霊の世界-天使5


ベック兄

(テープ聞き取り、霊の世界シリーズ)

引用聖句:詩篇91篇11節
11まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

今の読まれました箇所は、本当にすばらしい約束です。

詩篇91:11
11まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

主はあなたのために、主は私のため、それだけ毎日覚えれば喜ぶことができるし、すべてをゆだねることができます。
結局永遠のむかし、人間はひとりもいなかったとき、主はもうすでにあなたのために救いの計画を立てられた。
主はあなたのためにお生まれになった。主はあなたのために犠牲になり、救いの代価を支払ってくださった。主は今日もあなたのために生きておられるのです。

結局あなたは主のためにいい子にならなくちゃならないのではない。あなたは主のために教会を建てるべきなのではない。
結局人間はそんなに大切なものではない。本当はどうしようもない者です。
けどそれにしても主は人間のためにすべてをささげたのです。主は私のため。とわかると、本当に喜ぶことができます。

先週ちょっと集会の姉妹の娘の入院されてる病院まで行きまして、35歳なんです。
お父さんのメモを見て癌だとわかって、何と何と考えたのかわかりませんけど、今までお母さんが何と言ってもあまり聞く耳をもっていなかったようです。
けど病院まで行って、彼女は何回も何回も、「主は本当に私のために死なれたの?主は本当に私を捨てないで愛してるの?」

結局、ちょっと考えられなかったんですけど、あとで、「もう全部イエス様に任せます。」と言われたのです。
ご主人も最後にちょっとだけ見たんですけど、彼も非常に心を開いてるようですから、彼の救いのために是非祈ってください。

いつまでもつかわからないけど、ちいちゃい子ども三人いますし、決して楽ではないと思います。
結局主は私のためと、彼女は自分のものにすることができたのです。それから、もう諦めなくてもいい、安心だと知ることができたのです。

土曜日から昨日まで、北海道で集会がありまして、百四、五十人集まったんです。本当に祝福された集いでした。
8人の兄弟も洗礼を受けることによって、自分の信仰を公に証しすることができたのです。

集会始まる前にちょっと札幌から離れてる伊達という町まで行きまして、現在横浜に住んでる兄弟のお父さんに会うようになったんです。84歳なんです。
兄弟は最近やっぱり見舞いに行って、「光よあれ」をあげて、もちろんお父さまの救いのためにずっと祈ったでしょう。
彼は本の内容よりも、その本の写真を見て驚いたらしいんです。みんな喜んでるじゃないか!

彼にとってちょっとショックだったようです。素直に本を読んだだけじゃなくて、好きになったらしいんです。
付き添ってる人は、彼は本を抱いて寝てるらしい。本当に可愛いけど、この間行ったとき、話し始めましたとき彼はすぐ、「結論とは?」と聞いたんです。

結局余計なことを聞かなくてもいいだろうと。「私は癌なんです。いつまでもつかわからない。心配もある。不安もある。どうすればいいの?」
結局そういう気持ちですぐ結論を知りたかったんです。結局不安から解放されたい。これは彼の切なる願いだったんです。

彼も本当に素直に祈って、あとで、「おじいちゃん、もういいよ。はい!もう心配しません!」と言ったんです。
また心配するでしょうけど、必ず娘さん、義理の娘ですけど、姉妹はちゃんと祈りを書いて、お父さん毎日これをお読みになってくださいと。

別の奥さんは、初めて友だちを集会に連れて来てくださったんです。
3年前に離婚になって、ご主人はすぐ自分より20歳下の若い女性と再婚してしまったんです。彼女も色々なことで苦労したし、悩んだらしいけど、本当に喜びながら希望をもって帰ることができたのです。

札幌集会のひとりの姉妹のお母さんは、「私は頑固で、自分のことしか考えられなかったんです。けど、もう降参します。」と言ったんです。
北海道の働きとは今からと思ったんです。本当にみんな一致して、主の誉れだけを考えられるようにと是非祈りの中で覚えていてください。

今朝、四国から電話があったんです。今度高知で結婚する兄弟からの電話だったんですね。
指輪に刻まれることばも見つけたと言ったんですね。どういうことばであったかと言いますと、テサロニケ人への手紙第Iの2章4節です。非常にすばらしいことばだと思います。
今まで色々な方々があったんですけど。このことばはもちろんわれわれのためにも必要であり、北海道にいる兄弟姉妹のためにも非常に大切だと思ったのです。

テサロニケ人への手紙第I、2:4
4私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

結婚する四国のおふたりは結局心を一つにして、このことばを選んだのです。
結局、私たちは福音をゆだねられた者であると確信するようになっただけではなく、結局今からわれわれは福音を宣べ伝えたい。

