引用聖句:テモテへの手紙第II、3:16
ペテロの手紙第II、1:21
ヨハネの福音書6:63
聖書とは本当に、人間に与えられている最もすばらしい宝物ではないでしょうか。 もちろんこの聖書とは古いものでもないし、新しいものでもないし、永遠なるものです。「わたしのことばは決して滅びない。」とイエス様は言われましたから。 天国で始まる聖書の学び会とは、もうすごいものになると思う。そんなに完全ですばらしいものであることを召されてから初めてわかるのではないでしょうか。 聖書に頼ると絶対に後悔しないと言えます。聖書のみことばを自分のものにしたいと思う人には、はっきりと語ってくれる聖書も、信じたくない、心を開こうとしない人にはもちろん語ってくれない。 聖書に対して心を開いている人は、聞くことができ、元気になりますが、心を開いていない人には、全く意味のないものになってしまいます。 聖書とはもちろん主なる神のみことばです。それを絶えず覚えるべきではないでしょうか。 結論として、私たちは聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきです。 聖書の絶対無比な性質は霊感ということばで表現されています。霊感とは何でしょうか。今、兄弟のお読みになりました個所の中でパウロは、「聖書はすべて、神の霊感によるものです。」、『大部分』ではなく、『すべて』神の霊感によるものです。 そしてペテロは、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。語っただけではなく、書き記したのですと言ってもいいでしょう。すなわち聖書とは神のみことばです。 旧約聖書と新約聖書の中で、次のような要求をしています。すなわち語られた主のみことばは、書かれたみことばに等しいという要求です。 私たちはこういう聖書の要求を聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主のみことばです。 疑う人はやっぱり悩むようになり、確信を決して持つことができない。 この間私たちは父なる神が語られたことについての多くの聖書の個所を見てきましたし、それからイエス様が語られたことも読むことができたし、それから第三番目、聖霊が語られたことについても幾つかの聖書の個所をいっしょに読みました。 父、また、イエス様、聖霊が語られた。なぜなら主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち父なる神、御子主イエス様、聖霊をもっている方であるからです。 主は語るお方です。呼びかけてくださるお方です。 聖書は当然ですけれど、事実だけを宣べ伝えている書物です。主が語られたと聖書が言っていることはそのまま事実として妥当します。主が語られたことは、結局主ご自身の啓示そのものです。ひとつの教えよりも主の啓示です。 例えばいつかヨハネの福音書、全部お読みになって、「わたしは何々である。」、「わたしは何である。」、云々という個所を見るとはっきりわかります。これは単なる教えではない。主ご自身の啓示そのものです。 したがって、聖書を読む目的とは、この主をよりよく知るべきではないでしょうか。 聖書は統一をもった神のみことばです。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに、すなわち私たちに伝えています。 父なる神は語られた。父の御子である主イエス様が来られ、そして語られた。聖霊が遣わされ、証しをしそして宣べ伝えました。主ご自身が聖書に記されている黙示を書いたお方です。 今日はおもに、神のみことばの一体性についてちょっと考えてみたいと思います。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一をもった一体的な福音そのものです。 1,600年間の間かかって、色々な人々によって書かれた聖書の66巻は、モザイクの一つ一つの石のようにしっかりと結び付いて、全体を構成しており、一体的な全体として神の啓示そのものです。 ちょうどみことばがひとつの大きな建物を構成する礎石のように必要であるのと同じように聖書の一巻一巻は神の完全な啓示をわれわれに伝えるために無くてはならないものです。 天と地をお造りになった全知全能の主は、何億という星から宇宙をお造りになりました。果たしてだれがいったいこの星は要らないとか、あの星は必要ないなどと言うことができるのでしょうか。果たしてだれがいったいこの星の形はどうしてこういう形になっていて、ほかの形にならなかったのかを説明することができるのでしょうか。もちろんだれもできません。 ちょっと一ヶ所見てみましょうか。 ヨブ記38:31-33
