引用聖句:ペテロの手紙第I、5章7節-11節
今、兄弟が言われたように、19日から25日までのアメリカの旅行は無事に終わり、全部で233人、日本から行ったのであります。 初めの頃・・・80人ぐらいになるんじゃないかなと思ってたんです。第一回目の集いとき、一人ぼっちで行くつもりだったんですけど、そのとき17人になったんですね。 今回は80人ぐらいだと思ったけど、233人になったのです。どうしてアメリカで集会をもつようになったかと言いますと、テサロニケ人への手紙第Iの2章4節に次のように書かれています。 テサロニケ人への手紙第I、2:4
福音がゆだねられてるから、この福音を宣べ伝えることこそがわれわれにゆだねられている使命です。 この使命について考えると、自分の無力さも感じますし、どうしたらいいかとさっぱりわからないようになりますけど、主に頼ると、主は必ず一歩一歩導いてくださいます。 福音が宣べ伝えられてるから、われわれはイエス様を紹介すべきです。再臨は近いからです。 多くの人々は確かに考えています。すなわち現代人は無関心です。信じようとしないし。 けどもそれはとんでもない嘘です。現代人こそが心開かれてるのです。なぜならば物質的に恵まれたとしても、心そのものは満たされていないから。 友だちいっぱいいたとしても、人間は孤独であるからです。 現代人こそが心配する者であり、恐怖をもつ者であり、どうすればいいかとさっぱりわからない者なのではないでしょうか。 現代人は思い煩わないで、安心して将来に向かうことができません。この満たされていない孤独な、また不自由な人間は、決して決して無関心ではありません。 もちろん人間は宗教によって、いわゆるキリスト教によって騙されたくないなのは事実です。だれも束縛されたくないし、裏のことわかると商売じゃないかと多くの人々は感じます。 けどもそれにしても人間は永遠なるもの、ダメにならないものを必要とするし、求めているのであります。 ですから私たちはいつも言うべきことは、「キリスト教にはいらないように。けど、イエス様を知ることによって楽になる。」と宣べ伝えるべきなのではないでしょうか。 イエス様だけが紹介されれば祝福があります。もちろんそれだけではなく、攻撃されるようになります。 だから今読まれましたように、ペテロの手紙第Iの5章の8節に、当時の信ずる者に向かってペテロは言ったのです。 ペテロの手紙第I、5:8-9
とあります。 この間アメリカで6人の兄弟姉妹は洗礼を受けることによって自分の信仰を公に証ししましたし、十何人の人々も祈られて、「今からイエス様とともに歩みたい。イエス様に従いたい。」と思うようになったのです。 イエス様が紹介されれば、悪魔は攻撃します。前に学びましたように、悪魔に与えられてる名前は次のようなものです。 試みる者、悪い者、悪しき者、陥れる者、竜、蛇、惑わす者、嘘つき、偽りの父、偽り者、人殺し、虐げる者、おごる者、悪霊のかしら、この世の神、光の天使、破壊者、空中の剣を持つ君、泥棒、狼、ほえたけるしし、こういう名前が悪魔につけられてるものです。 この間私たちは試みる者としての悪魔についてちょっと考えたのであります。イエス様も悪魔に試みられたのです。 救いにあずかっていない人々はみな例外なく、悪魔によって目くらにされてる。だから心の目でイエス様を見ることができなくなってしまってると聖書は言ってます。 悪魔は救われたくない人々を滅びに導くだけでなく、諸国民をも惑わす者であると書かれています。 けどもイエス様を紹介する人々こそが悪魔の攻撃の的になってます。悪魔は信ずる者を終わりに至るまで堕落させようと試みているのです。ですからペテロは、 ペテロの手紙第I、5:8
今もそうです。堅く信仰に立つこととは、徹頭徹尾主にだけ頼りなさいという意味です。 今日はちょっと、悪しき者としての悪魔について考えたいと思います。 悪魔の力がいかに大きなものであろうとも、イエス様に拠り頼んでる者に対してはどうすることもできません。 私たちはとりわけ、私たちとイエス様との交わりを引き離そうとしてる悪魔の横暴に気を付けなければならないのです。 エペソ人への手紙6章の11節に、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書き記したのであります。 エペソ人への手紙6:11
自分の力に、知恵に頼りなさいなのではない。主の武具を着けなさいとあります。そうすると悪魔に立ち向かうことができる。 策略により悪魔の攻撃については聖書の色々なところで読み取ることができます。例えば、聖書の始めの創世記ですが、3章、ちょっと見てみましょうか。 創世記1章、2章も読むと本当にすばらしいことしか書いてないんです。3章から読むと、やっぱり罪の問題が出てきますし、悪魔について書かれてますし、大変なんです。 創世記3:1-4
