引用聖句:ペテロの手紙第I、5章7節-11節
今読まれました箇所は非常にすばらしい、大切な箇所です。 もちろん聖書はどこを読んでも構わないけど、われわれにとって一番大切なのは、新約聖書の手紙とヨハネの黙示録でしょう。 多くの教会は色々なことを強調するのです。そして聖書はああ言ってる、こう言ってると言います。 実際問題として聖書を通して何でも証明することができます。だからいわゆる異端もみな聖書を使っていますけども、的外れです。 多くの人々は、イスラエルの民に与えられた約束を、自分勝手に、「これはわれわれのために書かれたもんだ。」と言っています。 けども神の目から見ると、イスラエルの民はイスラエルであり、今の時代でイエス様を信じるようになった人々はからだなる教会です。 イスラエルの民に与えられた約束と教会に与えられてる約束とはまったく違う。 ですから色々な問題について考えると、手紙の中でいったい何が書かれてるなのでしょうか。ヨハネの黙示録の中で何が書かれてるのでありましょうかと、いつも考えるべきなのではないかと思います。 ペテロは今の時代の信仰のゆえに迫害された人々のために書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:8
歩き回った。のではない。今日も、今も。 ペテロの手紙第I、5:9
恵みに満ちた神ご自身が、 ペテロの手紙第I、5:10-11
ここで、しばらくの苦しみと書いてあります。遠に続く苦しみではない。しばらくの苦しみはどうしても必要だから与えられているのです。 初代教会の人々ははっきり確信したのです。われわれは攻撃され、憎まれてる者です。この世の中で異分子です。 そしてわれわれの敵とは悪魔です。そして私たちは悪魔に立ち向かうべきであると彼らは確信したのです。 そして、主のご支配こそが明らかになることこそが彼らの切なる願いであり、絶えざる祈りでした。 私たちの戦いは人間に対するものではない。われわれの敵とは悪魔です。 今回の集会に年配の夫婦が出席したのです。あの夫婦は、最近ちょっと辛い経験をもつようになったのです。 人間の批判を、人間だけだったらいいんですけど、兄弟姉妹の批判を聞いて、がっかりして逃げようと思った。 すなわち別の集会へ行こうと思ったんです。けど、主にゆだねると主ご自身が私たちをも完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださると確信し、負けない喜びをもってまた帰ることができたのです。 今朝、詩篇の109篇の4節を読んだんですけども、非常にすばらしい作者の告白でもあります。 詩篇109:4
もちろん彼らとはイスラエルの民に属する者であり、兄弟姉妹だったでしょう。そして彼はどういう態度を取ったかと言いますと、 詩篇109:4
原典を見るともっといい表現が使われています。「私は祈りそのものです。」、祈らなければおしまいです。主に頼らなければ真っ暗やみですと詩篇の作者は告白したのです。 集会の前にも後にも色んな病院に行きました。 ある病院でエレベーターに乗ったとき、途中でひとりの奥さんは急に、「上、行くのですか?」と心配そうな声で聞いたんです。 私は、「いえ。下へ、下へ。最後は墓です。」と言ったとき、彼女はもうびっくりした。 もちろん私は続いて、「けど、死は終わりではない。信ずる者の国籍は天国です。」と言ったんです。 聖書を通して提供されてる救いとは、あらゆる心配、不安、恐怖からの解放です。 そういう事実についてもちろん説教しても、あまり効き目がないでしょう。けど解放された人間を見ると、本当に嬉しくなります。 そういう機会、今回また新しく与えられたんですね。「光よあれ」の中で証しした兄弟も証ししてくださったんです。肝臓癌でもう末期です。 訪ねたとき彼は、もう本当に喜んだ顔で「平安です。」、もちろんもう階段上れないし、動いてはいかんと医者は言ってるんですけど、どうしてもやっぱり集会に出たい。 兄弟たちは迎えに行って、彼を運んで、それで彼は喜んで証ししたのです。