健全な成長2


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

今日は続いて諸教会の健全な成長について考えたいと思います。
前に始めました主題は、伝道活動における家庭集会の重要性だったのでありましたが、続いてこの主題でもってもう少し考えてみたいと思います。
家庭集会は極めて聖書的です。使徒の働きから、2〜3ヶ所お読み致します。

使徒の働き2:46-47
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

使徒の働き5:42
42毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

使徒の働き12:1-12
1そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
3それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
4ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
5こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
6ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
7すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
8そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
9そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
10彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
11そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

使徒の働き20:8
8私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

使徒の働き28:30-31
30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

ローマ人への手紙16:3-5
3キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
4この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
5またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

コリント人への手紙第I、16:19
19アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

コロサイ人への手紙4:15
15どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

ピレモンへの手紙1:2
2姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。

とあります。コルネリオの家も、ゴコリの家も家庭集会であったことは確実です。預言者たち、使徒たち、主イエス様は家々で主なる神と神のみわざについて語り、病人を見舞い、癒し、孤独な人を慰め、罪人を神に立ち返るように呼びかけ、お互いに慰めあい喜び合いました。
1525年にドイツの宗教改革者マルチンルターは次のように書きました。
「心からキリストを愛し、キリストに仕えたいと思う人は家々に集まり、そこで祈り聖書を読み、洗礼を授け、聖餐式にあづかるべきです。」と。

家庭集会は生き生きとした教会の表れであるべきです。家庭集会を通して教会は発生し、成長しました。初代教会の頃は家庭集会が普通の姿でした。
そして迫害により、信者たちは再び家庭集会を余儀なくされました。いわゆる経験主義の父と呼ばれるフィリップセコブセーナは家庭集会のために語りました。
それからシェンゼンドルフもまたキリスト教の家庭集会においては、何処にでも家庭集会があることを要求しました。20世紀においては、とりわけ中国、インド、アフリカにおいて家庭集会を通して数え切れないほどの多くの人が主に導かれました。

これまで述べたことをまとめますと次のように言うことができます。初代教会の起源と成長のために、家庭集会は非常に大きな意味を持っていました。
いわゆるリバイバルは、常に小さな集団の群れの個人個人から生まれ、しばしば家庭集会によって荷われました。迫害の時代には家庭集会は信者の生き残る一つのチャンスを提供しました。
主の使命に従おうとすれば家庭集会はどうしても必要です。収穫は刈り入れなければなりません。すなわち主イエス様によって備えられた魂は私たちによって見出され、主に導かれなければなりません。それは小さい家庭集会の中での方がはるかに簡単でした。
あなた方は私の証人になるべきです。まずエルサレム、すなわち自分の家で証人になるべきです。家庭集会は個人伝道のためもっともすばらしい可能性です。
ただし家庭集会は集会や兄弟姉妹ついての欠点を話し合う場ではありません。伝道のためだけではなく、信者の成長のためにも家庭集会はどうしても必要です。それによって人はよりよく知り合うようになり、一人一人の悩みを理解し、語り合うことができるようになります。

家庭集会では、人は単なるお客様としてではなく、積極的に中に入って参加してる者となることができます。
あなたはあなたの親しい人が救われて欲しいと思ってるのでしょうか。そうだとするならば、祈りのための名簿をつくり、その人たちのために規則正しく祈り始めてください。
主の御約束に信頼しなさい。機会をつかんであなたにとって主イエス様がどのようなお方であるか、一番分かりやすい証しをしてみてください。そして主が働いて、その人々をみもとに引き寄せてくださることを主に感謝してください。というのは、主は必ず約束を守ってくださるからです。主はうそを言いません。

成熟した実を見出しなさい、収穫は熟しています。それは主なる神の言葉です。悩みと神の霊によって備えられ、主を受け入れる能力のある人々は至るところにいます。まことの救いをその人々は待ち望んでいるのです。
大学でも、職場でも、主婦の間でも喜んでイエス様のところに来る人たちがどこにでもいるのです。しかしどのようにしてイエス様のところへ行けるのか、誰もその人たちに話してくれません。
あらゆる時代の最大の誤りの一つは、未信者が神についてもはや何一つ知りたいと思わないと、多くの信者が思い込んでしまっていることの中に表れています。
つまり多くの人は、人間が福音に対してまったく無関心になってしまっていると思い込んでるのですが、それはいつわり以外のなにものでもありません。