神のことばの代わりに、自分の言葉で言ったんです。初めて彼は、悪魔はただ疑問符をつけただけです。 神はほんとうにそう言われたの〜?あとで、神の言ってることは実は間違ってる。あなたがたは決して死にません。 創世記3:5-6
とあります。エバはアダムといっしょにではなく、ただ一人で悪魔に試みられたのです。蛇は女の心に眠っていた興味心、特に美しいものに対する欲望を目覚めさせました。 蛇はエバに向かって、主なる神と、また主なる神のみことばについて、言わば何の問題もないような質問をしたのです。 エバが悪魔の試みにいざなわれ始めると、悪魔はエバに対して主のみことばに疑いをもたせ、次にみことばを否定させ、最後に、神と同じようになれると偽りの言葉を語りかけてしまったのです。悪魔はこういう悪しき者です。 ヨブ記の中でも似てることが書かれています。ヨブ記の・・やっぱり1章ですね。 ヨブ記1:6-22
とあります。 まことの礼拝とはどういうものであるか、ここではっきり書き記されています。 このヨブは主の愛を疑うように悪魔に試みられました。そのとき悪魔は主に向かって言ったんです。「彼は必ずあなたの顔に向かってあなたをのろうだろう。」 悪魔はヨブから子どもを奪い、さらに財産、召し使い、健康さえも奪い取りました。悪魔はヨブが心を安らかに住まわっていたふるさとをも奪い去りました。 それだけでなく、ヨブが主をのろい捨てるようにと彼の妻をも用いたのです。 けど彼はこれらのことがすべて悪魔から出て来てることを知り、目に見える現実のものから目をそむけ、主だけを見上げたのです。 それに対して色々なことが悪魔から出ているものであり、悪魔の試みと悪魔の攻撃に気が付かず、信仰から離れていった信者が何と大ぜいいるなのでしょうか。 エバやヨブだけでなく、イエス様ご自身も悪魔の試みにあわれました。悪魔はまずイエス様を40日40夜、荒野で断食させ、空腹感によって肉体的な欲望を攻撃し、石をパンに変えるようにといざなったのであります。 悪魔はイエス様が神であることをこのような奇蹟によって証明するようにとことば巧みに試みたのです。 結局悪魔はイエス様が十字架によって完全な勝利を治めなくても、物質的な奇蹟によって人類の救い主・・成し遂げられることをイエス様に信じ込ませようとして色々試みたのです。「これらの国々と権威と栄華とをみんな私はあなたにあげましょうよ。」と悪魔は言ったのです。 あるときイエス様は自分が必ず多くの苦しみを受けることを弟子たちに証しなさいました。そのときペテロは、「主よ。とんでもない。そんなことがあるはずはない。」と言ったのです。それは悪魔の働きの結果でした。 悪魔はペテロをそそのかし、主はひとり子をそのような苦しみにあわせるはずがないと思い込ませ、ペテロは悪魔の誘惑に負けてしまったのです。 そのときイエス様は言われたのです。「あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている。あなたはわたしの助け手ではなく、わたしの邪魔者です。」と。 愛するペテロに向かってイエス様は、「悪魔よ。退け。」と言ったのです。すなわち人のことを思うと、その結果悪魔の思いにつながっていくということをイエス様は警告したのです。 悪魔はどのような道具、手段を用いるなのでしょうか。 悪魔のもっとも恐ろしい策略は、私たちが全然嫌疑、疑いをもつことができないような存在にある人を利用するということなのです。 例えば初めに作られたアダムの伴侶として与えられ、もっとも愛されたエバを利用して、悪魔はアダムを堕落させました。 またヨブの場合にも、悪魔はヨブの妻を用いて主をのろわせようと試みたのです。 旧約時代の預言者たちは主のみことばを取り次ぐ役割を果たしていました。すなわちその当時の王たちは預言者たちを通して主のみこころを知ろうとしたのです。 けどもアハブという王さまの場合には、偽りをすべての預言者の口に入れたため、アハブはこれらの預言者たちによって完全に惑わされてしまったと書かれています。 悪魔はイエス様に対しても試み、イエス様の親戚、家族の者を惑わして、イエス様の伝道活動をやめさせるようにそそのかしたのです。イエス様はこの裏に悪魔が働いてるとはっきりわかったのであります。 結局当時の人々とは、「イエス様は悪霊につかれてる。おかしくなってしまった。」と思うようになったのです。 ですからイエス様は、「書いてもらいたい。」と家族の人々は言ったのです。今話したペテロも結局負けてしまったのです。 ペテロとは絶対的な確信をもって、「イエス様は約束された救い主です。選ばれたキリストである。」と断言したことがあります。 いうまでもなくペテロはイエス様のことを尊敬しただけではなく、心から愛したのです。 