そういうことは私たちにはできませんし、また私たちには全くわからないことです。なぜ、丁度66巻が聖書を構成している。それよりも多くもなければ少なくもないということに通じて私たちは説明することが全くできないと言えましょう。 ご自分の思い通りに天と地を造られた最高の主なる神がわれわれ人間にも神の思いを表わす書物として聖書をお与えになってくださったのです。 もしも私たちが人間的な思いで66巻を一緒にしようとするならば、66の違った考え方が出てきて、一巻、一巻に対してそれを書いた人の神概念が出て来ることであり、それらを一つにまとめることが到底出来そうもありません。なぜならば二冊の本でさえも一つの考えで統一することは困難だからです。聖書は一冊の本です。これこそ神の奇蹟です。 聖書のどのページを開いても、その一つ一つは同じ神の啓示が明らかにされています。神ご自身が聖書全体の著者であるならば、それは当然と言えましょう。 主なる神は語ってくださいました。聖書の各巻、また各部分は御子主イエス様を通してご自身を啓示してくださった生けるまことの神を正しく知るために、どうしても必要な貢献をしてくれています。 聖書は最初の一ページから最後の一ページに至るまで、主イエス様を明らかにしておられます。 聖書は御子主イエス様のために書かれたと言ってもいいでしょう。ですからイエス様のひとつの名前は、神のことばです。 そして全てのことは主イエス様によって成就されました。主イエス様は神の啓示の内容そのものですから、聖書全体の中心点となっています。 イエス様は聖書の一番最初、すなわち創世記において、すでに救い主として預言されており、そのあとに続く多くの預言者を通してはっきりと預言されています。 そして主イエス様が実際に地上に来られたとき初めて、主なる神はご自身をわれわれの目にも見えるような形で現わしてくださいました。 「私たちは主の栄光を見た。」と弟子たちは証しすることができたのです。 ヨハネの福音書1章の14節。よくクリスマスのときに引用される個所です。 ヨハネの福音書1:14
聖書の中で「ことば」という表現はよく出てきます。代わりに「イエス様」と言っても間違いない。 ヨハネの福音書1:14
けれど弟子たちがまだ耐える力が無かったため、イエス様はこの地上で弟子たちに全てのことを説き明かすことができませんでした。 ですから同じくヨハネの福音書の16章12節にイエス様は次のように言わざるを得なかったのです。 ヨハネの福音書16:12
けれども主がお遣わしくださった聖霊がこのことをしてくださり、弟子たちがまた見たり聞いたりしたことだけでなく、理解していなかったことを更に一層、明らかにしてくださいました。 私たちは使徒たちの書かれた手紙を通して、イエス様の偉大さを知ることができます。 旧約聖書は主イエス様の目に見える啓示の準備でした。新約聖書はイエス様について、以前に語られた全ての事がらを表わして成就されたものとなっています。 私たちは旧約聖書に書かれている事がらを通して、イエス様がどのようなお方であられるかを正確に描写することができます。 なぜならば、約束された救い主については三百何十回も預言されており、そのことによって明確な姿が描き出されており、それが具体的現実となったものが、地上における主イエス様だったのです。 今まで見て来た聖書こそ、神のみことばであることはこのようにしてはっきりいたします。 そこで、それから少しばかり、主なる神の言わんとしていることは何なのでしょうかと、みことばから見たいと思います。 すなわち聖書の内容はいったい何でしょうか。このことについてちょっと考えたいと思うのです。 堕落した人間の望みは蛇のかしらを打ち砕く人でした。もうすでに聖書の始めの創世記3章15節に次のように預言されています。アダムとエバに与えられた約束のことばです。 創世記3:15
救い主が来る。救い主は結局人間を解放するお方である。そしてその方は聖書によると、アブラハムの子孫であり、ユダ族から出る者であると預言されています。 創世記の12章の3節。主がアブラハムに言われたことばです。 創世記の12:3
それから49章の10節です。 創世記49:10
と預言されています。 日本語の表現では必ずしも明確ではないかもしれないけれど、主に与えられている名前は六百以上にものぼります。 ところが注意すべきことに、贖い主とか救い主という名称が数多く出てくることです。この贖い主は聖書の第一ページから登場しておられる方、臨在しておられるお方です。ヨハネの黙示録の1章の8節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの黙示録1:8
