健全な成長1


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

私は今日ここでお話するように頼まれたとき、直ぐにお引き受け致しました。その主な理由は、ここ御茶ノ水はそれほど遠く離れていないと言うことでした。
最近私は奉仕のための大部分のご招待をお断りして参りました。それは一重に、そのための時間が全然ないからでした。私たちはみな非常に忙しく、緊張した生活をしてます。ですから一番大切なことのために時間を使わざるを得なくなります。従がって大切なことや必要なことがすべてそのときになされ得るということが不可能であって、一番大切なことだけしか行なわれません。

私たちはドイツに戻る時、余り喜んでは帰国致しません。というのは日本では私たちがドイツにいる間に、非常に多くの人が信仰に導かれるということを考えるからです。
今日のこの日が永遠の実を結ぶ時であり、私たちがここにいることが無駄でないということが私の祈りです。私はまず最初に、誰をも非難したり、攻撃したいとは思っていないことを、意識して強調致したい思います。
これから語られることが少しでも何らかの形で深く考えるきっかけとなることができ、「おお、主よ、あなたお一人によって導かれ用いられたいと思います。」と、私たち全員が全くあらたに言うことができれば幸いです。

私はよく次のように尋ねられます。「吉祥寺においては、何が他の教会と違っているのですか?」と。その答えを簡単にまとめてみると次の5つの点を挙げることができるでしょう。

まず第一に、私たちは一人の牧師をも持っていませんが、多くの牧師、すなわち多くの牧会する兄弟たちを持っています。誰も先生とは呼ばれず、私も、大学教授も、医者も、先生とは呼ばれません。すべての人が兄弟姉妹と呼ばれています。
ある有名な先生は、ドイツのベルリンでの最初の伝道者大会で次のように言いました。「日本の伝道にとっての主な妨げは牧師制度である。」と。
もちろん彼は牧師たちが正しくないと言おうとしたのではなく、よく知られた万人祭司制度と対立するワンマン体制、すなわち単独牧師制は日本で非常に強く、牧師と平信徒の間の違いが非常に大きいのです。
私たちは吉祥寺で日曜日のご奉仕を行い、実際に牧会のご奉仕を行なう兄弟を15人以上も持っています。その兄弟は、公に定められた長老ではありませんが、誰でも悩みや問題がある時は誰のところへ行けばよいかを知っています。聖書の学びをする兄弟の数は大体40人です。

第二に、私たちは会員制度をとっていません。洗礼を受けた人たちも集会の会員ではありません。会員制度はしばしば変なものになってしまいます。すなわち霊的な交わりがしばしば組織的な関係になってしまうのです。
私たちは人々に対して決して次のように言いません。「あなたは礼拝に来るべきです。」と。しかしそれだからこそ、みな喜んで集会に来るのです。毎日曜日に約300人の人が集まります。もしも全員来たら450人は越えるでしょう。しかし日曜日に来ることを許されないご婦人たちは毎週火曜日に集まりますが、その数は100〜150人の間です。

第三に、私たちは月定献金制度をもっていません。私たちは新しく集会所を建てて多額のお金を必要とした時でさえ、意識的に献金した人の名前を書かないようにと注意しました。
主に捧げられるものは会計担当者も、他の人も知る必要がありません。

第四に、毎週日曜日に聖餐式を行なっています。それは礼拝の中心です。私たちは特別のプログラムを持たず、誰でも自由に祈ることができますし、みことばを読むことも、それについて何かを語ることも自由です。
中心は主イエス様であり、ゴルゴダの救いのみわざであり、そのために感謝と賛美が捧げられます。毎週日曜日、救いの確信をもっていない者は礼拝にあずかれず、すなわち聖餐式にあずかれず、いかなる未信者も献金することは許されされていないことが、くりかえし公に述べられています。
従がって礼拝とは福音集会ではなく、説教ではなく、救い主に向かっての祈りと賛美であり、聖書の学びは一時間後にあります。

第五に、あらゆる信者は、全てのキリスト者は福音を宣べ伝えるものです。この点については、特に詳しく立ち入った説明をしたいと思うのですが、それというのも多くの教会がその点で問題を持っているからです。
その前にみことばを一ヶ所、ヨハネの黙示録5章から見てみることにしましょう。

ヨハネの黙示録5:11-14
11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
14また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

とあります。この大いなる群集の中に私たちも一緒にいることでしょう。
この将来の希望は現実となります。そして数え切れないほどの群集は主イエス様を礼拝し、賛美するでしょう。現在は恐れるな小さな群れをあなたがたには与えるであろうと言う言葉があてはまるかもしれませんが、将来は決して小さな群れでなくなります。
主なる神の目標は小さな群れではなく、数え切れないほどの真の礼拝者の群れです。