「みことばはすごい!」と彼は言ったんです。 彼にとって一番慰めになってることばとは、イザヤ書の41章、43章と詩篇の23篇だそうです。 葬式のためのパネル、もちろん自分で全部作ってあるし、もう徹底的に自分の葬儀のために準備してるんですね。 彼の葬儀のために必死になって待ってる人がいるんです。「彼の葬儀だったら主人も来る。親戚も来る。必ず来る。」と言ってるからです。 本人は本当にもう死にそうです。けど喜んで証しすることとは普通じゃない。 みなさんのご存知であられる兄弟も運ばれたんです。もう全然歩かなくなったんです。 手足も使いません。けれど彼の証しも本当に希望と喜びに満ちたものでした。ある姉妹の生活も車椅子の生活になったんですけど、彼女も本当に主にあって喜んでいます。 今回彼女はちょっとひとりの友だちを連れて、友だちも心開いて主の御名を呼び求めるようになったのです。姉妹のひとりの同級生もイエス様によって心配され、愛されることを聞いたとき、嬉しくなったんです。 ある姉妹のご主人は、前にもこの集会に来たのですが、今回はっきりイエス様を受け入れたのです。彼のために兄弟姉妹がずっと祈り続けたんです。 彼は素直になられたこと聞いて、彼は喜びのあまり泣いてしまったんです。もちろん本人ははいるつもりではなかった。迎えに来るつもりだけであって。けどもこういうふうに導かれたのです。 心配から、恐怖からの解放こそが聖書を通して提供されています。 悪魔の目的とは、人間は思い煩うようになることであり、不安に、また恐怖に陥ることです。 今まで、霊の世界、おもに御使いたちに考えたんですけど、今日からちょっと悪魔について考えたい。 なぜなら悪魔もひとりの御使いのかしらだったからです。悪魔について五つの項目に分けて考えたいと思います。 ・第一番目、悪魔とはだれなのでしょうか。 ・第二番目、悪魔の履歴書、すなわち生い立ちから現在に至るまでの経過、並び将来あるべき姿とはどういうものなのでしょうか。 ・第三番目、サタンの戦いかたとはいったいどういうものなのでありましょうか。 ・第四番目、悪魔に引き渡されるとはいったい何を意味してるのでありましょうか。 ・第五番目、悪魔の力の解放についてのことです。 第一番目とは、サタンとはいったいだれなのでしょうか。 聖書によるとサタンは神の敵であると書いてあります。まず人間の敵ではない。 もちろん主を信ずる者は同時に悪魔に憎まれるようになります。ですからペテロは前に話したように、「あなたがたの敵である悪魔」と書いてあります。 けど聖書全体を見ると、サタンはまず神の敵です。そして40の違った名前を持っているものです。 ここではそのうち二、三の名前を挙げるだけにしておきましょう。その名前だけを見てもね、悪魔がいかに恐るべきものであるかわかると思います。 サタンとはヘブル語で本当は「敵」という意味です。すなわち、憎しみと敵対という意味での敵です。 マタイの福音書4章の3節を見ると、悪魔は試みる者と呼ばれています。 マタイの福音書4:3-4
イエス様も悪魔に攻撃され、試みられたのです。ですから悪魔はここで、試みる者と書かれています。 イエス様はここで強調してくださったのは、「人間は主の口から出ることばによって生きるべきである。」 みことばなしに生きられない。主の約束に頼らなければもうおしまいだと告白できる人はすばらしいなのではないでしょうか。 みことばは飾り物ではない。勉強すべきものではない。われわれのいのちであるべきです。 「わたしのことばは、いのちそのものである。」とイエス様は言われたのです。 毎日みことばによって生かされることこそが大切です。悪魔の切なる願いは、みことばを自分のものにしないように、徹頭徹尾みことばに頼らないように。 私たちが聖書を勉強すれば悪魔は、「よしよし、やりなさい。」と言うでしょう。 おそらく悪魔は人間よりもずっと聖書の内容を知ってるでしょう。けども悪魔の信仰とはもちろん意味のないものです。悔い改めようとしないから。 マタイの福音書13章の38節。ここで悪魔は悪者と呼ばれています。 マタイの福音書13:38-39
