引用聖句:詩篇32篇1節-11節
詩篇51:1-19
今読んでくださった二ヶ所は、主のみこころにかなったダビデの祈りであり、また証しです。 みこころにかなう人になろうと思えば、毎日この詩篇の32篇と51篇を読むべきではないでしょうか。そうするとやっぱり主の恵みを新たに知るようになり、主を崇拝せざるを得なくなります。歴代誌第IIの16章9節に、 歴代誌第II、16:9
主は必死になって探しておられます。みこころにかなう人々を用いようと望んでおられるのです。このダビデとは詩篇118篇の14節に、 詩篇118:14
このような証しを読むと、やっぱり主とはダビデにとって全ての全てでした。彼は本当にしあわせでした。 どうしてみこころにかなう人と呼ばれていたかと言いますと、主を心から愛したからです。ダビデは主を愛した。もしわれわれについても、同じことを言うことができればすごいのではないでしょうか。 主イエス様を信じ、知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生の無意味さを、むなしさを認識するようになりました。 それだけではなく、いくら努力しても、頑張っても自分自身を救うことができないし、主と人間との間の隔ての壁を取り除くことはできない。すなわち人間は罪滅ぼしのために何をやっても全く無駄です。 それを知るようになった人は、自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになります。 幼子のような信仰でもって、罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血によって自分が贖われ、生きるまことの神の子どもとされたことを知るようになったのです。 そしてもはやさばかれることがないことも確信するようになります。そしてイエス様を知るようになった者は、結局イエス様に喜ばれたいと切に望むようになります。 救われている人と救われていない人々の区別とはいったい何なのでしょうか。 救われている人はイエス様に喜ばれたいという願いを持っている。そうでない人々は、救われていない人々とはイエス様に対してもちろん目くらであり、主の声に対してもつんぼです。 私たちは毎日、自分の思いはイエス様に喜ばれるか、自分の言動はイエス様に喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそが考えられないほど大切です。 人間に気に入られるのが大切ではない。生きる主に気に入られるのが大切です。私たちはこのことについて真剣に考えると、どうしましょうかということになるのではないでしょうか。 というのは、いったい私たちはどうやって光そのもの、少しも暗いところをご存知ない主イエス様に喜んでいただけるのでしょうか。 いったいどうして私たちは絶対的な聖さと神聖さそのものである主イエス様に喜ばれることができるのでしょうか。 どうしたら私たちは愛そのものであられる主イエス様に喜んでいただくことができるのでしょうか。 イエス様は光そのものです。けれど何と多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。 イエス様は絶対に聖なるお方です。しかし何と多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。 イエス様は愛そのものです。けれど何と多くの自己追求と自己中心が私たちにうちにあることでしょう。 父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。それは決して決して主に喜ばれる生涯を送ろうと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子主イエス様がわれわれの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。 主は探しておられるのです。みこころにかなう人々を探しているのです。 詩篇の32篇また51篇を読むと、ダビデの心の奥底を知ることができるのではないでしょうか。ダビデはみこころにかなう人と呼ばれていたのです。 例えば私たちは集まるとき、どういう気持ちを持っているのでしょうか。すなわち私たちは主のみもとに行って、主との交わりを得ようという願いを持っているのでしょうか。 「主よ。語ってください。」、先ほども読みました、列王記第IIの16章の中に書いてありますように、主のがわからわれわれを求めておられると書いてあります。 