引用箇所:ルカの福音書22章7節-20節
救われることとはもっとも大切ですけど、考えられないほど簡単です。ある人は困って言ったんですけど、三つのことを質問しました。 「本当に希望があるの?」 「私には愛されてることは考えられないけど、本当?」 もうひとつ、「自分の過ちは赦されうるなのでしょうか?」 救われることがどうして簡単であるかと言いますと、イエス様は、全てをなさったからです。救いのみわざは成し遂げられた、万歳! これこそが、イエス様の十字架の上での勝利の叫びでした。イエス様の所に行けば、救われることとは簡単です。行かなければ難しいだけじゃなくて、不可能です! けども、救いに預かることは大切でありながら、成長することも大切です。イエス様をより良く知ることも、非常に大切です。けどそれも、そんなに難しくはない。同じように簡単です。 今朝、遠くから電話があったんです。全然知らない人なんですけど、いや〜、ちょとまたがっかりしたんです。何といったかね〜、15年間ある教会に行ったんです。合せて少なくとも900万献金しました。10分の一献金しなければいけないのは聖書の掟ですから。それから、家族そろって行ったんです。 結局疲れ果ててしまって、あちこちの教会を回って、別の教会はもっとひどい!みんなね、火の上を歩かなくちゃいけない、「信仰があれば大丈夫。」、ですって?、「歩けないのは信仰がないからです。」、と。 あの家族の息子はね、それによってノイローゼ気味になっちゃったんです。もちろんあの奥さんも、そのような教会に行ったことによって異言を語るようになったし、あわせて八つの教会にあっちこっち行ったんです。もう十分です、もういやです。 ある教会に行ったとき、「あなたはもう一回洗礼受けなくてはだめだよ。」と、前にちゃんと浸礼受けたのに、もう一回受けないとだめ、受けたんですけど全く意味のないことです。結局、あなたはこうしなければだめ、ああしなければだめと言うのは宗教的であり、聖書的ではない!本当にもう悲しいことです。 成長のために人間はがんばらなくちゃいけない、努力しなくちゃいけないのではない、成長もそんなに難しくはない。 イエス様とつながっていなければ、1mmも成長しません!何をやっても主は知らん顔します。全財産を捧げたとしても、主は見向きもしない!わたしから離れたら、あなたがたは何もできない!と、イエス様は言われました。 成長のためにもっとも大切なのは、礼拝、することなのではないでしょうか?イエス様はヨハネの福音書4章23、24節に次のように言われました。 ヨハネの福音書4:23-24
主は必死になって、礼拝する者を捜し求めておられます。聖書の教えを信じ込む人々を別に捜されていない。礼拝する者を捜されています。 もちろん、どこへ行っても、「礼拝」という言葉は良く使われています。聖書から見ると3種類の集会があります。 ある集会はおもに救われていない人々のための者です。よく福音集会と言われています。伝道会と言われています。結局大切なのは、「聖書はああだよ、こうだよ。」と言うことじゃなくて、イエス様とはどういうお方であるか、イエス様を紹介すことそれが、もっとも大切です。 それから、もうイエス様を信じ救われた人々のために、やっぱり必要なのは、学び、聖書の学び会ではないでしょうか。 もちろん、聖書開いて理解しなくちゃいけない、わからなくちゃいけないと思えば、もうまず無理!いいよ、わからなくても、けど私は今疲れてる、肉体的にだけじゃない精神的にも疲れてる、喜びがない、この問題をどうすれば良いか、わからない、お語りになってください。 こういう心構えで読むべきです。 私はわからなくちゃいけないじゃなくて、主よ語ってください、しもべは聞いております。そうすれば必ず言葉によって生かされます。御心が知らされるようになります。 こういうふうに、福音集会は未信者のためであり、学びは信者のためです。礼拝は信者のためでもない、未信者のためでもない!主のため。 主は中心にならなければだめ、そして、主が中心になれば人間はのけ者にされます。ですから、礼拝の時の祈りとは、主よああしてくれこうしてくれじゃない。あなたこそ栄光を受けるべきです。あなたの裂かれたからだのため、流された血のために感謝します。 結局、主が中心となり礼拝されれば人間も喜ぶようになります。 礼拝とは、したがって、ある兄弟の説教の時ではない。中心となるのはイエス様の救いのみわざについて考えること、そのためにちょっと助けになるのは、いわゆる聖餐式と呼ばれ、パン裂きと呼ばれています。 今読まれました箇所とは、ほんとに大切な箇所であります。ルカの福音書22章19節20節もう一度お読みいたします。 ルカの福音書22:19-20