人間は永遠なもの、変らないもの、存続するものを求める気持ちをもっています。神の霊はこの飢え渇きを引き起こしてくれるのです。
しかしこれらの人たちは、どのようにして主のために獲得されるのでしょうか。人間は今日、いかなる宗教も望んでいません。多くの人は教会またはキリスト教と何の関係も持ちたくないのです。彼らは宗教的な形式に関心を持っていません。
しかし主イエス様が証しされる時、多くの人は主の力、主の愛、主の赦しを経験したいと望む者となります。私たちがいつも経験することは主のゆえに非難され、ののしられ、責任を押し付けられます。しかし大抵の場合、それは本当の気持ちを隠すために行なっているうわべだけの議論にすぎないのです。
例えば教会のせいにしたり、その欠点を指摘したり、信者とその弱さ、神とその挫折、聖書とその矛盾、世界史とその無意味さなどが指摘され批判されます。しかし多くの人は、私たちが考えるよりもはるかに救いを求めて待ち望んでいると言うことを決して忘れてはなりません。
もちろんそれにはしばしば長い道のりが必要です。まず挨拶からはじまって、自己紹介を経て最初の親しい会話、最初のお茶への招待といった具合です。出会いと交わりなどの接触などはしっかりと結び付けられなければなりません。この接触こそ信頼の芽生えとなるものです。

正しい時に正しいことを言うことができるためには、信用はどうしても必要です。相手を無視したような態度をとりますと、大抵の場合後でもはや会話を続ける機会を失うことになります。
何が許され、何が許されないのかの分別はどうしても必要です。その瞬間を切に待つことと、強制しようとすることとは、二つの別の事柄です。対話はあらかじめ備えられなければなりません。私たちが行なうことは私たちの同僚の心の戸を開くか、閉じるかどちらかを行なうことができるのです。
私たちの行動によって、他の人は信仰が人を変えるということを読み取ることができるはずです。

私たちは主に属してる者として主を証しする使命を持ってます。私たちが主イエス様に対する愛によって行動することは無駄なことではありません。必ず実を結ぶのです。
主のみことばがむなしく戻ることはないということを知ることは、そしてまた小さなことにおける忠実さが、必ず報われるということを知ることは新しい勇気を与えてくれます。

人は救われるためには、大きなことよりも、小さな愛のご奉仕の方が普通であり、大きな跳躍ではなく、小さな歩みの方が普通の姿です。すなわち、人はすぐ聞いて救われるよりも少しづつ導かれて行くでしょう。
聞くことができるということは話したいと思うことより大切です。多くの場合語ることのできる時を与えられると、かたくなな堅い心も開かれます。
話し方、話す感情、話す速さは、他の人はそれを受け入れるか切ってしまうか決めるカギとなるものです。しばしば聖書講義は一方通行の独演となってしまい、相互交流は不可能となりがちです。
しかし大切なことは、お互い聞き合い、語り合うことです。大切なことはまず語り合うこと。それからその人を主の語り合い、すなわち祈りに導くことです。

救われるために何をなすべきでしょうか?と真剣に問うところから信仰ははじまります。
誰でも、救われるためにどうしたらよいのか教えられる必要があるのです。私が知ってる人が誰でも、主が私に導いてくださった方ですから、この人たちは私から救いについて正しい知識を知るべきであり、また私はそれを伝える責任と使命をもってます。
主なる神の救いの喜びの訪れは隠してはなりません。このように主を証しする義務は他の人と会話をするように私たちを他の人々に導いてくれます。
主と出会った人はそのすばらしい救いという喜びの訪れを、他の人々にも伝え、その人が主と出会うようになることが大切です。

あらゆる接触の目的は人々が主のみもとに行くことです。しばしばあれもこれもいろいろなことがなされますが、決定的に大切なこと、主イエス様のみもとに連れて行くことがおろそかにされがちです。
主イエス様のみもとに導かれた人は新しい者につくり変えられます。話の相手の人が自分の心を開けば開くほど、主のみもとに導かれる可能性は大きくなります。ですから最大の戒めは忍耐です。
ここで覚えていただきたいことは、主のこと、聖書のこと、弁明することが必要なのではなくて、幼子のように主を証しすることが大切なのです。

かたくなな心は、愛と誠実さを知るようになると開かれて行くようになります。非常識なことをすれば、いかなる交わりも成立されません。相手の人を煩わせたり、侮辱したりするとその人は心を閉ざしてしまいます。心の戸を無理にこじ開けることはできませんし、またその必要もありません。
またどのように語られるかということも大切なことです。興奮してしまうと一遍にだめになってしまいます。
自分のものにしようとするのではなくて、助けたいという意欲も大切です。雄弁な講演よりも大切なものは、たとえつたない言葉であっても、まごころから出て来る言葉であるならば、その方がはるかに効果的です。
たとえば、私たちは表面的には完全に失敗したと思うようなことがあっても、それがまごころから出たことであるならば、必ず主ご自身が実を結んでくださいます。

