引用聖句:ヨハネの福音書4章23節-24節
ヨハネの黙示録5:12
二つの非常に大切なことがあります。「あなたは救われているの?」と「あなたはイエス様を礼拝しているの?」ということです。 一つ目は「あなたは救われているの?」ということです。 今、司会の兄弟は「イエス様を知るようになったのは良かった」と言われました。 彼の二十年前のことを良く知っています。何年経ってもその時の姿を忘れられません。 奥さんである姉妹は、ご主人と一緒に悩みながら集会に来たんです。絶望に近かったよ。まだ若いのに家族がいるのに、頑張らなくちゃいけないのに、その身体ではもう無理よ。 けれども、その日二人は祈るようになり、信じるようになったんです。そこで兄弟は何と言ったかといいますと「自分の病気を忘れた」です。ちょっと考えられない。なぜなら病気は治ってないよ。やっぱり相変わらず悩みの種です。 でも、この「悩みがなかったら救われなかったし、イエス様を知ることはなかった」と思うようになったのでないかと思います。 「あなたは救われているか」ということはほんとうに大切です。救いとは何でしょうかねえ。それは救い主を知ることです。救い主を知るために必要なことはこのイエス様の約束を信じることです。 理解することではありません。へりくだれば主は受け入れてくださる。イエス様は、「受け入れたくて、受け入れたくて仕方がない。罪を赦したくて、赦したくて仕方がない。」のです。 けれども、それにはイエス様のところに行くことが必要です。「憐れんでください。」と。そのように救われることはほんとうに大切です。でもそれだけでは十分じゃありません。 そこで、二つ目の大切な質問は「あなたはイエス様を礼拝しているの?」ということです。 いわゆる礼拝に参加することじゃないんです。礼拝のときね、ある兄弟は聖書のある箇所を違う意味に読んだんですね。間違って読んだりして、いったいどういうことかと思いました。 けれども人間のやっている間違ったことよりその気持ちが大切です。 「イエス様はすごい。イエス様が恵んでくださったから礼拝せざるを得ない。」という気持ちになるとやっぱり違います。 今、兄弟が読みました中で「主は礼拝者を求めておられる。」はすばらしい箇所です。 けれども、このすばらしいみことばが初めて言われたのはユダヤ人ではなくある外人です。サマリヤの女なのです。 イエス様は人間の身体を持つようになったから、人間とまったく同じように疲れたのです。弟子たちが買い物に行ったと時、イエス様は井戸のところに座っていました。わからないけど半分くらいは寝ていたかも知れない。 その中で「あ、誰か来るな。」と思った。このサマリヤの女だったのです。イエス様はここには誰も来ないだろうと思ったに違いない。 この時間に誰も水を汲みに来たことはないのです。あまりに暑いから人々は早朝か、または夜、太陽が沈んでから水を汲みに来たのです。 サマリヤの女がどうして昼間に来たかと言いますと、誰にも会いたくなかったかれです。みんなから変な目で見られたからです。みんな、「あいつは酷い」と思ったのです。 この滅茶苦茶な女性に、イエス様はこの箇所を言ったのです。「まことの神は、礼拝する者を求めておられる。」と。 どんな話がされたかわからないけど、天国に行ったらその時の状態を見ることができ、聞くことができます。間違いなくそうだと思います。 彼女が水を汲んだ時、イエス様はまず「水一杯、もらえませんか。」と言ったのです。彼女はびっくりして「あなたはユダヤ人であるのに、どうして外人の私に頼むの?」と答えたのです。 普通のユダヤ人はサマリヤ人と関わりを持ちなくなかったよ。挨拶さえもしなかったよ。だけど、イエス様は彼女に頼んだんです。「水、一杯、もらえませんか。」と。 水をもらっただけじゃなく、どういう会話になったかわからないけど、いろいろな話、礼拝についても話されたでしょう。 だけど、イエス様は、急に彼女に変なことを頼んだのです。「あなたの主人を連れてきて。」と言ったのです。 彼女の答えは「主人はいません」でした。「うん、なるほどね。あなたは五回結婚したでしょう。そして五回離婚したでしょう。今、一緒にいる男はあなたの夫じゃないでしょう。」 自分の過去を全部知っている方に出会ったからきっと救い主に違いない。どういうことなのかわからなかったし、ピンとこなかったかも知れない。でもイエス様と一緒に祈ったのです。 「実はあなたの言った通り、幸せになりたかった。