イエス様は、十字架にかかられる前夜、弟子たちと過ぎ越しの食事をともにされました。過ぎ越しの祭りは、かつてイスラエルの民がエジプトから救い出された日の、第一月に記念するもので、ユダヤ人には一年中で最も大切な祭りでした。 けどその過ぎ越しは、イエス様による神さまの救いを教えるもので過ぎ越しの小羊こそ、イエス様の十字架の贖罪を示すものです。 ヨハネの福音書1章の29節に、バプテスマのヨハネとはイエス様が初めて公に現れた時、こういうふうに叫び、神さまの小羊してイエス様を紹介したのです。 ヨハネの福音書1:29
神さまの小羊イエス様が十字架にかかられると、それを象徴した過ぎ越しの必要は、当然なくなります。十字架以後はその御子の贖いのみわざを、ずっと覚えるのです。 最後の夜にイエス様は、この大切な事実を弟子たちに言われたのです。使徒の働きの20章の7節に、初代教会のことについて、 使徒の働き20:7
未信者が救われるためでもなかったし、自分でいろいろなことを学ぶためでもなかったらしい。主を礼拝するため。 使徒時代の兄弟姉妹はみな、主のみことばに従ったのです。週の初めの日とは、もちろん聖書の言われている安息日、すなわち土曜日ではない!日曜日なんです。 ある宗教団体の人々は、やっぱり守るべきなのはユダヤ人たちの守った安息日であり、日曜日ではない。けど初代教会の人々は、いわゆる安息日じゃぁなくて、主の復活した日曜日を礼拝のために使ったのです。もちろん彼らは、日曜日だけに集まったのではない、大部分の人たちは、おそらく毎日集まったのです。 初代教会の大部分は奴隷でした。自由な時間がないんです。ですから、昼間集めようと思っても、笑い話です。朝早くか、夜遅くか、夜中かしかできなかったんです。 「ね〜、あなたは信じるようになったから、礼拝を守らなくてはだめ!」、そうではない!「礼拝したくてしたくてしょうがない、日曜日だけじゃない、毎日。」、そう言う気持ちでないとおかしい。 初代教会の人々は、パンを裂くために、主の犠牲を覚えるために、主を礼拝するために集まった。そして2章の42節を見ると、五旬節のすぐ後のことについて、彼らは使徒たちの伝えられたことを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた、云々と書かれてます。 結局パンを裂くこととは、主を礼拝することを意味します。 このパン裂きとは、非常に、信じる者の成長のために大切であると彼らは分かったのです。初めて兄弟のお読みになった箇所の中で、二つのお祝いについて書かれていたのです。いわゆる最後の過ぎ越しについて、それから最初の聖さんについての箇所であります。 イエス様が十字架につけられる前の晩に、十二弟子たちとともに最後の晩餐をしたとき、次のように言われたことが意味深くあります。「わたしを記念するためにこのように行いなさい。」 そのときにすでに、イエス様の生涯は終わりにもちろん近づいたのです。33年間にわたって、天から来られた主イエス様は、僕のかたちをとって、この世の生涯を歩まれました。 主はまったく低く、非常に貧しい状態で人間の中に現れました。けど、イエス様こそまさに永遠なる神さまのまことなる一人子に他ならなかったのです。 イエス様の青年時代は、ほとんど知られてはいません。30歳になられた時は、じめて人間としてのイエス様の生涯が、われわれの前に明らかになりました。このイエス様の生涯を思うと、私たちはいつも心のそこから礼拝せざるを得ない気持ちに満たされるべきです。 このような、生涯の終わりに近づいたイエス様の前には、もっとも困難な、十字架のみわざが横たわっていました。主が受けるべきこの十字架は、イエス様ご自身にとってはあらかじめ知られていることでした。はじめからイエス様は生きるために、人間にいろいろなことを教えるために生まれたのではない、死ぬために生まれた! ゲッセマネのゴルゴダは、今やイエス様を待ってます。