リバイバルの必要性2


ベック兄

(吉祥寺学び会、2003/11/11)

引用聖句:詩篇26篇2節
2主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

マラキ書3:10
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

今日は、先週に引き続いて「リバイバルの必要性」について、一緒に考えてみたいと思います。
先週、ここの集いは「喜びの集い」であると言ったのです。どうしてであるかと言いますと「悔い改め」があるからです。悔い改めると、主は大いに喜んで下さるからです。
兄弟の話によると、自分は落ちてしまったと気が付いたそうです。勿論今日の集いも、落ちてしまった人々の集いなのではないでしょうか。誰が「私は落ちてはいない」と言えるのでしょうか。誰も言えないよ。よっぽど目くらにされていなければ。

「リバイバル」という言葉は、この間話したように日本語ではないのですが、よく使うようになった言葉です。英語の言葉なんですけども、日本語に直すと、「霊的覚醒」、あるいは「信仰の復興」か、「信仰の復活」を意味するものです。
眠ってしまった信者は、初めの愛から離れてしまった信者達は、リバイバルの復興を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。
私達にリバイバルがどうしても必要であるということを、深く感じ取っているなのでしょうか。私達の側に、何か重大な欠陥があることを感じているなのでしょうか。

多くの信ずる者のリバイバルに対する考えとは、どういう考えであるかといいますと、勿論間違っていますけど、すなわち「リバイバルのために祈り求めても、主の時が来なければ無理です。何もわからない。だから、その時が来るまで仕方がなくて、待たなければならない。」、という考え方なのです。
けどもイエス様が、信ずる者の渇ききったような、又惨めな様を見て喜ばれるでしょうか。もし私達がリバイバルのために、主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間にリバイバルが起こりうるのです。上からの光に照らされて悔い改めるようになれば、主は大いに祝福して下さるでしょう。
リバイバルとは、新しく目覚めさせられた命を意味します。ここで大切なのは、新しく目覚めさせることの出来る、新しい命を持っているのは、本当の意味でも主に出会った、主の恵みによって救われた信者だけであるということです。

未信者の人々にはリバイバルはあり得ません。未信者の人々は、まず新たに生まれなければならない。まず主の者とならなければならないからです。
眠ってしまった信ずる者、初めの愛から落ちてしまった者こそ、リバイバルが必要なのであり、今日眠った信者はたくさんいるのではないでしょうか。けど、眠りから覚めなければならない時期が来ている、と彼は書いたのであります。

目覚めるために、まず自らが眠りこけ、霊的に信ずる様を認め、告白する必要があります。ご臨在のイエス様がこのリバイバルの必要性を悟らしめせて下さったら、本当に幸いですけども、どうしたらかかるリバイバルが起きるのでしょうか。
この間話したように、私達が主に試されることによってです。主に試されることが必要です。もし主が我々を試すことが出来たら、それは良いしるしです。

私達が自らの内をどんなに試しても、たずねても、何の役にも立ちません。私達にとって大切なのは、主イエス様に我々の内を試されることです。前に読みました箇所とは、大王であるダビデの心の叫びでした。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

結局、明らかにしてください。私の心を知ってください。導いてください。

詩篇26:2
2主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

毎日祈るべきみことばなのではないでしょうか。私達は、どうしたらリバイバルを経験するとが出来、新たに生かされるなのでしょうか。自らを自分で試すのではなく、主イエス様の力によって心の道を正して頂く、試していただかなければなりません。
私達は主に試されることが必要です。それによって確かに罪が明るみに出されます。この間も話したように、信ずる者の犯す罪とは二種類でしょう。