あの人と結婚できればと幸せになると思って結婚しました。でも結婚して、ガッカリ!それで、離婚して再婚しました。前の男より酷かったです。そして、離婚、再婚を五回も繰り返して忙しかった。もう疲れました。」 そうして、イエス様に心を開いて話したので、彼女は後で、兄弟と同じように「イエス様に出会えて良かった」と思うようになったに違いない。 だから彼女は今までは人に会いたくなかったのに、自分から町に出て行って「来て、見てください。私のしたことを全部私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。 聖書に見ると、サマリヤ人のうち多くの者が、その女のことばによってイエスを信じたと書かれています。 つまり、イエス様はそういう人を用いて人々を救うのです。彼女は救われただけでなく、まことの礼拝者になったのです。イエス様はまことの礼拝者を求めておられます。 けれどもそれには主を知る必要があります。そして主を知るようになるためには助けを求めなければなりません。助けを求めるには悩むことが必要です。 ヘブル人への手紙13:8
何でも知っておられ、何でもできるお方です。このイエス様は悩んでいる人を捜しておれるのです。なぜなら、そういう人々だけが助けを求め、イエス様の恵みをあずかるようになるからです。イエス様を心から愛するようになり、礼拝せざるを得なくなります。 主を礼拝するとはいったいどういうことなのでしょうか。ある姉妹の態度をみるとわかります。32歳でガンで亡くなった姉妹です。 彼女はドイツ語で一つの歌を作りました。ちょっとその内容をご紹介します。まことの礼拝とはどういうことか、この言葉で大体わかります。 主イエスよ。 私が問題を持ち、心配し、無力になったとき、 あなたは私にご自分の喜びを用意していると知りました。 あなたが愛でもって私のためになされた救いを 信仰によっていただきます。 主イエスよ。 あなたは哀れんでくださり、 目標を持って私の一生涯を導き、 あなたの愛の表れとして いつも最善をなしていてくださいます。 あなたにあっていつも安心して喜ぶことができます。 あなたは決して私から離れることがありません。 一時的な幸せより、まことの救いが私にとって大切です。 最後の一行は非常に大切なのでもう一度読んでみます。「一時的な幸せよりもまことの救いが私にとって大切です。」 例えば病人はね、元気になれたら幸せになると思っています。嘘です。健康人がみな、幸せなわけじゃない。つまり普通の人間は一時的な幸せしか考えてない。 けれどもいつかはわかる。それは本物ではない。偽者にすぎないよ。 一時的な幸せよりまことの救いは私にとって大切です。 ですからあなたの御手から今の重荷、ガンという病気を受け取ります。 あなたの導きが受け入れにくいものであっても私は確信しています。 すなわち、すべてのことがあなたからきている。あなたのせいです。 ですから私は、あなたの近くにいて、みことばを聞いて、あなたを私の避けどころとします。 あなたこそが私の人生を豊かなものにしてくださいました。 あなたは私のために大いなる御業をなさいました。 あなたに愛され、そしてあなたの満ち満ちた富から、 豊かに与えてくださるから私はまた愛することができます。 今からはあなたの光のうちに歩みたい。 私に何があっても、主イエスよ。私をどうか祝福してください。 喜ぶことができるために救われ、平安に満たされた者として、 私は心からあなたを褒め称えます。 まことの礼拝とはそういうものです。 兄弟が読まれた後半の箇所は、将来の予言のようなものです。多くの人はヨハネの黙示録を読もうとしません。どうせわからないから。難しいから云々と。それは間違っています。 初代教会の兄弟姉妹が一番読んだのはヨハネの黙示録なんです。ちょっと不思議な箇所なのです。将来のことが全部詳しく書き記されているからです。 今の時代に一番大切な箇所は、ヨハネの黙示録1章から2章までなのです。4章はね、将来のことです。 すなわち、空中再臨の後、何が起こるかについてのことが4章から書かれています。 ヨハネの黙示録5:12
