引用箇所:コリント人への手紙第I、5章1節-13節
夏の前に、私たちは面白くないテーマについてずっと学んできました。すなわち悪魔とはいかなるものか? 悪魔の履歴書、悪魔の戦い方について考えたのです。新約聖書を書いた使徒たちとは、みんな声を合わせて 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が食いつくすべきものを探し求めながら歩きまわってます。 堅く信仰に立ってこの悪魔に立ち向かいなさい。」 信仰に立つということは、自分の無力さを感じながら、偉大なる勝利者であるイエス様に頼ることです。ダビデは3,000年前に、「いのちの泉はあなたにあり、私たちはあなたの光の内に光を見るからです。」と、書いたのです。 聖書全体の呼び掛けは、「光の内に歩みましょう。」、私たちは光の中を歩むときにのみ、自分自身を知るようになり、さらに自分自身を知るにしたがってより良く知るようになります。 たとえば暗い部屋を掃除するとき必要なのは眼鏡、でもないかもしれないし、良いほうきでもないし、必要なのは光なんです。光がなければくらい部屋を掃除しようと思っても、まったく意味のないことなのではないでしょうか。 たとえば、顔が綺麗か汚いか、どういうふうに知ることができるのでしょうか?鏡を見ることによってでしょう? いくら顔をなでても、結局わからないよ、綺麗かもしれないけど、違うかもしれない、結局不安がる、心配になるかもしれない。けど、鏡を見るといっぺんにわかる。光の内に歩むといっぺんにわかるようになります。 ダビデはそれがわかったから、心から祈ったのです。すなわち、「神さま、どうか私を探ってください。私の心を知り、私を試みて我がもろもろの思いを知ってください。」 この態度を取ると、光が与えられます。ダビデは経験として、次のように証したのです。 詩篇119:130
と。みことばを通してわかる、理解できないかもしれないけど、わかるようになります! ヨハネは、神さまは光であって、神さまの内には暗い所が少しもない、これがキリストから聞いてあなたがたに伝える知らせです。 しかしもし、神さまが光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエス様の命は全ての罪から渡したちを聖めます。 本当の意味での交わりを持つことこそが、どうしても、必要です。 ダビデに心からの願い、また、叫びとは次のようなものでした。「どうかあなたの光とまことを送り、私を導いてください。」、結局、導いてくださらなければ人間は暗闇の中で迷うことばかりです。 またパウロは、「明るみに引き出されるものは、みな光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」、考えられないすばらしい福音なのではないでしょうか。告白された罪はもう、罪じゃない。光なんです! 今読みましたパウロの書いた手紙の一つの原因とは、いったい何だったのでありましょうか。コリントにある、イエス様のからだなる教会とは、光でもなかったし、証しでもなかったのです。パウロの悩みの種だったんです。 彼らははじめて福音を聞いたとき、もちろん心開いて、悔い改めて、イエス様を受け入れて信じたんです。今からイエス様のために生きたいと切に望んでいたでしょうけど、あの教会はなかなか霊的に成長しなかったんです。結果としてパウロはある人をサタンに引き渡さなければならなかったんです。 サタンに引き渡される、このことについて今日ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。今読まれました5章の5節。このような者をサタンに引き渡したのです。「それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」、と書かれてます。 サタンに引き渡されるという表現を、パウロは聖書の中で二回しか使っていないんです。 最初の箇所は今の5節です。ここでは疑いもなく、イエス様によって救われた、御救いに預かった、信者のことが書かれたいます。 ある兄弟が、父の妻と棲んでることが問題になったのです。おそらくほんとの母親は死んで、父親は若いい女性と再婚したのでしょう。 そしてこの兄弟は、彼の二番目の母親と親しい関係を持つようになったのです。父の妻という表現が使われているところから見ると、本当の母親ではなかったのです。 パウロはその兄弟に対してその、「婦人と生活することとは良くない、別れなさい!」と、厳しく命令したのです。「付き合ってはいかん、一緒に食事をしてはいけません。」とあります。 9節には、「交際しないように。」と書かれています。 コリント人への手紙第I、5:9-10
云々。そして11節。結局問題は、 コリント人への手紙第I、5:11