第一番目は、怠慢の罪。怠慢の罪とはいったい何なのでしょうか。ヤコブは次のように書き記したのです。

ヤコブの手紙4:17
17なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

この間、10の罪について少しだけ考えたのです。もう一回言いましょうか。

一番目、感謝をしないことは勿論一つの罪です。
二番目、主に対する愛の欠乏も考えられない罪です。だから、主はエペソの教会の人達に言われました、「私はあなた方ともう一緒におることが出来ない、あなた方の側に立つことが出来ない、もう初めの愛から離れてしまったからです。」
三番目、聖書を読まない怠慢の罪です。勿論、習慣的に読めばあまり意味がないのです。「主よ。語ってください。」という態度がなければ、いくら読んでも意味のないことでしょう。
四番目、不信仰の罪であります。信仰がなければ、主が働くことができません。
五番目、祈りを怠ることも、もちろん罪です。
六番目、集会に集わない怠慢の罪であり、
七番目、親戚、肉親、友人達に対する愛の欠如も、勿論罪であり、
八番目、他の多くの知らない、滅び行く魂を愛さないことも、怠慢の罪です。
九番目、主にある兄弟姉妹の為に、目を覚ましていないことです。

ヘブル人へ手紙4:1
1こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

十番目、己を捨てて主に従わないことも、勿論罪であります。
ヤコブは、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」
主ご自身がこれらの怠慢の罪を、ご自身の光によって、教えてくださるから幸いです。これらを認め、改める時、豊かなリバイバルが起こるのです。

第二番目、もう一種類の罪とは欲望と呼ばれる罪です。この欲望の罪とはいったい何なのでしょうか。
一番目、地上のことを思うことです。パウロは、

ピリピ人への手紙3:19
19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

パウロが悩みながら、痛みを感じながらそういうふうに書いたのです。
私たちは、上のものを求めているのでしょうか。それとも、地上のものを求めているのでしょうか。私達は主のものとして、主のご計画に従わず、自ら立てた計画通りにことが運べると思ったら誤りです。私達は、尊い値を払って買い取られた主のものです。
我々の持っているものも、勿論主のものです。前に読んでもらいました箇所でしたが、マラキ書を見ると、旧約聖書に十分の一をささげればよいとありましたが、けども主は、我々の十分の一よりも、全てを自分のものにしたいと願っておられます。
勿論、私達の時も主のものです。くだらない冗談や、読み物に時間を費やすことは主を悲しませることでしょう。あらゆる私の思いはみことばによると罪です。

二番目、高ぶりも罪です。私達は、例外なく高ぶりの心を持っています。私達は、心を整えることよりも、多くのことを体裁を考えるために用いないでしょうか。
他の人が我々の身なりをどう思うか、非常に気にしますが、主が我々をどう思っているかどうかをあんまり心に止めないで生活するなのではないでしょうか。
勿論、イエス様だけしか「私はへりくだっている、謙遜である。」、ということが出来なかったのです。我々は皆、生まれつき傲慢のかたまりです。結局、人よりの誉れを求め、主よりの誉れを求めていない人々の姿を表わしていないでしょうか。パウロは次のように告白したのであります。

ガラテヤ人への手紙1:10
10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

もう一箇所、

ヤコブの手紙4:6
6しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

豊かな恵みを与えられることは、すなわちリバイバルを意味します。豊かな恵みの反対は退けられることです。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」のです。

三番目、ねたみも罪です。人々は、他の人が先をとるとねたみ、ある人に人々の注目が集まるとその人をねたみ、ある人が豊かな生活をしていれば、その人をねたみます。
他の欠点や失敗を話しすることは、人の長所を話すより好きだという、生まれながらの性質を持っているのです。これは罪であり、サタンからの思いと言わなければなりません。私達もこの罪を認め、言いあらわそうではないでしょうか。

四番目、裁きの霊を持つことも罪です。私達はしばしば詳しい事情も知らないで人々を裁きます。私達は、すべてのことを善意に解釈する愛を持っているのでしょうか。

五番目、悪口も勿論罪です。無言電話もするでしょう。例え信者が御霊により、何年もかけて、疑いの相手に愛が培われたとしても、一言の悪口でその間は引き裂かれてしまいます。

六番目、偽りももちろん罪です。偽りは、意識しながら人を欺くことです。私達の外側と内側が違うのはいつわりです。私達の言葉、まなざし、行いが度々偽りをなさないでしょうか。心に反して行動をしないでしょうか。