悪者は敵として、悪魔として毒麦を蒔く者です。それから、エペソ人への手紙の6章の中で、ここでも悪しき者、悪い者と同じ表現が使われてます。 エペソ人への手紙6:16
それからヨハネの黙示録の中でもちろん多くの名前が出てきます。 ヨハネの黙示録12:9-10
キリストの権威が現われる。キリストの支配が現われる。これこそが目に見えない世界との戦いの原因です。 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 ここで悪魔は巨大な竜と呼ばれ、サタンと呼ばれ、惑わす者と呼ばれているのであり、また古い蛇とも呼ばれているのです。 それから兄弟姉妹の告発者。結局兄弟姉妹を訴える者と呼ばれているのです。 そして前に読みましたペテロの手紙第Iの中では、あなたがたの敵である悪魔とあります。 イエス様はヨハネの福音書の中で、悪魔についてまた次のように言われたのであります。 ヨハネの福音書8:44
ここで悪魔は、人殺しと呼ばれているのであり、偽り者と呼ばれている者であり、また偽りの父と呼ばれたのです。 イエス様はまとめて、「彼のうちには真理がない。嘘ばっかり。」と言われたのです。 またイザヤ書の中でも悪魔に与えられてる名前がいくつか出てきます。 イザヤ書14:4
悪魔は結局、しいたげる者と呼ばれたのであり、誇る者であるとあります。そして12節に次のように書かれてます。 イザヤ書14:12-13
悪魔は高ぶる者であり、私は私、私と言う者です。自分のことしか考えられない者です。 イザヤ書27:1
ここで悪魔は蛇と呼ばれているし、あるいは海にいる竜と呼ばれてる者です。 そしてエゼキエル書28章14節を見ると、悪魔は守護のケルブというすばらしい名前をもつ者である。 エゼキエル書28:14-15
悪魔の権力、悪魔の知恵は考えられないすばらしいものだった。彼は完全だったとここで書かれてます。 マタイの福音書の12章の中でまたイエス様は次のように言われたのです。イエス様のなされた奇蹟に対する、また宣べ伝えられた福音に対する当時の聖書学者たちの判断とは次のようなものでした。 マタイの福音書12:24
結局悪魔は偽りの父です。彼の内には真理がない。そしてイエス様は当時の聖書学者にむかって、「あなたがたの父とは悪魔だよ。」彼らの犯した罪とは決して赦され得ない罪だったのです。 すなわち彼らはイエス様が、イエス様は神から遣わされたお方であり、イエス様こそが約束された救い主であるということを100%信じながら、あいつは悪魔と結び付いてる者だと言ったのです。 この罪は赦され得ない。なぜならばそこまで言った人々は悔い改めようとしないからです。 悔い改めるとあらゆる罪は赦されます。けど悔い改めたくなければ、救われたくない、救われたくないという態度を最後まで取り続ければおしまいだと聖書ははっきり言ってるのです。 本当に当時の聖書学者たちの罪は考えられないひどいものでした。結局イエスという者は、悪霊のかしらによって動かされてる者だ。 パウロはコリント人への手紙第IIの4章の4節に次のように悪魔について書いたのです。すなわち悪魔とはこの世の神です。 コリント人への手紙第II、4:4
すなわち悪魔が、 コリント人への手紙第II、4:4
それから11章の14節。パウロは悪魔について次のように書いたのであります。 コリント人への手紙第II、11:14
光の御使いのように現われてくる。だから注意しないと簡単に惑わされます。 また、ヨハネの黙示録の9章の11節。また別の名前が悪魔に与えられてるものです。 ヨハネの黙示録9:11
この名前の意味は破壊者です。悪魔は破壊する者です。前に見ましたように、悪魔とはこの世の神と呼ばれています。 イエス様もまったく同じことを言われたのであります。 ヨハネの福音書14:30