とパウロは書いたのです。 ここで彼が厳しく言っているのは、兄弟に対してであり、すなわち今まで一緒に讃美して、主を礼拝して、主に仕えたいという者が回復されるために、この態度を取ったのです。 兄弟とは主に属する者であり、主の御救いに預かった者であり、自分も主に受け入れられた確信を持つものを意味しているのです。 この兄弟とはどうしてこのようになっちゃったのか、もちろんはっきり言えませんけど、疑いもなく彼がみことばに忠実に従わなかったんです。光の内に歩まなかったのです。 主よ導いてください、どうすれば良いの、という心構えがなかったからです。毎日みことばに頼ることをしないで、無関心になってしまったのです。 毎日飢え渇きをもってみことばを読まない者は、集会の中でも人を引き付ける上からの力を失ってしまう結果になります。 パウロはここで、堕落していった兄弟一人ではなく、コリントの教会全体に対しても厳しい言葉を書いたのです。パウロは、コリントの教会に忍び寄る病、すなわち思いあがった傲慢な態度を責めてるのです。結局ほかの兄弟姉妹も結局、はっきりとした態度を取らなかったのです! 「あなた方は誇り高ぶっている!」、と2節に書かれています。そして聖書は高ぶる者を退けざるを得ない。へりくだる者にだけ、恵みを与える。信仰があってもなくても主は、高ぶる者を祝福することができません。用いられ得ないのです。 ですからパウロは、この一人の人よりもからだなる教会全体に対して、厳しい態度を取らざるを得なくなったのです。 このような態度が広まっている所には、本当の悔い改めは行われない。コリントのからだなる教会は結局、だめになった教会でした。どうしてでありますかと言いますと、彼はともに苦しみ、心一つにして、悔い改めようとしなかったからです。 信じる者の人生は悔い改めの人生であるべきなのではないでしょうか? ある人々は、「未信者はだめ。けど私たちは救われていますから。」、それはそうかもしれないけども、いくら救われていても、やっぱり毎日悔い改められなければ、何か根本的に間違ってるんです。 主は、「善を行う人はいない」と言われているでしょう?もし主は、「未信者はだめ、けど信者は大丈夫だよ。」と言われたならば、違いはなしですけれども、聖書はそう言ってません。 信じる者は、常に自分自信の惨めさを知り、苦しんでいる者とともに重荷を負うべきであるため、絶えざる悔い改めを必要とするのです。 知らず知らずの内に根強くなった傲慢という罪を、コリント人たちに明らかにするために、主はその人が堕落されるのをお許しになったのではないでしょうか。 真剣にみことばを読み、みことばに従うことによってのみ、私たちは自分の本当の状態を知るようになり、罪を悔い改める人生を送るようになります。けど、聖書をおろそかにしてみことばに従わない場合には、罪の悔い改めは存在せず、自分の本当の姿が結局、わからなくなってしまいます。 自分の本当の姿がわからず、本当の悔い改めがなければ、高ぶった思いが出てくるのは当たり前なのではないでしょうか。 そのような者に対して、主は用いることも祝福することもできません。その当時、コリント人の教会には、賜物を持っていた人々は非常に多かったらしい。けど、主はその教会の中で御栄光を現すことができなくなってしまったのです。 ヨブ記という本を通して、多くの人々は祝福され、励まされ、希望を持つようになってます。このヨブとは非常に悩むようになったのです。 どうしてであるかといいますと、悪魔の攻撃の的となり、結果として彼の財産、彼の健康、家族も結局全部奪われてしまったのです。 神さまはそれを許したんです。けど、ヨブのいのちだけは損なうことを赦されなかったのです。けどもここでパウロは、堕落した兄弟の肉体が悪魔によって滅ぼされても、すなわち、いのちが奪われても彼の霊が主の日に救われるように悪魔に引き渡してしまったのです、と。 主は信じる者が悔い改めないゆえに、しばしばその命を奪わなければならないことがあるわけですが、それは本当に恐ろしいことではないのではないでしょうか。同じくコリント人への手紙第Iの11章30節から、 コリント人への手紙第I、11:30-32
と、あります。 この箇所を読みますと、実際にコリントの信者たちの中に、そのような信者たちが少なからずいたことがわかります。 自分を吟味し、わきまえ知ることができない者は、主によって命を奪われることが少なくはなかったと、この箇所を通して知ることができます。コリント人への手紙第II、2章になりますが、 コリント人への手紙第II、2:1-11