福音を宣べ伝える機会をねらいなさい。何百万人もの人口をかかえる大都会では、ともすると身近な隣人、たとえば、クリーニング屋さんとか、酒屋さんのご存在を見失いがちですが、そうであってはいけません。
どのようにして救いの確信を持つに至るのかについて、まだ一度も聞いたことのない人が数え切れないほど大勢いるのです。もちろん私たちはみな数え切れないほどの多くの伝道の機会を与えられています。家庭で、友達や親戚や隣の人や、職場の同僚の間で、また電車の中で、路上で、至るところで福音を宣べる機会が存在してます。

あなたの目標は一つの失われた魂のために全精力を集中することです。信頼が得られるまで、その人のために時間をつくらなければなりません。さもなければ、その人は一度も心を開くことがないでしょう。
人を導こうと思う時、忍耐を持ってその人の話を聞くようにし、議論などを慎まなければなりません。その人が本当に救われたいと願うならば救われ、それを望まないならば救われません。全てはその人しだいであり、その人の自己責任であるということをその人に示してあげましょう。
相手の人と話しながら、絶えず主により頼む姿勢を持ち続けましょう。いろいろ質問された場合、答えとして前面に出てくるのはあなたの経験より、むしろ神の言葉であるべきです。ただ一つの武器は神の言葉です。

キリスト者は誰でもキリストの大使であり、主なる神との和解を受け入れて滅びから救われるようにということを、まだイエス様を知らない人々に教えて上げなければいけません。
真理を求めている人たちに、主なる神が主イエス様を通して約束してくださった救い、また助けの御手をその方々にも提供して上げましょう。主の助けは人生のどのような状態の時にも、たとえ絶望的な状態でも、死に直面したような時でも、裁きの時ですらも、永遠の助けであり続けるのです。
証しの中心はいつも主であるべきです。すなわち主イエス様の死によって私たちは永遠のいのちを約束され、主イエス様の復活によって私たちの死は力を失ったということが中心となるべきです。
私たちは決して恥をこうむらない生き生きとした望みを持っています。主イエス様ご自身が唯一の証人です。

主は呼んで招いておられます。主は決断を迫っています。主は明日のことよりも今日、今のことを思っておられます。主は人間を変えるだけではなく、新しくつくり変えることを望んでおられます。
主が招いて開放してくださる人が、煩わしい人間関係から開放され、死の恐怖から開放された証人となるのです。主によって開放された人は喜びと感謝に満ち、天のために奉仕したいと願うようになります。
主は絶えざる喜び、すなわちいかなる悲しみも奪うことのできない喜びを与えてくださいます。主の証し人としての主の救いのみわざを伝えるということは、集会に、教会に招くことを意味するのではありません。
多くの人は勧誘されるということに気が付くと身を退いてしまいます。私たちは主の証し人となるように召し出されているのであり、結果がどうであっても、主が責任をとってくださいますから、主に任せることができるのです。

それではここで、今まで申し上げましたことをもう一度簡単にまとめてみましょう。
私たちはおそらく伝道の必要性を確信しています。それですから特別伝道集会は毎年行なわれる、いわゆる年次計画となっているでしょう。しかし事実はどうかと言いますと、この特別伝道集会を通して導かれる人の数は非常に少ないのではないでしょうか。
そうなりますとどうしても新しい方法について考える必要でないでしょうか。今日多くの教会は、長い間新しい方法を試みようとしています。例えば、何か今までなかったようなことを魅力的に行なおうといろいろと試みるわけですが、このような正統興行のようなものは長続きしないとわかっています。
いわゆる平和運動もその一つと言えるでありましょう。それからまた時代精神ともいうべきその時代の流行に合わせようとすることも、また塩が塩気を無くしてしまうことになりがちです。
この世にそのようなキリスト教に関心を示さず、それどころか全く無関心となってしまって見向きもしなくなります。

歩むべき新しい道とは、とりもなおさず古い道に帰ることであると私は確信しています。私たちは何年間も毎月、5年間も伝道集会を行い、その度毎に2万枚のトラクトを印刷し、一軒一軒配って歩きました。しかしそこから結実した実はほとんど何もなかったのです。
5年以来もう一回も特別伝道集会を持っていません。多くのお金、力、時間が節約されましたが、その結果はどうであったかと言いますと、平均して毎週一人ないしは、二人、決心してイエス様に従うようになりました。
その秘訣は何でしょうか。確かに伝道があるに変りはないのですが、前の形の伝道とは全く変りました。すなわち以前は伝道者を招いて集会の兄弟姉妹はその伝道者のメッセージを聞くという、いわばお客さんだったのですが、それをやめてからは個人個人が伝道者となって自分の家を家庭集会に開放するようになりました。