七番目、偽善も罪です。信者の場合は、祈りの上でも偽善者になる場合があります。主に思いもしないことを願う場合があります。祈った後、何を祈ったか覚えていないような場合もあります。罪を犯しても、本当にそれから離れず、罪の中を歩みたい気持ちを起こします。
私達は、ありのままの姿にならなければならない。お互いに対して100%正直にならなければリバイバルは起こらないでしょう。我々は、光の中を歩まなければ、悪魔の勝利になります。

八番目、気まぐれも罪です。気まぐれな信者は、教会生活と家庭の生活が違います。集会では真面目でも、家庭に帰って気のむくままに生活し、つまずきを与えたりすることでしょう。

九番目、軽薄の罪です。信者は、この世の名誉ある人が来れば真面目になるのに、主の交わりの中で平気で冗談をとばしてしまいます。我々の性質は、もっともっと絶えず主のご臨在の前を、恐れを持って歩むものとなりたいものなのではないでしょうか。

十番目、躓きを与えることも罪です。我々の生活が、どれだけ他の人の躓きになっていたかを全部知ることが出来るなら、それはきっと私達を悔い改めさせるに違いない。

ここまで、いろいろな罪について述べてきましたが、これらを主に言い表し、憐れみを求めたいものです。
よく知られているヨハネの手紙第Iに、喜びの訪れが書き記されています。ヨハネがこの手紙を書いた時は、おそらく100歳を越えた老人でしたで。彼はもっとも大切なことについて書いたのです。勿論ここでいう私たちとは、信ずる者です。主の救いに預かれる者です。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

条件付です。主が赦すかどうかなのではない、言い表わすなら主は赦して下さる。そうでなければもういい。
放蕩息子の父親は、どうして放蕩息子の罪を赦したのでしょうか。彼は、メチャクチャになって頭を下げて「憐れんで下さい」という態度をとったからです。父親は出かけて息子を捜そうとしなかった。悔い改めるまで忍耐をもって待ったのです。同じ言葉はソロモン大王様も書いたのです。

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

ホセアは、先週読みました箇所なんですけども、

ホセア書10:12
12あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

ホセアは、死んでも耕せ、耕地を開拓せよと言いましたが、私達は主の光のまえに、真実な悔い改めをなしたいものです。そのとき、恵みの雨が、主の霊が降り注がれることを経験します。
どうしたら私達の上にリバイバルが訪れなるのでしょうか。主が我々をお試しになることがまず必要です。私達は、主に試して頂かなければならないけども、それだけではなく、第二番目になりますけど、私達が主を試すことであります。

はじめに読みました二箇所はダビデの祈りでした。「主よ。どうか、私を試みてください。全部明るみに出して下さい」
そして、二番目のマラキ書の箇所とは、結局「主よ私を試して下さい」ではなくて、「主ご自身が私を試し、選んで下さい」、ということです。もう一回読みましょうか。私達が主を試みることが必要です。私達が主を試すことを待っておられるのです。忍耐をもって待っておられるのです。

マラキ書3:10-11
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
11わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――

両親の身持ちが悪いために、幼い時から両親と離れて生活しなければならず、親の愛を知らず、人の手にかかって育ったような人は、本当に不幸でしょう。各種財源があれば何とか出来たのに、将来思う通りの職に就くチャンスがないといわれるのです。
この様に、自分の力を出し切るチャンスを持たないで嘆いておられる方がおられます。それは、救われたものの間に、救われたものを通してご自身の力を表す機会を見失っておられる主ご自身です。
イエス様はリバイバルを起こしたい、あふるるばかりの祝福を与えたいと心から望んでいます。けどその機会を見つけません。「これで私を試みてみよ。」と主は言われます。

主は、恵みの雨を降らす備えがあります。けど主を試みなければ、雨を降らすことは出来ません。主は、私達が条件を満たさないために恵みの雨を降らせることが出来ないで、悲しんでおられます。
いつリバイバルが訪れるのでしょうか。いつ、あふるるばかりの祝福が与えられるのでしょうか。答えは三つですけども、

一番目、主にのみ全ての栄光を帰してゆきたいという燃ゆる熱情が、信ずる者の心を満たすなら、その時リバイバルが起こり、あふるるばかりの祝福が与えられるのです。
二番目、主の十字架の働きにより、自らの心がどんなに惨めなものであるかを教えられる備えがあるとき、リバイバルが起こり、またあふるるばかりの祝福が与えられるのです。
三番目、大切なことは、信ずる者の群れの一致が現われるとリバイバルが起こり、あふるるばかりの祝福が与えられるのです。