すなわち、イエス様を紹介したいと切に望むようになったからです。
私は前から、もし高松で家庭集会開かれればいいじゃないかと思うんです。あのふたりは高松に住むようになるから、おそらくそういうふうになるなのではないかと考えられます。

結局われわれは人を喜ばせようなのではない。主を喜ばせようと願ってる。そういう心構えで結婚すると、われわれもこういう心構えをもつと、やっぱり祝福があります。
今までずっと、主の天の使いについて考えたんですけども、今日はひとつの表現について聖書の中で何回も出てくる表現なんですけど、すなわち、主の使いについてちょっとだけ考えてみたいと思います。

聖書の中に、主の使いということばが出てくる場合には、いったい何が言われてるなのでありましょうか。
旧約聖書の色々な箇所から聖句を読むと、主の使いとは、普通の御使いではないとわかります。すなわち、人間に現われた主ご自身であるということです。
主の使いということばはもちろん、おもに旧約聖書に出てきますけれども、例えば創世記の16章7節と10節、ちょっとお読みいたしたいと思います。

創世記16:7
7主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

創世記16:10
10また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

とあります。
結局主の使いはハガルに、エジプトの女だったんですけども、彼女に会われて言われたのです。
「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどにしましょうと。」、そのような御約束をしてくださるのは、決して普通の使い、御使いではない。

まずそういう力がないし、そういうふうに言える資格もありません。
疑いなくこの約束を与えたのは、主ご自身にほかならなかったのです。

創世記18:10
10するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。

創世記18:13-15
13そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
14主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
15サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

結局これも、いわゆる普通の遣わされた御使いではなかったのは明らかです。二回も、「主が」、とありますね。
13節に、「主が仰せられた。」と書いてありますし、そして15節の後半にも、「主は仰せられた。」と書かれてます。

結局主の御使いがアブラハムに現われ、そのとき三人の人が彼に向かって立っていたと書かれています。
その一人はアブラハムの妻サラに、次の年男の子が産まれると言ったのです。その人こそ、主ご自身であったことは間違いない。

創世記19:1
1そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。

そして、

創世記18:22
22その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

と書かれてます。19章の1節を見ると、ふたりの御使いがソドムに着いたと記されています。残りのひとりの御使い、結局主ご自身はアブラハムのもとにとどまられ、アブラハムはそのため、主に願い続けていたのです。
アブラハムはまだ、主の前に立っていた。御使いの前ではない。

それからアブラハムが息子を殺そうとしたとき、御使いが、「してはならない。」とアブラハムを止めたのです。
この聖句を読んでもわかります。すなわち、その主の使いとは決して普通の使いではなかったのです。
主ご自身にほかならなかったのです。
創世記22章の11節から。この22章は本当に旧約聖書の中の宝物のようなものです。福音そのものです。

創世記22:11-18
11そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
15それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

あなたがわたしの声、結局わたし、すなわち主の声に聞き従ったから、あなたは大いに祝福されるということです。
このようなことばは決して御使いが言うことばではない。主ご自身が言われたとしか考えられません。

御使いが、32章になってますけど、ヤコブと相撲を取ったという有名な聖句も、その御使いが、普通の御使いではない。
主ご自身であったことが疑いありません。

創世記32:29-30
29ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
30そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、

御使いを見たのではない。

創世記32:30-31
30私のいのちは救われた。」という意味である。
31彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。

とあります。
私は顔と顔とを合わせて神を見たとヤコブは言うようになったのです。同じく創世記の48章の15、16節を見ると、同じ事実が示されていることがわかります。

創世記48:15-16
15それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
16すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

ここで神、15章の後半に、神ということばが出てきます。16節、御使いということば出てきます。
結局、この使いとは結局主ご自身であると、この箇所を通しても知ることができます。
イスラエルの信じた神と私を贖われた御使いとは、まったく同じものであることが知ることができます。

次の出エジプト記を見ても同じことが何回も何回も書き記されています。
モーセが、主の山ホレブで柴の中の炎のうちに主の使いを見たとあります。

出エジプト記3:2
2すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。

それから5節。主の使いじゃなくて、

出エジプト記3:5-6
5神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
6また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、

結局わたしは神である。

出エジプト記3:6
6アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

とあります。
モーセに現われたいわゆる主の使いが主ご自身であったことがはっきりわかります。4節見てもわかりますね。

出エジプト記3:4
4主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

とあります。同じく出エジプト記の13章の21節、

出エジプト記13:21
21主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

ここで主ご自身が彼らを導いて守られたとあります。14章の19節にも似てる箇所があります。今の箇所は、主と書かれてます。次の箇所は結局同じことについて神の使いと書かれてます。

出エジプト記14:19-20
19ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
20エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