あらゆる信者は何があっても個人個人の伝道をするという必要性を痛感するようになりました。ですから私はあえて、個人個人の伝道をするようにお勧めしたいと存じます。
しかしだからといって専門家になる必要はなく、それは主を経験した者ならば誰でもできることなんです。主は一度もちっぽけなことを約束なさいませんでしたから、私たちも大きなことを主から期待しようではありませんか。

多くの場合、信者たちは教会の中で比較的快適な生活を続けることができますが、その教会の外には福音が伝わらないことが少なくありません。しかしそのとき一番喜ぶのは悪魔であるということを私たちは知らなければなりません。
私たちの周囲にいる大部分の人たちは、キリスト教に対して何の意味も持っていません。それこそ主イエスの証人にとって大きなチャンスなのです。
なぜならば、決して私たちはキリスト教の宣伝をしようとしているのではなく、主イエス様だけを宣べ伝えたいと思っているからです。

しかしまたキリスト教に対してわずかであっても関心を持っている人もいます。大抵は信仰について正しい知識を持ち合わせていません。あるいは信仰は持っていても救いの確信がないという人も相当います。
そういう人たちはどうしたらいいかわからずにいるんです。つまりどうしたらばイエス様を受け入れることができ、正しく知るかがわからないのです。これもまた私たちのチャンスです。
あらゆる人間は主なる神が人間に何を求めてるのか、主の目標とご計画が何であるかを知る権利を持っています。主イエス様のゆえにまことの神が私たち一人一人をどれほど愛しておられるかを知らずにいてはなりません。
それを宣べ伝えることはキリスト者の使命であり、責任なのです。福音を宣べ伝えることは生きがいのある人生があるということを、公に告げ知らせることに他なりません。

大部分の人は今日、家庭においても、職場においても、充実した生活を送ることができなくなっているというのが実情でないでしょうか。すなわちそういう状態から開放されて、ことが破綻しないためにはどうしても主イエス様が必要なのです。
周りにいる人々で悩んでいる人々を見過ごしにすることはできません。ですから福音は宣べ伝えなければならないのです。
そのためにお互いが語り合い、聞き合うことが大切です。お互いの交流がなければ相互理解も、相互信頼も成り立ちません。話し合うことによってお互いに理解し合い、励まし合い、助け合い、慰め合うことができるのであり、そしてまたそのことが相手の人を決断にまで導くのです。もちろん相手の人の生活においてどのような考え、要求、悩みなどがあるのかを知るための努力や、苦労をおしんではなりません。

どうして人は救いに対する飢え渇きを持つことができるようになるのでしょうか?それは多くの場合キリスト教の教えによるよりは、むしろ主の恵みによって変えられた人の証しのためです。
もしも私たちが自分の家に一人一人招待するならば、それに応じる備えのある人は少なくありません。誰が招待されるべきでしょうか?悩んでいる人々、孤独な人たち、彼らのために祈るようにと主に示された人々です。すなわち、もうすでに主によって備えられた人たちです。
ではどのように招待されるべきでしょうか?もっとも大切な伝道方法の一つは、お客を心からもてなす精神です。一杯のお茶に招待したり、福音的なカセットや映画を見せたり、聞かせたりすることも一つの方法です。
人は誰でも交わりを求め必要としてます。その人たちは個人的に語りたいと思っています。私たちが考えるよりはるかに多くの人たちが、当時のギリシャ人のように、私はイエスを見たいという願望をいだいています。
刈り入れの時は近づき熟していますと主なる神は言っておられます。こういう主なる神のミッション、神の見方は必要です。備えられた魂は主イエスのみもとに導かれなければなりません。
それは私たちによって、あなたによって、また私によってなされなければなりません。犠牲なしにはいかなる実も結ばれません。

主イエスの愛は、私たちをかりたてなければなりません。悩んでいる他の人たちとともに悩むことを主は望んでおられます。主イエスの愛をもって、この世の悩みを見るものは、福音を宣べ伝え証しせざるを得ません。
かたくなな一面性やうわべだけの偽善的な行為や、極端な禁欲生活はいつも人をつまづかせます。毎日の行動に対する律法的な指図や努力が決定的に大切なのではなく、主なる神の霊によって導かれうる生活が大切なのです。
まず聞くことができること、そして聞こうとすることが第一です。主の言葉だけではなく、私たちが導びこうと思う人々のたくさんの言葉にも、耳を傾ける必要があります。私たちだけが語り手となる必要はありません。またそうであると決して用いられません。(A面終り)

