引用聖句:ヘブル人への手紙1章14節
ヘブル人への手紙2:5-9
ロサンゼルスの飛行場の近くだったんですけど、車からだけ見たんですけど、道端でひとりの黒人が車椅子の中で座っていて、老人だったんですけど、骨と皮ばっかりだったんです。 おそらく癌じゃないかな。どうして目立っていたかと言いますと、彼は首に大きな看板らしい物があって、そして遠くから見られるように、「ホームレス。ふるさとをもたない者」それから、「ヘルプ」、助けてーと書いてました。 周りに古い帽子があって、ちょっとだけ金が入ってました。彼はおそらく望んでいたのは、金だけあれば何とかなる。 けどいくら献金しても彼はそれによってふるさとを見いださないでしょう。 彼を見たとき、結局、私はふるさとを知らない者です。見捨てられてる者です。「私のこと心配する人は誰もいない。助けて。」、これこそが多くの人々の心からの叫びなのではないでしょうか。 パサデナの近くに中国の夫婦も知るようになったんです。奥さんは四十二歳、癌なんです。ずっと寝たきりで、ご主人は弁護士ですけどふたりは本当に主を知ってるし、主に仕えたい気持ちでいっぱいなんですけども、今までいろいろな人々に出会ったんですけども、あの奥さんのように平安に輝いた人を見たことがない。 もう平安そのものだったんです。部屋の中の雰囲気はそういうものでした。「もう、心配から解放された。残される主人、子どもさんたちのために心配するのはイエス様ですから、もう私は安心です。」、そういう人々こそが最もすばらしい証しなのではないでしょうか。 高知では二組の結婚式だったんですね。その前に葬式があったんです。 確かに葬式はすばらしいもんです。兄弟のお父さまは82歳で天に召されたのです。兄弟は三男ですから、どういうふうになるかみんな心配したんです。けど、お兄さんたちも賛成したんです。集会でやってもいい。 ですから、雰囲気は非常に良かったし、そして葬儀のときは、結局みんな真剣に聞くんです。 結婚式の場合は必ずしもそうじゃない。みんな、「うれしぃ〜。」、酒はいればもう、おしまい。「誰が何と言っても、もう関係ない。」 集会の場合はもちろん酒が出ない。酒が出ないからいいですけど、やっぱりそんなにね、真剣に聞いてないよ。 ですから葬儀とは本当に福音を宣べ伝えるために最もすばらしいものなのではないかと思います。 結局導かれる、救われる人々とは結局家族です。親戚です。知り合いの人々です。 知り合いの人々のために祈ることとは、結局もっとも大切なのではないでしょうか。 この間、若い奥さんから手紙をもらったんです。ご主人とあまり上手くいかなかったんで、ずっと非常に悩んでいたし、けどこの間手紙の中でやっぱり、もちろん主人はけしからんけど、実は私もダメなんですと急にわかるようになった。 色々なこと書いてたんですけど、一番最後の文章は、すばらしいですね。イエス様はという言葉だったんです。結局大切なのはイエス様を知ること。イエス様をよりよく知ることなのではないでしょうか。そうすると楽になります。 今日はもう一回、天の御使いたちについて考えたいと思います。三つの点に分けて考えたいと思います。 第一番目、御使いたちの知恵について。 第二番目、傍観者としての天の使いについて。それから 第三番目、天使の尊敬についてです。 いわゆる天使の知恵は第一に、イエス様との関係において。第二に、信ずる者との関係において、いったいいかなるものなのでありましょうか。 コロサイ人への手紙1章の16節に次のように書かれてます。よく引用されるイエス様の偉大さを表わす箇所です。 コロサイ人への手紙1:16
イエス様は見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主であるから、天使たちは自分たちの造り主であられるイエス様を拝んでるわけです。 けどイエス様がこの世に来られることによって、天使たちよりも一時的だけ、33年間だけ低くなられたと聖書は言ってます。 前に兄弟のお読みになりましたヘブル人への手紙の2章の中で、はっきりそう書かれています。 ヘブル人への手紙2:5-9
イエス様の死とは結局私たちひとりひとりの受けるべきさばきであり、天罰でした。 誇りをもってイエス様は、私の代わりに死なれたと言える人は本当に幸せです。 初代教会の人々とはここで書かれてるように、私たちはイエスのことは見ていると言ったのです。もっとも大切なのはそれなのではないでしょうか。 イエス様はわれわれを救うために低くなられたのです。天使たちよりも低くなられたのですけど、それにも関わらず御使いたちはイエス様がこの地上におられたときも絶えず見守られ、心から崇拝したのです。 イエス様は十字架につけられたと御使いよりもはるかに高く天に引き上げられたのです。 ヘブル人への手紙1:4
とあります。 すべての御使いたちはとこしえにイエス様を崇拝すると書かれています。 ヘブル人への手紙1:6
