霊の世界-悪魔2


ベック兄

(テープ聞き取り、霊の世界シリーズ)

引用聖句:ペテロの手紙第I、5章7節-11節
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

最近またバザーの話が出ています。
結局、自発的にみんなやりたい気持ちになって、そしてやりながら色々なことを、「仕事しながら大いに祝福された。とってもすばらしい交わりが与えられた。祝福された。主に新しく出会った。」と証しする人々は随分います。
結局、喜んで自発的にできなければもちろんやめたほうがいいよ。知らん顔してもいいでしょう。

例えば、集会に別に来なくてもいいでしょう。
「ねぇ〜。来なければやっぱり悪いんじゃないか。」、そういう気持ちがあればよくない。「来ても来なくてもいい。」
喜んで自発的に来られなければ、もちろん決して良くないと思うんです。結局問題はいつも動機なんです。「どうしてやるのか?」、「主が喜ばれればやりたい。」

やっぱり、「イエス様のために何かできれば嬉しい。」、結局そういう気持ちがあれば、もちろん祝福もあります。
ですから今回も苦労した姉妹たちは本当に主によって大いに祝福されるように。

問題は動機なんです。主のために何かやりたい。何も作らないから、音楽しかできないから、この賜物用いて主に仕えたい。そういう動機があれば、やっぱり祝福があると思うんです。
その場でもちろん福音を宣べ伝えられません。宣べ伝えたとしてもやっぱりつまずきを与えることになる。
けども例えば兄弟姉妹、色々な未信者連れて行くことができる。普通の集会に絶対に来ない人も純粋な音楽会だったら行くかもしれないでしょう?そしたら壁の中で武器を隠して、終わってから「光よあれ」をあげて...

断る人、滅多にいないよ。地方行くとわかる。やっぱり本は本当にすばらしいものです。
人間は時々ね、熱心さのあまり色々なもの壊すんです。熱心なんですけど、まったく非常識的な態度取る人いっぱいいます。
本は非常識的じゃない。本当に控えめで、変なこと言わないし、すばらしいものだよ。ですから音楽会などで大いに使ったほうがいいんじゃないかと思うんです。祈ってください。

結局私たちは何をやっても、問題は動機なんです。人間を喜ばせようと思えばもうダメ。
「私は百万円だけじゃなくて、五億円献金したい。けどイエス様。五十円しかない。ごめんなさい。」と言えば、イエス様は、「あなたの五十円はわたしは欲しくないし、必要ない。あなたはわたしのこと愛してるでしょう?それで結構です。」
結局それだけなんです。気持ちなんですね。動機だけが大切なのではないでしょうか。

今、兄弟が読まれましたように、悪魔は本当にずるい者なんです。悪魔は、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってる。
もちろん今日もそうなんです。だから堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かいなさい。

先週、少し悪魔について話したんですけど、本当は悪魔についてそんなに話さなくてもいいけど、悪魔に束縛された人々は自由になればやっぱり主はすばらしいとしか考えないなのではないでしょうか。
悪魔は確かにひどい者です。けど、主は偉大なるお方であり、主が働くと、人間は悪魔の支配から解放されます。

最近、霊の世界について考えてまいりました。霊の世界は、もちろん目で見ることはできません。見えないけど、それにしても現実です。
目に見えない主の御使いたちについて、聖書の中で270回以上書かれています。
御使いたちも霊の世界に属する者であり、目に見えませんけども、270回以上出てくるという事実は、結局この問題が第二次的な問題ではないことを証明してるなのではないかと思うんです。

そしてまったく同じように、悪魔についても、悪魔ということばも270何回も出てきます。
だから悪魔も御使いと同様に霊の世界に属する者です。悪魔も同じく、目に見える者ではない。けど現実であることは間違いない。ですから悪魔について考えなくてもいいじゃないかという考え方とはちょっと違ってます。
悪魔はもっとも恐ろしい現実であり、悪魔を考慮に入れないことは、破滅を意味するのです。

イエス様はもちろんその当時、旧約聖書しかなかったんですけど、「聖書とは真理そのものである。旧約聖書全体、初めから終わりまで真理である。」とイエス様は言われたのです。
イエス様は旧約聖書を100%信じたから、われわれも安心して信ずることができる。色々なことわからなくても、信ずることができるのです。