この20世紀における最大の出来事の一つは、中国のウォッチマン・ニーと彼の同労者たちによって中国でなされた仕事です。
それは部外者から小さな群れ、リトルフロックと呼ばれました。しかし至るところ光を与え、いのちを運ぶ者として光かがやく教会が発生しました。いわゆる小さな群れは非常に大きなものとなったのです。
悪魔は総攻撃を開始しました。一万人の宣教師は国外退去させられました。わずか一日で49万人のキリスト者が殺されました。信者の数はその当時中国全体で、大体100万人位でした。しかし今日2500万人の信者たちが家庭集会で集まっています。

成長は主なる神の切なる願いであり、目標です。それですから私たちの主は、一粒の麦として死んでくださったのです。
たくさんの実が発生すべきです。大いなる獲物がもたらされるべきです。少ないもので満足する者は災いです。実を結ばなければ、未信者の無関心さとか、その痴呆のひどさなどが指摘されます。
そしてまた、謙遜深いように数は問題ではなく、質が問題であるということを何度も耳にします。しかし主イエス様に絶えず新しい人を導かなければ、質もまた大したことがないとはっきり言えます。

いずれにしても神の言葉である聖書は、私たちに数を挙げています。
私たちの主は決して12弟子だけで満足はなさいませんでした。それから少しして70人の人をお遣わしになり、五旬節には120人の人を通して同じ日に3000人もの人々が、自分は主イエス様のものであると告白して洗礼を受けました。
それからすぐ後に、さらに5000人が主イエス様を信じ受け入れました。初代教会は絶えず成長し増え続ける教会でした。

使徒の働き1:8
8あなたがたは...地の果てにまで、わたしの証人となります。」

とありますが、これは主イエス様のご命令であり、約束であり、しかも30倍、60倍、100倍の実がもたらされるという目標を持ってます。
私たちは主がもっと大いなることをなさりたいと願っておられる、というミッションを持つ必要があります。もしも私たちが今までの状態に満足してしまうならば、主は深く悲しまれることでしょう。
一億三千人の日本人が主のために福音を聞くということが、私たちの切なる願いであり、また祈りでもあります。そのための大切な要素は全国における諸教会の健全な成長であり、それに比べればいろいろな個別活動の特殊な働き、たとえばラジオ伝道、学生伝道、文書伝道などはそんなに大切であるとは思われません。
しかし誤解なさらないでください。一言付け加えさせていただきますと、上に挙げたような様々な個別活動を通して、福音に飢え渇く心を起こされた人が、近くの教会に行きそこでつまずいてしまって、福音から離れてしまうという人の数は、数え切れないほど多いからです。
従がって両方のことを考える必要があるのですが、その場合健全な教会の成長の方が重要性が大きいと言えましょう。
実際初代教会はラジオ伝道、学生伝道、テレビ伝道しなくても非常に早く、しかも大きく成長しています。どうしても必要で大切なことは主イエス様を信じる者の心からの一致です。
現在のように、混乱したバラバラの分裂状態が一般的となっている時代においては、心からの一致協力ということは何とすばらしいことでしょうか。

もう一ヶ所を励ましの言葉としてお読みしたいと思います。

イザヤ書45:1-3
1主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
2わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
3わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

主なる神の大いなる奇跡的な働きによって、人間の心の戸が開かれます。そして私たちの信仰に応じて人々の心は開かれ、信仰に導かれるようになります。
ご存知のように現代は孤独、ひとりぽっち、単独の時代です。去年西ドイツのガイスファイトという町の一人の兄弟と一緒に、一組の老夫婦を訪問しましたが、この夫婦は健康上の理由でもはや集会に行けないでいます。
私たちが訪問すると、その老夫婦は「私たちは全く無視されて、忘れられてしまったのではないかと思いました。」と言いました。
38年の長い間、ベテスダの湖のほとりで病を患っていた病人は主イエス様に言いました。「私を助けてくれる人は一人もいません。私のことを配慮して心配してくれる人、私を助けてくれる人は本当に誰一人いないのです。」と。
すでに3000年前に、詩篇の作者は書き記しました。「誰一人私の魂を配慮してくれない。私の魂に気を配る者もいません。」と、詩篇142篇4節の後半です。
現代の大きな病は孤独です。人間は人間を一人ぽっちにさせてしまいます。人間は自分のことばっかり考えます。私は弟の番人なのでしょうか?と言うカインのような態度が、今日当たり前のことになってしまってます。
前に申しましたようにキリスト者にとって最も大切なことは、一人一人が強い責任感を持って伝道のわざに励むことです。しかも特に、家庭を通しての伝道が特に重要な意味を持っていることに注意致しましょう。