結局拝むべきお方とは十字架の上で犠牲になり、救いのみわざを成し遂げられたお方です。 天使の知恵は第二番目に、信ずる者との関係においていったいいかなるものなのでありましょうか。 今まで学んで来たことからわかることは、御使いが次の点で人間よりもまさっているということです。 第一に神聖さ。第二に力。第三番目に知恵。それから四番目に栄光。 けど主なる神は人間にも特別な知恵をお与えになったのです。人間は救いにあずかる主の恵みを知ることができるという特権をもっています。 ヘブル人への手紙2:16
イエス様は御使いたちのためではなく、人間のために死なれ、救いの道を開いてくださったのです。 パウロによると、人間は、信ずる者は、いつか御使いをさばく者となるとコリント人への手紙第Iの6章に書いたのであります。 コリント人への手紙第I、6:3
信ずる者はいつか堕落してしまった天使たちをさばくようになると聖書は言ってるんです。 私たちのような者がそのような大役を果たすということは、いくら考えてもピンと来ませんし、頭で理解できません。 それは私たちが新しく生まれ変わり、主のご性質にあずかり、主の姿に造り変えられるということの結果として可能になります。 ペテロの手紙第II、1:4
神のご性質にあずかることとは、主の目的であり、また約束です。そしてパウロはローマ人への手紙の8章29節に次のように書いたのです。 主の永遠からの目的とは、われわれの救いだけではなく、イエス様のかたちと同じ姿に変えられることであるとあります。 ローマ人への手紙8:29
御子のかたちと同じ姿に変えられることとは、もちろん考えられません。けど約束されてるから間違いなくなる。 ペテロもパウロもこういうふうに主の目的について証ししただけではなく、ヨハネもまったく同じことを証ししたのであります。 ヨハネの手紙第I、3:2
確信しています。 ヨハネの手紙第I、3:2
私たちはキリストに似た者となることも確信してる。どうして?約束されてるからです。 主なる神はただ単に私たちを救い出されるだけではなく、ご自身の花嫁として迎え、永遠から永遠に亘って天の御座に着き、ともにすべてを支配なさることを望んでおられます。 主の目的とはいいなずけとなる全き聖い教会です。エペソ人への手紙の5章の中でパウロは、この主の目的について次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙5:25-26
云々とあります。 主は自分自身を犠牲にしてくださった。自分自身をささげられた。どうしてでしょうか。教会をきよめて聖なるものとするためです。 最後的な目的についてもちろんヨハネの黙示録の中で書かれています。ヨハネの黙示録の3章の21節に、高く引き上げられた、天にお帰りになったイエス様は、次のように呼びかけたのであります。 ヨハネの黙示録3:21
わたしとともにわたしの座に着かせよう。これはイエス様の目的なんです。いくら考えてもピンと来ない。考えられない。想像することもできない。けどもそうなんです。 それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。そして一番最後のヨハネの黙示録の22章の5節の後半に、また次のように書かれています。 ヨハネの黙示録22:5
永遠にイエス様とともに支配するようになると書かれています。 確かに今現在は、人間は御使いの下にいますけど、やがては御使いの上になる。永遠に追うとして支配するようになるからです。 聖書によると、御霊がわれわれに啓示してくださることのほうが、御使いが私たちに教えることよりもはるかに大切であることがわかる。 パウロはだからガラテヤ人への手紙の1章8節に、非常に厳しいことばを使って書いたのです。 ガラテヤ人への手紙1:8
結局われわれにとって大切なのは天の使いの言ってることよりも、書かれてるみことばです。聖書のみ。 われわれはこの態度を取ると祝福があります。 次に、傍観者としての天使についてちょっとだけ考えたいと思います。聖書によると、御使いは想像と救いのみわざの傍観者だったとあります。御使いは・・・ (テープ A面 → B面) ・・・ひとつ見なかったのです。例えば (テープ一時中断) 神の敵、反抗者が聖霊の宮、すなわちイエス様にいいなずけになるということが実現したのであります。 ペテロの手紙第I、1:10-12
御使いたちも見たいと書き記されているのであります。 預言者たちは、イエス様が苦しみを受け、殺され、それに続いて栄光をお受けになることを証ししたが、これは御使いたちも伺い見たいと願っていたことだったのであります。 ペテロだけではなくパウロも、テモテへの手紙第Iの3章16節に同じことを書いたのであります。 テモテへの手紙第I、3:16
とあります。 ここで、御使いたちに見られたと書き記されています。結局御使いたちは傍観者としてもっとも大切なことを見ることができ、確かめることができたのであります。 そのように、御使いたちは傍観者として救いのみわざの偉大さ見ることができたのです。 しかも、救われた者、すなわち信ずる者のからだなる教会を通して今日もなお神の知恵が現わされているとパウロはエペソ人への手紙の3章9節と10節に書いたのであります。 エペソ人への手紙3:9-10
