引用聖句:イザヤ書40章28節-31節
テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
今の読んでくださった2箇所を通して主なる神が何を望んでおられるのかと知ることができるのではないかと思います。 戦争中ドイツのアドルフヒトラーは、いろいろな宣伝文句を使ったんです。昔のことだから詳しくは覚えてませんけど、今朝また思い出したんですね。非常に短い宣伝文句だったんですね。 このイザヤ書、今読みました個所で、四回も「疲れる」という言葉がでてきます。現代人の多くは、「今日疲れた...」というんです。無理もないかもしれないけど。 ここで、主は「疲れることはない!」と書いてあります。それから、主に頼ると力を得ると書いてあります。それだけじゃあなくて、若者でさえも疲れてしまうけど、主を待ち望む者は新しい力を得るだけではなく歩いても疲れないと書かれています。これは奇跡を経験することよりも奇跡となるのではないでしょうか。 一番大切な証とは喜ぶことです。 東京近辺では毎日だれか家庭集会にきて福音をきいて信ずるようになります。これはいったいどうして? 特別のこと教えられているからじゃあないんです。イエス様を証しているかたのことを後で聞いて見ますと、何と言っているかといいますと、「話しピンと来なかったけど、みな喜んでいるじゃあないか。いったいどういうこと?全く違う世界じゃあないか。」 おおいに喜んでいる人と会うと、みんなみなおおいに悩んでいる人ばっかり、けど悩みながら喜ぶことができるのはやっぱり普通じゃない!、革命的なことなんです。主の御心とは喜ぶことができることではないのではないでしょうか。 悪魔のねらいとは当然ちょうど反対です。昨日も今日も来ておられる婦人は話したんです。家の息子はやっぱり疲れてしまった。動かなくなってしまった。 喜びの種であった子どもは、急に悩みの種になってしまった。結果として本人もどうしたらいいかわからないし、回りの人々も疲れます。その婦人はいろいろな宗教にも入ったらしいし、そして聞かれたのはもちろん金を出せ! 先祖のせいで、その、ひ.ひ.ひ.ひ...、四代目のおじいちゃんかおばあちゃんかが、結局なにかをやったらしいからから、今こういうふうになった。この考えとはほんとにひどいものです。 私たちが本当に叫ぶべきなのは、人間を罰する神は存在していません。必要ないからです。イエス様が罰っせられたからです。このキリストの受けられた罰とは考えられない、想像を超えたものだったのです。ですから主は人間を罰する気持ちがない。 滅びる人間は罰せられているからじゃあなくて、意識して、提供されている罪の赦しをほしくなかったからです。頭を下げたくなかったからです。悔い改めたくなかったから、だけなんです。 ですから、人間は罪人であるから滅びるよりも、提供されてる救いをほしくないから滅びるようにになります。われわれの主とは、結局人間のこと大好き。どういう人間であれ、みんな神の愛の対象です。 今回も喜びの集いを持つようになりました。 昔はいつもバイブルキャンプという名前をつけたんです。そしたら、みんなテントですか?テントでやるんですか?と聞いた人もいるし。 それから修養会と名前をつけたこともあります。そしたら勉強しなくちゃあいけないか? 徳島の兄弟は、急に違う名前をつけたんです、「喜びの集い」、ほお〜、これこそ良いなのではないか!、その後みんなは「喜びの集い」と言う名前をつけたんです。 どうして喜びの集いでありますかと言いますと、悔い改められるからです。悔い改めることができるとは、すばらしい特権です。 宗教改革者のマルチンルタは良く言ったんです。「悔い改めることとは最もすばらしい仕事です。」 結局悔い改めると楽になる。解放されます。喜ぶことができるようになります。 この間、春日部だったんですけど、一人の悩みである子どもと話したんです。その前から、母親からいろいろな話を聞いちゃったし、大変だと思ったんです。 あの娘は、イエス様を素直に受け入れましたし、けど親から離れたい気持ちになっちゃって、外国まで行っちゃったんです。