つまり礼拝されるのは子羊なる、十字架の上で私たちの身代わりに死なれたイエス様です。ほんとに期待を持って、この天国の歌を聞きたい!もちろん一緒に歌いたい! この間、東京でメサイヤ・コンサートがありました。以前、指揮の兄弟に言ったことがあります。「あなたは生きている間しか仕事がないよ。天国では指揮者がいらないから。」と。天国では練習の必要もない。 向こうではみんな完全です。完全なる者は練習の必要はない。指揮者もね。みんな、すべての楽器を完全に演奏することができるのです。そして何万人の人々が一緒に歌ったとしても一言葉、一言葉わかるのです。 メサイヤ・コンサートも今は英語でしょう。幸い、日本語で歌詞の説明表示さがあるし、テキストもあるからわかるけど、そうじゃなければピンとこないよ。 どこの国の言葉だってその意味がわからなければ中々通じないよ。でも天国ではね、一言葉、一言葉が必ずわかるようになる。 どういう言葉で歌われるようになるのかわからないけど、それはどうでもよいことです。 礼拝の中心とは十字架の上で犠牲になった主イエス様です。確かに将来のことですけど、将来のことだけじゃなく、今、私たちが心一つにして賛美することができ、礼拝することができるのは、ほんとにすばらしい特権なのではないでしょうか。 イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、自分の理解しがたい悩みは主のせいだ。主の導きであると認めている人々だけが、礼拝に導かれるようになるのではないでしょうか。 イエス様は霊とまことをもって礼拝するまことの礼拝者を捜しておられます。本来、我々の生活が礼拝そのものとなるべきではないでしょうか。 詩篇の作者は言ったんです。私は祈りです。私は祈っている、なのではない。私はもっと祈るべき、でもない。私は祈りそのものです。主に対する絶えざる叫びです。 この言葉はほんとうの意味でイエス様に対する預言だったのです。イエス様は祈ることなしには何もしなかったのです。 私たちは見たり聞いたりすると、自分で考えて判断して自分で行動する。人間はそういうものなんです。イエス様は一秒たりともそういう気持ちを持っていたことがない。何かを聞くと、また見ると、すぐに祈ったのです。 ラザロが重病人になったときも、「お父様、あなたの考えはどう?お父様、どうしたらいいの?ラザロの所に行きたいけどいいの?」 「いいえ、駄目。ラザロは一度死んでもらいます。その後で、彼を蘇らせてください。」云々と、あったんじゃないかな。 すなわち、イエス様は祈りそのものでした。祈りそのものである人こそが、まことの礼拝者なのではないでしょうか。 日曜日の朝、私たちはどういう気持ちで集会に集うのでしょうか。 もっともっと愛するイエス様を知りたい。心から崇拝したい。そういう気持ちなのでしょうか。今話したように悩むことがなければ、苦しむことがなければ無理なんです。 弟子たちについて、イエスを拝んだとあります。マタイの福音書14章を見てみましょうか。 マタイの福音書14:24-27
弟子たちは嵐の真っ最中、湖の真ん中にいて、荒れ狂う波を前に如何ともし難い状態でした。そこへもってきて、変な姿のものが現われたから弟子たちは、なお更恐れおののきました。 「「あれは幽霊だ。」と彼らは叫んだんです。だけど、イエス様だったよ。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様はこの言葉でもって自分自身を明らかにしてくださいました。 弟子たちは「あっ、幽霊じゃないの?イエス様か。」とわかった時、もういっぺんに楽になったんです。彼らは結果として確かに礼拝したようです。 マタイの福音書14:33
もちろんこの方は拝むべき方だとわかったのです。 他にも、主を知るようになって拝むようになった男がいます。歴代誌を見てみましょうか。 歴代誌第II、33:10
聞く耳がなければ何でもできる主は無力です。強制なさいません。聞こうとしなければもちろん救われ得ないし、恵まれ得ないし、用いられない。 イスラエルの民は聞こうとしなかった。聞く耳がなければ主は別の方法で行ないます。イスラエルの民、主の民は敵の手に渡された。 歴代誌第II、33:11
主が連れて来られた。主のせいだった。 歴代誌第II、33:11
外国 歴代誌第II、33:11
それで終わりだったらおしまいですけど、終わりではなかった。 歴代誌第II、33:12
聞く耳を持たなかった王は、その時初めて、 歴代誌第II、33:12