今日 エペソ人への手紙3:10
御使いたちに対しても含まれてます。 エペソ人への手紙3:10
主に属する信ずる者を通して、 エペソ人への手紙3:10-11
と書き記されています。 例えば死んだ人間とは違って、御使いたちはこの世に起こっている色々なことを見ることができます。死んだ人々は見られない。 天国は天国ではなくなるからなのではないでしょうか。 亡くなった親はね、子どものメチャクチャな生活を見るともう大変だよ。先の先のことね、おそらくわからないからでしょう。 ですから死者は結局今の世のこと、世に起こってることを見ることができません。御使いはできる。 例えばルカの福音書15章の10節に、イエス様は次のように言われたのです。 ルカの福音書15:10
この世でひとりの人が悔い改めると、もう御使いたちは嬉しくて嬉しくてしょうがない。そして、 コリント人への手紙第I、11:10
かぶりものをすることとはもちろん形式的なものではない。ひとつの証しです。御使いたちのためとここで書かれてるんです。 結局かぶりものをすることとは、私の主とはイエス様です。私はイエス様に従いたい。イエス様に守ってもらいたいという願い、また、心構えの表われです。 どうでもいいことではない。みなやってるから、仕方がなくてやっちゃいましょう。そういう気持ちだったらもちろん意味のないことです。やってるから霊的深いと、やってない人はおかしい。そういうことじゃない。 ここで、御使いたちのためです。結局この目に見える世界は大切だけではないよ。目に見えない世界も非常に大切であるということです。 また次のようにパウロは愛弟子であるテモテに書き送ったのであります。 テモテへの手紙第I、5:21
御使いたちの前とここで書かれてます。結局御使いたちは傍観者として全部見るのであるということです。 パウロは天の使いが常にわれわれを見ているため、私たちが召しにあずかった状態にふさわしく歩むようにと書いたのであります。 御使いたちはただ単に私たちを見てるだけではない。われわれを見守っていると聖書もはっきり言ってるのです。 コリント人への手紙第Iの4章の9節ですけれども、次のように書かれています。 コリント人への手紙第I、4:9
御使いたちにも見せ物になっちゃった。結局御使いたちは傍観者として全部見てるということです。 もうひとつは、詩篇の91篇の11節です。 詩篇91:11
結局御使いたちは、主に仕えるものです。そして、御使いたちは主の命令によってわれわれを守るものであるとあります。 最後に天使たちの尊敬について、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。 今まで、御使いの力、知恵、栄光についてちょっと考えたんですけど、そのようなすばらしい存在、すなわち御使いを人間が尊敬する気持ちを持つようになることはある程度当然なことと言えましょう。 ヨハネは、確かに霊的な人でした。イエス様ともっとも親しい交わりをもっていた者だったのです。 けど彼でさえも、あるとき御使いを拝もうという気持ちになっちゃったんです。 ヨハネ黙示録19:10
云々と書いてあります。 結局ヨハネは天使の栄光ですかね、力ですか、を見て、ひれ伏して拝もうとしたのです。 天使はもちろん、「いかん!」と命令したのです。同じくヨハネの黙示録の22章の8節と9節に似てることばが書かれてます。 ヨハネの黙示録22:8-9
結局被造物は拝んではいかん。天使たちはもちろん聖なるものであり、主にだけ仕えるものですけど、それにしても人間は御使いたちを拝んではいかん。 御使いは結局二回とも拝んではいかんと言ったのです。それらのことをしてはいけません。 私は、あなたと同じしもべ仲間である。主なる神だけを拝しなさい。御使いもわれわれと同じように主のしもべであるゆえ、しもべを拝むということはおかしいと御使いははっきりわかったのです。 パウロも御使いを拝むことは危ない、危険であるとはっきり警告したことがあります。 コロサイ人根の手紙の2章なんです。 コロサイ人への手紙2:18-19
イエス様とつながっていないということ。 コロサイ人への手紙2:19
と書かれています。ここで明らかなように、天使礼拝は禁じられています。 主なる神だけが礼拝されるただひとりのお方であり、その他のものを拝むことは偶像崇拝であります。 天使礼拝はもちろん偶像礼拝になります。御使いがわれわれの目に見えないおもな理由は、私たちが天使礼拝に陥らないようにという配慮によるものなのではないでしょうか。御使いはいかなるものであろうとも、主のためにする心構えを持っているのです。 御使いは決して自分たちの努力による手柄でもって良く思われるためではなく、主だけが崇拝されるようにということだけを願っています。 主は私たちに対しても御使いと同じようなへりくだった態度を望んでおられるなのではないでしょうか。 |