主の目はあまねく全地を行き巡っている。全日本の行方を見守っている。また私たちの上を行き巡っている。分かれていない、分裂していない心、主に向かって一本になっている心の持ち主を探し求めておられます。 私たちはもっと何か大きなことが起こり、私たちはもっと上からの力によって覆われ、私たちの生涯を通して大きなわざがなされることを期待しているかもしれない。けれど主は私たちの分かれていない単純な心、主に向かって単一な心を求めておられます。 私たちはまことに表面的なことがら、生まれつきの賜物や能力を見がちな者ですけれど、主はそうではない。主は心を見てくださいます。 イスラエルの初めての預言者サムエルがダビデの家庭に行って、王を選ぶにあたり、十二人の兄弟のうち上の兄を見て、「この人か。実に立派な容貌、容姿を持っている。この人こそ王となるべきだ。」とサムエルは思ったでしょう。 けれど主はサムエルの心に反して、その兄を選ぶことをしなかったのです。主は人の思いに反し、もっとも小さな弟、いわば小羊のようなダビデを選んだのです。なぜなら主はダビデの分裂していない心を見ていたからです。 私たちもダビデのごとき心の持ち主であれば、本当に幸いです。 かの有名な詩篇の23篇を読むと、ダビデの心の様を知ることができる。ダビデの生涯の秘密が何であるか知ることができる。 彼は、「主は私の羊飼いです。」と言うことができたのです。この言葉を逆に申しますならば、「私だって大したものではない。愚かな弱い、何も知らない小羊にすぎない。」と。 小羊は外敵から自分を守ることのできない動物です。ダビデは、私はあたかも一匹の愚かな、弱い、どうしようもない小羊のような者にすぎない。だから私には私を火に燃す、教え導く、守ってくれる羊飼いがどうしても必要です。 私は弱い小羊であるから、偉大なる牧者、主が必要ですと。 ダビデは、ダビデの心は謙虚で柔和でした。私たちは小さな、弱い小羊です。 私たちを火に燃し、教え導き、守ってくださる羊飼いが必要であるという思いがあるのでしょうか。 ダビデはもちろん決して決して完全ではなかったのです。 多くの人々は、宗教の影響でしょう、みこころにかなう人とはやっぱり立派にならなくてはいけない、完璧にならなくてはいけない、そうでないと主は満足しないと考えるかもしれない。 けれども聖書を読むとそういうことは書いていません。ダビデは完璧ではなかった。完全ではなかった。 彼は自分の弱さを感じ、失望しただけではなくて完全に絶望してしまったこともあります。サムエル記第Iの27章の1節を見ると次のように書かれています。不信仰の告白。絶望してしまった証拠です。 サムエル記第I、27:1
敵の国に サムエル記第I、27:1
このダビデは主からすばらしい経験を与えられたのちに、このように自分勝手な言葉を口にし、また心の中でそういうふうに祈っただけではなく、行なってしまったのです。 これより以前、かつて主はダビデを呼び、ダビデにやがて王となることを約束されましたけれども、ダビデは何と言うのでしょう、主は今はもはやなすことができない、もうすでに遅すぎる、私が王となることは無理です、望みがないと彼は思い込んでしまったのです。 彼はそれまでの長い間、主がご自分のご計画を必ず余さず成就されるということを確信し続けました。けれど今はどうでしょう。周りの情勢が困難に見えます。確かに絶望的に見えます。ダビデはすべてがダメであると望みを捨ててしまったのです。 実際にはこのとき、ダビデの敵であるサウル王の死は間近に迫り、ダビデが王となるのは目前に近づいていたのです。やがてダビデは王となるのですけれど、ちょうどその寸前、今の時は悪魔は働くやみの時であり、絶望に引き込もうとする時期でした。 ダビデは絶望してしまいました。けれどダビデの歌った歌である詩篇を読んでみると、ダビデはもっとも深いどん底の苦しみに遭っても、また非常な絶望に陥っているときも、のがれ道が見えず、前途が真っ暗なときも彼はまた主に向かって叫ぶようになり、主の助けを経験するようになり、主を崇拝するようになったのです。 私はいくら弱くても、あたかも一匹の愚かな弱い小羊であっても、主は私の羊飼いであり、もう心配することをやめるとダビデは告白するようになったのです。 私はまことに弱い、守りのない者です。悩む者です。貧しい者ですと彼は何回も詩篇の中で告白したのです。だからダビデは主が必要であり、主に頼るようになったのです。 そしてだからこそ逆に主はダビデを選んでくださったのです。私たちもそのような心を持っているのでしょうか。 