そこでこれからお話する内容の主題は、「伝道活動における家庭集会の重要性」と致したいと思います。
もちろん言うまでもなく、家庭集会は目的のための手段にすぎないものです。人に福音を宣べ伝えるための手段としての家庭集会でありますから、伝道活動の方が家庭集会よりも大切なことは明らかです。主イエス様のために、魂を獲得するのです。これこそが目的であり、ただ一つの目標です。
ここで二つの問題について考えてみたいのですが、この問いに対してはあらゆる時代の、あらゆる信者が同じ答えを出してます。

第一の問は、「あなたの人生のもっとも大切な経験は何か?」と言うことです。その答えは主イエス様との出会い以外の何ものでもありません。
二番目の問いは、「人間に与え得るもっとも大切な助けは何か?」と言う問いです。その答えは、また再び同じように、主イエス様を知ることができるように人間を助けることです。

そこでさらに3つの点についてご一緒に考えてみましょう。その3つの点というのは、ある程度まで家庭集会の前提条件となるものです。
第一点は召しにふさわしく歩もうとする意欲。
第二点は証し人として行こうとする意欲。
そして第三点はいく人かでも獲得しようとする意欲です。

それではまず第一点から見てみましょう。召しにふさわしい価値ある歩みがここでは大切です。魂を獲得することはあらゆるキリスト者にとっての神の使命です。
あらゆるキリスト者はこのもっとも大切なご奉仕のために召し出されています。しかし小羊であるイエス様のために、魂を獲得したいというこの上もない情熱を本当に知っている人は、極めて少ないということは驚くべきことです。
多くの信者たちは、自分の仲間や近所の人の魂の救いに対して全然責任を感じていません。エゼキエル書3章18節にあるように、「私は彼の血の責任をあなたに問う。」という言葉は、私たちに大変な責任を驚くべきほど冷静に、また挑戦的に示しています。
それでは、そうした無関心さの原因は一体何でしょうか。

第一は認識不足、
第二は配慮不足、
第三は創造力不足です。

第一は認識不足です。人間は失われた者であり、悔い改めたくない魂は全て滅びに至るという認識が不足していることは、多くのキリスト者の特徴ではないでしょうか。
それから次に、失われた者の運命に対する配慮不足が挙げられます。主イエス様は一人一人に配慮してくださり、涙を禁じることはできませんでした。なぜなら主は救われていない人の危険と滅びをご覧になったからです。
救世軍のブース将軍はあるとき、救世軍の一人から仕事があまりにも大変で全然成長ができないという知らせを受け取りました。すると将軍は涙をもってやってみてくださいと答えました。その人は言われた通りに涙をもって仕事に励みました。その結果はすばらしいものでありました。主は祝福することができ、多くの魂を獲得することがおできになったのです。

そして最後に一つの魂の価値についても創造力の不足が挙げられます。主イエス様は人間の魂を価値あるものとして尊重なさいましたので、魂を滅びから救うために主が喜んで天の栄光を捨てて、この地上の貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださいました。
一つの魂の価値がそれほど高価なものであるならば、その救いのためにはどれほどの距離も遠すぎることなく、どれほどの重荷もわずらわしくなく、いかなる配慮も大きすぎず、いかなる仕事も難し過ぎることはありません。

ダビデレイナードは次のように告白しました。「私は主の栄光のためであればだめになってもかまいません。どこでどのように住んでいても、どのような困難を経験しようとも、それがキリストのために、魂を獲得するためであればどうでもいいことです。」
こうした態度の結果はインドにおけるすばらしいリバイバルにあいました。

そして召しにふさわしく歩むことのできる人は、一つの魂の計り知れないほどの価値を知っている人だけです。
主によって非常に用いられた伝道者ムーディはそのような人の一人でした。彼は魂の救いについて次のように告白しています。
私は確信する。すなわち、一人の天使がこの地上から天国へ飛んで帰り、そこで次のように語りつげるとします。すなわち地上には貧しくて、ぼろきれをまとった若者がいるのですが、彼には母親も、父親もなく、誰一人彼のことを心にかけてくれず、永遠のいのちに至る道を示してくれません。
そして主なる神が天使たちに向かって、あなたがたの中で誰が50年間、罪にまみれている地上に飛んで行き、この一人の若者をイエス様のみもとに導く備えがあるかと尋ねる時、天国にいる全ての天使は喜んで行くことでしょう。
いと高き方のご臨在していらっしゃるところにいるガブリエルでさえ、この大いなる幸いにあづかるため、私の崇高なすばらしい地位を捨てることをお許しくださいと言うでしょう。
一人の魂を悪魔の支配している王国から天のすばらしい光へ導く器として、神の御手の中にいることほど大いなる栄光はありません。われわれの必要としているものは失われた魂のための燃える心です。