そういう人に「おめでとう」と言いたい。大いにへりくだれば大丈夫。主は必ず恵んでくださるからです。マナセは祈るようになり、助けを求めるようになったので、神は彼の願いを聞き入れたのです。 神はいつも聞く耳を持っているから、彼の切なる願いを聞き入れ、彼をエルサレムの王国に戻されたのです。戻されただけでなく、再び王様になったのです。 戻る可能性はなかったよ。考えられない。こうしてマナセは主こそ神であることを知ったのです。結果として彼は拝んだに違いない。 彼はいったい如何にして主を知るようになったのでしょうか。それはいろいろな苦しみを通してです。彼は敵の手によって、剣で捕えられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンまで連れていかれたのです。 そして、理解し難い導きを通して彼は心の目が開かれました。 マナセは「主こそ神である」と体験的に知るようになったのです。 私たちはいったいどういうふうにしてまことの礼拝者になることができるのでしょうか。 天と地を無から創造された主なる神が、私のお父様であり、また私はこの偉大なる主の子どもであるという知識を持つことでほんとうは重要です。 主はすべてをご支配している方だと、私たちが知ることができれば、礼拝をせざるを得なくなるのです。 主を知ることは、「自分は徹頭徹尾、主のものである」という確信を持つことです。 イエス様の弟子たちが、湖の荒れ狂う波の上で主の声を聞いた時、すなわちイエス様がご自身が啓示してくださった時、それは幽霊じゃなくて、運命でもないし、天罰でもないし、主だとわかった結果、拝むようになりました。 マナセ王はそれは「主のせいだ」と主の導きであることを知ったとき、主を知るようになり、拝む者となったのです。主を知り、主の前にひれ伏し、自分が理解し難い悩みは「主のせいである」と認める人は大いに祝福されます。 今日も主は我々の真ん中にご臨在しておられ、まことの礼拝者を必死になって探し求めておられます。 救われた人々は決して少ないのではありません。けれどもほんとの意味で主を第一にし、心から愛する礼拝者は少ないのではないでしょうか。自分の事だけ考えているからです。 イエス様の犠牲について、イエス様の変わらない愛について考えたら礼拝せざるを得ない。イエス様はあるサマリヤの女に言いました。 ヨハネの福音書4:23-24
大切なことはすべてを主の手に委ね、主に心から賛美を表することではないでしょうか。 主のなさること、主の導きは主の道です。イエス様はご自身のなさること、またご自身の導き、経験によって私たちが主に目を開く。その結果、私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように主は働いておられます。 主を心から礼拝を捧げ得る人のみ、主の道を歩み行くことができるのです。主の道を知り、主の道を喜ぶ。これが一番大切な私たちの課題なのではないでしょうか。 旧約聖書の中の最も大切な人物の一人はモーセでした。その箇所、出エジプト記から、ちょっと見てみましょうか。 出エジプト記34:5-8
礼拝した。 出エジプト記34:9
このように、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者と、書かれております。モーセはこの恵みの言葉を聞いた時、エホバなる主を礼拝せずにはおられなかったのです。 けれども、モーセは恵みも言葉とともに、7節の後半のごとく、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に。四代にと厳しい言葉を聞いた時、モーセは主の前にまず、「自分の罪を赦してください」と謝る前に主を礼拝した。 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだ、礼拝したとあります。 主の恵みの言葉と聞いた時に主を礼拝することはそんなに難しいことではありません。けれども、厳しいみことばを聞いた時も、主を礼拝するということは極めて難しいことです。 礼拝とは主の導きに、まったく心からなる賛美を表することです。「どうしてか。なぜか。」と考える必要はない。 主のせいです。主は支配しておられます。 私たちは時々、祈る勇気はないかも知れないけど、こんな気持ちを持っているんじゃないでしょうか。「主よ、みこころを、このように変えてもらえませんか。この環境を変えてもらいたいよ。」と。 これも一つの祈りです。けれども、祈りより大切なことは、礼拝することではないでしょうか。祈りは自分の願いの言い表しです。悪くないけど十分ではない。