な原材料から出来てるものではなく、霊的なものを示す象徴でしょう。それは速さと確実さを表わすものです。 セラフィムは翼を持って、自分自身をおおい、主の荘厳さの前に謙遜な態度を示したのであります。 ひとりの天使はヨハネの黙示録を書いたヨハネに頼んだんです。 「主を拝みなさい。私の前にひれ伏してはいかん。」、結局主だけが栄光を受けてもらいたい。天使たちの奉仕の目的とは結局それなんです。イエス様の栄光だけが現われるようになることです。 イエス様が中心になると、人間は束縛から解放されます。 心配、恐れから解放され、本当の意味で主を霊とまことをもって礼拝することができるのです。 |