そして、不安や恐れがあろうとも、またさばきが厳然としていようと、死の暗闇がイエス様の目の前に置かれていようとも、イエス様ご自身が十字架をとうして生涯を全うしようとしておられる、断固たる態度は、何者も妨げることはできませんでした。 このように、イエス様が栄光と主のかたちとを捨てさせるほど、強く働いた主の愛、すなわち失われ、のろわれた人類のために捧げられた神さまの愛こそ、イエス様が終わりに至るまで十字架を耐え忍ぶ力を与えたものに他ならなかったのです。 このまことの神さまの愛を、どれほど深く理解し尽くそうとしても、私たちは決して、少なくても今、生きている間に理解し尽くすことはできません。 確かにイエス様を拒んだ者の数は多かったでしょう、けどイエス様により頼んだ者ももちろんいました。これらの、主をより頼む人々の中から、イエス様はもっとも密接な信頼関係を持った、12弟子をお選びになりました。そしてイエス様は、12弟子たちに、繰り返し繰り返し救いの課題、残された救いの課題を知らせました。 そしてイエス様の生涯がいかなるかたちで終わらなければならないか、ということをわからせようと試みられたのです。 それのみならず、さらに、罪人の救いを成就するというご目的を持って明らかにされました。 けど、これに対して弟子たちは、そのような深い神さまの御心をほとんど理解することができませんでした。弟子たちが主の救いの働きを正しく理解せず、何にもわからずすごしたことを、私たちは福音書から幾たびとなく読み取ることができます。 このことを知ったイエス様の悲しみとは、どれほど大きかったか、はかり知ることができません。けど、主のもっとも深い本質、もっとも親しい交わり、そして他人の感情や考えを思いやる主の深い心は、弟子たちにはとっても理解することができませんでした。 そのために主は全く孤独であり、いかに親しいものと言えども、主にまったく従うこということはできなかったのです。イエス様は、イエス様の中に待ち望んでいた...メシアを見た大勢の群衆に歓迎されて、エルサレムに入城したのです。 殺される何日か前、イエス様がそのまちや宮に現れた時には、まったく王のように権威に満たされていたのです。 このように大勢の群集は万歳を叫び、熱く歓迎したにもかかわらず、イエス様の視線はご自身を待ってる十字架の上に注がれていたのです。そして主は人類のために罪の重荷を負い、神さまのさばきを受ける前にもう一度、弟子たちとともに過ぎ越しの祭りをしたいと願ったのです。 そのときすでに弟子たちと最後の晩餐をするために、すべてが用意されていました。彼らが過ぎ越しの祭りをすることが出きる屋上の間は備えられていたのです。 私たちは主が最後の晩餐を持たれたということを覚える時に、本当に厳粛な気持ちにならざるを得ません。確かにその時の最後の晩餐、そして、最初の聖餐式は質素で簡単なものであったけど、その中に含まれていることは非常に深いものであることを忘れてはなりません。 私たちは、いつかその意味を理解し尽くすことができるでしょう。過ぎ越しの祭りはいわゆる一つの象徴でした。イスラエルの民はこの祭りを記念として守らなければならなかったんです。 前に話したように、イスラエルの民はエジプトの奴隷から救い出されたことを覚え、聖なる神さまのさばきから守られたことを思いだし、そして選ばれた民に与えられた恵みとあわれみと祝福とを、覚えなければならなかったんです。 この晩餐の時の強い感銘は、主とともに預かった弟子たちの心を深く揺り動かしたことは、疑いもない。 過ぎ越しの祭りが、初めはただ最も親しい家族で行われた儀式であったように、イエス様は最後の晩餐の時に、主に従ってきた群れの中から特に忠実な弟子たちだけを、ご自分のみもとに集められたのです。 始まる前に、ユダはもちろん出たんです。彼はその時もう居なかったんです。イエス様は苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過ぎ越しの祭りを持つことを切に望んでいた、待ち望んだ、と言われたのです。 一体、どうしてでしょうか?イエス様は言われた。「みことばと、主がなされたみわざとを通して、過ぎ越しの祭りからまことの聖餐式への、新しい変化を読み取らなければならない。」 すなわち、過ぎ越しの祭りは、イスラエル民をエジプトの奴隷から開放したことを、覚えるためになされたものであります。 けど、永遠なる救いを覚えるための聖餐式は、まさに主ご自身が本当の小羊として、十字架に架かれたことを覚えるためのものに他なりません。福音書の中にもそれを、詳しく書かれています。たとえば、マタイの福音書26章、見てみましょうか。 マタイの福音書26:26-28