礼拝は己のすべてを、何もかも、主にお委ねすることです。全部、主のせいにすることです。 すべてを祈りの材料として受け取ることです。イエス様はいつもこの態度を取ったのです。たまにだけじゃない。イエス様は十字架につけられる前、考えられないほど苦しんだのです。 イエス様は、この世界が創造される前に「ほふられた子羊」と呼ばれていたました。この意味とは、次のようなことです。 人間は完全なものとして創造されたけれども、いつか失敗する。祈る代わりに悪魔の声に耳を貸す。パラダイスから捨てられるようになる。けれども、この駄目になる人類のためにわたしは犠牲になると、イエス様は永遠の昔、決心したのです。 地上に来られたとき、何回も「わたしは十字架につけられます。これは人間の受けるべき罰です。わたしが代りに罰せられれば、人間は罰せられなくても済みます。」と言いつつ、やっぱり十字架につけられる時に悩んだんです。三回捧げられた祈りをみるとそのことがわかります。 マタイの福音書26:39
ひれ伏すは礼拝を意味する マタイの福音書26:39
「わたしは人間を救うために遣わされた。わかっているよ。けれども、もし、他の道があればありがたい。」ということです。けれども、人間を救うために他の道はなかったのです。 このイエス様の祈りは自分の願いの言い表しよりも、まことの礼拝だったのです。 わたしの願いではなく、あなたのみこころのように、なさってくださいという、この態度を取ることは、自分の力でできるものじゃないよ。無理です。けれども、すべてを主に任せると主は成してくださいます。 主を礼拝したのはモーセだけじゃなく、ダビデという王様も主を礼拝した男でした。 だからこそ彼は「みこころにかなう人」と呼ばれました。一箇所、見てみましょう。 サムエル記第II、12:13
ナタンは神のしもべ、いわゆる預言者、 サムエル記第II、12:13
それを認めるものは祝福されます。だから、ナタンは主の口としてダビデに言ったのです。 サムエル記第II、12:13
聖書の中で罪を犯すものは死ぬべしとあります。けれども、ダビデは自分の過ちを認めた、それを告白したから、ナタンだけじゃなく、主ご自身が「あなたの罪は赦されている。死ななくてもよい。」と言われた。 けれども、それで終わりではなかったのです。終わりだったら、ダビデは「よかった。ありがとう。」と思っただけではないでしょうか。 ほんとの意味で礼拝したかどうかわからない。ですから、続きがあるのです。 サムエル記第II、12:14-15
主のせいです。 サムエル記第II、12:16-18
もしかすると自殺するかもしれない サムエル記第II、12:18-20
聖書はダビデについて、「彼は神のみこころにかなう者だ。」と言っております。どうしてでしょうか。彼は主を拝むまことの礼拝者だったからです。 詩篇の大部分はダビデの歌であり、ダビデの賛美であり、ダビデの祈りです。この詩篇を読むとわかります。 ダビデは最も深い、どん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時にも、逃れ道が見えず前後が真っ暗な時も、ひたすら主を礼拝する礼拝者でした。 主の導きは、いつも私たちの願いと一致するとは限りません。ダビデの場合がそうでした。 この主のみこころにかなうダビデに、あなたの子は必ず死ぬという恐るべき言葉が臨みました。ダビデは自分の子を愛し、神に請い求め、断食し、地に伏してひたすらに祈り求めましたけど、子は死んだと聖書は言っています。 多くの人々は、かかる立場に立たされると「どうして?なぜか?」と言うでしょうが、ダビデは主の宮に入り、礼拝をしたと聖書には書かれています。 最後にもう一人の人物について考えてから終わりたいと思います。ヨブについてです。 ヨブ記という本は一番古い本です。創世記じゃないよ。創世記が書かれる前にヨブ記が書かれていたのです。このヨブは、主の判断によると、最も主を畏れる恵まれた男でした。 生まれつきそうではなかったよ。彼も自分の惨めさ、罪深さをわかるようになってから、主に頼るようになり、義と認められた男です。 ヨブ記の1章13節からお読みします。ここで同じような言葉が何回も、何回も出てきます。この者が話している間に云々。他の人がきた云々。 悪いニュースばかり運んだ連中たちだったんです。今の時代もそうなんです。新聞を見ても、テレビを見てもいいニュースがないよ。悪いニュースばかりです。 いろいろなニュースを聞いて「ありがたい。嬉しい。主を褒めよう。」という気持ちにはならないよ。いったいこの世界はどういうところなのか。ヨブはそんな悪いニュースばかり聞いたのです。おそらく、半日の間だったでしょう。2、3時間の間です。 ヨブ記1:13
