2005年11月29日の学び


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/11/29)

引用聖句:ローマ人への手紙6章12節-13節
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

今日の集いもいつものようにひとつの学び会ではありません。ひとつの勉強会でもありません。ただ、イエス様を紹介する会です。そしてイエス様を紹介することができるのは本当にすばらしいのではないでしょうか。

色々な問題を持っていて苦しんでいる人々はやっぱり備えられている人々であり、そういう人々は聞く耳を持っています。聞く耳を持つ人々は必ず満たされます。
結局われわれの人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。救われることです。救われることとは救い主を受け入れることです。イエス様無しの救いはあり得ない。ですから救われることとは勉強した結果ではありません。イエス様こそ救いそのものです。
救われるためにまた必要なのは、「いくら頑張ってももう無理。疲れた。助けてください。」、そういう飢え渇き、また告白を持つことではないでしょうか。

聖書の言われている救いとは、一時的な問題の解決ではない。罪の問題の解決です。
われわれのわがままのゆえに、聖なる神の怒りのもとにある人間は主との平和を持ち、債務は支払われ、罪は赦され、永遠のいのちを持つ。これこそがまことの救いです。こういう救いは勉強によって、あるいは宗教に入ることによってもちろん得られません。イエス様こそが救いそのものです。

イザヤはもう2,600年前に書き記したのです。「主は私の救いとなられた。」、「私は救いを得た。」、ではない。「主は私の救い主。」
イエス様ご自身こそが救いそのものです。そして人間のすべきこととは、みなさんご存知でしょう。ただ助けを求めること、祈ることです。
「イエス様。私はどうしようもない者です。けれどもみもとにいつか参ります。あなたが私の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝します。」、この態度を取ると希望が湧いて来ます。

聖書の一番最後にすばらしいことばが書かれています。ヨハネの黙示録の22章の17節の後半です。「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」
いのちの水とは、もちろんイエス様による救いの贈り物です。ほしい者は、受けるがよい。欲すれば受けるに違いない。ほしいと思わなければ将来は確かに真っ暗闇です。
主イエス様は永遠のいのちを与えるために、人間を救うために人間を決して強制なさいません。だから、「ほしい者は」、と書かれています。ほしい者は受ける。受けた者は持つ。すなわち神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つようになります。

救われることとは確かにすごい恵みであり、すばらしいものです。けれどもそれだけでは十分ではない。
新約聖書の手紙を見るともちろんわかります。使徒たちは、人々たちが救われたからもうOKと思ってはいない。結局救われた人々は成長しなければ。少なくてもイエス様は満足しません。
成長のために必要なのは何なのでしょうか。自分自身を主にささげることです。奴隷として自分自身を主にささげることです。ですから今読んでもらった個所は・・・、もう一回読みましょうか。

ローマ人への手紙6:12-13
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

これはもちろん、もうすでに救いにあずかるようになった、意識してイエス様を自分の救い主として受け入れた兄弟姉妹に書かれたことばです。
13節、16節、19節に合わせて五回も「ささげる」ということばが出てきます。16節を読みましょうか。

ローマ人への手紙6:16
16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

そして19節。

ローマ人への手紙6:19
19あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

とあります。
多くの人々は、キリスト者がきよめられていくことについて話すとき、「自分自身を神にささげなさい。」と言いますけれど、いったい何をささげるべきなのでしょうか。何をささげなくてはいけないのでしょうか。答えは、自分自身です。

第二番目の問いは、だれに自分自身をささげなければならないのか。答えは、いうまでもなく主に。十字架の上で犠牲になり、復活なさり、近いうちにまた来られる主にささげるべきです。
第三番目の質問は、どういう者としてささげるべきなのでしょうか。答えは、奴隷としてささげるべきである。

まず何をささげなければいけないのでしょうか。今見ましたローマ人への手紙6章13節と19節には、自分の肢体を義の武器として、義のしもべとして神にささげるがよいと書かれています。
主イエス様は私たちが肢体の全部をささげることを望んでおられます。自分はもう自分のものではなく、主のものであるということを知るのは実に深い体験です。
確かに今私たちはみんな歌いました。そう思っているかどうかわからないけれど。「私たちは主の者です。」、信ずる者はおそらく歌うことによって一番嘘をつく者ではないでしょうか。歌います。あんまり深く考えないで。けれど、いや、本当にそう思えばすごい。「私は主のものです。」、自分のものではない。