スポルジョンは次のように証ししています。私は生まれてはじめて一人の人間の失われた魂を主のみもとに導くということを経験した日ほど、あふるるばかりの言葉に言い表わせない幸福感を経験したことはありません。
若い母親は最初の子供が生まれた時ほどうれし時はないでしょう。また兵隊は激しい戦いによって達成した勝利を大いに喜ぶことでしょう。主イエス様のために一つの失われた魂を獲得することは、それらにまさる喜びなのです。
ですから、私は一人の失われた魂を獲得することが最もすばらしいことだと確信するのですと。

続いて一人の無神論者の言明について見てみましょう。もしも私が宗教家であるならば、この人生における私の信仰の認識と実行が死後のいのちの運命に根本的な影響を及ぼすということを、本当に真実をもって、全く確信して徹底的に信ずるでしょう。
宗教は私にとって全て、文字通り全てを意味するでしょう。この世の喜びを私は無価値なクズとして押しやってしまうでしょう。この地上の追求は私の目には愚かなことであり、この世的な考えと感情は全く無価値なものです。
私の最初の思いは朝寝覚めても宗教であり、夜眠りに就く時にも宗教でありましょう。私は目に見えるもの、この世の宝のために、夜も朽ちることのない金の宝のために働くでしょう。

私にとって決定的に大切なことは死後の世界でしょう。天国のために、ただ一つの魂を獲得することは、私にとって何10年の苦しみの生涯に値します。この世のしこり、計算も私からこの目標を奪い去らないでしょう。この世の名誉は、私は福音を宣べ伝えることに対するいかなる妨げともならないでしょう。
私は目に見えないお方と語り、すなわち主なる神と語り、私の感情は新たに燃えはじめるでしょう。喜怒哀楽に満ちたこの地上は一瞬たりとも私の思いを支配しないでしょう。
これらすべては永遠の全てのほんの小さな断片にすぎず、いかなる言葉もその小ささを書くことができないほど小さいものでしょう。私は永遠の世界だけを大切にし、私の周りにいる失われた魂のことだけを考えるようになるでしょう。なぜならその魂は間もなく永遠の滅びに至るか、永遠の幸せに至るのかのどちらかだからです。
この地上だけに思いを馳せ、一時的な幸せを追求し、朽ち行く財産を得ようとするそのような愚かな人たちのために私は苦労するでしょう。

それから私は時がよくても悪くても、次のことを宣べ伝えることでしょう。たとえ全世界を儲けたとしても、魂を損なうならば何の得になるだろうかと。
今まで私たちは無神論者の考え方としていくつかの文章を紹介しましたが、その場合、もし万が一自分が宗教家だったならば、別の言葉で言うならばもし万が一神がいらっしゃるならばという条件付の文章であることに注意してください。
言うまでもなく無神論者は神の存在を否定しているわけですから、そういう条件をまったく認めていないわけですが、そういう無神論者でさえ万が一と言う条件を付けて考えることが可能です。
そうだとしますとそういう無神論者の言った言葉は、すなわち条件付の文章とは主イエス様の人生観とまったく同じことになることがわかります。そして私たちも同じ心構えを持つべきです。(A面終り)

何年も前にイギリスで起こった事実を申し上げますと、ジャズピースという大変な極悪人の一人が、裁判官の前に連れられて来た時のことをお話してみましょう。
彼は略奪者、ニセ金造り、人を殺した殺人犯として死刑の判決をくだされました。彼が死刑台のところに連れられて来た時、一人の牧師が彼の隣に行き主イエス様の救いの力について語りました。
するとこのみじめな極悪人は牧師の方を向いて尋ねました。あなたはそのことを本当に信じてるのですか?もしも私がそのことを信じたならば、そのことが真理であることを人々に伝えるために、ガラスの破片の上をイギリス中はって歩いてもいいでしょうと。

前にも申し上げました救世軍のブース将軍は、訓練の最も大切な事柄の一つとして、信者一人一人を一日24時間地獄へやれればやりたいと言いました。
それというのも、信者が悔い改めたくない魂の結末という現実の姿を見れば、その状態をまだ知らない人に真剣に警告し、福音を宣べ伝えるからです。主が私たちをあらゆる眠気や無関心さから引き出してくださいますように。
召しにふさわしく歩みたいという、切なる願いがなければ家庭集会をやりたいと思ってもそれは無意味なことです。それは結局うまくいきませんし、祝福がないからです。

次に第二番目の事柄、すなわち証し人として行こうとする意欲について考えてみましょう。これもまた主が家庭集会を祝福できる前提です。しかし証し人として行こうとする意欲とは一体どういうことなのでありましょうか?