外国行くと非常に危ない。 親は平気な顔で行かせない方が言いと思う。みんなさびしくなる。行ってどなたかから大切にされ愛される。本当の愛じゃあないけど。そういう思いのとりこになると大変なんです。 あの娘もどなたか好きになっちゃったし、持っていたお金を彼はすぐに使っちゃったし、刑務所に入った経験もありますし、アルコール中毒でもあるし、麻薬を使用したり売ったりした人なんですけど、彼女の銀行で積んだ金をカードで全部下ろしちゃったし。 けど、それにしてもあいつは悪いと考えられなかった。結局同情して、私は彼を救うことができる。結婚するつもりだった。 彼は捕まり、現在もまだ刑務所の中なんですけども、奇跡的に帰ることができたんですね。もちろん帰る金さえなかったんですけど、親がまた送ってもどったんですけど、この間、どういう気持ちかな、彼女はわかった。 イエス様に守られなければおしまい。私はイエス様なしでは生きて行かれない。けどイエス様は赦してくださった。 結局悔い改めることができるのは、すばらしいイエス様からのプレゼントなのではないでしょうか。 先週もちょっとがっかりしたんですけど、ドイツから手紙もらったんです。内容は、「私たちは結婚した」、もちろん相談じゃないよ。報告です。 結婚の相手はずっと年上ですし、ドイツで会ったんです。ドイツ人なんですね。ドイツ人の中でも変な人いる。 博士号持ってるし、弁護士らしいし、けどもドイツで会ったときはっきり未信者です。もちろん教会員です、洗礼受けてるでしょう。けども全然話しにならない。 彼女は一度断ったんです。やっぱり彼は救われていないし、結婚していないけども、知らないうちにドイツに戻って向こうで結婚してる。ほんとに大変なんです。 結局主は人間の救いを望んでおられるだけではなく、プラスアルファです。プラスアルファとは家族です。 悪魔のねらいとは、家族が救われることじゃなくて、家族がみんなばらばらになることです。家族がばらばらになるとこれは聖霊の働きではなくて、悪魔の攻撃としかいえません。 前にお聞きになったことがあと思うんです。私にとって大変だと思ったことがあるんですね。その友人はルフトハンザのチーフパーサーなんです。フランクフルトからニューヨークまでのフライトで、ドイツ人だったかアメリカ人だったかわからないけれども、一人はフライトの途中で聖書を開いて読んだんです。 そして急に顔が明るくなって目をつぶって祈ったでしょう。そしてまた読みつづけたでしょう。チーフパーサーとして見たのは、すばらしぃ兄弟だと思っちゃったんです。 彼から後でその隣に座った人は急に質問したんです。あなたは聖書読んでるでしょう、教会行くでしょう、私も教会行ってます。私の行ってる教会はサタンの教会です。私たちは悪魔を拝んでいます。 自分の血でもって悪魔と契約を結びます。そうするとほしいもの、全部百パーセント与えられます。そしてあなた方は祈るでしょうけれども、私たちはもっと祈ります。私たちの唯一の目的は家族が全部ばらばらになることです。 これを聞いたチーフパーサーは何と言ったかといいますと、彼はちいちゃい町に住んでるんですけど、近所の四家族は最近ばらばらになった、みなイエス様を信ずる家族ですよ。もう離婚して再婚してめっちゃくちゃ。 悪魔のいる教会の人々の答え、悪魔の狙っているのは家族をばらばらにすることです。 主は人の本当の救いを、幸せを、また家族の救いを望んでおられます。 絶えず喜びなさい、とパウロは書いたのです。パウロの書かれた手紙を読むと、もちろんすぐわかります。 いろいろな信者がいました。ある信者はもちろんパウロによって導かれたんですけども、悩みの種でした。ほかの信者は喜びの種だったのです。 たとえばテサロニケにいる兄弟姉妹は、パウロにとって喜びの種だったのです。だから彼は言うことができたのです。「だから私はいつもあなたがたすべてのために神に感謝してます。」、「いつも」、「すべて」 もし彼は、私はたまに、私はあなたがたの中にいる、ある人のために感謝すると書けば、なるほどそうでしょう。