引用聖句:ペテロの手紙第I、4章7節-13節
今の読んでくださった個所は、千九百何十年前に、ペテロによって書かれたものです。ペテロはどうしてこの手紙を書いたのかと言いますと、ほかにすることがなかったからじゃなくて、時間を潰すためでもなくて、どうしても必要だったからです。 ペテロの手紙第I、4:7
意味は、「もうちょっとでイエス様はまた来られますよ。首を長くして待ちましょうよ。」、そういう呼びかけなんです。言うまでもなくペテロは、特別なことを教えるためにこの手紙を書いたのではない。 戦いの中に投げ込まれた兄弟姉妹を励ますために書いたのです。再臨を待ち望む生活をしましょうよという呼びかけです。 万物の終わりという表現で、ペテロは一体何を考えたなのでしょうか。疑いもなく当時のいわゆるユダヤ教は、終わりに近づいたのです。また、疑いもなく多くの信ずる者も、自分のいのちの終わりを迎えました。 すなわち、多くの主を忠実に仕えた人々は、殉教の死を通して、彼らの主に栄光を帰したのです。初代教会の人々とは、色々なことについて考えて、例えば、半年あとでどうしようか云々の、そういう気持ち、一切合切なかったんです。なぜならば、いつ捕まえられ殺されるのか分からなかったからです。数えられない多くの人々は、殉教者となり、天に召されたのです。 ペテロの手紙第I、4:12-13
ペテロは彼らのことに別に同情しなかったのです。「大変でしょう?」と言わなかったのです。「喜んでいなさい。」 パウロも同じようなことを書いたことがあります。すなわち、 ローマ人への手紙8:18
大したことじゃない。 もちろんペテロは、万物の終わりという表現でもって、今の時代の終わり、意味は、「恵みの時代の終わり」、すなわちイエス様の再臨のことを考えていました。イエス様のいわゆる空中再臨のあとの時代は、決して恵みの時代ではない。 初代教会の兄弟姉妹の特徴は、イエス様の再臨を生き生きとした待ち望みにした。 彼らは、ただ単に再臨を信じただけじゃなくて、毎日毎日再臨を待ち望んだのです。結局、「もうちょっと。」、それですから彼らは、生き生きとした証し人でした。だから、求道者は、次々と主の御許に導かれたのです。 使徒の働きの中で書かれています。毎日人々は、信者の群れに加えられた。結局悔い改めて、救われて、イエス様の証し人となったのです。毎日! 一つの原因とは、初代教会の兄弟姉妹は、どういう状況に置かれていても、喜ぶことができたのです。どうして喜ぶことができたかと言いますと、イエス様はまた来る、迎えに来られると確信したからです。 彼らは周囲の世界において、その意味でへブル人でした。また、間近いイエス様の再臨を待ち望もつつ生活した人々だったのです。 もちろんペテロ、また、パウロだけじゃなくて、ヤコブも同じことを書き記したのです。ヤコブの手紙5章の8節ですね。 ヤコブの手紙5:8
すなわち、「時は近い。もはや多くの時間はない。」、私たちがこの事実を待ち望みつつ、生活をするならば、やっぱり日常生活はちょっと違うものとなります。祈りの生活は大きく影響を受け、われわれの奉仕も違ったものとなります。 聖書の中でイエス様の再臨が何百回も預言されています。 初代教会の人々の特徴とは、待ち望むことでした。使徒たちはどうして再臨のことを書いたかと言いますと、結局、待ち望む生活こそが、考えられないほど大切であるからです。 主の再臨を待ち望む生活とは一体どのようなものなのでしょうか。この問いについてペテロは、七つのことを言ったのです。すなわち、 第一番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、心を整えた生活です。心を整え、理性的でありなさいと命令されています。 第二番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、言うまでもなく、祈りの生活です。祈りのために身を慎みなさいと命令されてます。 第三番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、互いに愛し合う生活です。互いに熱心に愛し合いなさいと命令されてます。 第四番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、真の友情の生活です。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさいと命令されてます。そして、 第五番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、奉仕の生活です。互いに仕え合いなさいと命令されています。 第六番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、大胆な証しの生活です。語る人があれば、神の言葉にふさわしく語りなさいと命令されてます。最後に 第七番目、主の再臨を待ち望む生活とは、主の栄光を現わす生活です。すべてのことにおいて神があがめられますようにと命令されてます。 結局これは、単なる勧めの言葉、単なる提案らしいものではない。はっきりとした命令です。主の御心そのものです。この七つの点について、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。 第一番目、主の再臨を待ち望む生活とは、心を整えた生活であります。 ペテロの手紙第I、4:7