もちろん悪魔はいつも物事をごまかすことだけを考えてる。例えばタバコ会社と似てるもんじゃないかなと思ったことがあるんです。
タバコ会社もごまかすことしか考えていない。タバコは医学的に見て、人体を蝕むものであることがもちろん証明されています。
肺癌のおもな原因はタバコにあると医者は言います。タバコを吸って肺癌になってる人は非常に多い。タバコを吸わないで肺癌になってる人の数は非常に少ない。

けどそのような事実にも関わらず、タバコ会社はタバコを売るために、結局儲けるためにきれいな美しい名前を使ってます。
実際タバコの名前としてはよく知られてるものだけをちょっと考えてみましょうか。闇とか暗黒という名前のものは一つもない。
光とか、最高の光などの名前が使われています。また、病とか癌という名前の代わりに、平安ということばが使われてます。

危険とか恐怖という名前の代わりに、平和ということばが使われています。破壊ではなく、新生などの名前も使われています。
また絶望ではなく希望が使われてるのであり、墓場の代わりに、若葉という名前が使われています。

けど聖書はタバコ会社のように曖昧なことを言わず、悪魔とはいかなる者であるかについて、はっきりとしたことを言ってるのです。
タバコ会社は焦りではなく、憩いというような非常にうまい言葉を使ってます。
聖書は悪魔が試みる者、惑わす者、悪い者、悪しき者、竜、蛇、嘘つき、偽りの父、人殺し、泥棒、狼、ほえたけるしし、破壊者などと言ってます。

結局悪魔はただ単に悪い影響を及ぼすだけではなく、悪い人格そのものです。
悪魔の存在と悪魔の恐ろしさとを知らない者は、主イエス様、またみことばに対しても無関心になりがちなのではないでしょうか。
イエス様及び聖書は悪魔に対して非常に厳しい警告のことばを発しています。悪魔はもっとも危険な恐ろしい敵です。

悪魔の戦い方について聖書はいったい何と言ってるなのでしょうか。悪魔が火の池に投げ込まれない限り、悪魔は必ずわれわれを攻撃するため、そのことを主が警告しておられます。
聖書の中では悪魔は試みる者とまず呼ばれています。堕落して天から落ちた悪魔は、ほかの人たちも同じように堕落するようにと一生懸命になっています。

堕落する前は最高の天使であった悪魔は、今やほかの天使たちを試みて、何人かの天使を悪霊に堕落させ、悪霊のかしらとなったのです。
したがって悪霊は悪魔の天使とも呼ばれています。例えば、

マタイの福音書25:41
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

とあります。ここで、「悪魔とその使いたち」と言われてます。
前に話したように、いわゆる地獄とは、永遠の火とは人間のために造られたものではない。悪魔とその使いたちのために用意されてる場所にすぎません。人間のためではない。

人間が滅びないためにイエス様は犠牲になり、天罰をお受けになり、救いの道を開いてくださり、罪の問題を解決してくださったのです。
ヨハネの黙示録の12章の7節にも同じ表現が使われています。

ヨハネの黙示録12:7
7さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦した

とあります。竜とその使いたち、悪魔、また悪霊たちのことを意味するのであります。
それだけではなく、悪魔は人間をも試み、今までに多くの人を堕落させたのです。

初めに神によって造られたアダムとエバとが悪魔の試みに打ち負かされその結果、全人類に罪が入り込み、絶えず悪魔に試みられているのです。
アダムとエバが主から離れる気持ちがなかったのです。ただ試みる者によって騙されただけなんです。
イエス様でさえも試みられた、悪魔に試みられたのであると聖書は言ってます。福音書の中で何回も出てくるんですけども、ちょっとマタイの福音書から見てみましょうか。

マタイの福音書4:1-3
1さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
3すると、試みる者がが

結局悪魔が

マタイの福音書4:3-6
3近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
5すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

悪魔は聖書の箇所を使ってイエス様をメチャクチャにしようと思ったのです。人間的に考えれば悪魔は立派な聖書学者でしょ。ちゃんとわかってる。
けど聖書の知識を得ることによって人間は救われ得ない。知識ではなく心の持ち方です。へりくだることです。
神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられるお方ですと、

マタイの福音書4:7-11
7イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
11すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

とあります。悪魔はイエス様でさえも試みたのであり、イエス様をダメにしようと思ったのです。
ヘブル人への手紙の著者はこのイエス様の試みられたことについて次のように書いたのであります。