とあります。この方は永遠から永遠に至るまで救い主であられ、贖い主です。 世の罪を取り除く神の小羊として召し出された救い主は、出エジプト記12章に描かれている、いわゆる過越の小羊という形を通してすばらしく、はっきりと描き出され、生き生きと描写されています。 債務を負うために流された血潮の力はレビ記を通して、極めて明確にされています。 殺された罪無き小羊の血潮を携えて至聖所に入って行った大祭司は、ご自身の流された血潮によって全人類の罪を赦してくださったまことの大祭司である御子主イエス様を象徴する役割を果たしています。ヘブル人への手紙の9章に書かれています。すなわち、 ヘブル人への手紙9:12
とあります。イエス様の偉大さは旧約聖書における幕屋とか礼拝とか、ささげるいけにえとかを通して明らかにされています。 聖書の中心は、ほふられた小羊である主イエス様です。一つの学ぶべき教え、学ぶべき戒めではない。聖書の中心はほふられた小羊であるイエス様です。 旧約聖書の預言の中心になるものは、イスラエルのまことの王とはいかなる者かということです。その王はダビデの子孫です。サムエル記第IIの7章の12、13節をちょっとお読みいたします。 サムエル記第II、7:12-13
とあります。救い主はダビデの故郷で、すなわちベツレヘムで生まれると、もちろん何百年前に預言されました。 ミカ書の5章2節を見ると次のように書かれています。 ミカ書5:2
イスラエル人は約束された救い主は必ずダビデの故郷であるベツレヘムで生まれると、みなわかったのです。 この約束された救い主は、色々な名前をもつようになったのです。例えば、平和の君。イザヤ書の9章6節を見ると次のように書かれています。 イザヤ書9:6
とあります。けれどもその王は多くの場合、主のみこころに反することを行なったユダの王やイスラエルの王たちとは違った者であると預言されています。 イザヤは、その王は処女から生まれ、平和の王として支配するお方であり、すべての諸国民は仕えるようになると預言したのです。 同じくイザヤ書の7章の14節を読むと次のように書き記されています。 イザヤ書7:14
「神が私たちとともに。」という名前をもつようになる。けれどもイザヤは、またこの王を神のしもべとしてほふり場に引かれて行く子羊のように世の罪を担うお方であるとも預言したのです。よく引用される53章4節から。 イザヤ書53:4
結局自分の罪のために罰せられ、 イザヤ書53:4-6
十字架につけられたイエス様に負わせたのです。 預言書や詩篇においては、イエス様の姿は偉大な王として描かれている反面、ご自分をむなしくして打たれ、欺かれる羊飼い、また、迫害された者、死に追いやられた者、罪なき者としてご自身のいのちをささげてくださったお方として描かれ、そして最後に世界史を完成するために、世界のさばき主、また、イスラエルの王として現われてくるというふうに描かれています。 来たるべき主イエス様は旧約聖書の中では明けの明星のように、昇って来るお方として預言されています。 それに対して、新約聖書においてはイエス様は、真昼に輝く太陽のように現われたのです。 そしてしばらくの間、その輝きを隠し、すなわち昇天されたのですから、今私たちは主の輝きと主のご栄光を、確かに見ることができません。けれど新約聖書の希望は、天の栄光のうちに再び来られるお方として私たちの目を開けてくださいます。 聖書の最後の書はイエス様の啓示と呼ばれ、ほふられたから父の御座に着かれ、天と地において計り知れない権力と力とを持った小羊として紹介されています。永遠に亘って次のような歌が繰り返し、繰り返し歌われるに違いない。 ヨハネの黙示録5:12
今まで私たちは父なる神が語られたこと、次にイエス様が語られたこと、第三に、聖霊が語られたことについて学びました。 それから、みことばの一体性、みことばの内容についてちょっと見て来たのです。 もうちょっと、みことばの結果について聖書はいったい何と言っているのでしょうか。ことばは人格をもっているものを表わすものであり、それによってその方の本質と意思を知ることができます。 語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も大きなものとなります。 主なる神が語られました。したがって、みことばは神ご自身の本質と意思の表われであり、書かれたみことばの重さは大変なものであるに違いない。 父なる神はご自身の中におけるいのちそのものですと、主は私たちに証ししています。ヨハネの福音書の5章26節なのですけれども、 ヨハネの福音書5:26