けどそうじゃないんです。彼は「いつも」、「すべて」のために感謝することができた。 いったいどうしてでしょうか。? 彼らは妥協せず、迫害されても、憎まれても、誤解されても主を第一にした人々だったからです。 そして、われわれは救われるために救われたのではなく、主に救われるために救われた。再び天から来られる主を待つために救われた。彼らは毎日首を長くして、「今日かもしれない。」、そういう期待を持つ人々はパウロにとって喜びの種でした。 けども彼は、他の個所を見ると、時々悩むようになりました。私は困っている、私は悩んでる、産みの苦しみをしてる、私は泣きながら書いてる、云々と言う言葉を見ると、やっぱりイエス様の救いに与かってても主に用いられなかった。 結局、信ずる者を二つに分けると、ある人は相変わらず自分自分、自分のことしか考えていません。いわゆる自己実現。 ほかの人々は、私は私のために死なれたイエス様のために生きたい。これは自己否定です。 自己実現か自己否定かのどちらかです。他の言葉で言いますと、イエス様を信ずることとは自分を信じないことです。 厳しい!!! 自分の考えてること、自分の思ってること、そんなことはどうでもいい、大切ではない。私が理解できなくても、私は主に従います。この態度を取ると、本当に解放されます。元気になります。 2、3日前に長野県の伊那まで行きまして、一人の43歳の男と話し合ったんです。彼は正直に話す前に言ったんです、「私は非常に疲れた。」と。言わなかったけど、思ったのは、「おめでとう!」 イエス様は疲れた人しか呼べないよ、すべて疲れた人、重荷を負っている人はおいで、他の人々は来なくてもいい。ですから、非常に疲れたと思う人々は必ず導かれます。 その家庭集会に、ある夫婦は岐阜から来られました。もう年ですし、けども娘のことで非常に悩んでます。結局娘は、「自分の妹は愛されてる、私は愛されていない」という思い込みによって、おかしくなっちゃった。これは親にとって大変な重荷です。 結局彼女は暴れるようになって、結局そばにいる我々も喜べなくなってしまった、とそう正直に告白したのです。結局、「疲れた。喜びがない。」、となんと多くの人々が言うなのではないでしょうか。 けど主の御心とは、前に読みましたテサロニケ人への手紙第Iによりますと、やっぱり喜ぶことです。 テサロニケ人への手紙第I、5:16
テサロニケ人への手紙第I、5:18
人間を喜ばせることではなく、努力してがんばることでもなく、大切なのは結局イエス様を知ることですから、ここでキリストにあってと書かれています。 イエス様から離れたら、いつも喜ぶこととは笑い話です。誰もできません。主とつながっていればうまくいく。 ダビデは、もちろん主の救いに与かる者でした。主は赦してくださった、受け入れてくださったと確信したのです。 多くの人々は、変なこと考えるんです。救わるることとは結局、聖書の内容を一度信じ込むことだけど、ちょっと違うのではないでしょうか? たとえばパウロは、聖書の内容を詳しく知っていました。疑おうとしなかったんです。けど彼は救われていなかったんです。悪魔の虜でした。 後で彼は救われるようになったとき何を言ったかといいますと、「私は今まで、私にとって大切であった物を、聖書の知識もそうでしょう、私は捨てた。十字架につけられたキリスト以外に何も知るまいと決心するようになったんです。」 パウロは、どうしてイエス様を信ずるようになったのでしょうか。彼は、説明にならないけど大切な個所かも知れない。 「私はそれを人間から受けなかったし、教えられもしなかった」 結局私の救いの土台なるものとは、一つの教えじゃない、上からの啓示によって、結局上からの光によって彼の心の目が開かれるようになったんです。 「私は捕らえられてしまった。監禁されてしまった。求めようとしなかった。イエス様だって関係を持ちたくなかった。けどもイエス様の奴隷になった。」、と彼は喜んで言うようになりました。 ダビデも似ていることを経験しました。結果として彼は喜ぶことができたのです。 詩篇34:1