もしそうなら、主はダビデを選び、油をそそがれたように私たちをも選び、油をそそぐでしょう。すなわち油とは旧約聖書において、いつも御霊を象徴しています。 ダビデはへりくだって、柔和な心の持ち主でしたから、主に選ばれ、絶えざる喜びに満たされたのです。 ある人は、主よ。私を聖霊に満たしてください。祝福してくださいと願い、断食し、夜通し祈ろうとしますけれど、その結果はどうでしょう。何にも起こりません。それはその人の心の状態がいけないからです。 けれども主は砕けた謙遜な柔和な心の持ち主を捜し求めておられます。私たちは主のみこころにかなっているのでしょうか。私たちは謙遜な柔和な心を持っているのでしょうか。 前に読んでもらいました詩篇の51篇を見ると、心を全うした人は決して完全な人ではなく、罪を犯さない人でもないことはわかります。けれどダビデはへりくだった心を持っていたのです。またダビデは悔い改め、備えのできた心を常に持っていたのです。 ダビデの前の王はサウル。ダビデを絶えず攻めたサウル王は罪を犯したとき、彼は最後まで罪を隠そうと努力し、その罪があらわにされたときも、それを全部言い表わすことをしなかったのです。 結局サウルは傲慢であり、心高ぶっていたからです。ダビデの心はそれに反し、常に悔い改める備えのできた心を持っていました。 主がダビデに、「おまえは罪を犯した。おまえはその人である。」と言ったときダビデはそれに対して直ちに「はい。私は罪を犯した。私がその男です。」と答えたのです。 私たちはサウルのような者でしょうか。あるいは、ダビデのような者なのでしょうか。 ダビデの子どもであるソロモン王は次のように書いたことがあります。必ず父親から何回も何回も聞いた言葉、また自分でも体験的に知るようになった事実です。 箴言28篇の13節。聖書の大切な、もっとも大切な原則の一つなのではないでしょうか。 箴言28:13
隠す者は成功しない。隠して死ぬまで成功する人もいるかもしれない。けれど死んでから全部明るみに出されます。 私たちはおごり高ぶり、己に満足しているのでしょうか。それとも、主よ。あわれんでください、私の自己中心的なところを赦してくださいと叫び求めるのでしょうか。 ダビデは柔和にして、謙遜な心の持ち主でした。だから主は彼を選び、聖霊に満たしたのです。 ダビデは告白しました。「私の杯はあふれています。」意味は、私は喜びで満たされています。しあわせです。 ダビデの祈りは次のようなものでした。「私はあなたを必要としています。どうか私を導いてください。弱い者だからです。」ダビデとは主のみこころにかなう者でした。どうしてでしょう。今話したように、まずへりくだった心を持っていたからです。 二番目。悔い改め、備えのできた心を持っていたからです。 そして第三番目。彼はきよい心のために祈りました。前に読んでもらいました詩篇の51篇の10節に次のように書かれています。 詩篇51:10
正しい心の状態を保ちたいと願う心がダビデの心でした。 詩篇51:17
ダビデは砕かれた心を持って己の罪を告白しましたが、私たちはどうでしょうか。 悔い、砕けたたましいを主は喜んでくださいます。いつも覚えるべきことは、私たちの願いや私たちの平安が、私たちの満足が問題ではない。私たちが主のみこころの真ん中に歩んでいるかどうかこそが問題です。 ダビデは主のみこころにかなった人でした。ですからダビデは御霊に満たされ、喜びに満たされたのです。 詩篇51:11
罪を犯すことにより主の臨在はダビデを去ってしまったのです。ひとりぼっちになり、寂しくなってしまったのです。 罪を犯す前のダビデは親しく主の御声を聞き、ささやかに主の導きを知り得たのに、今はもう全てがダメになったのです。 詩篇51:12
この節によると、主の親しい臨在をダビデは失ってしまっただけではない。同時にもうひとつの確かに大切なものを彼は失ってしまった。 それは何かと言いますと、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・私たちはみな主のあふれ流れいずる喜びにあずかっているのでしょうか。主ご自身の喜びはわれわれのものとなっているのでしょうか。 私には主の喜びが必要だ。これはダビデの心の状態でした。私たちもともども、主のあふれいずる喜びにあずかっていたいものです。 ダビデは自分の心の状態だけを気にして、主の御前に静まり、祈りました。 主のみこころにかなった人ダビデは、自分の賜物、説教、歌について何にも語っていない。それはダビデがもし心の状態が悪いなら、それらのものは何の役にも立たないことをよく知っていたからです。 また、もし自分と主との正しい関係になるならば、罪人の間に何か起こるということをダビデは知っていたのです。 詩篇51:13