けど彼はイエス様が十字架につかれることをほしくなかったんです。そのために悪魔はペテロの気持ちを捕え、ペテロを利用してイエス様を妨げるようにそそのかしたのです。 そのときイエス様は前に話したように、「サタンよ。引き下がれ。」と言わざるを得なかったのです。 悪魔はわれわれをイエス様の愛から引き離すために、そして私たちの信仰をダメにするためにありとあらゆる手段を用います。 (テープ A面 → B面) ・・・に気を付けていなければならない。 悪魔は試みる者。それから悪しき者です。 もう一つの点についてちょっとだけ考えて終わりましょう。悪魔は偽り者であるとあります。 ヨハネの福音書8:44
とイエス様は話されたのです。悪魔は偽り者です。しかも偽りの父であるから、時々光の天使の偽装をするのです。 パウロはコリント人への手紙第IIの中で当時の信ずる者に次のように書いたのであります。 コリント人への手紙第II、11:13-15
とあります。悪魔は自分が主の御座に着こうとしたため、天使から悪魔に堕落してしまったのです。 今日も悪魔は人々から主なる神として崇められることを望んでます。悪魔は人間の礼拝を望んでる。 イエス様からも礼拝を望んでいたのです。ただ一回だけ私の前にひれ伏せば全部あげますと。 結局だれが礼拝されるのか。神か、悪魔か。主なる神が礼拝されていなければ、結局悪魔が礼拝されるようになります。 悪魔は聖書を見るとわかります。やっぱり神のことばをよく知ってるし、神のことばを用いるのです。 悪魔がエバと話したときに用いた最初のことばは神のことばでした。またイエス様を試みたときにも悪魔は聖書のことばを引用したのです。 聖書のみことばを用いて人を騙すこととは、誘惑するのは、本当に大変なことなのではないでしょうか。聖書全体のことを考えられなければ結局何でも聖書を通して証明することができるからです。 悪魔は本来、主に仕えるべき律法学者、聖書学者たちをもそそのかし、イエス様を殺すようにといざなったのであります。 ヨハネの福音書10:33
同じく、 ヨハネの福音書19:7
結局イエスは神を冒涜したから死に当たる者ですと、パウロもイエス様を信ずる者たちを殺すことがみこころである、神に仕えることであると信じ込んでしまったんです。 いわゆる教会の歴史を見ると、もっとも祝福された信ずる者が組織されたキリスト教によって大ぜい殺されたことがわかります。 歴史を見ると組織された教会とは、彼らは異端者であったから殺されるべきだったと説明するのですけど、詳しく調べると彼らこそがみことばにだけ頼った人々だったのです。 また、私たちを失望させることだけでなく、巧みに騙すことが悪魔の目的ですが、この悪魔の試みは何としばしば成功したことでありましょうか。 何と多くの人々は自分の意思を主のみこころと思い込んでいることでしょうか。 新聞、ラジオ、テレビその他、色々な出版物などが広く告げ知らしていることのすべてが事実なのではなく、間違ったニュースが報道されてることはよくご存知の通りであります。 人間は政治の世界で、あるいは商売で公に嘘をつくこともあり、また自分の家庭の中でさえも偽ることがあり、さらにひどい場合には神聖な裁判においても偽りがあるんです。 ちゃんと全部わかるなのに覚えがないと言われるのは悪魔の働きの結果です。その中でも一番ひどい偽りは、非キリストと、将来出て来る非キリストと、にせ預言者であると聖書は言ってます。 大部分の人々は偽りの預言者を本当のキリストであると思い込んでしまうのです。聖書は、やがて非キリスト、すなわち悪魔が崇拝されるようになるとはっきり言ってます。 テサロニケ人への手紙第IIの2章、この事実について次のように書かれています。 テサロニケ人への手紙第II、2:3-4
ヨハネの黙示録の13章の中でも同じ事実について次のように書かれています。 ヨハネの黙示録13:4
ヨハネの黙示録13:8
結局非キリストは神として将来拝むようになると預言されています。 私たちは悪魔がただ単に光の天使を装うだけでなく、最後の権威ある者として人々から崇められることを望んでいることも聖書を通して知ることができます。 偽りの父とは、今日全世界を支配してる者にほかならない。もちろん主は赦してくださるから叱ってきません。けども今のこの目に見える世界の王とは悪魔であるとイエス様ははっきり言われたのです。 このような恐るべき現実に直面してるわれわれはダビデのような心構えを持つべきなのではないでしょうか。 詩篇の139篇を読んで終わりましょう。よく知られてるすばらしい詩篇です。 詩篇139:23-24
このような砕かれた心をもつと、主は溢れるばかりの祝福を与えてくださる。 悪魔がいくら攻撃しても主は御名のゆえに守っていてくださいます。 |