間もなくイエス様が来てくださり、そのときが間近いのであるから、心を整えなさいとあります。間近い主の再臨を意識して生活する者は、理性的になります。すなわち、分別に富む賢明な者となります。 その人は、過ぎ行かない価値のために全力を尽くすでしょう。その人は永遠のために働くでしょう。 無分別に生きるということは、ただ現在のことだけを考えることです。自分自身のことばっかりしか考えないことです。悪魔の余地を与えてしまうことをしてるのです。 初代教会の兄弟姉妹は、悪魔の絶えざる攻撃にさらされていました。彼らは毎日悪魔の憎しみを感じたのです。もし、イエス様を信じる者として、悪魔の憎しみを感じない人の信仰は、本物ではないと、はっきり言えるなのではないでしょうか。 初代教会の人々の周囲には、現在のことだけを考え、主イエス様と何の関わりも持ちたくないという人間がいました。だから彼らは、励ましを必要としたのです。励ますために彼らは、間近いイエス様の再臨を指摘されたのです。 それは彼らにとって、驚くべき力の源泉でした。もうちょっとでイエス様は迎えに来られる。もちろん私たちもこのような励ましを必要とするなのではないでしょうか。 主のための時間など、全然ないというのが、今の特徴なのではないでしょうか。私たちがこの霊によって、完成させられることは非常に危険です。 イエス様は再臨について、おもに、公の再臨について、多くのことを言ったのです。 ちょっとだけ公でない、いわゆる空中再臨についてイエス様も色々なこと言われたんです。例えば、ひとりは上げられるようになり、別の人は残されるようになる、云々と。 おもに、イエス様の公の再臨について、マタイの福音書24章の中で多くのことが書かれています。例えば、戦争のことや、戦争の噂を聞くこと。 けども今の時代とは、もちろんどうしようもない時代になってますし、例えばテレビを見て、今日は喜びの訪れを聞きたい、見たいと思ったら、もうがっかり・・・。悪いニュースばっかり! もう大変です。みんな、慣れてるかもしれない。けども、やっぱりこのような時代の中で、喜びと平安に満たされることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。 イザヤ書の26章の中で、すばらしい御言葉が書かれてます。旧約聖書の1067ページです。 イザヤ書26:3-4
再臨を望みつつ生活する者は、何ものをも恐れません。何ものにも心を騒がせず、分別に富む賢明な生活をします。すなわち、本当の意味で賢い生活をするのです。 イエス様の再臨に考えないこととは、愚かな考え方です。もうちょっとで主イエス様は迎えに来ると考えると、やっぱり、嬉しくなるなのではないでしょうか。 第二番目、再臨を待ち望む生活は、祈りの生活です。 祈りのために身を慎みなさい。とあります。分別があることと冷静であることとは、一つに結び付いてます。もはや冷静でない者は無分別となります。私たちが祈りのない状態に陥らないように警戒し、用心すべきである。 この手紙を書いたペテロの切なる願いとは、それだったのです。 あなたたちが主により頼まないようになったり、主なしに物事を手におさめたりすることのないように、注意しなさいとペテロは望んだのです。 祈りは常に、二重のサイをもっています。私たちが祈る人が祝福され、私たち自身も豊かにされるということです。 何回も引用した聖書の箇所は、ヨブ記の42章の10節です。考えるべき大切な言葉です。 ヨブ記42:10
とあります。 この間、喜びの集いがありまして、ある姉妹は非常に悩んでいたんです。ご主人と全然うまくいってないし、結局、平気で嘘つくらしいし、「もう考えられない。」 そして奥さまは、「そういう大嘘つきと一緒に、もう住みたくない。もう顔だけ見ると嫌で、もう大嫌い。」、ある意味で分かる話なんですけども、それは解決にならないんじゃないでしょうかね。 彼も集会に来たんですけど、結局彼女はもう、もう数えられないほど、「離婚してもらいたい。離婚。離婚。離婚。」、ばっかり言ってるんですけど、子どもいるし、やっぱり無理。離婚とは、子どもを犠牲にすることですから、やっぱり考えるべきです。 けども、まだ勧めたんですね。「ご主人のために全然祈ってないだろう。」、「いえ。」、もちろん祈ってないよ。自分の聖書を読めなくなっちゃった。もう祈ること止めた。そうすると大変です。 