引用聖句:ルカの福音書2章10節-11節
コリント人への手紙第II、8:9
コリント人への手紙第II、9:15
いわゆるクリスマスのメッセージとは、「恐れるな。大きな喜びを。あなたのために救い主がお生まれになった」、私のためかと思う人がいるかもしれないけど、そうなんです。考えられない愛の現れなのではないでしょうか。 この愛を体験的に知るようになった人々の証しこそが大切です。一人の年配と一人の若い人の証しを紹介します。 本当に主を心から愛した姉妹で、彼女と出会った人々はもう忘れられない。彼女の証しはいつも励ましになります。 「主の御名を賛美します。今私は、まだ元気です。けれどもいつ召されるか解からないので、皆さんに最後の言葉を残しておきたいと思います。私の今の気持ちは、詩篇23篇の「「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」」という通りです。 また「私の杯はあふれています」とのみことばは、何と嬉しいことでしょう。私もそのように言えるように導いてくださったのはイエス様です。ありがたいことです。 主イエスがいつも共にいてくださる、その人生は何とすばらしいことでしょうか。私はその喜びで平安で希望で満たされています。ですから、今何の心配もありません。思い煩いがありません。天国に行くことを喜んでいます。」 すばらしい証しなのではないでしょうか。 6歳の子に聖書をあげたことがあるんです。答えは、「聖書ありがとうございました。大事に使います。私はイエス様が大好きです。困ったり、悩んだりした時に、いつもイエス様にお祈りしています。イエス様大好き。」 若いと年配の方々の証しであります。 我々の主とは、大いなる贈与者です。与えたくて、与えたくてしょうがないお方です。言うまでもなく、与えたいのは偽ものではない。本物です。本物があればもちろん偽ものもあります。 偽ものを欲しいと思えば、確かに簡単じゃない。勉強しないと、解からないとダメ。偽ものを欲しいと思えば大変だよ。いい子にならなくちゃ。完璧にならなくちゃならないからです。それだけではなく、偽ものはタダじゃない。金も要求されています。 本物はタダ。罪の赦し、主との平和、永遠のいのちは全部タダです。どうせ金で買えないから。ですからクリスマスの良き知らせとは、すごいすばらしいものなのではないでしょうか。 初めての人間は、創世記2章8節によると、「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」と簡単にあります。エデンという言葉を訳すと「好ましい喜びの国」ということになります。エデンの園には、人間の霊、人間の魂、人間の肉体を完全に満足させるものが備わっていました。 このすばらしい環境の中で、アダムは主との完全な交わりを持っていました。アダムは、主なる神を完全に信頼し、完全に服従していました。ダビデは、 詩篇16:11
そしてアサフは、 詩篇73:28
彼らは、この世にいる間に天国のすばらしさをよく知るようになったのではないでしょうか。主との交わりは、最もすばらしい、最も尊いものです。 もしあなたが、本当にすばらしい贈り物をもらうと、どうするのでしょうか。いうまでもなく、与えられた贈り物を大事にします。大切に保存します。けれども初めての人間であるアダムは、このすばらしい贈り物を、すなわち主との交わりを大切にしなかったのです。罪を犯すようになり、与えられた主との交わりである贈り物をなくしてしまいました。 結果として彼は、エデンの園から追放されました。このアダムの堕罪は、もちろん全人類に影響を及ぼしたのです。 創世記1:21、24
ここで2回も「種類にしたがって」と書いてありますが、どんな植物でも動物でも、各々の種類にしたがって繁殖します。植物はいつも植物の生命を持ち、動物はいつも動物の生命しか持っていません。人間はいつも人間の生命を持っています。 したがって、植物は動物になることは絶対にないし、動物が絶対に人間になることはありません。ゆりの種はいつもゆりを生じ、鳥を生み出すなどということはあり得ない。すずめはすずめです。すずめが人間を生み出すことはできません。 同じように、人間は人間の生命だけを生み出します。ゆりがすずめを生み出すことができないと同じように、人間は神の永遠のいのちを造り出すことはできません。これははっきりと定められている、いわゆる遺伝法則です。 アダムとエバは罪を犯すことによって、罪の性質を持つようになりました。ですから、アダムとエバの子供も罪にまみれた、単なる罪の性質しか持っていなかったのです。 アダムの子孫は全部、彼と同じ性質すなわち罪の性質、罪にまみれた性質を持つようになりました。これもはっきりと定められている遺伝法則です。 ですから全人類は、罪だらけの性質を持っています。パウロは、この事実を次のように書き記したのです。 ローマ人への手紙5:12