個人個人の伝道の場として大切な、家庭集会について大切な点をまとめてみると次のようになります。
まず聞くこと、それから話すこと、説教するのではなく語り合うこと、強制することではなく提供すること、愛は相手の心を柔らかくし、説教は相手の心を閉ざしてしまいます。弁明することよりも幼子のように証しすること、研究したことではなく、経験したことを証しすることが大切です。
例えば自分が経験した病気、個人的な悲しみ、自分の不安や途方にくれた時のこと、いろいろな困難な問題、家庭の悩み、個人的な負い目、信仰の試練、聖書について、祈りについてのいろいろな経験です。
心の扉をこじ開けるのではなく、期待をもってたたき続けることが大切です。何があっても神のみことばをいつも大切にして、自分の経験にまさって、みことばを大切にすることがどうしても必要です。
また、まことの信頼とまことの常識も必要です。あるとき有名な伝道者スポルジョンのところに一人の学生がやって来て言いました。「私はもう何ヶ月間も説教しましたが、誰一人救われません。」するとスポルジョンは尋ねました。「あなたはみことばを宣べ伝える時に、主がいつも祝福し、失われた魂をみもとに引き寄せてくださると思いますか?」と。
学生は「もちろんそんなことはありません。」と答えました。「そこにこそ原因があるのですよ。それをあなたが信じたならば、主は祝福してくださったでしょう。」とスポルジョンは答えました。

みことばに信頼すると奇跡を経験します。主は私たちの期待に応じて答えてくださいます。「主よ。私は何をしたらいいんでしょうか?」という態度をとり続けることが大切です。
ピリポはこの態度をとったからこそ主によって用いられ、導かれ、普通誰もいないところ、すなわち荒野へ導かれ、そこで求めてる魂に導かれたのです。こういうふうに導かれた人は他の人を導くことができます。
是非覚えていただきたいことです。導かれた人は導くことができるということです。ここでさらに必要とされる大切なものは、常識、作法、敏感さです。すなわち適切な時に適切な言葉が語られ、そのために何が助けになり、もたらされるかを適切に判断して行動に移ることができることが要求されます。
あるときムーディは午後の間中、一人の若者とテニスをしました。その若者は最初は心を堅く閉ざして、個人的会話をまったく拒否していました。しかしムーディがテニスを通して彼の心を柔らかくした時、はじめて主のみもとに導かれ、その青年はキリストの者となりました。これがまことの常識的な識別力でした。

今日学んだこと、この主題は伝道活動における家庭集会の大切な意味でした。もちろん私たちは家庭集会ごとについてよりも、はるかに多くの伝道活動について考えました。
というのは私たちの目標は家庭集会そのものではなく、家庭集会はどこまでも人々が救われるための手段として用いられるに過ぎないからです。
もちろん家庭集会は教会の対立物になってはいけません。その反対に家庭集会を通して、教会全体の統一が促進されるべきであり、もしもそうでないならば、家庭集会の存在理由はないと言っていいでしょう。
まことの家庭集会は、求めている人たちに対する個人的な伝道に役立ちます。すなわち家庭集会はそれによって戦いの場、そしてまた主イエス様に対する献身の場となるのです。

そこで私は広島にある一つの家庭集会のことを思い出します。そこには4人の小さな子供の母親としてのまったく絶望的な婦人が出席していました。
彼女は両親を原子爆弾で失いました。彼女はみことばを聞くことによって主イエス様の救いの力を経験しました。そこにいた人たちは、この全く絶望的な婦人がわずか2時間の間に、自分の経験した救いのゆえに喜びに輝いた時の様子を忘れることができないでしょう。
この姉妹はそれ以来、今日まで10年間主なる神に対する天の拒絶的な態度にもかかわらず、主に忠実に従ってます。
東京の近辺では20数ヶ所のところで家庭集会が持たれています。その家庭集会の原動力になっているのは前に申し上げましたような、ルデアのような姉妹たちです。

そのルデアのような姉妹たちは、また神から遠ざかっている人たちのために一生懸命苦労し、その人たちが主に対して心を開く時のために、真剣に日々祈り続けます。
そしてその人たちが、一度言葉を聞いてみたいという意思表示をすると、私や他の兄弟がその人にみことばを宣べ伝えるように頼まれます。ピリピのルデアがパウロと彼の同労者たちに頼み、強いてそうさせたように、そしてまたそのことを通して主なる神の導きを知ることができたように、私たちもまた主がどのようにして家庭集会を与えるかを、再三経験することができます。
しかしそれは家庭集会のためにではなく、目的のための手段として、すなわち人々を主イエスに導くため、一人でも多くの人を主のために獲得するためなのです。
このように頼もしくそうさせることは、私個人、もはや全てこれに関する義務を果たすことができないほどになって、今日に至っています。