一番目、何事においても大切なものは一体何なのでしょうか。今話したように、まずイエス様の栄光が現われることです。イエス様は、この地上におられた時に、天の窓が開け、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と父なる神の御声が聞こえました。
今日も、父の御心にかなう唯一の御方は、主イエス様以外にありません。
天の窓が開き、主イエス様の上に御霊がハトのように下りました。主の栄光を覚え、主の栄光を帰するに従ってリバイバルが起こり、あふるるばかりの祝福が与えられるのです。
我々の願いはただ、イエス様の御名が崇められることだけなのでしょうか。身の回りに起こるいっさいの事柄を通して、主に栄えを帰する備えがあるなのでしょうか。
私達がどんなに蔑まれても、誤解されても、その只中でなお、主に栄えを帰して歩むのでしょうか。または、人々の注目を得ようと努めているなのでしょうか。

主にのみ、すべての栄光を帰してゆきたいという熱情が我々の心を満たすならば、その時リバイバルが起こり、そして私達一人一人があふるるばかりの祝福を経験します。

二番目、十字架の働きもどうしても必要です。十字架の働きなくしては、主イエス様だけに栄光を帰していくことは出来ません。
リバイバルとは一体何なのでしょうか。それはイエス様の命、イエス様のご臨在、イエス様のご栄光が現われてゆくことに他ならない。けど、もし我々の自我が砕かれなければ、主の命、主のご臨在、主のご栄光は外に現われてまいりません。
パウロは、

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

と思っただけではなく、体験したのです。
「私ではない。イエス様がすべてである。」、これこそがリバイバルです。私達の誇り、高ぶる自我が砕かれる前に、リバイバルが起こったためしがありません。十字架の働きによって自我が全く砕かれなければならない。そして、私達は全く主により頼まなければなりません。
リバイバルを経験した人は、主に全くより頼んで生きる人々です。自らの力で聖書を読み、祈り、自らの道を計画して歩む人々には、どうしても霊的覚醒が必要です。

そして三番目、集会全体の一致がリバイバルをもたらすのです。五旬節の日に、一つになって祈っている時にリバイバルが起こりましたが、それから後のリバイバルは、集会が心を一つにして祈るところに起こりました。
覚えて頂きたいことがあります。すなわち、イエス様は特定の一人一人の信者の心を目覚めさせようと願っておられるのではない。全集会を目覚めさせようと願っておられるということです。
どうして主はそれを願っておられるのでしょうか。私達がイエス様の花嫁として、沁みなく、しわなく、傷なきものとなる為にリバイバルを起こそうと願っておられるのです。自分だけが祝福されるように、リバイバルを求めるその祈りは聞き届けられないでしょう。
もし私達が、すべての兄弟姉妹の為にリバイバルが起こるようにと心から祈るならば、主は聞き届けて下さいます。

マラキ書3:10
10――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

どういうふうに主を試すことが出来るなのでしょうか。イエス様の栄光を求めて燃えているものは、主を試すものであり、十字架により主に全く委ねているものは主を試みるものであり、そしてその集会が建て上げられることを切に願い求めるものは祝福を受けます。
イエス様は私達を試み、私達は裸のままの姿を主に見せられるでしょうか。私達はその結果、自ら何一つより頼む心がなく、自らの恥を主に隠したいような気持ちにまでなっているのでしょうか。私達はすでに全能なる主に全てを試して頂いたのでしょうか。また私達は、主がリバイバルを我々に与えて下さるチャンスを与えたなのでしょうか。
これに対し、「そんな必要はない。主は全能の神であられるから自分でチャンスを作ることがお出来になる。」と思う人もいるかもしれないけど、イエス様は、我々の祈りに答えて奇跡を行おうと望んでおられます。
ありのままの姿になること、飾らないで、自分の過ち、わがままを主に告白すると、本当にリバイバルが起こるようになるのです。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