次のマルコの福音書14章を見ても、似てる言葉が書かれてます。 マルコの福音書14:22-25
そして、讃美の歌を歌ってからみんなでオリーブ山に出かけて行った。讃美の詩とは、非常に、当時の祭りの時大切だったから書かせないものだったようです。 ルカの福音書22:19-20
と。 弟子たちが過ぎ越しの祭りの終わりに、杯を互いに分かち合ったことによって、本来の過ぎ越しの祭りは、終わったんです! しかしながらその時にはまた、最後の讃美が歌われていなかったのです。この最後の讃美について、歴代誌第IIに次のように書かれています。 歴代誌第II、30:21
と、書かれてます。弟子たちは、その最後の讃美の歌を歌うことを待ち望んでいたけど、しかし実際にはまだそれをしていなかったんです。出かける前に彼らは歌うようになりました。 弟子たちは、イエス様の前に横たわっている十字架の死については、何もわからなかったんです。 確かに弟子たちは、イエス様が悩みを追わなければならないという事実を知った時に、悲しみまた彼らの中から裏切る者が出て、敵に引き渡してしまうということを知った時に、非常に驚いたんです。 しかしながら、主が弟子たちに裏切る者が誰であるかと、はっきりと言った時にそして、主がユダに向かってしようとしていることを、「今すぐにするが良い。」とお命じになったことを、弟子たちはイエス様の言われたことをはっきりわからなかったようです。ヨハネの福音書13章を見るとわかります。 ヨハネの福音書13:21-27
席についているもので、イエス様が何のためにそう言ったのか、知っている者は誰も居なかった。 イエス様が祭りのために入用の者を買え、といわれただとか、または、貧しい人々に何かほど腰をするように言われたのだとか、思った者も中にはいたとあります。結局、どうしてか、なぜか、どういうことになっているか、彼らはさっぱりわからなかったのです。 そこでイエス様は、「わたしは苦しまなければならない。」ということが、何を意味しているかをはっきりとわからせる必要を感じました。イエス様の話したことが、弟子たちになんらの理解を伝えることができなかった時には、主のなさる行いが、弟子たちの心の目が開かされなければならなかったのです。 前に読みました箇所の中に出てきたんですね。 一同が食事をしている時、イエス様はパンを取り、祝福して弟子たちにこれを与えられた。このようにしてイエス様は、今までの過ぎ越しの枠を広げ、それに全く新しい意味を付け加えたのです。 そしてこのことは、ユダヤ教の考え方や、風俗習慣による儀式に親しんでいる人々を心のそこから揺り動かしたに違いない! そして、それだけでゃなく、次のような言葉を非常に意味が深かったでしょう。「これは、わたしのからだです。」 ちょうど、このパンが裂かれたと同じように、わたし自信も裂かれなければならないと、どうしてでしょうか? わたしのからだは、あなたがたのために、あなたがたの身代わりとしてささげなければならない!この、「あなたがたのために、という言葉は、あなたがたの心に深く刻み込まれるようになりますよ。」、と。 わたしを覚えるために、そして、わたしを記念するために、このように行いなさい。わたしのからだと命とがあなた方のために捧げられなければならないということの意味を、十分に考えなさい。 これからなされなければならない出来事は、裂かれたパンをとうして示されるほど明らかにされうることはないでしょう。 そして、杯を取り感謝して彼らに与えて言われた。「みんな、この杯からのめ!」、と。 なぜならば、「これは罪に赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」と、イエス様は言われたのです。 ほふられた小羊のからだと、流された血潮、これら二つの事柄は互いに切り離すことができないほど、密接に結びついています。 そして、そのパンこそ、イエス様の聖い御からだが犠牲としてささげられなかったことの意味を、最も良く示しており、ちうどそれと同じように、杯は主の血潮が流されるのが、なされなければならなかったことを明らかに示しているのです。 過ぎ越しの祭りは、出エジプト記の当時は、主とイスラエルの民との密接な結びつきを指し示すものであり、その血潮は神さまとのその契約を堅く守ることを象徴したものであります。 出エジプト記の24章の8節を見ると、この契約の血という言葉が出てきます。 出エジプト記24:8