結局御言葉を読みながら、「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、そういう態度とらないと、もちろん祈っても祈りにならないし、御言葉を読みながら祈ること、祈りながら、御言葉を食べることこそが、勝利を得る秘訣です。 そのとき、あのヨブのことを話したんですね。ヨブという男は確かに悩みました。考えられないくらい悩んだんですけども、主の判断のこと、彼は当時一番主の恵みによって、変えられた人格者で、主を恐れた男でした。 けども彼は、とんでもない過ちを犯してしまったんです。どういう過ちを犯したかと言いますと、自分の友人たちのために祈ることを止めたんです。だれでも分かる。彼は健康だったとき、金があったとき、別に苦しみがなかったとき、みんな彼の近くに来て、いわゆる友だちになった。 けども彼は不幸になったとき、財産失ったとき、十人の子ども失ったとき、重病人になったとき、あの、いわゆる友だちは彼を攻撃したんです。彼らは宗教家だったからです。天罰だよ。全部あなたのせいです。あなたは悔い改めなければもうおしまい云々と。 それでヨブは、だれでも理解できる態度取ったんです。 もう嫌です、あの連中たちは。もう会いたくない。結局彼らのために祈らなくなっちゃった。そして主の目から見ると、これはヨブと主の間の隔ての壁でした。主は働くことができなかったし、祝福することもできなかった。 ヨブはそれを、上からの光によって示されたとき、ヨブがその友人たちのために祈ったとき、そのとき初めて、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。 あの姉妹は次の日に、「夕べまた祈り始めました。」と言ったし、ご主人も集会にいたんですけども、是非彼女のことを覚えていてください。 主が私たちを祝福なさりたいのなら、どうして私たちは祈らなくちゃならないなのでしょうかと、質問する人もいます。主がそのことを決めちゃったからです。 主はいつも、私たちの祈りに対する答えとして、祝福を与えたいと願っておられます。どうしてか、なぜか分からない。 けども、御心はそういうものです。祝福されずに出て行く者は、自分のせいです。祈りの人が求められてますというのは、主はその人たちをとおして、祝福なされたいのであり、自身の啓示、なさりたいためです。 エゼキエル書36:37
云々とあります。 私たちが主に願い求めるとき、主が私たちのためになさってくださることがあります。けど、私たちは主に願い、求めないならば、主がなされないこともあります。それですから私たちは、祈りのために身を慎みなさいと要請されます。 何ものにもよっても祈りを妨げられないようにしましょう。主の御前に立ち続け、主から大いなるものを期待しましょう。 ペテロだけではなく、ヤコブだけではなく、パウロも同じことについて次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙6:18
すべてはすべてです。すべての聖徒のために祈ることとは、御心です。私たちが祈りによって何が成就され得るかという事実を考えるならば、私たちが少ない祈りをすることや、期待することが、あんまりにも少ないということは、おかしいのではないでしょうか。 数えきれないほどの約束は、祈る人たちに与えられています。そして、数えきれないほどの人たちは、約束の成就を経験しました。どうしてでしょうか。なぜなら彼らは、信じて祈ったからです。主の約束とは結局、祈りの材料です。 イザヤ書59:16
とあります。主は、祈る人を探し求めておられます。 ひとりの祈り人の祈りをとおして、非常に多くのことが成就されるとヤコブの手紙・・・・・・・ (テープ A面 → B面) 第三番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、互いに愛し合う生活であると、ペテロは書いたのですね。 互いに熱心に愛し合いなさい。イエス様はすぐに来ます。そのときは間近いのです。お互いに愛し合いましょう。ペテロはこのことを書いたのです。かつてイエス様を、イエス様の愛を裏切ってしまったペテロは、こういうふうに書くようになった。 ペテロの手紙第I、4:8
私たちはお互いに愛し合うべきです。しかもこのことは、ほかのすべてにまさって大切である。だからここで「何よりもまず、」という表現が使われてます。そしてこの愛は、持続的で熱心であるべきです。 私たちはしたいことをすることができるでしょうが、愛がなければ、お互いに近づき合うことができないでしょう。初代教会の兄弟姉妹について、次のように言われています。「見よ。彼らはなんと愛し合っていることでしょう。」と。これは本当に革命的な差異をもたらしたのです。 だれでもが自分のことだけしか考えない現在においては、愛は、頑なな人間の心を開かせる手段なのではないでしょうか。お互いの愛が消えないように気を付けましょうと、ペテロは当時の信ずる者を励ましたのです。 なぜ、このお互いの愛がそんなに大切なのでしょうか。一つの理由がここで挙げられています。愛は多くの罪をおおうからです。愛は赦しの道を見いだします。愛は恨みを抱きません。愛はほかの人の恥をおおいたいと思います。 イエス様は多くの革命的な発言をしたことがあります。一つは、マタイの福音書の18章に書かれています。ペテロはちょっと変なことを質問したのです。 マタイの福音書18:21-22