家庭集会の前提条件は前に申しましたように次のようなものです。
第一に、召しにふさわしく歩みたいという意欲。
第二に、証し人として行こうとする意欲。
そして第三に、いく人かでも獲得しようとする意欲です。

すなわちそれは、決して中心的な役割を演じたいという意欲とは違います。教会の中で集会の中で中心にならないから、家庭集会で中心となるというような態度は、決して全体の幸いには役立ちません。
もう一つの実例をいいましょうか。ルデアのような姉妹は毎日、自分の隣人たちのために苦労しました。その反響はよかったのです。10人の人が翌日の午前中に来ると約束しました。
しかし集会の朝、次から次へと断って来ました。ある人は夫が病気になり、ある人は子供が熱を出し、ある人は突然来訪を受けることになったのです。その姉妹は私が着くや否や、泣きそうになっていました。
しかし一人の婦人が現れ、それからもう一人の婦人も来てくださいました。その二番目の婦人は、すでに二番目の子供が生まれる寸前でした。しかも産みの痛みははじまってしまいました。しかしその婦人は最後まで頑張ってくれました。その結果その集会の朝に、二人の婦人が主イエス様を信じ受け入れたのです。
そのとき、もう子供は生まれる直前でしたので、このすばらしい経験をした後、すぐに私はそのご婦人と母親とを車に乗せて病院へ連れて行きました。間もなく子供は生まれたのです。子供とお母さんとが同じ日に生まれたのは、めずらしいのではないでしょうか。

自己中心の生活を止めた結果が家庭集会となるべきです。すなわち自分と自分の家を大切にする、いわゆる自分のお城としての家庭から開放され、我が家を主のために使っていただくという変化が現れてきます。
内面的に絶望的な人たちのために我が家を提供するという備えができてる結果として、家庭集会は成立します。この心構えはどうしても必要です。

私のことを考えてくれる人、私のために時間を割いてくれる人、私を愛してくれる人、何でも打ち明けることのできる人は1人もいないという孤独な人たちのために、家庭集会はどうしても必要です。
失われた魂に対するキリストの愛が働いて導くところには、あらゆる賜物と可能性が豊かに開かれます。このようにして私たちはドイツケーキの講習会と結びつけ、あちこちで家庭集会を持っています。
はじめの40分、ご婦人たちと一緒に家内はケーキを焼きます。焼き上がる間私がみことばを順番に学び、その後でかなり長い間交わりの時を持ちます。
ドイツでは大抵夜に家庭集会を持ちますが、日本では90%位午前と午後に持ちます。ドイツは一般に家庭集会の中心は聖書の集いであると考えられています。それに対して日本では集まる人によって決めなければならないという、ドイツとは違った事情にあります。

日本における家庭集会の目的は、お互いの信頼関係をつくることです。もしも人が私たちを信用できないならば、私たちが語ることをも信頼できないのは当然ではないでしょうか。
また時間の点を比較してみましょう。ドイツでは1時間半を越えることはありませんが、日本では3〜4時間位続くのが普通です。それは日本人の方がドイツ人よりも時間を持っているからというようなことではなくて、日本人も、また一日24時間という限られた時間の中で、家庭集会のための時間を造り出しているのです。優先順位は両国では異なったところにおかれています。

一番大切なことを第一にしなければなりません。最も大切なことは天国で喜びの凱歌があがることです。なぜならあちこちの家庭集会で罪人が悔い改めに至るからです。
信じない者はすでに裁かれている。御子を持たない者はいのちを持たず、その人の上に神の怒りがとどまるというみことばの正しさを私たちは誰一人として疑いません。
一度、10分間だけでも静まって、あなたの知り合いの人のことを考えてみてください。私の息子、私の娘、私の夫、私の妻、私の兄弟、私の姉妹、まだ主を知らない多くの知人、友達のことを。
彼らはみな、すでに裁かれており、主なる神の怒りがとどまるということ。御子を信じない者はすでに裁かれており、その人の上に神の怒りがとどまるということを考える時、心に重荷を感じない者は新しいいのちを持ってるかどうか疑わしい者です。
しかし重荷を感じる者は真剣に祈りはじめ、そのために犠牲を払う覚悟ができます。

ルデアのような姉妹たちの価値は、言葉に言い表わせないほど貴重なものです。おそらく、ご婦人としては夫に向かって次のように言うこともできるでしょう。「あなたは今晩もまた大勢の人を呼んだのですか。今夜は一週間の内で、ただ一晩だけ自由な時の持てた日で、私たち家族だけでゆっくりできたでしょうに。」と言ったとしても普通ですが、しかしルデアのような姉妹は決してそうは言いません。
喜んで犠牲を払うご婦人は幸いです。犠牲を払う備えがあるかどうかは祈りの生活の中に表れてきます。