このみことばは、勿論未信者にではなく信ずる者に対して語られたみことばです。主は心の扉の外にあってたたいておられます。主は心の中に入りたいのです。主は集会の外に立って、中心になろう、ご自身は全てのことにおいて第一の者となろうと切に願っておられます。
何故、主は自分で扉を破って入らないのでしょうか。イエス様は、無理に入ることをなさいません。心の扉を開けるのは、自分の支配権を主イエス様に明け渡すのは、私達一人一人の責任です。
私達が心の扉を開けるなら、自分の全集会の支配権をイエス様に明け渡すならば、主はあふるるばかりの祝福を与えて下さるのです。

菊は美しい花を持ち、人の目を楽しませます。私達はその菊の根を持っていても、もしそれを土の中に埋め、花を咲かせるチャンスを与えなければ何の役にも立ちません。
私達は、土に埋められていない菊のような存在ではないでしょうか。美しさと力と新鮮さがない。我々にはリバイバルが必要です。イエス様はご自分の力が日本全体に染みとおるために、我々にリバイバルを与えようと望んでおられます。
けど、私達は真っ暗な土の中に孤独の中にうずもり、土の中に死ぬ勇気がなければ、主にチャンスを与えなければ、リバイバルを間のあたりに見ることが出来ません。

シモン・ペテロは名もない漁師でした。そればかりではない、主イエス様を三度否んだ弟子でした。けどもこのペテロは、主に全くより頼み、主をして働かしめるチャンスを与えた時、驚くばかりの祝福が彼を通して現われたのです。ペテロによって何千人もの人が主のみもとに導かれ、救われたのです。
私達は、放蕩息子のたとえを知っていますけど、その時、父の許に帰る勇気を持たない放蕩息子が他にたくさんいたでしょう。家へ帰らなかった放蕩息子さん達に、父が自分の持っている素晴らしい富を与えるチャンスがありませんでした。
私達はダビデのように、「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」と真剣に、真面目に、祈り求める用意があるなのでしょうか。そのように祈って主のみもとに近づく時、初めて主は我々にご自身の富を与え、あふるるばかりの祝福が与えることが出来るのです。

それでは、私達はどうしたら主にリバイバルのチャンスを与えることが出来るのでしょうか。主に心の底まで見て頂く、明るみにさらして頂くことです。丁度、病んでくる信徒の病人のように、医者に見せましょう。患者は医者に信頼します。医者を信じて悪いところを見せる時、医者はそれを治してくれます。患者は麻酔をかけられても、何も分からないうちに手術をされても、医者に診られます。
例えば九州に行く時、時間を調べ、汽車を選びますが、もし駅の人が言ったことを信じないのなら、勿論目的地に行くことは出来ません。

主は、リバイバルを起こそうと願っておられます。そして「私を試みよ。」と言っておられます。「機会を与えよ。」と言っておられます。
「主よ。どうかリバイバルを与えてください。あなた様のご栄光の為、失われた多くの魂の為、兄弟姉妹が新しく作り変えられて霊的成長をする為に、どうかリバイバルをお与えになって下さい」と祈るべきなのではないでしょうか。
「私はどうでもいい。私が死ななければならないのでしたら、死にます。」とイエス様は言ったのであります。
「リバイバルを与えて下さい。」これが我々の心の変わらざる、偽らざる態度でありたいものです。もし私達が従順に主に従うなら主は、霊的な覚醒を与えて下さいます。

イエス様には、イエス様に癒された10人のらい病人達がいました。彼らは10人共癒されたのですがどうしてでしょうか。彼らは、望みがなかったにもかかわず主のみことばに従順に従ったからです。聖書には、彼らが行く途中で癒されたと伝えられています。
彼らが主のみことばに不従順だったならば、らい病は癒されず、惨めな生活を続けたことでしょう。私達は、主の一つ一つのみことばに従順に従い、主がリバイバルを与えるチャンスを作っているなのでしょうか。

ヨハネの黙示録3:20
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

マラキ書3:10
10わたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

最後に一緒に読んでまいりましょう。

ヘブル人への手紙12:1-3
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

もう一箇所、

ピリピ人への手紙3:7-8
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。




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