ヘブル人への手紙4:15
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様はご自身が試みを受けて、苦しまれたと書いてあります。イエス様は平気だったと書いてないんです。イエス様は苦しまれたのです。だから苦しむ者の苦しみを知っておられ、ともに悩むお方です。
宗教の作った神々とは人間を要求する者たちであり、決して悩む者ではない。ともに苦しむ者ではない。ただ人間から要求する者だけです。
われわれの大祭司とは違う。主はともに悩むお方です。

ヘブル人への手紙2:18
18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

主は助けることができる。自分の無力さを、弱さを、みじめさを感じたとしても、それは別にどうでもいいじゃないの。主は助けることができるからです。
この主のところへ行くと必ず助けられます。主はちゃんと聞く耳を持っておられるお方であるからです。
私たちをも含めてあらゆる人間は悪魔に試みられている。聖書によると未信者は悪魔の手に渡され、悪魔の子と呼ばれてるんです。

ヨハネの手紙第I、3:8
8罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が

すなわちわれわれの主イエス様が

ヨハネの手紙第I、3:8
8現われたのは、

キリスト教を造るためではない。道徳を、一つの教えを与えるためではない。

ヨハネの手紙第I、3:8-9
8悪魔のしわざを打ちこわすためです。
9だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。

罪のうちを歩むこととは、罪を犯すことじゃないんです。罪のうちを歩むこととは、罪を意識し続けることです。頭を下げたくないことです。後悔、悔い改めたくないことを意味するのです。神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。

ヨハネの手紙第I、3:9
9なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

罪を犯す可能性十分ある。人間は結局毎日悔い改めざるを得なくなるなのではないでしょうか。「もう救われちゃったから、もう死ぬまで悔い改めなくても結構だ。」と思う人は本当にかわいそう。
けども罪のうちを歩むこととは全然違うことです。結局「頭を下げたくない。」、「正直になりたくない。」、「助けてもらいたくない。」、「赦してもらいたくない。」この態度を取る人とは結局主と関係のない者である。

ヨハネの手紙第I、3:10
10そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

この最後の文章が書いていなければいいんですけど・・・
兄弟とは、もちろん姉妹も含まれてるし、特定の兄弟姉妹じゃない。みんななんです。

未信者は悪魔によって目くらにされてるため、心の目でイエス様を見ることができなくなってしまってると、パウロはコリント人への手紙第IIの4章4節に書いたのであります。

コリント人への手紙第II、4:4
4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

この世の神、すなわち悪魔が人間を目くらにするのです。
「教えてください。」、「恵んでください。」、「赦してください。」という態度を取ると光が与えられます。
悪魔は未信者を滅びに導くだけでなく、諸国民をも惑わす者であるとヨハネの黙示録の20章3節に書かれています。

ヨハネの黙示録20:3
3底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

千年王国の前に悪魔は、もちろん諸国の民を惑わす者であり、そして千年王国が終わってからしばらくの間だけ、まったくおなじように悪魔は諸国の民を惑わす者であると聖書ははっきり言ってるんです。

しかし、信ずる者は最もひどく試みられる者です。悪魔は信ずる者を終わりに至るまで堕落させようと試みているのです。
もちろん与えられた永遠のいのちは、悪魔は奪い取ることができません。信ずる者は、もう永久的に御手の中で守られてる。
けどもわれわれはどうして試みられてるか、悪魔の攻撃の的となってるかと言いますと、用いられないため。

私たちはキリスト教のために宣伝すると、悪魔は「結構です。やりなさい。やりなさい。」と言うでしょう。
けどももし私たちはキリスト教にはいらないほうがいいけど、「イエス様の御手から罪の赦しをいただかなければ、イエス様との出会いによって生き生きとした希望を持つようにならなければ気の毒だよ。かわいそう。」と、イエス様のことを紹介するようになればだれでもが悪魔の攻撃の的になります。
悪魔はそれを絶対に我慢することができない。赦さないからです。だからペテロは前に読みましたように、

ペテロの手紙第I、5:8-9
8あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

信仰に立つこととは、イエス様に頼ることだけなんです。信仰を与えられるお方とは、信仰を完成するお方とはイエス様なんです。
イエス様に頼りなさい。イエス様にだけ拠り頼みなさい。そうすれば悪魔は逃げざるを得なくなるのです。

悪魔は確かにひどいけど、イエス様は勝利者です。イエス様に頼ると、イエス様の勝利にあずかる者となります。




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