集会にある多くの姉妹たちは祈り人たちです。姉妹たちの多くは毎日200人以上の未信者の夫たちのために祈ります。ある姉妹たちは30分づつ分けて、24時間の間絶え間なく祈り続けました。集会の一人の姉妹が言い表すことのできない悩みの中に置かれたので、全ての姉妹たちが同じようにともに悩み、この祈りの輪ははじめられました。
後で聞いてわかったのですが、ある人は30分で足りず、2時間に伸ばして祈ったそうです。それほど幸せだったことはないないと証ししています。
もちろんこれは真似すべきことでもありません。またその必要もありません。しかし確実なことは、本当に真剣に祈らなければ一人のルデアも生まれないということです。そして集会、教会が一人のルデアをも持たない場合には夜通し働いても何も獲らなかったという状態になりがちです。

主イエス様によって、非常に祝福され、用いられた説教者ベッヘ博士が臨終のとき一人の人が尋ねました。
「ベッヘ博士、あなたはいろいろなことをご存知です。一番大切なのは何かおっしゃってください。」
すると答えは次のようなものでした。
「神学校でもなく、××××××に関する基本でもなく、魂の救いです。」と。

次の様に祈ることができる人は幸いです。「主よ、私のいろいろな障害物や能力のなさにもかかわらず、人を漁る者になさってください。」と。
主イエス様は完全に挫折したペテロに、「私に従いなさい、私はあなたを人を漁る者にしよう。」と。
私はしよう。あなたはどうせできないからだ、と主は言ってられます。
私はしよう。主なる神の行いは創造的なわざです。存在しないものも、存在するようになります。人を漁る者になるのは、自分の努力によってではありません。人を漁る者になるのは研究や頭の知識によってでもありません。人を漁る者は主なる神の創造的なわざによるのです。
主よ、陶器師であるあなたが私の人生の粘土をお取になり、それからあなたの御名の栄光のために役立つものをお造りください。そして多くの者が救われるようにしてください。ここで私はいます。我が家と私とをお用いになってください。

主イエス様が弟子たちを人を漁る者としてお用いになるために、従うようにと弟子たちに呼びかけた時、弟子たちは自分たちの網を捨てて主に従いました。彼らは自分のものを全て捨て、妨げとなるものを引きとどめようとするものを捨て、副次的なもの、第二、第三のものを全て捨てました。
パウロもまた自分の網を捨てました。彼は言ってます。「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。」全て自分の物は主の働きのために妨げとなります。

私たちの最大の敵は私たちの自我です。みことばは言ってます。権力によらず、能力によらず、他の方法や道にもよらず、人間の計画にもよらず、と。私の霊によって、と。
私に従いなさい。私はあなたがたを人を漁る者にしよう。はじめに申し上げましたように、私の申し上げたことは、ああすべき、こうすべきだという処方箋では決してなく、単に事実に関する一つの証にすぎません。
私たちは計画を立てて、その目標を追求しようとしたのではなく、主の示された通りに動いただけです。
家庭集会を通して最初のふれあいと信頼ができ、一人一人の魂を配慮することが、その人たちを主に導く手段となります。私たちは私たちの高められた主が、さらに多くのことを行ないたいと願っておられ、あらゆる信者を器として用いたいと願っておられるという意志も必要とします。

今の状態で満足してしまうと成長は止まり、集会の群れは宗教的なクラブになってしまいます。
ほとんど毎週、内面的に挫折してしまった人たちが主の御名を呼び求める備えができ、信仰に至るようになってます。そのような成長の秘訣は何でしょうか?
集会の中には、本当に主に献身している兄弟姉妹が少なからずいます。この群れは一つのことを、はっきりとした目標として持っています。すなわち失われた魂が主のために獲得されるということです。
ですから主を証しする機会をおろそかにできません。あらゆる成長のための主な奉仕は祈りのご奉仕です。主はみことばを守り、失望させない方ですから、大いなることを主から期待することができ、奇跡をも確信することができるのです。

一人の人が主に転身すると、それは他の人にも広がって行くということを、私たちは何度も経験しています。
3000年前も同じようなことがあり、イスラエル全体はゴリアテという巨人に対してはどうすることもできないと思い込んでいました。
しかし部外者ダビデは違うことを考えていました。彼は生きるまことの神をあなどる、大胆不適な異邦人に対して憤りを禁じ得ませんでした。ゴリアテが倒された後、他の人たちもそれを行い、多くの巨人たちが倒されたと記されています。
一人の人が主のために、失われた魂を獲得しようとするとその波紋は次々と広がり、他の人たちも突然同じ目標と願望を持つようになります。
主の前に大いなることを期待しつつ、立ち続ける者は他の兄弟姉妹も、また同じ霊によって捕らえられるということをやがて経験するようになります。誰でも影響を及ぼすものです。自分自身を大切にしようとする者は、他の人もまた自分自身を大切にするようになり、それによって死が入り込んでしまうということを経験します。