次の3つのことは確かでしょう。 第1番目、罪があるということは事実です。人間は罪人です。聖書だけではなく、どの人間の生活を見ても、それが立証されています。 第2番目、どんな人間でも罪人です。「義人はいない。一人もいない。すべての人は迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」と聖書は言っています。 第3番目、どんな人間でも、罪を犯す前にもうすでに罪人であるということです。罪とは、行ないだけではなく、状態です。人の心の内にある誤った方向をいいます。人間は、罪の本質を受け継いでいます。ヨブ記を見ると次のように書かれています。 ヨブ記14:4
人間は罪人です。多くの人々は、私ではないと思っているのです。なぜなら罪とは行ないであると思っているからです。けど、行ないではない。ただ主から離れている状態です。 ある人は、確かに自分、自分、自分のことばっかり考えています。そういう人と主との間の壁は、ずいぶん厚いでしょうね。3m51cmの厚さかもしれない。けども真面目に生活して、別に迷惑をかけないで、人間的に考えるなら立派な人格者の場合には、主との隔たりはね5cmだけかもしれない。 けど、主の目から見ると、同じ。壁があれば交わりはあり得ない。 イエス様は、初めて紹介された時、親戚でもあったんですけど、バプテスマのヨハネは叫んだんです。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」、結局、人間と主との間の壁を取り除かれた約束された救い主です。 アダムの持っている本質は、罪を犯したことによって汚れました。またアダムは、自分の形のような子供を生んだと聖書は言っています。この子供達は、父アダムの罪の本質を受け継いでいます。このようにして、罪の毒が全人類に入り込みました。 しかし、主なる神が、人間にエデンという好ましい喜びの国をお与えになっただけではなく、次の第2番目の大きな子供の贈り物を与えられました。この贈り物とは何でしょうか。皆さん暗記している箇所です。 ヨハネの福音書3:16
主なる神の御心は、堕落した人間を救うことでした。救いとは、主との交わりをもたらすことです。救いとはいのちの泉との交わりを持つことです。人間はこのいのちの泉との交わりを持つならば、生き返り救われます。 しかし、誰が人間を救い得るのでしょうか。死人は決して、神のいのちとの交わりをもたらしません。すべての人は、罪の本質を持っており、霊的に死んでいますから、人間を救うことはできません。 人間は自分で、いのちの泉への道を見いだすことはできません。どんな宗教も、主なる神との交わりへの道を見つけ出そうと試みているかもしれない。 またそれを人間の力で成そうと試みていますが、それは全く無駄です。聖書の中で、良きサマリヤ人の場合、反殺しにされた旅人は、自分で自分を救うことはできなかった。 この旅人を救ったのは、他国の人でした。同じ国の人またいかなる宗教も、旅人の絶望状態を救うことはできなかったのです。 ちょっと見てみましょう。 ルカの福音書10:30-35
人間は決して同じ人間を救うことはできません。主なる神の側からの働きかけがなければいけない。主は、自分から離れ罪人となった人間を探しておられます。 主は、人間一人ひとりを救おうと願っておられます。救うためにご自分の持っておられた一番尊いもの、一番愛されているもの、すなわちご自分の御子である主イエス様をお与えになりました。 どうしてこれが必要だったのでしょうか。聖書のどこを見ても解かりますが、主なる神は全く聖なるお方であるとはっきり記されています。聖さは罪との交わりを持つことができません。主なる神は、罪を妥協することのお出来にならないお方です。主なる神は、したがって罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないお方です。 もし主なる神が、罪を罰しないならば、罪と妥協することになります。これは考えることのできないことです。 主なる神は初めて、人間の親しい友であり人間を愛しておられた創造主でしたが、罪によって人間の審判者となったのです。 主なる神は、非常に人間を愛しておられるから、人間を罰しないと言っている人もいますが、これは全く誤りです。主なる神は、全く聖なるお方だから、罪を裁かれずにはおられないのです。主なる神は、全く聖なるお方であると同時に、全く愛の持ち主です。 主なる神は、全く聖なるお方ですから、人間の審判者になりました。けども主なる神は、全く愛の持ち主であるから、救い主ともなったのです。