引用聖句:ローマ人への手紙8章12節-17節
ローマ人への手紙8:26-29
ピリピ人への手紙1:9-11
エペソ人への手紙3:16-19
今読んでくださった箇所は、全部、神の御霊の働きの大切さについての箇所です。 一昨日は五旬節でした。日本ではあんまり大切にされてはいない。他のだいたいの国々は、必ず休みです。学校もだいたい一週間くらい休みですし、結局、イエス様の受難また聖霊の与えられたことこそが、もちろん我々にとっても、考えられないほど大切です。 神の霊、聖霊の受けられた日の記念日とは、いわゆる五旬節です。10日前は、イエス様の昇天された日の記念日でした。 1,900年前に、イエス様は弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手を上げて彼らを祝福してくださいました。そして、祝福しておられるうちに、彼らから離れて天に挙げられました。 弟子たちは、主を拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて主を褒め称えていたと書かれています。 弟子たちは、イエス様の命令を聞きました。すなわち「見よ。わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまで、あなたがたは都にとどまりなさい。」 弟子たちは、10日の間、父の約束されたお方、すなわち聖霊のために、絶えず宮にいて主を褒め称えたと聖書は言っています。そしてこの10日の後で、五旬節がやってきました。聖霊が送られたのです。 どうしてでしょう。すべての真理に導くため、また真のいのちを与えるため。それから主の満たしにあずかるためでした。 聖霊降臨祭、五旬節の意味とは何でしょう。イエス様は、神の御子として我々の過ち、わがままのために十字架で亡くなられて、昇天されて、高く引き上げられたことの証拠は、五旬節です。また主なる神の約束の成就されたことは、五旬節であり、そしてイエス様は、ご自分のことばを成就することができる力を持っているという証拠です。 五旬節は、証しする力を意味します。また祝福の満たしを意味します。五旬節は、主なる神が、どうしようもない者、弱い者でさえも、用いることができるということを言っているのです。ひとりも滅びないで、みな永遠のいのちを持つようにと言っています。 この神の霊が、我々を支配し、礼拝に導くことができるように切に祈るべきなのではないでしょうか。 我々イエス様を信じる者にとって、一番大切なのは、主の御心を知ることなのではないでしょうか。 どうしたら、主の御心を知ることができるのでしょうかということについて、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 結論から言いますと、主なる神の御心は、ただ神の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ知ることができます。 主の御心を知らんとする者は、御霊に導かれる生活をしていなければならない。ですから、その前に、どうしたら御霊に導かれる生活を送ることができるかを知らなければならない。 そのために必要なのは、2つかな。 第1番目、みことばを聞く備え 第2番目、みことばに従う備え 詩篇143篇を見ると、次のように書かれています。ダビデの心からの叫び、また祈りでした。 詩篇143:10
結局、教えてください、導いてください、これこそ最も大切な祈りなのではないでしょうか。 こういうふうに主の御心にかなうダビデは、御霊の導きを求めて祈りました。このダビデの祈りは、我々の祈りとなっているのでしょうか。 ダビデは、主の御心にかなった人でした。我々も、主に喜ばれる者になりたいものです。 しかし、主の御心にかなう者になるには、どうしても御霊に導かれる生涯に入らなければなりません。ですから、我々もダビデと同じように、「あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」と心から今日、新たに主の前に祈りをささげたいものなのではないでしょうか。 ドイツのアイドリンゲンの創立者、クリスタ・フォン・フィーバーンという姉妹の影響は、本当にすごい影響でした。彼女の名前を知らない信者は、おそらくドイツではいないでしょう。彼女は言ったのです。 「私は学び、そして知るようになったのは、主イエスとの交わりの時間をないがしろにすれば、得るものはなく、損するばかりです。 