これについては四つ事柄、すなわち、
第一に、愛すること、
第二に、苦しむこと、
第三に、走ること、
第四に、重荷を負うこと、
を挙げることができます。

第一は愛することです。すなわち人間を愛することです。
愛されたくない人は誰もいないでしょう。他の人から除け者にされ、孤立し、絶望的になった人は決して幸せではありません。今日隣人愛についていろいろ言われていますが、結局は自分自身のことだけしか考えていません。本当の悩みは見過ごされてしまっていますので過小評価されています。
人間は静けさと愛とを、みな切に求めてあこがれています。人間は憩いのない者です。人間は財産を持ちたいと思っています。人間は認められたいと思っています。しかしそれらの背後には永遠なるもの、真の満足を与えてくれるお方、すなわち主イエス様に対する飢え渇きが隠されています。

今日必要とされてるものは、キリスト者の宣伝者でも世界改革者でもありません。ただ過ぎ行くもの、一時的なものだけを追い求めることはむなしいのです。
もし私たちが主を大事にし、主イエス様を心から愛し、その動機が純粋であるならば、私たちの周囲の人々は自発的に主イエス様を信じ主に従がう決心をするようになります。
実はこのことが今日一番必要とされてることなのです。私たちの周りにいる人たちは私たちがその人たちを本当に愛していること、私たちが助けて上げたいと思っていること、その人たちのために存在していること、その人たちのために喜んで犠牲を払うために時間を持とうとしていることに気が付いてるでしょうか。
証し人として行こうとする意欲とは、一体どういうことなのでしょう。今まで学びましたように、人間を愛することです。

第二に苦しむことです。苦しむとは主イエスの苦しみにあずかることを言います。主イエス様は群衆を見た時可哀相に思われました。それは羊飼いのない羊のように弱りはてて、倒れている彼らを可哀相に思われたのです。
証し人として行こうとする時、まず正しく見ることが大切です。すなわち私たちの周囲の人々を主イエス様の目でもって見ることが大切です。すなわち本当の悩みを見ること、知ることが大切なのです。
一つのコーラスの中に次のような一節があります。今日世界が必要としている者はイエスです。
主、お一人だけが世界を解放することができますと、主イエスの目でもって、何百人という人々の現実の姿を見る者は主イエスと同じ気持ちを持ちます。その人はこの世が欲しいものではなく、この世が必要としているものを与えるでしょう。

使徒の働き3章に出てくる乞食は、お金やほどこし物を欲しがりました。なぜならそうしたもので貧乏人は満足したでしょうから。しかしその乞食は幸運にもその期待を裏切られました。その代わりに彼はもっとすばらしいものをもらったのです。
もちろん一時的な過ぎ行くものではなく、全く新しいいのちをもらいました。すなわち乞食は自分の欲しかったものではなく、必要としていたものをもらったのです。
周りの人々を配慮する人は苦しみはじめます。エルサレムを思って泣いた、主イエス様の苦しみを理解するようになります。エルサレムの町、そして人々がまことの平和のために必要なものを欲しいと思わず、反対に拒んだゆえにイエス様は苦しみました。
悔い改めて救いに至る機会を提供されているのにもかかわらず、意識的に、あるいは無意識的に、再三にわたって拒み続けてきた人々のゆえに主は苦しまれました。

御心にかなう教会とはどのような教会なのでしょうか?それは正しい教えをもったり、この世の不信仰を裁いたりすることによってではなく、それらのもとに身をかがめ、本当に苦しんでいることによって見分けられます。
主なる神の霊は深い同情の霊です。共に苦しまなければ決して傷はいやされません。共に苦しむことのできない者は、決して主の愛を伝える者となりません。
私たちは私たちの主の救ってくださる血潮の証し人でありたいと願うならば、私たち自身が苦しまなければなりません。証し人として行こうとする意欲とは、一体、どういうことなのでしょう。愛すること、苦しむことです。

第三に走ることが挙げられます。まず最初に主のみもとに走ること、それから苦しんでいる人のところへ走ることが必要です。人間は永遠に滅びるという知識は私たちの目を覚まし、魂を救い出すための運動へとかりたてます。
私たちがその人たちのために祈っていること、また苦しんでいることを彼らが気付く時、彼らはもはや無関心にとどまることはできません。彼らの足元の土台が取り除けられてしまいます。
その結果彼らは主イエス様の御手の中に落ち着くまでは、長い間精神的に動揺を続けなければなりません。あなたは人々のところへ走っていく前に、そしてまた家庭集会をはじめようとする前に、まずイエス様のところへ走ってください。
なぜなら、魂を獲得することは人間の行いの結果ではなく、主なる神お一人のみわざだからです。しかしもし、私たちが主のみもとに走り祈るならば、主は大いなる力を表わしてくださいます。
恐れず、大胆に、主イエスの証しをすることができるように祈ってください。主イエス様を十字架につけた世の中で、主を証しすることは決して簡単ではありません。それは初代教会の信者たちにとっても、決して簡単なことではありませんでした。ですから、彼らは祈ったのです。