どうしたらこの聖さと主の愛が両立することができるのでしょうか。 ある男が、友達を持っていました。この人は、その友を非常に愛し、お互いに会い大変よい交わりを持っていました。しかしある時、その友は悪い行ないをして、多額の負債を作ってしまったのです。この人は、負債を負った友を非常に怒りました。けれど一方、この友を非常に愛した。ところがこの人の愛とこの人の正しさは、どうしたら調和することができるのでしょうか。 この人は、友を叱るとともに、その友の負債を全部支払ってやりました。ここにこの人の正しさと愛が始めて調和したわけです。ここには、ただ一つの道がありました。それは捧げることです。この捧げることにより、その友は悔い改めに至ったのです。 主なる神は、堕落した人間を愛すると同じように、堕落した人間の罪を憎みます。主なる神は、堕落した人間の審判者であるばかりでなく、救い主でもあったのです。ご自分の御子をお与えになることによって、救いの道を開かれました。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」、これはクリスマスの奇跡です。 もし、主がそのひとり子をお与えにならなかったならば、救いは我々に訪れなかったでしょう。御子イエス様は、天にある栄光を捨てて、我々と同じ人間になりました。 御子イエス様は、神の性質を持ってはおられましたが、しかし神の力と栄光を捨てて、人間になられました。これは何という人間の罪に対する主の答えなのでしょうか。 私たちが、どんな悩みにある時にも、どんな難しい問題にある時にも、それに対する主なる神の答えは、いつもイエス様です。 イエス様は、我々の身代わりになって永遠の贖いの業を成し遂げられました。主なる神が、御子イエス様の血潮は、人間のすべての罪を取り除くのに充分であると言っておられます。主なる神は、第1の人に好ましい喜びの国、またご自分との交わりをお与えになりました。しかし、アダムはこの贈り物を大切にしませんでした。 もしあなたが、自分の好きな人に尊い贈り物をあげるならば、そしてこの人はそのために、全然感謝しないでその贈り物を大切にしないと、ちょっと悲しくなるのではないでしょうか。 主なる神は、我々を救うためにご自分の持っておられた一番尊いもの、一番愛されているもの、すなわちイエス様をお与えになりました。 この贈り物を受け入れることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 イエス様を生んだマリヤは告白しました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と。私たちは、いかにしてこの大いなる贈り物を受け入れることができるのでしょうか。 まず感謝することによってです。感謝をしないことは罪です。イエス様は、私たちがまだ罪人であった時、我々の罪のために人間になり、ご自分のいのちを捨ててくださいました。 私たちは、この主に対し心からなる感謝を捧げているのでしょうか。感謝しないことは罪であり、感謝をしない生活は、天の窓を閉じてしまいます。 詩篇50:23
とあります。このみことばを逆に考えるなら、感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮り、自分の行ないを慎まない者は、神の救いが示されないということになります。 感謝することとは、考えられないことです。私たちは、主にあんまり感謝しない罪を新たに言いあらわし、主にお詫びしたいのではないでしょうか。 主は我々が心をもって、くちびるをもって感謝のいけにえを捧げることを待っておられます。 パウロは書いたのです。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」と喜びの声を上げることができたのです。 音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは、次のような言葉をつかってすばらしいカンタータを作ったんです。 「私は、私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。主よ、私の神よ、あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ私の舌が千枚あっても、あなたのなされたことを言い表すことができません。あなたは何と善良なのでしょうか。あなたの愛は、何と豊かでしょう。だからあなたに賛美と栄光の歌を歌います。」と。 私たちは、主に対して心からなる感謝を捧げているのでしょうか。私たちは、いかにして提供された贈り物を、自分のものにすることができるのでしょうか。 