主イエスの御顔を探さないと、主の御声を聞こうとしないと、主に対する奉仕のための能力も装備も失うのです。 主イエスの御声に対して、聞く耳がないと、何をしても余計な時間を必要とし、御心のままに成すことができません。 主の御前に静まらないと、落ち着きがないし、自分を否定することもあり得ません。 主の声を聞こうとしない日は、実を結ばない日です。 『主よ。語ってください』と望まないこととは、あらゆる不幸の原因です。 『主イエス様、私はいくら損しても、大切なことを失っても、ただあなたの御前に静まることだけを望んで、また願っています。』 主イエスは、多くのことをしてもらいたいでしょうか。しかし、最も大切なのは、聞く耳を持つことです。 どうか私を祈りの人にしてください。」と彼女は祈り続けたのです。 「教えてください。」と彼女はずっと祈り続けましたし、もちろんダビデもそうだった。 ダビデの主に対する態度は、「主よ、教えてくだい。」という変わらない態度でした。このように主の御前に、教えを請うた人々は、はかりしれない主の祝福にあずかります。 生まれつき盲目であった男は、イエス様の教えを請うたのです。すなわち「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」と言った時、イエス様はご自分の御姿をその男に教えてくださいました。 ヨハネの福音書9:37-38
エチオピアの宦官も、ピリポの教えを請うて、「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして解かりましょう。」と救いを求めた時、宦官は救いにあずかることができ、喜びながら旅を続けたと書いてあります。 使徒の働き8:26-39
このエチオピア人は、みことばに対して、聞く耳を持っていただけではなく、みことばを受け入れ、みことばに従ったのです。 パウロがすばらしい改心をしてから後、「主よ。私は何をしたらよいでしょうか。」と主の前にへりくだって尋ねた時、主は、パウロに行くべき道をはっきりとお示しになりました。 使徒の働き16:6
また、あの獄吏はパウロとシラスに「先生方、私は救われるために、何をすべきなのでしょうか。」と振るえおののきながら、教えを請うた時、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と驚くべき救いのみことばが与えられました。 今、挙げたこれらの人々は皆、主のみことばを聞く備えが出来ていました。また、主に従う備えが出来ていました。主に従いやすい、やわらかい心を持っていました。 御霊に導かれるということは、御霊の導きは、聖書のはっきりとした約束です。イスラエルの民は、それを実際に経験しました。 出エジプト記40:34-38
御霊の導きの約束は、ダビデにも与えられました。 詩篇32:8
すばらしい約束です。イエス様も、御霊の導きについてよく語っておられました。 ヨハネの福音書16:13-14
イスラエルの民が荒野を旅した時、主なる神が雲の柱、火の柱をもって導いてくださったのと同じように、すべての救われた兄弟姉妹は、御霊の導きを受ける、すばらしい特権を持っているのです。 パウロは、この事実についておもにローマ人への手紙8章の中で書いたのです。 ローマ人への手紙8:14
御霊が、イスラエルの民を導いて行こうとなさった目的地は、実り多いカナンの地でした。御霊は、いつも一つの目的を持って、私たちを導こうとなさいます。 詩篇の作者であるダビデは、また次のように報告したのです。 詩篇78:53
これは当時のイスラエルの民の経験でした。 詩篇107:7
イスラエルの民が、荒野をさまよった時、いろいろなことが起こり、小さな一つ一つのことを取り出して考えますと、安らかに導かれたとは、確かに言えません。しかし、御霊は最後にカナンの地に導き入れてくださいました。 それを考えると確かに御霊は、ご自分の民を安らかに導きたもうたと心から言うことができます。 同じように、私たちも、御霊が我々を導こうとなさっておられる目標を、はっきりと見つめて歩まなければならないと思います。 恵み深い御霊は、私たちがイエス様の似姿に変えられなければ、天的な完成に、霊の満たしに導いておられます。 私たちは、イスラエルの民の場合と同じように、周りに起こる一つ一つの問題や苦しみや悩みを見ると、主は私たちを捨てたのではないかと疑います。しかし、先へ導かれたから、後ろを振り返ってみると、過去に起きた病や悩み、苦しみ、ありとあらゆる問題は、御霊の導きだったと認めざるを得ません。 