使徒の働き4:29
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。

この祈りは答えられました。

使徒の働き4:31
31一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

聖霊に満たされた結果、彼らはみことばを大胆に語りだしたと言うことです。

主に備えられた人々のところに導かれるように祈ってください。私たちは誰にでも福音を宣べ伝えるというよりは、むしろ備えをしていることが大切です。「主よ、私は何をすべきか、あなたが望んでいることをしたいと思います。」と言う態度が必要です。
ピリポはこの心の備えができていました。それですから主は用いることがおできになったのです。適切な時に適切な言葉を語れるように祈りなさい。
主お一人だけが、いかなる場合においても何が必要であるかをご存知です。魂の救いのために祈ることは悪魔に対する宣戦の布告、すなわち戦いの宣言であることを覚えてください。
私たちは全く晩生の魂、すなわち一人一人の名前と結びついた魂のために祈らなければなりません。つまり一つ一つの祈りの対象が主にもたらされなければなりません。時と場所を決めた祈りも大切です。答えが与えられるまで祈り続けましょう。
疑わずに信仰を持って祈りなさいとヤコブの手紙に書かれています。主から大きなことを期待しない者は主をあなどる者です。主イエス様はご自分の言葉を必ず守られます。
期待されていないと思っている者も主を期待しなさい、という祈りは人々を救う場合の、主なる神の最も力強い道具です。

証し人として行こうとする意欲とは、一体どういうことなのでしょうか。愛すること、苦しむこと、走ること。
そして第四に、重荷を負うことが挙げられます。失われている人を愛し、苦しみ、走る者は周囲のまだ信仰をもっていない人々に対して重荷を負うことになります。この重荷は最も重い重荷です。男の方よりもご婦人の方がこのことについて、たくさんのことを報告することができるでしょう。
主イエス様を信じている多くの奥様たちは、まだイエス様を信じていないご主人を持ち、ともに生活する時、全く孤独な拒絶された状態におかれますが、それに対して教会全体はどれだけの重荷を負ってるのでしょうか。まことの苦しみはともに交わり、ともに重荷を負い合う備えがいつもできてる状態にあります。

ガラテヤ人への手紙6:2
2互いの重荷を負い合い...なさい。

とあります。実際にはどのようになってるのでしょうか。
吉祥寺集会のある兄弟は、いわゆる統一教会という異端に以前は関係をもっていました。そしてその後、彼は集会に導かれるようになり、主イエス様を知ることによって救われました。
それから彼は何年もの間集会で忠実なご奉仕をし、会社の中でも聖書の集いをしはじめました。しかし彼はその後横道にそれてしまいました。すなわち彼は哲学者マルチン・ルーハーによって惑わされてしまったのです。
しかしそのとき、集会の中ではこうした一人の変化に対して無関心ではありませんでした。毎朝6〜7時までの間、5人の兄弟が私の住まいに来て、集会に来なくなってしまった兄弟のためにともに祈り合いました。
一年半の間、毎日兄弟たちは奥さんと主と共にこの重荷を荷いました。兄弟は自分のために一年半の間、祈ってもらったということを聞いた時に泣き出してしまいました。
私たちの素晴らしい主は彼を回復してくださったのです。彼は再び用いられるようになり、四国の高松に転勤した時、自分の家庭を開放して家庭集会をはじめました。
最初の4ヶ月間に7人の人が導かれ、主イエス様を信ずるようになりました。ここで申し上げたことは主イエス様のために、他人の重荷を負う者は必ず報いられるということです。

今まで私たちは、ふさわしい歩みと、ともなる生活という二つの点を指摘しました。召しにふさわしく歩むこと、また信者の一致が明らかになるところでは未信者たちも驚き導かれるようになります。
見よ、彼らは何とお互いに愛し合ってることか、何とお互いに重荷を負い合っているのかと、これこそ私たちが主のために導きたいと思ってるこの世のまわりにおける心情に価する証しなのです。