家庭集会からはじまって、ほとんど至るところで祈りの集いも主によって起こされました。信仰に導かれたばかりの人はここで祈りを学び、しかもともに祈ることを通して学びます。
原則として次のようなことが依然として続いています。家庭集会に一人の未信者も来ない時は集会をやめ、求むる者がいるようになったらはじめます。そして祈りの集いにおいては信者同士の完全な一致が存在せず、お互いに身を低くし、すべてを明るみにだせない間は、しばらくの間止めることを私たちは勧めています。健全な成長、これは私たちの切なる願いです。私たちの主は言っておられます。

ヨハネの福音書12:24-25
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

健全な成長の結果は豊かな実です。私たちの主は死に赴いてくださいました。それはただ単に私たちの身代わりになって罰せられるため、私たちのためにのろいとなるため、罪そのものとされるためでなく、私たちが主のいのちの所有者になるように、ご自身のいのちを与えてくださるためでした。
そして主のいのちが明らかになり、あふれるばかりの主のいのちが流れている時、もはや古き人にとどまることはできません。全てが新しくなるのです。
人間が、高められた主イエス様と交わりを持つようになると、今日もまたあふれ出る圧倒的な実を結ぶいのちが明らかになります。コリントの信者に対してパウロは次のように書いてます。

コリント人への手紙第I、1:9
9神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

ここでも書いてありますように、もっとも大切なものは主の真実です。
主は常に真実です。そして全く偉大なるものは主の目標です。主と交わりを持つため、日々主とともに歩むために私たちは召し出されました。
主が私たちを導きたいと思っておられる道は、長ければ長いほど狭く、十字架まで続いています。自分のいのちを愛する者、自分の物に固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的なかたわになってしまいます。
主イエス様は私たちの生活の中で第一のものとなってるでしょうか?自己否定なしにはいかなる復活のいのち、すなわち主のいのちの表れはあり得ません。

今日大きな問題となってることは、十字架のないキリスト教が宣伝されていることです。
いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も私たちが十字架、あるいは十字架につけられることを恐れる時、全て不十分なものとなってしまいます。
キリストの苦しむことにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともあり得ません。日々打ち砕かれることなしには、私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕かれた後ではじめて主はお用いになります。

ギデオンとともにいた300人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれた時、はじめてその中に入っていた松明が光を放ちました。
主はまずご自身に持って来られたパンを裂くことによって、はじめて何千人もの人を満腹にすることがおできになりました。
ナルドのつぼもまた高価な香りを家中に満たす前に砕かれなければなりませんでした。
サウロが徹底的に砕かれる備えを持った時に、はじめて主が彼を用いることができるようになりました。
ヤコブもまた、腰の骨をはずされてびっこをひいて歩くようになったと聖書に記されていますが、彼もまた砕かれた後はじめて祝福を受けるようになったのです。
私たちの中にある主イエスのいのちは、私たちが日々主に自分の意志を意識的に従わせることによって砕かれる時にのみ、明らかになります。

主が私たちにお与えくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実よりも信じるに足るものとみなされます。
私たちの主はみことばを成就するためには、自然法則全体をも打ち破ることがおできになることを覚えましょう。私たちの主はご自身の約束を決して破りません。主はすべての力を握っておられ、主のみことばは永遠の真理ですから、必ずみことばのとおりになるのです。
この信頼を私たちは必要としてます。間違った謙遜さ、すなわち不信仰によって、私たちは主の御名を汚すことになります。
主のために生きる備えのあるところでは、歓呼の喜びが私たちの心を満たし、それは革命的な働きをします。私たちの周囲は急に聞くようになり、飢え渇きを持つようになります。そして私たちは備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性を持つようになるのです。

今こそ眠りから覚める時です。霊的な眠りは信者を堕落させる最も恐ろしい災いです。
眠りと夜、あるいは暗黒は結びついてます。眠りは無感覚にします。あと人は眠ると全く現実と離れた夢を見ます。人は非現実的な世界に生きるようになります。すなわち闇を見ず、また恐ろしい永遠の滅びに向かいつつある多くの失われた魂をも見なくなります。
立ち上がりなさい眠りから覚める時が来ました。目をさまして祈るべき時です。そしてまた全てを主のなさるままにゆだねる時です。




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