誕生日パーティーだったかも知れない、 ヨブ記1:14-20
この悪いニュースを聞いた時に、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏し礼拝したとあります。ちょっと考えられないよ。 ヨブはどのように礼拝したかと言いますと、 ヨブ記1:21
全部、主のせいだよ、 ヨブ記1:21
ヨブはこのようになっても、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。主は与えられたし、主は取られた。全部、主のせいなんです。 この主に頼るのはもう嫌です。けしからんというようなことではない。主の御名はほむべきかなです。 ヨブはこのようになっても、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。彼はほんとに意味での礼拝者でした。 彼がそれまで持っていた財産を全部取り去られ、愛する十人の子どもも全員死んだんです。一人ずつでもなく、全部、いっぺんにですよ。 ヨブについては、多くの人が、あの神に仕える人が、この主を畏れる人がどうしてこんな苦しみに遭うのでしょう、とおかしく思っているんじゃないでしょうか。 けれども、ヨブはこれは運命でもないし、偶然でもないし、天罰でもない。主のせいです。今はわからないけど、理解できないけど、愛されている証拠ですと彼は信じました。 つまり、「ヨブは礼拝した」と書いてあります。主の御名はほむべきかな、と彼は言えたのです。ヨブは何千年も前にこのように証しすることができたのです。 私を知っている、私を贖う方は生きておられる。彼は短期間の間に彼の全財産、富も宝も、子どもたちも失ったんです。それだけではありません。おそらく彼はそれまでずっと健康そのものでした。ところがいっぺんに重病人になったんです。 友だちが訪ねた時、彼らは言う言葉がなかった。座ったままでもうどうしようもなかった。それだけではなく、助け手である奥さんは何と言ったかと言いますと、「神をのろって死になさい。」、あんたの神を呪いなさいよ。自殺したほうがいいでしょうということです。どうせ、おしまいだからです。 けれども、ヨブは違ったんです。なお、礼拝したんです。私の造り主である神は、夜にはほめ歌を与えるとすばらしい態度を取ったんです。 まことの礼拝です。 私たちも主の道に従うことを学ばなければなりません。これはただ、礼拝によってのみでき得ることです。 先にダビデのことを話しました。ダビデはある意味で滅茶苦茶な男だったよ。 夫のいる奥さんを奪い取って子どもができて、それがばれない為に、その奥さんの夫が殺されるように命令を出した。ちょっと酷い罪よ。隠さなくちゃいけない。みんなにばれたら大変よ。けれども結果は夜昼、眠れなくなったんです。もう、ぺっちゃんこ。 もうみんなにばれてもいい。とても耐えられない。救いの喜びもなくなっちゃったし、もう、おしまい。彼は何を経験したかと言いますと生き地獄です。けれども、彼は主のみこころにかなう礼拝者になりました。 ヨブのことについて考えるとちょっと違うよ。ヨブはね、ダビデのような滅茶苦茶のことはしなかったよ。けれども、もっと酷いことを経験しなければならなかった。 大切なことは礼拝者になることです。すなわち、主よ。あなたは常に完全なお方です。全きことをなされます。あなたの導きも完全です。理解することができないけど、あなたを心から崇めます。こういう態度を取ることができれば幸いです。 礼拝とはすべてのことを、主にお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。大いに祝福されるに違いありません。 ある人々は「どうして主は礼拝することを求めているの。中心になりたいの。」と言います。 でも主は中心だよ。私たちがそれを認めても、認めなくても関係ない。 どうして主は礼拝するのも求めているかと言いますと、礼拝するときのみ、私たちは自分のことを忘れ、主は救いの道を開いていてくださるからです。礼拝しているときのみ、変わらない喜びと、全き平安にあずかるようになるからです。 |