と書かれています。
イスラエルの民を導いたのは単なる使いよりも主ご自身が自分の民であるイスラエルを守って、恵んでくださったのです。

またギデオンに現われたいわゆる主の使いも結局同じく主ご自身であったことが、はっきり士師記の6章を通して知ることができるのです。

士師記6:12-13
12主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
13ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。

もしこの御使いが主でなかったならば、普通の御使いであるならば、「やめて。私は主ではない。主に仕える御使いにすぎない。」と言ったはずです。
ヨハネの黙示録の中でそういう箇所があるんです。ヨハネは御使いの前に、ひれ伏して拝んだ。そしたら御使いは、「やめて。私は拝むべきものではない。ひとりの御使いにすぎない。」と言ったのです。

ここで御使いとは結局、「よし。」と言ったのです。なぜならば普通の御使いではなかったから。
主ご自身であったからです。ギデオンは、

士師記6:13
13もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

こういう似てる箇所は聖書の中でいっぱい出てきます。選ばれた民、主の民は敵の手に渡されるようになったのです。
もちろんそれも主のわざだった。イスラエルの民は妥協したとき、偶像礼拝に・・・

(テープ A面 → B面)

天罰としてではなく、愛の表われとしてなさったのです。

士師記6:14-15
14すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
15ギデオンは言った。

前と同じです。

士師記6:15
15「ああ、主よ。

14節にも、主は仰せられたと書いています。御使いじゃない。主は言われた。そして15節、ああ、主よ。

士師記6:15
15私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

16節。また主ということば出てきます。

士師記6:16-17
16主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」
17すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。

主のお名前のひとつは、「わたしであるということばです。」、ですからイエス様は自分自身を明らかにされたときイエス様はいつも、「わたしである。」と言われたのです。
「わたしはいのちである。わたしはよみがえりである。わたしは真理である。」と言われたのです。あなたであるというしるしを、私に見せてください。

士師記6:18
18どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、

御使いはと書いてないんです。

士師記6:18
18主は、「あなたが戻って来るまで待とう。」と仰せられた。

それから何回も主の使いということばが出てきます。

士師記6:19-22
19ギデオンはうちにはいり、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。
20すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。
21すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。
22これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、

主の使い、なのではない。

士師記6:22-23
22神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」
23すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」

ギデオンに現われた主の使いとは、もちろん主ご自身でした。こういう箇所を見ると明らかになることは、主の使いの現われとは主ご自身の啓示であり、主ご自身の現われにほかならなかったということです。
ですから主は、新約聖書のみならず、旧約聖書においてもイエス様の中にご自身を現わしたことがわかります。
例えばヘブル人への手紙の1章の2節です。

ヘブル人への手紙1:2
2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

主なる神は、御子によって諸々の世界を創造されたと書いてあります。主なる神は御子を通して語った。
人間の目から見ると、やっぱり単なる御使いのようなものであったけど、本当は主ご自身が自分自身を明らかにしてくださったのである。
例えばコリント人への手紙第Iの10章。イスラエルの経験について色々なことがパウロによって書かれたのであります。

コリント人への手紙第I、10:4
4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

とはっきり書かれています。
結局キリストは荒野でイスラエルの民とともに悩み、ともに苦しみ、彼らを導いて守られたのであるということです。
出エジプト記にもう一回戻りましょうか。

出エジプト記23:20-21
20見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。
21あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。

とあります。
主は自分の民のために絶えず心配してくださり、ご自分の民に道を備えていてくださるのです。
新約聖書のペテロの手紙第Iの中で、次のようなことが書かれています。

ペテロの手紙第I、1:11
11彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

と書いてあります。
ペテロが預言者たち、もちろん旧約時代に現われた預言者たちのうちにキリストの霊が住んでいたと、ここで書かれています。
このことからわかることは主の使いが主イエス様を通して、ご自身を現わされるということです。もう一ヶ所を読んで終わりましょう。

ヨハネの福音書1:18
18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

結局、旧約聖書にも新約聖書にも、神は自分自身を明らかにされたとき、使いを通してこの遣わされた主の使いとは、結局イエス様ご自身です。
神を信ずるけど、キリストと関係を持ちたくないと言う人は、ちょっと気の毒なんです。

主なる神の現われとは、イエス様ご自身であるからです。いうまでもなくこのイエス・キリストとは組織されたキリスト教と関係のないお方です。
主イエス様は無宗教であり、けども人間ひとりひとりを心から愛してくださるお方です。あなたのために主はすべてを捨てたのです。あなたこそが主の愛の対象である。
これを毎日覚えるべきなのではないでしょうか。結果として私たちは本当に驚くようになり、ひれ伏す者となり、真心から主を拝む者となります。




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