引用聖句:エペソ人への手紙3章16節-21節
今読んでくださった箇所は、よく知られている箇所です。パウロの心の現れ、また告白であり祈りでした。このパウロの祈りを見ると解かります。彼にとって大切であったのは、主の御心だけ。 聖書はどうして与えられているかと言いますと、御心を知るためなのではないでしょうか。けれども、どうしたら主の御心を知ることができるのでしょうか。当然です。 主の御心は、ただ神の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ知ることができます。主の御心を知ろうとする者は、「教えてください。」と祈り続けるべきなのではないでしょうか。 どうしたら、御霊に導かれる生活を送ることができるのでしょうか。答えは、前に言いましたように、 第1番目、みことばを聞く備え 第2番目、みことばに従う備えが必要です。 ダビデは、有名な詩篇143篇10節に、次のように書いたのです。彼の心からの叫びだったに違いない。 詩篇143:10
「教えてください。導いてください。」と祈る人は、必ず応えられます。 これは当時の、御心にかなうダビデの祈りでした。御霊の導きを、彼は求めて祈ったのです。このダビデの祈りが、我々の祈りになれば祝福されます。 私たちも、主に喜ばれる者になりたいけれども、主の御心にかなう者になるには、どうしても御霊に導かれる生涯を知るべきなのではないでしょうか。ですから、ダビデと同じように「あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」と祈るべきなのではないでしょうか。 ダビデは「あなたこそ私の神であられます」と告白しました。御霊の尊い導きを受けるには、結局こういうふうに言うべきなのではないでしょうか。 新しく生まれ変わった人々だけが、こういうふうに導かれるようになります。 ダビデは、本当に心から「主よ。教えてください。」という態度をとっただけじゃなくて、とり続けたのです。このように、主の御前に教えを請うた人々は、計り知れない主の祝福を受けるようになります。天にまで届く祈りをしたいならば、結局こういうふうに祈るべきなのではないでしょうか。 けれどもも、大切なのは、祈りそのものよりも、祈りの前に主の御心を確信する、立つことなのではないでしょうか。この確信を我々にくださるために、御霊がお出でになりました。 御霊のどうしても必要な働きについて、有名なローマ人への手紙8章に書いたのであります。非常にすばらしい告白です。 「私たちは、弱い。私たちは、解からない。」と彼は正直に告白しました。 ローマ人への手紙8:26-27
御霊は、我々の祈りを導くためにおられます。そしてまことの祈りは、本当に我々を通して祈られる御霊の祈りです。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して立つことです。 我々を導くことのできるお方とは聖霊だけであり、また御霊と聖書のみことばは、常に逆らうことなく、その間に一致があります。 御霊は、みことばを我々のために用いて語りかけて下さいます。 何か問題にぶつかっている時、御霊は聖書のみことばを取り上げて、それを生かし我々の心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。 導きは、内に住みたもう御霊によってだけ成されることです。そして、この内住の主の導きは、特定のキリスト者だけじゃなくて、すべての主によって救われた人々に与えられている特権です。 実際に何かの問題にぶつかった場合、どのように御霊の導きを知って行くか、2、3の点に分けて考えるべきなのではないでしょうか。 第1番目、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを、知らなければならない。 パウロは、コリント人への手紙第Iの10章31節に次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、10:31
非常に大切なことばです。もしこれを深く心に留めているなら、自らの思いや自らの願いは捨て去ってしまう備えがあるはずです。 イエス様は、全く御霊に導かれたお方でした。イエス様が肝胆なく御霊に導かれた秘密は、詩篇に書かれているのじゃないでしょうか。 詩篇40:8
このイエス様の心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣そのものです。だからこそ、イエス様は証ししました。 ヨハネの福音書8:29