と、あります。 この箇所を読むと、パウロが兄弟に対して肉体の滅びを警告し、そのようになるのではと懸念しましたが、実際は罪を犯した兄弟が悔い改めたため、滅びることを免れたのであります。そのとき、からだなる教会全体が悔い改めたから聖められ、新しい力を得ることができたのです。 パウロは、罪を犯した信者を、仕方なく悪魔に引き渡さざるを得なかった時も、それによって信者が永遠に滅びるのではなく、いつか将来再び回復されることを確信して、そのようにしたのであります。 したがって人間的には非常に悲しい出来事も、主の目から見れば、やがて喜ばしい福音につながる手段に過ぎなかったんですから。 コリントにおけるこのような出来事に対して、パウロは本当にへりくだった、謙遜な態度で望み、それと同時にからだなる教会全体に警告を発したのです。 このことは罪を犯した信者が、やがて回復することを確信できたため、責任ある兄弟たちにとっては大きな慰めともなったでしょう。そして、罪を悔い改める信者にとっては喜ばしい福音ともなったわけです。 パウロはテモテへの手紙第Iの中で次のように書いたのであります、 テモテへの手紙第I、1:18-20
と、あります。 前にも話したように、パウロはサタンに引き渡すという表現を二回使っていますが、二回目の箇所は今読みました箇所です。 「私は神さまを汚さないことを学ばさせるため」、そのためだけなんです。この二人をサタンの手に渡したと、パウロは書いたのです。 テモテへの手紙第I、1:19
とあります。 そのような人間は、今日でも大勢いるでしょう。つまり、かつては信仰を持っていた人が、信仰の破船に逢うわけです。破船することが分かっていながら、港へ出る船はめったにないでしょう。 船は破船せずに無事に目的地に着くことができると確信するがゆえに、港を出るのではないでしょうか。それと同じように、信じる者も信仰の破船に逢いたいと思って信仰生活をはじめる者は一人も居ません。 なぜ、信じる者は信仰の破船に逢うのでしょうか?パウロはそのことについて、その原因が正しい良心を捨てたためにそうなった、と言っています。 したがって、正しい良心を用意周到に注意して守ることが非常に大切です。そうしなければ悪魔に屈するに間違いない! 人間の中にある正しい良心は、力によらなければ捨てられることがありません。人間の良心はこれをしなさい、これをしてはならないと言うことをはっきりと指し示します。ですから正しい良心に聞き従う者は決して破船に逢うことはありません。 しかし、一時的に良心を捨てる者は、必ず信仰の破船に逢うのです。我々信じる者は絶えず、汝は罪を望むか、あるいは良心に従うかと問われているのです。 従順に従おうとする心構えがない者は、主に心から信頼し、従順に従うことも難しくなっていくのです。そして、従順に従うことができなくなることによってそれが人間にとって悩みや、苦しみの種となります。 それはもちろん理由なくして起こることはありません。その理由は霊、すなわち、聖霊に対して人間的な自分勝手な思いが価値を占めたために、そのような結果を招くのです。 たとえば、ヒメナオとアレキサンダーとが、その例であるとここで書かれています。彼らは主を知るようになり、パウロとも同労者として働いていました。結局主を信じた、受け入れただけではなく、一生涯主のために生きたい、主に仕えたいと切に望んだ二人だったんです。 彼らがどのような過ちを犯したかはわかりません。少なくとも傲慢の現れとして、主を汚すことを何かしたのでしょう。すなわち、傲慢の罪の恐ろしさを学ばせるため、パウロはこの二人を悪魔の手に渡したのです。 けどもパウロの目的は、彼らが滅びることではなく、回復されることであることは言うまでもありません。テモテへの手紙第II、2章の25節と26節に次のように書かれています。 テモテへの手紙第II、2:25-26
悔い改めの心を与えられることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。そのために必要なのは前に話したように、光に照らされることです!意識して、「光の内に歩みたい!」という、切なる願いです。 ここでも問題になってるのは、かつてイエス様を信じ主に従おうと決心した人々です。しかしながら悪魔は彼らを攻撃して、イエス様の愛から引き離してしまったのです。我々に対しても悪魔は、毎日毎日、いや一瞬一瞬攻撃を加えているのです。 悪魔はすきがあれば我々の心の中に入って、支配しようと狙っています。つまり私たちが罪の思いにふけったり、他人に対して意識的に悪感情を持ったり、悪習慣を続けたりすると、必ず悪魔のわなに陥ってしまいます。 傲慢によって堕落した悪魔は、私たちも同じように傲慢の罪によって堕落することを望んでいるのです。 パウロはそのことについて、テモテへの手紙第Iの中で、次のように書き記したのであります。 テモテへの手紙第I、3:6-7
と、あります。 このようにして聖書は、試みる者、悪しき者、偽り者、訴える者、人殺しと呼ばれている悪魔を警戒するようにと言っているのです。 パウロは、「悪魔の策略に対して立ち向かうことが出きるために、神さまのすべての武具を身につけなさい。」、と書いたのです。 我々の心構えとはいったい、どう言うものであるべきものなのでありましょうか?ダビデのような祈りを捧げることなのではないでしょうか。ダビデは本当に心から叫んだのです。 詩篇139:23-24
この心構えがあると、すべては明るみにだされるようになり、明るみに出された罪はもう罪ではない! 光そのものであるからです! |