と。 主は弟子たちに杯をまわした時に、契約の血という全く同じ表現を用いたのです。この杯を通して主は、むかしシナイ山で結ばれた契約のことを思い出されたことでしょう。 シナイ山で流された血潮は、ただ単に契約を結ぶためだけではなく、聖めのためにも必要でした。 ヘブル人への手紙の9章の19節に次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙9:19-22
この聖めこそ、血をあらかじめ考えられておられたイエス様にとって徹底的なものでした。聖書は次のように言っています。 「これは罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流されるわたしの契約の血です。」、と。 このイエス様の言葉を聞いたとき弟子たちは、どれほど驚いたことでしょうか?そして弟子たちの心は、やがて来たるべきことに対してどれほど動かされたことでしょう。弟子たちの、主であるイエス様がご自身の死について語られ、罪の赦しを得させるために流されたご自身の血について話されました。説きあかされたのです。 それは、ただ単に罪を覆い隠すためではなく、全く新しく聖めと赦しを与えるために他ならなかったのです。 あなたがたのために、言いかえるならば、あなた自信のために、あるいは私わたし自身のためにと言うこの言葉は、特に、父のためにということは、すばらしい新しい事実を明らかにしているのです。 その、パンはわたしのためにささげられた、主の御からだについて語り、それとまったく同様に、私の罪の赦しを得させるために、わたしのために流された血潮とあたらしい契約について、説き明かしています。 そしてこのあたらしい契約は、律法のゆえに建てられたものではない!計り知れない恵みのゆえに、なされたものです。 旧約時代に過ぎ越しの祭りのためにはイスラエルの民は、祭りが終わった瞬間に、主をこころから礼拝したのです。こころからの讃美をささげたのです。 そのような過ぎ越しの祭りを思う時に、イエス様の弟子たちが、イエス様がすべてのことをなし終わった時に、いかなる讃美をささげたか、言うまでもないでしょう。 けど、私たちは心からなる感謝を持って賛美をしてるのでしょうか?私たちはイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちに明らかにしようと思っておられたことを過去の事実として正しく理解することが、出きる状態にあります。 私たちはこの事実を知った時に、主の救いのみわざのすばらしさに対して、こころからなる讃美をしようではないでしょうか。 私たちが聖餐式に預かる時、従って、パンを裂き、杯から葡萄酒を飲む時、私たちの愛する主イエス様が、われわれの目の前に立っておられます。 主が、神さまの栄光のために、われわれの永遠の救いのためになされたみわざを思う時に、その驚くべき愛に対して、私たちはこころから賛美と礼拝をせざるを得ないのではないでしょうか。 パンと葡萄酒、それこそまさにイエス様の御からだと血潮の象徴にしかほかならない。「わたしを記念するために、このようにおこないなさい。」、これは主のご命令ですから、われわれは聖い恐れを持って従うべきではないのではないでしょうか。 主の十字架がわれわれの罪を赦し、主の血潮が私たちを聖めたという、この事実のために、心から喜ぶことができます。 イエス様はずっと聖書の中で、ほふられた小羊と呼ばれています。永遠の昔からイエス様はほふられた小羊と呼ばれたのです。人間が創造される前に、人間の罪がなかった時、イエス様はほふられた小羊と呼ばれたのです。そして、将来、礼拝の中心になるのも、もちろんこのほふられた小羊です。 最後にヨハネの黙示録の5章から9節を読んで終わります。 ヨハネの黙示録5:9-12
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