パウロは、「私はイエス様といっしょに十字架につけられた。生きているのは私ではない。私は主のものです。」
例えば、5,000円ポケットにあるとします。それがあなたのものならば自由に使うことができますけれど、そうでないならちょっと使えません。自分のものではないお金は自由に使えません。
自分はもう自分のものではなく、主イエスのものです。このことをよくわきまえているなら、信仰生活は急速に前進するでしょう。

私たちは死んで、今よみがえることにより、自らが主のものとなってしまったことを本当に知っているのでしょうか。
私たちの持つ全てのものは自分のものではない。主のものです。私たちの持っているお金は自分のものではない。イエス様のものです。
私たちが毎日を過ごす時間は自分で計画をつけて使うのでしょうか。それともイエス様の導きのままに用いるのでしょうか。時間も結局主のものです。

私たちは色々な賜物や能力を持っているかもしれないけれど、だれがそれを使うのでしょうか。自分か、それともイエス様かのどちらかなのでしょうか。
持っているお金を自分で分け与えたり、持っている時間を自分で使ったり、持っている賜物を自分で使うのでしょうか。それともイエス様がそれらを指図してくださるのでしょうか。結局全ては主のものです。

聖書の中で、ちょっとどこに書いてあるかわからない。「地はわたしのものです。」と主は言っているのです。
私たちは本当は大きな集会所をほしいけど、なかなか見つからない。見つかってもちょっと不便な所で、云々と。あるいは高いし。けれどもこの地、全部は主のものです。そうすれば、自分でまた考えるのはおかしいのではないでしょうか。必要なものは必ず必要な時に与えられます。与えられなければ必要ではないから。
何でもできるお方がもちろん不可能を可能にすることができる。ですから、お導きになってくださいと祈り続けることができるのは本当にありがたいのではないでしょうか。

ある日、ひとりの兄弟が未信者の人と汽車で向かい合って座りました。未信者の人は3人だったのです。しばらくするうちに未信者の3人はもう退屈してきたから、遊ぼうと言い始めました。ところが遊びが4人でする遊びです。
3人は信者の兄弟に一緒に遊ぼうと頼んだのですけれど、その兄弟は私には手がないと言うのです。3人は驚いて、驚いたような顔をして不思議だと思ったでしょう。
兄弟はもちろん説明したのです。私が持っているこの手は、また私の持っている全てのものは、私のものではない。私を救ってくださったイエス様のものですと説明したのです。これが主の聖きにあずかっている人の特徴ではないでしょうか。

ですからパウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ローマ人への手紙6:19
19あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

自分自身をささげるべきです。自分はもう自分のものではないから。
第二番目の質問は、だれにささげるのでしょうか。いうまでもなく主にささげるのです。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

とあります。
多くの人々は信ずる者のきよきは、その人のうちから悪いことを取り除くことだと考えていますけれど、それは誤りです。聖めは自分を全く主にゆだねることです。
旧約聖書を見ると、主がある人をご自分のものとして用いたいとき、その人に油を注がれました。人々はその人が油を注がれたとき、きよくされたと認めたのです。なぜなら、油を注がれた人はその時より主の指図に従う者となり、主のものとなったからです。

人間の場合だけではなく、小羊や、また金などの場合も同じことです。小羊や金は油を注がれた時にきよきものとされました。
小羊や金から悪いものを取り除くなどということは考えられないことです。油を注ぐことにより、主のものとなることにより、きよきものとされたということです。

私たちは自分の全てを主にささげます。全き主の指図に従いますと心から言い表わすことがまことの聖めです。
けれど私たちが自らを主にささげるためには、私たちはもうすでに主のものとなっていることを知らなければなりません。主のものであるから当然、持ち主である主にささげるのです。
主にささげるということは、何かぼんやりしたことではありません。はっきりとした体験です。私たちは自分のものではない。主のものである。だから今日より、今より主にささげますといった、はっきりとしたひとつの線が引かれる日があったはずですし、またあるはずです。

多くの信ずる者はささげるということを誤って考えています。ささげるということは神学校に行ったり、伝道者、宣教師になることだと思っています。
そして神学校を卒業して羽を伸ばし、講師を始めるのは良いのですが、生まれつきのままの古き人のままで講師をしようとします。これは決して主にささげることではありません。本当の献身ではないのです。
ささげるということは、いわゆるご奉仕をすることでしょうか。決してそうではない。まことの献身は主のみこころに自らをゆだね、主の願いどおりにことを成すことです。毎日、「主よ。どうしたらいいの。わからない。教えてください。」という心構えを持つことです。