この態度を取ることこそが大切なのではないでしょうか。 マリヤもこの態度を取ったんですね。 ルカの福音書1:38
マリヤは、自らの意思を主に明け渡していました。 ルカの福音書1:31、34-35、38
彼女には、イエス様の母になる心の備えがありました。もし、結婚する前に身ごもるなら、掟では石で打ち殺されなければなりませんでした。その危険も顧みず、「ただ主の御心をなさせたまえ」と彼女は、主にすべてを明け渡していたのです。 この38節は、本当にすばらしい告白です。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 主の御栄が第一の場所を占めていなければならない。この態度を持つ人々に与えられる祝福は豊かです。 私たちも、イエス様やマリヤのような献身者になり、あるいは、パウロのように言うことができれば、「人のご機嫌とりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストの僕として、心から神の御心を行ない、人にではなく主にのみ仕えるように、善意をもって仕える者になりたい。」これこそがパウロの切なる願いであり、また祈りでした。 主に聞き従い、己を捨てる備えのある人は、御霊の導きを受ける資格のある者です。私たちの態度が、主の御栄を第一にしているならば、主は導いてくださいます。 御霊の導きを求める場合、今話したように、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。 第2番目、主の導きは、いつもみことばにのっとっている。御霊の導きは、いつも必ず神のみことばである聖書に基づいています。したがって、聖書の知識は、我々にとって本当に大切なことと言わなければならない。 言うまでもなく、救われるためではない。成長のため、導かれるため、用いられるために必要です。 主は、ホセア書の4章6節に言われました。「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」とあります。箴言の中で、ソロモンも同じようなことを書いたのです。 箴言19:2
イエス様は、当時の聖書学者たちパリサイ人を叱って、「読んだことがないのか。」と彼らの聖書の知識のないことを非難されました。 マタイの福音書12:3
マタイの福音書19:4-5
聖書を読まない人は、御霊の導きを待っていても、何の役にも立たないのではないでしょうか。迷いに導かれるばかりです。イエス様は、パリサイ人に「そんな思いちがいをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」と言われたのであります。 主のみことばに逆らう者に、御霊の導きがないのは言うまでもありません。もし、ただ一つのみことばに、それを知りながら従わないなら、どんなに祈っても導きは与えられないのです。神のみことばに逆らうということは、主の御霊に逆らうことです。 従って、そのような人には、尊い導きが与えられない。主は、我々にみことばを学ぶように、確かに勧めておられます。昔のモーセの言ったことを考えると解かります。 申命記17:19
イザヤ書34:16
イエス様も、当時の人々に言いました。「あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書がわたしについて証言しているのです。」 旧約聖書と新約聖書の中心になるものとは、言うまでもなく、一つの教えよりも主イエス様ご自身です。 使徒の働き17:11
なるほどと思わなかったんです。調べましょう、自分で聖書を読もうという態度を取った時、パウロは非常に嬉しくなったのです。毎日彼らは聖書を調べた。 もし、みことばが我々の喜びとなり、楽しみとなり、いのちとなるならば、ありがたい。 ダビデにとって、みことばは本当にすべてでした。勧められないけれども、詩篇119篇をいっぺんに読まないで、長すぎ。似てることいっぱい書いてるんですけれども、ダビデにとって、みことばはすべてでした。 詩篇119:72、97、140
エレミヤ書15:16