御霊が導こうとなさる目標に、行き着くまでにはいろいろな問題が、我々の身に起こってくるでしょう。しかし、そのたびに主の御心は何であるか、教えていただかなければなりません。 問題が起こると祈ります。けれども結果が現れない場合があります。祈り会においても同じです。聖書を開く、みことばを学んで祈りますが、結果が現れません。どうして?その訳は、これから祈ろうとすることは、主の御心であることを確信していないからなのではないでしょうか。 例えば、家族の救いのための祈りは、最も大切な祈りの一つでしょう。けども、頼むことを止めて、感謝した方がいいのではないでしょうか。約束されているから、頼まなくてもいい。主は、約束を守るお方です。だから、感謝することこそが、素直な信仰の現れなのではないでしょうか。 したがって、祈りの中に「御心ならば、このようにしてください、あのようにしてください。」という言葉がたくさん出てくるでしょう。このような状態ですと、祈った後にも確信が湧いてこない。誰かが「祈りは聞き届けられたか。」と尋ねると、「まあ、それを願っている。」としか答えられないのではないでしょうか。 けれども、このような祈りの態度は聖書に記されていませんし、主も求めておられません。 まず、主の御心が何であるかを教えていただく。それを確信し、信仰による祈りを捧げなさいと、聖書は我々に教えています。 エリヤは、主の御心を確信して立ち、権威を持って次のように言いました。 列王記第I、17:1
「主は生きておられます。」確信に満ちた言葉でした。「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」もちろんその通りになりました。 このエリヤについて、ヤコブも書いたのです。 ヤコブの手紙5:17-18
この箇所を見ると解かります。すなわち、エリヤの祈りは、聖霊に導かれた祈りだったからこそ、聞き届けられたのだということが解かります。私たちも、もし天国まで届く祈りをしたいならば、御霊に導かれる祈りを捧げなければなりません。 大切なのは、祈りではなく、祈りの前に主の御心を確信して立つことです。この確信を我々に与えてくださるために、御霊がおいでになったのです。 パウロは、これをローマ人への手紙8章の中で、次のことばで証ししたのであります。 ローマ人への手紙8:26-27
パウロは、自分をも含めて「解からない私たち」と言ったのです。聖霊が導くことができなければ、確かにもうお終いです。 御霊は、私たちの祈りを導くためにおられます。そして、真の祈りは、我々を通して祈られる、結局、御霊の祈りです。 御霊は、まず我々に主の御心を教えてくださいます。その時、私たちは主の信仰を持って祈ることができ、祈りが必ず聞き届けられるという確信を持つことができます。 信仰と確信の欠乏は、主の御心を知らないところから来ています。それゆえに、多くの祈りが、聞き届けられないのです。 私たちは、主の御心をはっきり知るまで待ち望み、御心を知った後、初めて行動すべきなのではないでしょうか。 モーセの場合がそうでした。まず主が語り、次にモーセは、主の言われた通りに行動しました。パウロも、まず主の御心を聞き、次にその御声に従いました。 ヨハネの福音書14:10
ここで解かることは、イエス様は、心にうちに囁かれる父の御声に従っておられたということです。イエス様は、実際に耳に聞こえる声、また回りに起こることどもによって、導かれていたのではない。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信することです。 聖書のみことばを取り上げて、それを生かし主の御心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。私たちを導き得るのは、御霊だけです。 パウロは、ローマ人への手紙8章16節で、 ローマ人への手紙8:16
とあります。このみことばは、信仰生活の始めに当てはまるみことばであるばかりじゃなくて、信仰生活を送っている間にも当てはまることばなのではないでしょうか。 始めに、主のことばであることを証ししておられた御霊は、我々のうちに語りかけながら、私たちを導いてくださいます。導きは、内に住まわれる御霊によってだけ成されることです。 そして、この内住の主の導きは、特定のキリスト者だけではなく、すべての主に救われた兄弟姉妹に与えられている特権です。「教えてください。導いてください。」と絶えず祈ることができるのは、すばらしい特権なのではないでしょうか。 |