結局ダビデはわかった。私はどうして大切であるかと言いますと、主に用いられるためだけです。 主に用いられなければ、罪人は決して主のもとに帰られない。もし私たちが柔和にして、心低い者でないなら、罪人に罪を指摘することはできません。 だから大切なのは私たちが立派になることではなく、主をよりよく知ることであり、そして主の御姿に似せられた者となることです。 ダビデは主の救いにあずかり、主にあって大いに喜ぶことのできた人でした。そしてその信仰生活の初めの半分を主の導きのままに過ごしてまいりました。 けれど彼の生活にも前に話したように破綻がやって来ました。ダビデは姦淫の罪を犯し、同時に殺人の罪までも犯してしまったのです。 もし私たちが自らの心をよく知っていなければ、あんなにすばらしい信者でさえあのような罪を犯すのだろうかと疑問に思うことでしょう。 これに対して主は、ダビデはもう望みがない、あきらめて捨てようと言われたのでしょうか。決してそうではない。 この詩篇の51篇、もう一回3節と12節を読みます。 詩篇51:3
詩篇51:12
これはダビデ王の心の底からの叫び声だったのであります。そしてのちに主の大いなる恵みと愛によって、ダビデは結局みこころにかなう人となったのです。 主ご自身が言われました。すなわち、「わたしはイスラエルの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人だ。」 人をたたえる声よりもすばらしいことばがあるのでしょうか。 「彼はわたしの心にかなった者だ。」、前に言いましたように、ダビデは心から主を礼拝する礼拝者になったのです。礼拝とはいったい何なのでしょうか。すなわち全てのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。 私たちはしばしば祈るでしょう。「イエス様。みこころをこのように変えてください。」、「主よ。この重荷を私から取り去ってください。」、「主よ。この環境を変えてください。」と祈り叫び求めます。 祈りとは結局自分の願いの言い表わしです。礼拝、崇拝とは全く違う。 みこころにかなう崇拝はおのれの全てを、何もかもを主におゆだねすることです。「お導きください。自分の思いではなく、みこころだけがなるように。」 もちろん主の道はいつもわれわれの願いと同じとは限りません。ダビデもそれを経験しました。 今日暇がないのですけれど、うちでサムエル記第IIの12章を読むとわかります。 主はあるときダビデに、みこころにかなうダビデ王に次のように言いました。 サムエル第II、12:14
生まれてからすぐ死ぬと言われたのです。ダビデは自分の子を愛しました。主に乞い求めました。断食しました。地に伏して、ひたすらに祈り続けました。けれど子どもは死にました。ダビデにとって考えられないショックでした。 多くの人々は関わる立場に置かれると、いったいどういうこと?なぜ?どうしてでしょう?と言うでしょう。 聖書はダビデについて何と言っているかと言いますと、彼は着物を変えて、主の家にはいって、拝した。主を拝んだ。ダビデは礼拝したと。 礼拝は主の道に全く心からなる賛意を表することです。おのがすべてを主のみこころにゆだねることです。 歴代誌第II、16:9
と。万軍の主は今日も一生懸命、必死になって捜しておられます。なぜなら、主は奇蹟を行なう力を現わしたいからであります。 けれど主に向かって心を全うしている人がなければ、高く引き上げられた王の王、主の主はご自分の全能を現わすことができない。 私たちは主の力を妨げることを全部捨てようと思わないでしょうか。私たちは見えるもの、感ずるものに拠り頼むのでしょうか。それとも信仰によって前向き、前進するのでしょうか。 主は霊的に死んでしまった者を今日も生き返らせることができるのです。これを堅く信ずるのでしょうか。それとも不信仰、不従順によって主の力を妨げるのでしょうか。 ダビデの告白とは次のようなものです。最後にこれを読んで終わりましょうか。非常にすばらしい告白であります。詩篇の18篇の1節と2節をお読みいたします。 詩篇18:1
心から愛します。 詩篇18:2
こういうふうに言える人々こそが今日も捜し求めておられるのです。 主は働きたい、主はご自分のご栄光を現わしたいと望んでおられますけれども、私たちは主のご栄光だけを思わなければ、結局主は何にもすることができません。 |