父なる神がいのちそのものなのであれば、神のみことばはいのちをもたらすに相違ありません。したがってイエス様のみことばも霊であり、いのちです。 前に兄弟の読みました個所です。 ヨハネの福音書6:63
単なる教え、戒めではない。いのちそのものです。 そしてイエス様は、ご自身を信ずる者に生ける神のみたまを与えてくださいました。そして聖霊について次のように証ししています。「いのちを与えるのはみたまです。」 したがって私たちは、聖書の中にものすごい力と聖霊をもったみことばを見いだすことができます。 そしてこの書物の比類なき域は、ほかのあらゆる人間のことばは絶対にできないこと、すなわち、いのちをもたらすことがおできになるということの中にあります。 人間の言葉はいのちを説明できるかもしれないけれど、主のことばはいのちを与えることがおできになるのです。 創られた者はすべて主のみことばによって成立しました。ヘブル人への手紙の11章3節を見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙11:3
したがって、すべての被造物、また主なる神によって造られた人間は、主のみことばのいのちの力を証明するものです。したがって私たちが見ている被造物や私たちのからだは過ぎゆくものであり、罪の支払う報酬、すなわち死を味わわなければなりません。 けれども主なる神のみことばによって再び新天、新地が現われ、そのとき死ぬものが不死を着るとあります。いわゆる、コリント人への手紙第Iの15章。よみがえりの書なのですけれども、その53節を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第I、15:53
けれども罪と死に特徴づけられた今の時代に、主のみことばのいのちの力はどのようにして現われてくるのでしょうか。 パウロはエペソ人への手紙の中で、2章1節によると、「すべての人間は、罪と罪過との中に、生きるまことの神に対して、死んでいる者です。しかし神のみことばによって、この死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちをもつようになる。」と書いてあります。 ヘブル人への手紙のよく引用される個所なのですけれども、4章の12節を見ると、神のみことばとは本当にすごい力をもつものであるとわかります。 ヘブル人への手紙4:12-13
主なる神のみことばは、人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理であるから、剣のように人間の心を刺し通します。 私たちはみことばを通して、燃えるような主の目に出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければなりませんし、また、サマリヤの女のように次のように言わざるを得ない。「あの方は、私がしたことを全部私に言った。」と。 これこそ罪と罪人に対するみことばの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に神のさばきが下されるのです。みことばによって生かされたいと思わない人にとって、みことばは永遠の死への導くみことばとなります。 ヨハネの福音書12:48
とあります。けれど、みことばを受け入れ、イエス様の内に救いがあると信ずる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。 だからペテロは次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:23
みことばのいのちの結果は、イエス様によって新たにされることであり、そして、また、新たなる歩みでもあります。 エペソ人への手紙2章10節を見ると次のようにパウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのであります。 エペソ人への手紙2:10
新しく生まれ変わった人間は、みことばの霊感に対する目に見える証明です。 最後にもう一ヶ所読んで終わります。ヨハネの手紙第Iの5章の10節と11節です。 ヨハネの手紙第I、5:10-11
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