今話したように、感謝することによって。2番目、主を礼拝することによってです。 イエス様は、我々のために人間になり、我々の代わりに罰を受けました。主なる神は、我々の罪のために、イエス様を罪とされました。これに対して心からなる礼拝を捧げようと思わないでしょうか。イエス様のものすごい苦しみを考えると、自分の罪を嫌いませんでしょうか。 問題は、全くはっきりしています。それは自分とイエス様との間の問題です。イエス様を受け入れたいのか、それとも拒みたいのかのどちらかです。 クリスマスの呼びかけとは、イエス様を受け入れなさい。父なる神の賜物である主イエス様を受け入れなさいという呼びかけであります。そうすれば、永遠のいのちが自分のものとなります。これは何という贈り物なのでしょうか。何という救いの計画なのでしょうか。 だから自分自身を主に明け渡すこととは、最も重要なのではないでしょうか。 クリスマスの喜ばしい知らせとは何でしょうか。イエス様は、我々一人ひとりのためにベツレヘムでお生まれになりました。しかし、もしイエス様が千回もベツレヘムでお生まれになったとしても、自分の内に生まれなければ、自分にとって何の価値もありません。 主なる神は、人間一人ひとりにイエス様の内にある永遠のいのちを差し出しておられます。イエス様の弟子たちは、イエス様を見て、彼のうちにいのちがあると証しました。本当にそうです。 イエス様は、人間に永遠のいのちを与えるために、この世に来られました。 イエス様は、よく言われました。「わたしはいのちそのものです。」と。ことばに表わせないほどの賜物を受け入れるか拒むかのどちらかです。イエス様は、すでに十字架でご自身のいのちを捧げました。 イエス様は、こうして悪魔に打ち勝ちました。ですから人間はもはや悪魔の奴隷でいる必要はない。 またイエス様は、全人類の債務を担われたのです。ですから、誰でもが聖なる神に近づくことができます。イエス様の完全な救いのために感謝すれば、絶対に後悔しません。提供されている救いへの道は信仰です。 ヨハネの福音書20:31
申命記30:19
るようになるために。 今話したように第1の人は死を選びました。我々はどちらを選ぶのでしょうか。主なる神の贈り物を、いかにして受け入れることができるのでしょうか。 今話したように、感謝することによって。2番目、主を礼拝することによってです。 最後にもう一つ、イエス様を愛することによってです。 イエス様を愛する者は、必ずみことばを、聖書を愛する者です。どうですかね。私たちは、飢え渇きを持って毎日、聖書を読むのでしょうか。聖書を読まない怠慢も罪であると言えます。 私たちは、日々また何週間も喜びを持たないで、聖書を読んでいる時がないでしょうか。 もし私たちが、飢え渇きを持って聖書に接しなければ、またみことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって、不思議ではありません。 イエス様に対する愛の欠乏は罪です。イエス様は、私たちが心を尽くして精神を尽くして、ご自分を愛することを願って待ち望んでおられます。単一な心を持って、主を愛することを願っておられます。 聖書の中に、主はねたむ神であると書かれています。妻が夫を、夫が妻を半分だけしか愛さなければ、他の人を愛したらねたむでしょう。もし私たちが、心を尽くして主を愛さなければ、主は悲しまれます。 私たちは、イエス様の血潮によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。 私たちの愛もひたすら主に注がれなければなりません。私たちは、仕事や両親また自らの思いに忠実であり、主よりもこれらにより忠実に歩んでいる者でしょうか。 イエス様に対する愛の欠乏は罪です。愛の欠乏を主に言い表しましょう。 また、主に頼らないことも罪です。主は今日、ご自分に頼る人を望んでおられます。 私たちがイエス様に頼ることが主のご栄光を現す唯一の道です。もし私たちが、イエス様をのけ者にして、一人で何かをやるならそれはイエス様の恥となります。 私たちは本当に、主に頼っているのでしょうか。もしそうなら私たちは、自分で何か役割を演じることはできないでしょう。 けれどもイエス様は、ご自身の栄光を現されるでしょう。イエス様のご栄光が現れること、これこそが一番大切です。もしイエス様のご栄光が現れたら、自分は変わることのない喜びと、イエス様ご自身の平安を得、自分のからだから生けるいのちの水が流れ出ると約束されています。 もう一回ルカの福音書2章10節を読んで終わります。 ルカの福音書2:10-11
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