今まで家庭集会の前提条件とは一体何なのでしょうか?という質問に答えて参りました。
第一点は召しにふさわしく歩もうという意欲、第二点は証し人として行こうとする意欲、そして第三点はいく人かでも獲得しようとする意欲です。
いく人かの者でも獲得しましょう。聖書のどこにでも、全ての人が救われるとは約束されていません。しかし動かすことのできない確かなことは、全ての人が救われることを主は望んでおられるということです。
ある人は、一人の人をイエス様のために獲得するために1000人以上の平信徒と6人の牧師が必要と計算しました。しかしこれはおかしいことです。私たちの集会では一ヶ月に一人も主に導かれなければ一体どうしたのでしょう?主はなぜ祝福してくださらないのでしょうか?何が主のみ手を束縛しているのでしょうか?とお互いに語り合うようになります。
しかし今日、多くの場合夜通し働いても何も獲らなかったという状態におかれている教会が多いのではないでしょうか。主の目標と信者の持つべき目標は、失われた魂が主イエス様を通して、いのち、また豊かなるいのちを見出すことです。主イエス様は救いのみわざをなしておられたのです。

そこで今、私たちに与えられている使命は主の犠牲による贖いを宣べ伝えることです。
今日教会の多くの特徴は次のようなものです。すなわち人々は討論し、組織作りをし、委員会を作りあれこれと試み、新しい宣伝方法を考えたり、マスメデアに入り込もうと努力したり、大会を開いたり、セミナーを計画したり、そして主がそれらの活動を祝福してくださるようにと祈ったりします。
しかししばしば単純に主の前に静まり、主にみことばを語っていただく、主のご計画を尋ね求めることの方がはるかに賢いのではないでしょうか。

大きなことをして人々をあっと言わせる気持ちは、人間の本性の中に根ざしています。人は大勢の群衆を見ても、その一人一人は忘れがちです。しかし今日、最も大切なことは一人一人に対する集中力です。なぜでしょうか。一人一人を集中的に導かなければ救われませんし、そこから信仰の成長もなければ、他の人を助けることができなくなるからです。その目的を達成するために家庭集会は大いに役立つかも知れません。

前に申し上げた通り、家庭集会は福音を宣べ伝える手段であるべきです。目標は常に人々が主のみもとに来ることです。人々が主のみもとに来るべきであるならば、まだ主を知らない人たちがその場にいなければおかしいことになります。
従がって家庭集会の前提は私たちの場合、未信者が必ずいるということです。未信者が一人も来なければ家庭集会はやめるようになります。というのは信者だけが集まると一種の分派づくりになってしまい、他の信者の悪口を言うようになりがちだからです。
未信者がいれば、そのことのための、ボイコットのための暇は全然ないからです。なぜならば私たち一人一人の心からの願いは、まだ救われていない人々が悪魔の力から、すばらしい主の光の中に移されることだからです。
吉祥寺では一昨年97人、昨年は100人の人が洗礼を受けました。これはおもに家庭集会によるものです。しかしそれにもかかわらず私は家庭集会とはこうあるべきものだと言うつもりはありません。というのは真似事は何の価値もないからです。

家庭集会の場合大切なことは、真似することが大切な処方箋よりは、むしろ素案、基本構想なのです。では一体その違いは、例えばお料理の本の中にはいろいろな料理法、すなわち処方箋が書かれています。
「例を挙げますと、コーンミートボールの作り方をご紹介致しますと、まずはじめに挽肉に、塩小さじ1/3ぱい、小麦大さじ1ぱい、コショウ少々を入れ、よく混ぜ合わせ、これをシュマイ位のダンゴ状に作る。たまねぎ、パセリはみじん切り、次に厚手の鍋にバター大さじ1ぱい半とたまねぎを入れて、弱火でしんなりするまで炒める。そのなかに水半カップで溶いた固形スープの素とコーン、牛乳を加え、ひと煮立ちしたところに肉ダンゴを加え一度、上下かえして汁をかけながら弱火で煮る。肉が煮えたらコショウ少々で味を調え、皿に盛りパセリのみじん切りを振りかける。以上」

これは一定の定められた規則で、一種の特許みたいなものです。こういうふうにやれば上手くでき上がります。
しかしながら残念ですけれども、私はどういうふうにやるべきかは申し上げることはできません。そのことよりも私たちの主題の場合は主が次のような言葉で弟子たちにお与えになった、素案、基本構想が大切です。

マタイの福音書28:19-20
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

と、すなわちただ単に救いを得るだけでなく、主の弟子として用いられ主に従がう者になるようにと、主はおっしゃてます。同じ素案をパウロはテモテに与えました。

テモテへの手紙第II、2:2
2私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

と、この時代の民の、主の基本構想がここに記されていますが、この素案は今日にも当てはまります。すなわち一人一人のために労するということです。忠実な人にゆだねなさい。一人一人のために労しなさい。
家庭集会とは教会を建てる一つ一つの細胞のようなものです。ただ単に信者の家族が家庭を提供することだけではなく、多くの信者のご婦人たちもまた主に用いられるようにと家庭を提供しています。
それはいうまでもなく時間と力とお金とを犠牲にすることを要求します。一言で言えば犠牲なしには成り立たないということです。吉祥寺集会はなぜ絶えず増大していくのでしょうか?大勢のルデアがいるからです。