7回だけじゃなくて、490回。一日でちょっと無理じゃないですか?意味は、やっぱり何があっても赦すべきです。避けることのできない問いがほかに現われます。 そんなことがどうしてできるもんか。私たちはいかにすればお互いに、持続的、熱心に愛し合うことができるなのでしょうか。ペテロはどうしてそのような具合に愛し合うべきかの理由を言いました。 愛は多くの罪をおおうからですと。それはすなわち、私たちが愛し合うことによって、聖霊の実が明らかになることを意味するからです。 ガラテヤ人への手紙5章22節に、次のように書かれています。御霊の実は愛である。人間の努力の結果なのではない。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 おそらくここで、ある人は異議を唱えるでしょう。私は私の夫を愛することができません。私は私の妻を愛することができません。私は私の姑を愛することができません。 もちろんそのとおりでしょう。どうしたら愛することができるか。答えはローマ人への手紙5章5節に書かれてます。結局聖書の中で、自分の愛でもって愛せよと書いてないんです。主の愛によってのみ可能であるからです。 本当に生まれ変わった人は、だれでも神の愛を経験したのです。そして神の愛をもってるとあります。 ローマ人への手紙5:5
もうすでに注がれている、とあります。主なる神の愛でもって、あなたはどのような人をも愛することができると、ペテロは書いたのです。 私たちが聖霊に働く余地を与えられれば、御霊の実としての愛が明らかになる。これこそ、本当に持続的に、熱心に愛することができるただ一つの道です。 第四番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、真の友情の生活です。ペテロは書いたのですね。つぶやくことなく、お互いに親切にもてなし合いなさいと。 主は間もなく来てくださり、そのときは縮まっていますので、自分の家を解放し、友だちや見知らぬ人に対してあなたの心を開きなさい。 初代教会の特徴は、福音が家々で宣べ伝えられたということです。これらの家庭集会は、その当時非常に大切なご奉仕でした。 家々におけるこの奉仕は、今日同じように大切で、必要不可欠なのではないでしょうか。今日何と大勢の孤独な人、絶望的人がいるなのではないでしょうか。 信ずる者が、そのような人々のために、自分の家を開放することは、本当に大切なのではないでしょうか。多くの人は一人の友だちをももたないで、もう、孤独で孤独でしょうがない。 そのような人たちの面倒を見て、招き、その人たちのために時間を割き、その人たちのためにいることは、信ずる者の責任なのではないでしょうか。 人々が決断するときも、そのような人たちの面倒を見ることは大切です。彼らは、引き続き導かれなければならない。彼らは愛と理解と配慮を必要としてるのです。多くの問いは家庭集会で答えられ、霊的な糧は、それをとおして新たに回心した人たちに与えられます。 それだけじゃなくて、主なる神なく、望みなく、生きる目標もなく、無意味に過ごす人たちが数え切れないほどいます。信ずる者が住まいを持っていて、自分自身のことだけしか考えないならば、それは決して正しくない。 いわゆるマイホームでさえも、私たちは自分のものと呼ぶことができません。それは私たちが管理しなければならない、委託された財産に過ぎないからです。 もちろん、主を知らない人々は、説教によって導かれるよりも、愛されることによって導かれるなのではないでしょうか。彼らが私たちによって愛されており、心にかけてもらっているということを信じるならば、彼らは福音に対しても必ず心を開くのです。 人間は友情、交わり、愛を求めています。私たちはこれらのものを彼らに与える責任をもっています。色々な人々を自分の家に招く人々は、ヘブル人への手紙13章の2節に書いてありますように、御使いたちを、それとは知らずにもてなすことになるとあります。 ペテロはだれでも分かるように書いたのです。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」、この言葉は、真の友情の関わり合いをもってます。 しかもそれはただ単に家々が開放されることによってだけじゃなくて、自分自身の心を開く、ほかの人々のために配慮するによって可能となります。8節において要求されてる愛は、このようにしても明らかになります。 どこでも真の交わり、本当の友情に飢え渇いてる人たちがいます。われわれの心が主の愛と、主のあわれみによって満たされるとき、私たちは、困ってる人たちをお世話し、その人たちを主イエス様と結び付けたいという願いをもつようになります。 第五番目、主の再臨を待ち望む生活とは一体どういうものなのでしょうか。奉仕の生活です。 ですからペテロは、当時の信ずる者に書いたのです。すなわち、互いに仕え合いなさいと。 ペテロの手紙第I、4:10