ダビデ王は立派な家来たちをもっていました。けれどこの家来の中には門番もいたでしょうし、将軍もいたことでしょう。ダビデは自分の思いのままに家来をそれぞれの務めに任命したのです。
もし主がそうしなさいと言われ、それが主の御胸ならば、私たちは門番にもならなければいけませんし、将軍にもなりましょう。主のみこころこそが大切です。

私たちがあれやこれやと選ぶことはいけないのです。もし私たちが主のものなら、私たちにはひとりひとり主イエス様の定めた道が備わっているはずです。また一番大切なことは、イエス様は私たちをどの道に導きたいのかということを知り、主の求める道を歩むことです。
「イエス様よ。私は自分をあなたにささげます。あなたが求めておられる道を知り、その上を歩みたい。それが私の唯一の願いです。」と心から主に言い表わすなら、それこそまことの献身なのではないでしょうか。
これと違い、生涯の終わりに、「私は主の道を歩まなかった。小羊の行くところに従わなかった。私は自らの道を選んでしまった。」と言わなければならないようなら、それこそ悲劇的です。

私たちのいのちはひとつしかない。私たちがこの地上で生活できるのは、ただの一度だけです。もしこの生涯において、自分の道を自ら選び取るなら、主イエス様は決してご栄光をお受けになることができません。
私は自分のために何もほしくない。ただイエス様だけが御栄えを取ってくださるように願い、立場を願いを、憧れを絶えず持ち続けたいものです。

私たちは自らの願い、計画、目的を持っているのでしょうか。それともイエス様のみこころを成すことが自分の全てとなっているのでしょうか。イエス様の御胸は自分にとって全であり、喜ばしきことであり、また全きことであるのでしょうか。
問題は私たちの意思です。自らの意思を十字架につけてしまい、そして余すところなくイエス様にすべてをささげるかが問題なのであります。

洋服屋さんに洋服を作ってもらうとき、生地を選ばなければ洋服屋さんはどうすることもできません。家を建てるとき、請け負い業者にお金を渡さなければ、請け負い業者は材料を買えませんから、どうすることもできないでしょう。
それと同じように、もしイエス様がご自分のいのちを私たちのうちに豊かに与え、ご自分の形を私たちのうちに形造ろうとされても、もし私たちが自分自身を主にささげなければ、どうすることもできないのです。余すところなく、全く主におささげしましょう。

第三番目の質問は、どういう者としてささげるのでしょうか。答えは、奴隷として。もし私たちが余すところなく、全く主にささげ、ゆだねるなら、色々な点で改めることが起こってきます。家族の中で、職場で、自分の私生活で変化が起こるはずです。考えも変わるはずです。
イエス様は私たち自らのうちから出るものを喜ばない。嫌いです。主は私たちの痛いところに手を置く。これはいけない。直さなければいけないと言われます。

私たちは、今まで自分にかけがえないものであったものを、主におささげしているのでしょうか。自分の好みを捨てて、イエス様におささげしているのでしょうか。
あの関係、この関係とイエス様に喜ばれない関係をすっきりと断ち切っているのでしょうか。またこれから断ち切ろうとしているのでしょうか。
イエス様に逆らうということは、もっとも恐ろしいことです。また愚かなことです。

私たちはまだイエス様におささげしていないものを持っていながら、もしそうするなら平安が無くなるからと言って、そのために心を用い、祈ろうともしないのでいるのではないでしょうか。
もちろんそのままそうし続けることはできるでしょう。けれどそれは主のみこころではありません。
もし自分の心に、主をお迎えする場所を空け、主に全てをおゆだねするなら、すばらしい、限りなく豊かな祝福が私たちにあふれるに違いない。私たちは自分のものではなく主のものですということを知ることは大切であり、すばらしいことです。

地上でこれ以上、偉大な喜びに満ちたすばらしいことはありません。このまことの知識を得て初めて、主が絶えず臨在しておられることを知ることができるのです。
もし自分が全く主イエス様に属する者であることを知らないなら、主イエスが常にかたわに居ますこともわからないでしょう。
もし私たちが主イエス様に全てをささげ、イエス様の指図のもとに全く自らをゆだね、イエス様のご支配のもとにはいるなら、自らの聖めを満足させようなどという考えはなくなります。