使徒の働き16:15
15彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

あるとき家庭を利用せざるを得ない状態になりました。それまでの集会所が小さくなってしまったのです。新しく建てるためには古い家を壊さなければなりませんでした。6ヶ月間、自分の集会所を持ちませんでした。もちろん、日曜日の集会は公の場所を借りて行なうことができましたが、それ以外の平日の集まりについてはどうすることもできなくなりました。
そのとき私たちのルデア、救われた姉妹たちが申し出てくれまして、住まいを提供してくださいましたので、いろいろな方の家庭で集会を持ちました。
このルデアの一人である姉妹の夫にとって決定的な転換点となりました。一ヶ月平均何10万円のお酒を飲み、しばしばどこかの外国に雲隠れしてしまいました。
しかし主は彼に働いてくださいました。今日彼は集会の中で責任を持つ一人の兄弟になっています。自分の家で経験した自由な交わりが、三人の子供さんも主に導いてくれたのです。この家庭は主を愛し、日曜日の午前中、中高生の集いの場となっています。両親の寝室、子供部屋、居間、台所も、すべて各クラスの部屋に使われています。

使徒の働き5:42
42そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

とあります。すなわち初代教会の人たちは宮、すなわち会堂だけではなく家々でも集いをしていました。これこそ信者たちの万人祭司制です。
主イエス様は小さな集いのことを次のような言葉で表わしておられます。二人三人、私の名によって集まるところに私もその人たちの真中にいますと。
信者たちが迫害された全ての時代の為政者、権力者たちは信者たちが家々で集まることを嫌がりました。なぜならば主の御名により信者たちが二人三人集まってる場合、為政者たちは信者たちの集まりの実態を全体国家の統制力によって調べることができないからです。
あらゆるいつわりの宣伝や迫害にもかかわらず使徒たちの交わりは、すなわち家々で集まる人々の集いはさらに存続しています。

使徒の働きから今日まで、家庭集会は自分勝手に集まりの中心になりたいからと言うような不純な動機ではじめることは許されません。そうではなくて集会全体、教会全体が祝福され接触を持つために、しかも新しく導かれた人、信仰の歩みをはじめた人に霊の糧を与え、まごころによる温かさが得られるために奉仕しなければならないのです。
多くの場合家庭集会を通して信仰に導かれ、そこで求めている人々は主イエス様の救いの力のすばらしさを経験します。また家庭集会は信者たちにとって霊的成長の場でもあります。
家庭集会は温かい個人的な雰囲気を提供すべきです。多くの未信者は個人の住まいに招待され自由な会話の機会を与えられ、お茶とお菓子を通しての交わりが多くのことを橋渡ししてくれます。重要なことは一人一人を大切にすることであってショックを与えるようなことは慎まなければなりません。

そのことを明らかにするために、一つの例を挙げてご説明してみましょう。かって大分前のことですが家庭の中がめちゃめちゃになってしまった家族がありました。
家族をお宅に尋ねた時、私たちは聖歌を賛美したり、聖書を開くこともしないで短い映画をお見せし、その後で自由な話し合いを致しました。
その結果そのお嫁さんが主を受け入れるようになり、主に仕える生活を続けられるようになりました。家庭集会で大切なことは私たちが持ってる知識を人々に公にすることではなく、何らかの印象を与えることです。
すなわち人々は私たちがしっかりとした土台の上に立っていて、精神的な支えとまことの平安とをもっていると感じることが大切です。大抵の人々は集会所に、また教会に来る心の備えを持っていません。
ですから私たちはそれらのところに行かなければなりませんし、個人的な伝道、個人的な話し合いがもっとも有効な伝道方法なのです。
ペテロの手紙第Iの4章10節によると次のことが書かれています。

ペテロの手紙第I、4:10
10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

と、住まいも一つの賜物であり、それを通して有効な奉仕がなされます。
聖書に出てくる多くの表現は未信者にとってなじみの薄いものであり、そのために正しく理解されなかったり、全く誤解されたりすることが少なくありません。それに対して小さなサークルですとその問題が解消され、個人個人、親しみ深い言葉で聖書の真理を解き明かして上げることができます。
まことの愛はいろいろの方法を造り出してくれます。失われた魂のために主イエス様の愛をもって苦労することが大切です。個人の住まいの気持ちよい雰囲気は緊張感をやわらげ、個人的な接触を造りだしてくれます。
家庭集会を通してまず主に結びつけられ、それから集会、信者の群れである教会につながるようになります。




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