短いけどすばらしい証です。ここでも、大切な言葉とはいうまでもなく「あらゆる」と「いつも」という言葉です。 もしダビデはたまに主をほめたたえる、私の口には時々主への賛美があると書いたならば、なるほどと誰でも賛成します。わかりますよ。うまくいけば喜ぶこととは簡単です。けどもダビデはここで違うこと言ってるんです。 太陽が出ていても雨が降っていても、私が苦しみを持っていても持っていなくても、また息消沈していても高められても、私はいつも主をほめたたえ、私の口には絶えず主への賛美がある。 これは奇跡よりも、彼は奇跡になっちゃった。どうして?自分を見ないで主を仰ぎ見たからです。主を待ち望むようになったからです。 この間、火曜日の集会の前に、涙ながちょっと家まで来て言ったんです。しばらくは電話ないし、「こんにちは」と言わないし。ただひと言葉、「喜べなくなった。」 顔見たとき、見えるよと。夫婦の関係がうまく行かなかったから、彼女は去年だったかおととしだったか、友だちといっしょに御代田まで来まして、本当に悔い改めて喜んでまた帰るようになったんです。 けどもお父さんの骨折があったし、結局急に忙しくなった。しょうがないから、もう疲れてるから、集会どうでもいい。来なくなった。 もちろん集会に来なくちゃいけない、礼拝に出なくちゃ行けない、そういうことじゃないんです。来たくなければ良いです。けども、だいたいそれではすまないんです。 集会に来なくなると聖書も読まなくなる。彼女の場合もそうだったんです。それから祈ることもやめた。当然です。聖書とは勉強しなくちゃいけない教科書じゃなくて、祈りの材料なのです。 祈りの材料がなくては、結局料理である祈りはおかしいものになっちゃう。「助けてくれ!」、それだけのものになっちゃうんです。 それでご主人とまた大喧嘩になって、もう離婚すると彼女は宣言したんです。暴力でもってご主人を滅ちゃ苦ちゃにしようと思って、後で悪かったといったようですけど、結果として喜べなくなってしまった。 ちょっと大変だと思ったのは、5歳のかわいい女の娘がいまして、その娘は毎朝努力して、母親に喜んでもらいたい。可愛いいたずらしたりして、結局立派なお母さんはほしくない。完璧なお母さんほしくない。でも、喜んでるお母さんが大好きなの、お願い。 けど、だめだった。喜べなくなった。子どもがこんなに悩めば、ましてやイエス様は哀しむなのではないでしょうか。 人間は喜べなくなると大変。聖書の中で、夜よく喜び歌え、楽しめ、云々。そういう個所がある。ここでも、「いつも喜びなさい」 喜ぶ大切さについて、聖書の中で全部で527回書いてあります。旧約聖書。新約聖書の中よりも旧約最初の中にもっと書いてるんです。5百何十回書いてるから、どうでもいいことじゃないよ。2回3回書いてあるなら良いけど、違うんです。 人間が喜べないか、喜べるか、このことは大変な違いなんです。あんまり大切すぎてそれを表現する言葉がない。 ダビデは、私はあらゆるときに主をほめたたえる、私の口にはいつも主への賛美がある、と書くことができたのです。だからこのダビデとは幸せでした。 まことの幸せとは何なのでしょうか?主との交わりを知らなければ、人間は幸せになりえない。詩篇の作者は次のように言ったのです。「主の近くにいることは私にとって幸せ」 ダビデも同じこと経験したのです。主を知り、主との生き生きとした交わりを持つことによってのみ幸せになる。 主との交わりを持つことによってのみ、あらゆる人間的な思いから解放されます。 イエス様はどうして来られたでしょうか?どうしていろいろなことを教えたなのでしょうか? 今日もいろいろな先生方います。先生方は学生に教えるんです。どうして?まあ知識を与えるためです。それだけだったらちょっと大変なんです。[ エス様もいろいろなこと教えたのですけども、知識を与えるためではない。試験がなかったでしょう。「イエス様は今日の話し、大体通じましたか?明日の午後9時からまた空いてますから、また来い。」と言われたことがないんです。 わかってもわからなくても関係ないよ。