もう一回ローマ人への手紙6章に戻りまして、6章の16節をもう一回お読みします。

ローマ人への手紙6:16
16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

ここに、しもべではなく奴隷ということばが使われていますが、しもべと奴隷の間にはどんな違いがあるのでしょうか。
しもべは一人の主人に仕えますが、自分自身も自分の主人です。しもべは主人が愛してくれなければ、「フン。こんなところはもうたくさん。」と言って、ほかの主人を選び、そこへ行って働きます。
これに対して奴隷は、主人に仕えるばかりではなく、奴隷そのものが主人のものです。奴隷は自分で決め、選ぶことができません。自らは自分のものではなく、主人のものだからです。

聖書は、救われたキリスト者は例外なく主イエス様の奴隷であると言っています。
イエス様はその尊い血潮で私たちを贖い取ってくださいました。主に買われた。この事実を知るなら、私たちはその全てを主にささげたい願いを持つようになるのではないでしょうか。
私たちは、自分で決定して主の奴隷とならなければいけない。主イエス様は私たちを強制なさいません。強制して奴隷になった奴隷を主は喜ばないのです。

今日のいわゆるクリスチャン生活における多くの悩みはいったい何なのでしょうか。
すなわち、私はイエス様のために奉仕します。私はイエス様に自らをささげますと言いますが、回心前の生まれながらのものを持ってそのように言っています。これは本当の献身ではない。
私たちは簡単に、いたずらに、「主におささげします。」、「献身します。」と言わないようにしましょう。イエス様はその言葉をいたずらに受け取りません。真面目に受け取ります。

ガリラヤの後半、イエス様に持っているパンをささげたひとりの少年がいました。ささげられたパンをイエス様はどうされたのでしょうか。
いくつにも裂いてしまいました。主はそのようにささげたものを裂かれます。イエス様はささげられたものを御手のうちにおさめ、全く粉々に砕かれます。けれどイエス様はパンを裂かれたのち、それを祝福し、5,000人の空腹を満たされました。
同じように、イエス様にささげたものを主は砕かれますが、そののちに祝福し、ほかの人々の悩みをいやすために用いてくださいます。

もし今日私たちが、「主イエス様。全てをおささげいたします。」と言ってささげるなら、主は御手のうちで私たちを砕きます。
そのとき私たちは砕かれ、自らのありさまを知り、失敗と弱さを悟り、失望し、主の導きを疑うようになるかもしれない。もしそのまま疑い続けたら、その最後はどのようなことになるのでしょうか。
砕かれた器、役に立たない器がそこに残るだけです。

ほかの人々の悩みも自分を通していやされない。主も私たちを祝福することができません。どういうわけでしょうか。
それは、私たちは主の御手のうちで全く砕かれきることを望まないからではないでしょうか。これは信ずる者の大きな悲劇です。
奴隷として私たちは自らを主にゆだねなければいけません。奴隷は自分の全てが主人のものであり、自分はどうなろうと、どうされようと、主人の権利だということを認めています。この態度を取ることを主は待ち望んでおられます。もしこの態度を取るならば、それこそまことの献身であり、用いられる秘訣そのものです。

まことの献身とは伝道者や宣教師、牧師になることではありません。自分の意思を主の意思にゆだねることです。
どこに行っても説くところを限らず、会社でも家庭でも、また海の上に行っても、野原に行ってもすべてを主にささげることです。どこに主イエス様が私たちを導かれようと、主の導かれるところは私たちにとって最上のところであるはずです。
全く主にゆだね、小羊の行くところに従う人は誤解と悩みと迫害の道を歩むようになるでしょう。けれど小羊に従う者は小羊の栄光に満ちた天に導かれます。

コリント人への手紙第I、6:13、15
13からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
15あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

私たちは全く主のものです。余すところなく主のものです。私たちのからだは、私たちの肢体全部が主のものですけれど、私たちが自分でことを成し、自分でことを決するなら、霊的な放蕩をすることになります。
イエス様の目の前にはいわゆる姦淫が悪いのでしょうか。それとも霊的な姦淫のほうが悪いのでしょうか。

コリント人への手紙第I、6:15
15あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。




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