すべての信者が、すべての人の幸せのために委託された賜物として、一つの賜物、あるいはいくつかの賜物をもっていることを指摘しています。 信ずる者は、だれでも何らかの賜物を御霊によって与えられています。けどだれも、これらの賜物の管理人に過ぎない。それらのいわゆる賜物は、用いられなければならない。用いられないで遊んでることは許されない。 主が間もなく来てくださり、そのときが縮まってるのですから、委託された賜物は、用いられなければならない。主イエス様は、信者たちの特権と責任について次のように言われました。 ルカの福音書19:12-13
今日多くの教会や集会における問題は、無責任さなのではないでしょうか。多くの人は、会社のために一生懸命頑張ります。けど、さらに主のことと、失われている多くの人々が、忘れられてしまうとするならば、それは、大変なのではないでしょうか。 今日必要とされているのは、主にすべてを明け渡し、主のお望みになることだけを切に望む人々です。 イエス様にすべてをゆだねる人は用いられます。イエス様はただ主だけに仕え、主の御手のうちにある器であることだけが大切である、という同労者を探し求めておられます。 第六番目、主の再臨を待ち望む生活とは、大胆な証しの生活です。だからペテロは書いたのですね。「語る人があれば、神のことばにふさわしく語りなさい。」 それも前に話したように、単なる提案ではなく主の命令です。「奉仕する人あれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」とあります。 これは、あらゆる信ずる者は、主の口となるべきであるということを意味してます。私たちは、主のために証ししなければならない。そして主ご自身が、そのための力を必ず与えてくださいます。 自分の力で主のために働くのじゃなくて、御霊に押し出され、力を与えられて語るのです。私は主のために語ることができないと悩んでる人々がたくさんいます。私は主のために生きたい、私は主に仕えたいけど、語ることができない。 まさに同じことをエレミヤが言ったなのではないでしょうか。エレミヤは呼ばれたとき、「主よ。嫌です。無理です。不可能です。語れない。」と言ったのです。 エレミヤ書1:9
エレミヤは主を信じ、主に信頼し、主が彼をとおして奇蹟をなさることを経験しました。私たちは主に信頼し、助けを求めつつ、主を見上げるとき、主が私たちに必要なものをすべて与えてくださるということを経験するのです。 前に話したように、われわれの周囲の至るところに、イエス様の福音を必要としている人々がいます。私たちがしなければ、だれがその人たちに福音を宣べ伝えるなのでしょうか。 なぜ初代教会は、そんなに早く成長したなのでしょうか。それはすべての信者が、主イエス様を知らせたい、イエス様を紹介したいという願いをもっていたからです。 これはもちろん、宗教的な行ないでもないし、いわゆるキリスト教を宣伝することでもない。聖書の教えを広め、だれよりも低くイエス様を証しすることです。 そのことが彼らに禁じられたときでさえ、初代教会の人々は福音を宣べ伝え続けました。それ以外のことをできなかったからです。使徒の働き4章を見ると、次のように書かれています。 使徒の働き4:17-20
イエス様を信じ救われた人々がみな、まだ救われていない家族、親戚、知り合いの人々にこの救い主について語るならば、必ず主は恵んでくださいます。 だれでもこれをする義務をもってます。だれひとり言い訳はできません。私たちは自分の救いを喜んでいながら、知り合いの人たちが、永遠の滅びに向かっていることに無関心であるほど、自己中心的なのでしょうか。 列王記第IIの7章の中で、サマリヤの外にいるらい病人たちのことについて書かれています。 その四人のらい病人は、最もすばらしい発見をしたと書かれています。すなわちその発見とは、シリア人たちが莫大な富にある彼らの陣営を残して去ったということです。 そこで彼らは、らい病人たちは、飢えを満たし、着物やら自分の物にしてしまいましたけど、それから彼らは言いましたね。 列王記第II、7:9
らい病人たちは、福音を自分たちだけの独占物にしなかったのです。彼らは飢えていた人々にそれを持って行ってあげました。それによって多くの人が、いのちを保たれたのです。 私たちはみな主の知らせを宣べ伝える責任をもっています。人々はそれを待ってるのです。 |