じゃあどうしてあなたは教えたの? イエス様は私がこれらのことを教えたのは、あなたがたが私の喜びを持つためです。あなたがたの喜びが満たされるためです。 この間、若い女の娘、14歳の女の娘は御代田まで来まして、ある兄弟の教え子なんです。自殺未遂で、ちょっと助かったんです。 親は離婚して、彼女は父親の顔全然知らないし、何があっても母親はヒステリーになって、もう死んだほうがいい。けどうまくいかなかったんですけど、学校にとって大問題になったんです。 やっぱり公になれば学校の評判は悪くなるし、先生達にとってどうしたら良いかわからないでしょう。先生はやっぱり御代田までいこうよ。 あの娘はイエス様の身代わりの死を聞いたとき急に顔が明るくなった。後で何回も何回も、「ありがとう」、「ありがとう」、「ありがとう」としか言えなかったんです。けどそれだけじゃないんです。 学校行って、今から知り合いの人々に、みんなに紹介したい。みんなにイエス様のこと知ってもらいたい。そうしないと本当の喜びが湧いてこないと言うようになったんです。 今までの学校の生徒たちは導かれたんです。今回あの事件で、教頭先生も集会に来ると約束したらしいんです。どうしてでしょうか?なにか勉強したいからじゃないよ。どうしてあの娘は元気になったの?自分のこと忘れ、他の人々のこと心配するように、ちょっと考えられない。 結局主にあって喜べば、周りの人々は必ず、一体どういうことになったの?と聞くようになり、心を開くようになります。 言えることとは、イエス様によってすべての哀しみは喜びに変わります。疲れ果てた者は新しい力を得ます。あらゆる人間的な努力の空しさやあせりから解放されるようになります。 もちろん聖書の中で喜びなさいと命令されていない、それは無理な話なんです。 「主にあって喜びなさい。」、イエス様を知れば、イエス様とつながっていれば、どういう状況に置かれてても喜ぶことが出きるのです。 この間ある夫婦は本に輝いていたんです。名前でさえ忘れちゃったし、奥さんの顔良く覚えたんですけど、今回ご主人も見えたんですね。「ありがたい、ありがたい。」と言うんです。 ピンと来なかったんです。あの奥さんはガンの手術受けて、やっぱり直るもんじゃない。いつまでもつかわからない。それでもあの奥さんは、ペチャンコにならないで、前よりも喜ぶようになったのは一体どういうことか? 心開いて集会に来るようになり、イエス様に頼りますと言うようになったのです。普通の人だったらちょっと考えられないけど、イエス様とはそういうお方です。本当の喜びを与えるお方です。 本当の喜びの泉とはもちろんイエス様御自身です。イエス様とつながっていない者は変わらない喜びを知りません。そして喜びがなければ、人生は全く重苦しい物になります。退屈なものになります。 本当の主なる神様の提供されてる喜びは、人間の考えてる楽しみよりもずっと素晴らしいものです。すなわち絶えざる幸せを心の底から感じさせるものです。心配や不安から解放された者となります。 主を知るために必要なのは、前に話したように悔い改めることです。罪の赦しを得ることです。なぜならば、自分のわがままが赦されると主なる神さまとの交わりは可能となるからです。そして主なる神さまとの交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福にされ、幸せになるのです。 誰からも奪われることのない喜びの根拠なものは、罪の赦しです。けども前に話した奥さんは喜べなくなっちゃった。信者としてそう言ったんです。いつか赦されたとわかりながら、またぺちゃんこになったんです。 ダビデの親戚でしょう?ダビデも詩篇51編の中で、もう考えられないほど悩みながら祈ったんです。「救いの喜びを返してください。なくしちゃったから。」、「イエス様は喜びの塊である。」、と言っても良いなのではないでしょうか。 イエス様から離れると本当の意味で喜ぶことができません。 イエス様はすべて疲れた者、いろいろなことで悩んでいる者は、人間と相談せよと言わなかった。ただわたしのところに来なさい、わたしのところに来る者を私は決して捨てない。 