「わたしは父の御手の中で守られてるから、わたしは自分のこと考えようとしないからです。」、「わたしは父の栄光だけを捜し求めてるからです。」と。 イエス様は、「悪魔とはこの世を支配する者です。ですから多くの人々は、神だって笑い話じゃないか。見なさいよ。現実を見なさい。神がおられるならば違うはずだ。」と。 もちろんその通りだと未信者が考えるのは無理もないよ。イエス様でさえも、「この世を支配する者のは悪魔です。」 もちろん主が許してくださるからだけなんです。 われわれは長い目で何も見ることができないから、大変だ、大変だと考えてるんですけども、人間の歴史だって主にとって二、三分のことです。二、三分だって大したもんじゃない。 今、確かに悪魔は支配してる。エペソ人への手紙の中でパウロも同じことを書いたのであります。 エペソ人への手紙2:1-2
ここで悪魔は空中の権威を持つ支配者と呼ばれてます。 ヨハネの福音書の中でまたイエス様は、悪魔は盗人だと言われたのです。 ヨハネの福音書10:10
悪魔ははっきり、泥棒、人殺しと呼ばれている者です。 ヨハネの福音書10:12
悪魔は狼のような者です。また前に読みましたペテロの手紙第Iの中で、ほえたけるししであると書かれています。 ペテロの手紙第I、5:8
あるとき悪魔はほえたけるししのように来るし、ある日は光の天使として現われて来るのです。 前の学びで、聖書の中には御使いということばが、270回出て来ることを学びましたが、悪魔を意味することばも270回出て来ます。ちょっと不思議なんです。 初めから終わりに至るまで聖書は悪魔の出現について語ってます。 私たちは悪魔が単に悪い影響ではなくて、ひとつの人格であることを聖書を通してはっきり知ることができます。 けど悪魔は単に悪い者の理念にすぎないという人々もいます。もしも悪魔がただ単にひとつの理念にすぎないとしたなら、その悪魔がどうして話したり、行動したり、イエス様や天使や人間を試みたり、主なる神に逆らって戦ったりすることができるなのでしょうか。 悪魔は試みる者のかしらであり、ふたつの方法で人間を惑わすのです。 よく悪魔を描いた絵などを見ると、角があったり、尻尾があったり、面白おかしく書かれています。 あるいは悪魔の存在をまったく否定するように悪魔は人間を惑わすのです。 このようなわけで、私たちは悪魔に対して抵抗する力を失ってしまいます。そして本当に悪魔の存在の恐ろしさを知らない者は、主イエス様、またみことばに対しても無関心になりがちなのです。 ブースという将軍(救世軍ウイリアム・ブース)は、あるとき次のように言ったのです。 「私の切なる願いは、イエス様を信ずる者は5分間だけ地獄へ行ってもらいたい。地獄の恐ろしさを知ってもらいたい。 そうすればいのちがけで自分を忘れ、救われていない人々のために伝道するにちがいない。」と言ったのです。もちろんそうです。 ユダの手紙の中で、御使いのかしらミカエルが悪魔と論じ争ったとき、相手を罵りさばくことはあえてしなかったことがわかります。 イエス様及び聖書は、悪魔に対し非常に厳しい警告のことばを発してるのです。 悪魔は危険な恐ろしい敵です。けどイエス様が悪魔に対して完全な勝利を治めたのです。 この悪魔の生い立ちから現在に至るまでの経過、並び将来についてもちろん聖書は多くのことを言ってるのです。 悪魔の起源、生い立ちについて私たちは何を知ることができるなのでありましょうか。 聖書によると、悪魔と言えども被造物であり、すなわち造られたものにすぎないとはっきり書いてあります。そして初めは非常に高い地位を与えられたと書かれています。 悪魔は堕落する前、神の園エデンにおり、主なる神の聖なる山にいて前に話したように、守護のケルブと一緒に置かれていたとあります。 エゼキエル書を見てみましょうか。 エゼキエル書28:12-17
あなたの心は高ぶったとあります。 前に言いましたように、イエス様は悪魔をこの世の神と呼ばれたのです。悪魔はあらゆる国々の権威と栄華とを与えられていると聖書ははっきり言ってるのです。 ルカの福音書4章の5節、6節にイエス様は悪魔の言ってることに対して反対しなかったのです。 ルカの福音書4:5-6