ヨハネは違う言葉を使ったんですけど、意味として同じこと言ったんです。もし私たちの罪を言い表すならば、神は信実で正しい方ですから、その罪を赦しすべての罪から私たちを赦してくださり、洗い聖めてくださると約束されています。 ダビデはあらゆる時に主をほめたたえる、私の口にはいつも主への賛美があると証ししたのです。こういうふうに言える人は幸せなのではないでしょうか。 たとえのがれ道のない状態に置かれたとしても、私の愛してくださるお方の内にいる。なぜ悩みを経験しなくちゃならないなのかとわからないけど、私は主が主のなさることをご存知であられということを知ってる。 そして私の主は無駄なことを何一つなさいません。間違った計算や無計画は、主の中に存在しない。主は最善だけしか考えられないお方です。そして主は決して変わらない。私が感じようが感じまいが、主が私を愛しておらるることを知ってる。主は私を贖ってくださり、決してお捨てにならない。 この確信を持つこととは、まことの喜びの根拠なるものです。 すべてがうまく行けば誰でもが喜びます。でも上手く行かなければ、なぜこんなこと経験しなくちゃいけないなのか、どうしても説明がつかないときには喜ぶことができるということは、人間の能力を超えておりそれは主の恵みの現われです。 ローマ人への手紙8章28節を見ると、「すべて」と書かれてあります。「すべてが益になる」 ローマ人への手紙8:28
『確信する!』、理性でもってつかめない、気持ちもついていけないけど、関係ない。主は約束を守るお方です、だから確信する。 誰にとって益になるかといいますと、主を愛する人々にとってだけ。主を信ずることだけではちょっと十分じゃない、主を愛するかどうか。 ヨブという男は大いに悩みました。彼はしかし次のように告白したのであります。 『見よ。神が私を殺しても私は神を待ち望みなおも私の道を神の前に主張しよう。』 ヨブは如何にしてか、なぜかと考えようとしなかった。考えても何もならないとわかったからです。けど非常に賢い男でした。彼は全部主のせいにしたんです。 主は赦した。主は与え、主は取られた、イヤですなのではない、だから私は主の御名をほめたたえます。 すべてを主の御手から受け取れば、本当に楽になります。ハバククという預言者はこの態度を取りました。良く知られてる個所ですけど、 ハバクク書3:17
今までの苦労は全部無駄になった。けどこの預言者は別にがっかりしなかったらしい。 ハバクク書3:18-19
高い所から物を見ますとちょっと違うように見えます。たとえ私が何の実も見なくても、またそれが一見空しいように思われるときでさえも、いつも喜んでいなさいと主は提案しておらるるのではなく命令しておられます。 「私は主にあって救いの神にあって、『よろこぼう』、『意志の問題です』、『断固たる決断です』」 自分自身を否定する事はどうしても必要です。もしもハバククという預言者が、自分の感情や自分の思いによって支配されていたならば、決して決して喜ぶことができなかった。我慢したくらいです、あきらめたでしょう。その時の状況は一つの実を結ぶようには思われず、人間的に考えては空しいように見えたからです。 初代教会の兄弟姉妹は非常に魅力的な人々だったと思います。彼らはわたしたちのように公に集会を持つことができなかったし、大体墓場で集まったんです。そして多くの人々捕まえられましたし、殉教の死をとげた人も数えきれないくらいでした。 けども彼らは、別に、という態度とったんです。何があってもいつも主にあって喜ぶことができたのです。 ハバククも2回も主にあってという言葉をつかったんです。主から離れれば終わり、主とつながってれば喜ぶことが出きる。 使徒の働き5章を見ると、初代教会の人々のとった態度について次のように書いてあります。 使徒の働5:41
今度イエスの名を使ってはいかんと命令されたんです。けど彼らは、「もちろん笑い話じゃないか。イエスからもう離れられない。我々の命とは『イエス様』です。殺されてももう結構です。」、彼らはこの態度をとったのです。 もちろんイエス様に従う者は犠牲を払わなければならない、そのような時使徒たちと同じように信仰のために甘んじて迫害を受けるということは、それほど簡単な事ではありません。 それはただ目に見えるものから目を離し、イエス様を見上げることによって可能です。 使徒の働き16章を見ても同じことが、実例が書き記されています。すなわち、信ずる者の喜びは外部の事情には関係ない、ということです。 ふたりの主に仕える者、パウロとシラスは、無実の罪で刑務所に入れられたんです。「入ってもいい」という態度とったんです。入りたくなければ入らなくても良かったんです。 もしそのときパウロが、「皆さん聞いて、私はローマの市民権を持ってる。」と叫んだならば、皆驚いてしまって、「いやあ、大変だ。」、という態度とったんです。ローマの市民権を持つ人々は、絶対に裁判なしに刑務所に入れられなかったんです。 パウロは黙ったんです。ある人は「馬鹿」と言うかもしれない。けどもいっしょにいるシラスはローマの市民権を持っていなかったから、やっぱり彼は、「イヤです。ともに悩んでもいい、主は目的を持っておられる。」、という態度をとったんです。 使徒の働16:23-25
一番暗い時、 使徒の働16:25
他の囚人達については聖書は何も言ってないけど、残念でした、天国行くとわかるようになる、おそらく彼らも心開いて導かれたんじゃないかなあ。 彼らは無実の罪で不当に牢獄に入れられてました。そこで彼らは鞭で打たれたり、棒で殴られたりいろいろな拷問を受けました。肉体的に多くの苦痛を受けなければならなかったんです。イエス様を紹介しただけなんです。 けどもそれにもかかわらず、真夜中ごろ、真っ暗で逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、彼は主に祈りつつ賛美の詩を歌った。喜んでた現われです。 結果として、皆さんご存知のように地震が起こり、刑務所の責任者は「先生方、私は救われるためにどうしたら良いの?」と叫んだんです。 より良い人間になるためにどうしたら良いか、じゃないよ。私は救われていない、変わらぬ喜びを知らない、どうしたら良いの? 結局、どうしたら良いの、何もできないよ。 答えはすばらしい!、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなただけじゃないよ、家族みんな救われます。」、彼はこの約束を2.3時間以内に経験しました。 彼はみんな呼んで、夜中集会始まって、みんな悔い改めてイエス様を信じ、公の証としてみんな洗礼を受けたんです。家族そろってみんな救われたことを大いに喜んだ。 初代教会の人々とは変わった人々、変人でした。哀しみながら喜んだからです。それは当たり前のことじゃないよ。 コリント人への手紙第II、6章10節を見るとちゃんと書いてます。「哀しんでるようでもいつも喜んでる。」、たまにじゃないよ。 私たちはいろいろな哀しみ苦しみを経験することがあるでしょうけど、それにもかかわらずいつも喜ぶことができる。あらゆる時に主をほめたたえることができることとは、主の望んでおられることです。主から離れればもちろん無理。 パウロは、「私を強くしてくださる方によって何でもできる。」、意味はどういう状況に置かれていても関係ない、主とつながっていればOK!、離れればもう落ち込む、どうしようもない者になります。けども私は私の愛してくださる方によって、「圧倒的な勝利者となる」 私たちはどうして喜ぶことができるなのでしょうか?思い通りに行くからじゃない。自分の願いは満たされても満たされなくても関係ない、どうして喜ぶことができるかといいますと、「主によって愛されてるからです。」 そして主の愛は条件付ではない。変わらないものです。 悪魔が何を望んでいるかといいますと、悪魔は全部めちゃくちゃにする。 主が何を望んでいるかといいますと、家族の一致。ピりピの獄吏のことを経験することです。彼は家族そろって大いに喜ぶようになったのです。 大いに喜ぶことこそが、主の御心です。 |