イエス様は違う、違うよ。本当だったんです。結局すべては私に任されている、 ルカの福音書4:6-7
もちろんイエス様はこの目に見える世界を欲しくなかった。滅びゆくたましいを欲しかったのです。 わがままの塊になってしまった人間を救うことだけしか考えられなかったのです。 あらゆる国々の権威と栄華が悪魔にゆだねられたのですけども、悪魔はおごり高ぶったため、天上から落とされたのです。 悪魔は自分が神の座に着き、神を追放しようと試みたのです。イザヤ書の14章の13節、14節に次のように書かれてあるのです。前に読みました箇所ですが、 イザヤ書14:13
人間の話してることはそんなに問題じゃない。心の中の気持ちが大切です。あなたは心の中で、 イザヤ書14:13-14
傲慢の表われそのものです。ですから前に読みました・・・ (テープA面→B面) エゼキエル書28:16
とあります。 これこそ主なる神が、罪を犯した、悪魔になった者に対する最初のさばきだったのです。 聖書によると悪魔はこの世の神のかしらであって、地上におけるあらゆるものを支配する権威を持っていたことがわかります。 初めは神のご臨在と光の中に高い地位にあった天使が、罪を犯したため天上から追放され、むかし持っていた栄光を失ってしまったのです。 この悪魔もイエス様が十字架で完全な勝利を成就されたときに、敗北を経験したのであります。 コロサイ人への手紙2章の15節にパウロはここに悪魔の敗北について次のように書いたのであります。 コロサイ人への手紙2:13-15
ここですべての支配と権威と書いてありますから、悪魔の支配と権威ももちろん含まれているのです。 イエス様は、またヨハネの福音書12章の31節に次のように言われました。 ヨハネの福音書12:31
とあります。 またヘブル人への手紙の2章の14節、15節に次のように書かれています。まことの救いとはどういうものであるか、ここでもはっきり書き記されています。 ヘブル人への手紙2:14
結局人間は ヘブル人への手紙2:14
イエス様 ヘブル人への手紙2:14
血と肉を ヘブル人への手紙2:14
イエス様は人間のからだを持つようになった。どうして? ヘブル人への手紙2:14-15
ある兄弟は、からだが不自由になり、非常に悩んでいた兄弟だったんです。イエス様を信じたときから彼は何と言ったかと言いますと、「不思議ですけど、自分の病気を忘れてしまった。」 彼も、今回メッセージをしてくださったんです。本当に驚いたんです。もう、みことばこそ彼にとってすべてのすべてです。「妥協せず、主のためにだけ生きたい。」と。 彼も結局、元気にならなくちゃいけない。元気にならないともうダメだと思ったんです。 兄弟はイエス様を知る前に夜じゅう、全然寝られなかったんです。死の恐怖につながれた奴隷でした。「死ななくちゃいけない。大変だ、大変だ。」 イエス様を信じた瞬間から、初めての晩からぐっすり寝るようになったのです。イエス様の勝利のひとつの表われなのではないでしょうか。 悪魔は今や敗北者であるため、私たちは小羊の血、十字架の上で死なれたイエス様の流された血によって悪魔から解放されています。 ある人々は普通の人よりも悪魔の攻撃を経験します。悪霊が見えると言う人もいるし、変な声を聞くと言う人もいます。ありうることです。 けどもそういう人々はすぐ祈ればいいよ。「イエス様、あなたは勝利者です。あなたの血が流されてるから、血潮でもって私を守ってくださるから感謝します。」という態度を取ると、悪魔は逃げざるを得なくなるのです。 もちろん私たちがこの世にある限り悪魔はわれわれを試みることでしょう。 悪魔はイエス様を信じない者を奴隷にすることができます。それだけでなく悪魔は主の前で私たち信ずる者を訴えることもできると聖書は言っています。 ある人々は神は天国にいる。悪魔は地獄ですと言うのです。それ嘘です。 地獄はあるにはあるけど空っぽです。だれもはいっていないんです。 地獄はもちろん人間のために造られたものではない。悪魔と悪霊のためであると聖書ははっきり言ってるんです。 けど地獄にはいるのは悪魔よりも人間であると聖書は言ってます。考えられないことです。 非キリストという偽預言者は悪魔よりも先にはいるんです。三番目として悪魔はついて行くでしょう。 ヨブ記の1章の中で、悪魔はもちろん今も天国で神に近づくことができるとはっきり書き記されています。 ヨブ記1:6-11
半分じゃなくてすべてを ヨブ記1:11-12
宝も健康も友だちも名誉も ヨブ記1:12
ご存知のように主は悪魔に、「よし、彼の持ち物を全部取っても結構です。」と言ったのです。 そして悪魔の攻撃の結果として彼は財産を全部失ってしまった。十人の子ども、いっぺんに亡くしてしまった。 健康であるヨブは重病人になってしまった。友だちはみな彼を責める者となり、助け手であるべき奥さんは変なこと言った。 「あんたの神はそういうものだよ。神をのろいなさい。自殺したほうがいいよ。もうダメだよ。」 そのときこそ彼女は一緒に悩むべき、一緒に苦しむべき、一緒に祈るべきだったでしょう。 われわれはすべては悪魔の攻撃の結果であるとわかってるんですけど、ヨブはそれをわからなかったんです。けどヨブは正しい結論を出した。 すべては主のせいです。主は与え、主は取られた。だからもう嫌ですではない。私は主の御名をほめたたえます。 主は私を殺しても私は信頼しますとヨブは言ったのです。 ヨハネの黙示録の12章の中で・・・前に読みましたね、 ヨハネの黙示録12:10
結局神は主の前でわれわれ信ずる者を訴えるだけではなく、日夜そうするとここで書いてあります。 けどこのような主の忍耐もまもなく終わるときがやって来ます。今までのことをまとめると次のようになります。 ・第一番目に、主なる神は罪を犯した天使をもっとも高い地位から追放した。 ・第二番目に、このようにして堕落した天使、すなわち悪魔はイエス様が十字架で完全な勝利を治められたとき、敗北を経験した。 ・第三番目に、主は第三のさばきを悪魔に対して行なわれると聖書は言ってます。 すなわち、大いなる悩みのとき、困難のときに悪魔は天から地上に投げ落とされるのです。今の箇所でそう書いてますね。 9節からもう一回読みましょうか。 ヨハネの黙示録12:9-11
犠牲になってもいいと決心したのであるとあります。これはもちろん、将来実現されることであります。 第四のさばきは千年王国のとき、悪魔が縛られて、底知れぬ所へ投げ込まれることであります。 ヨハネの黙示録20章の1節から次のように書かれてます。 ヨハネの黙示録20:1-3
とあります。イエス様が栄光に満ちた支配をしておられる限り、悪魔は諸国民に対して何をすることもできません。 けど千年王国の時代が終わると、しばらくの間悪魔は、解放され、人間を惑わし、主なる神を選ぶか悪魔を選ぶかを迫ってくるのです。 悪魔は千年王国のとき、束縛された状態に置かれますが、その性質は相変わらず神に敵対し続ける者です。 しかし悪魔の性質だけでなく、人間の性質もまったく同じように変わってはいない。千年王国のあと、しばらくの間悪魔は、自由な身となり、人間を惑わすため、人類の大部分は悪魔に従うようになると、20章の7節から書かれていますね。 ヨハネの黙示録20:7-9
もちろんエルサレムのことです。 ヨハネの黙示録20:9
とあります。 そのあとでいわゆる最後の審判、すなわち悪魔に対する五番目のさばきがなされ、人間を惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ、世々限りなく、日夜苦しめられるのであると10節に書かれてますね。 ヨハネの黙示録20:10
とあります。 イエス様を信じ、すべてを主に明け渡した者は自分は喜んで犠牲を払おう、犠牲になるという態度を取る人々は、例えば癌になったとしても、手足使えなくなっても、喜ぶことができる。 もうちょっとで天国です。もうちょっとでイエス様と一緒になると確信を持つことができるのは考えられないすばらしい救いなのではないでしょうか。 |