解かったんじゃない、暗記したんじゃない、理解したのでもない、食べちゃった。自分のものにした。結果は、「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」 我々の信仰生活は、みことばを食べる量りにしたがって、程度にしたがって成長してまいります。いのちのパンであるイエス様ご自身が、我々の食べ物とならなければいけませんし、またイエス様は、そうなりたく我々の心の奥底に入ることを願っておられます。 いったいどうして、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか、理解することができるのでしょうか。みことばによってのみ出来るのです。 聖書、すなわち主のみことばは、単なる教理、学説を述べているのではなく、イエス様ご自身の啓示の書物です。 ですから、聖書を読むことは大切ですが、聖書を読むのは、聖書を研究し、またいわゆるキリスト教の教えを知るためじゃなくて、聖書を読むことにより、イエス様ご自身を知り、奉り、イエス様をより良く知るためです。 主は、みことばによって、ご自身を啓示なさるのですから、イエス様は、パリサイ人に「あなた方は、聖書を調べています。しかし、みことばを食べていない。いのちを受けようとしない。」と言われました。 聖書を読むことと、いのちを得ることは、一つのことであり、決して二つのものではない。主は、ことばをもってご自身をお現しになります。主のみことばは、我々にとっていのちのパンとならなければいけないはずです。なぜならば、聖書は、教理や真理の原則を語っているよりも、いのちのパンそのものであるからです。 みことばは、我々にとっていったい何なのでしょうか。死せる冷たい餅にすぎないのでしょうか。重荷となっているのでしょうか。あるいは、いのちとなっているのでしょうか。 もし、生けるみことばが我々の内に入るなら、その必然的な結果として、いのちがやってまいります。 理解力を持ってしては、決していのちは訪れてきません。もし、聖書が我々にとって単なる掟であり、また真理であるなら、それは我々にとって重荷となり、不自由なものです。けれども、いのちなら自由と喜びをもたらすものです。 どうしたら、聖霊の導きが解かるのでしょうか。今話したように、御霊の導きを求める場合、全ての物事は、主の栄光のためであるということを考えるべきです。 また、主の導きはいつもみことばにのっとっている。いつもみことばに基づいているものであり、また御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があるのではないでしょうか。 我々の持っている良心は、主によって与えられたものです。もし、ある問題について、良心がこれは良くないと判断したら、御霊の導きを待っている必要はありません。行くべき道が解からず、どちらか迷っているような場合、ある一つの道に行くのに平安がなかったら、さらに導きを求める必要もないでしょう。 良心と共に我々の持っている理性も、主が下さったものです。多くのキリスト者が迷ってしまい、支離滅裂な信仰生活を送っているのは、自分の考えと主の御心をごちゃごちゃにしているからです。自分の理性を主の前に持って来て、主の導きを仰がないからです。 アブラハム、信仰の父と呼ばれている男は、飢えを恐れて自らの考えで、豊かなエジプトへ逃げてしまいました。そこで罪を犯してしまいましたが、自分の理性で勝手に行動する時の危険を、聖書はアブラハムを通して教えています。 ある人々は、理性は何の役にも立たない、理性は肉につけるものだと言いますが、これは間違いです。もし、理性が信じる者の内で僕の位置を取るなら、非常に用いられる存在となります。けれども、理性が信者の中で、支配者の立場を取るなら、間違った道へ我々を導いてしまうでしょう。 私たちは、理性で聖書を学び、真理を秩序たて、みことばを暗記しますけれども、この時も理性は、我々の内に住みたもう御霊によって支配されなければなりません。 導きは、御霊だけが成されることです。理性は、御霊の導きを実現する道具のようなものです。もし、何か大きな問題にぶつかったなら、その問題を理性を持って、あらゆる面から考える必要があります。 前に述べた2つのこと、すなわち、どうしたら主の御栄が現れるだろうか。またこの問題に当てはまるみことばがあるだろうかと、理性を持って考えてみる必要があります。時には、理性を抜きにして御霊が直接、「今祈りなさい。今あの人に手紙を書きなさい。今あの兄弟姉妹を訪ねなさい。」と教えてくださることもあります。 ピリポの場合がそうだったのです。彼は、サマリヤの町でみことばを宣べ伝え、非常に祝福されましたが、ある時、御霊は「荒野へ行きなさい。」と命令なさったのです。「荒野で誰もいないんじゃないか、今悩んでいる人々、飢え乾いている人々がいるじゃないか」と彼は思わなかったんです。 ピリポの理性には逆らう出来事だったでしょう。サマリヤなら沢山の求める人々がいるのに、どうして人もいない荒野に行かなくちゃならないのと、瞬間的に思ったでしょう。けれども、彼は御霊の声に聞き従い、荒野へ出た時、エチオピアの宦官に会い、彼を救いに導き、主の御栄を拝することができました。聞く耳を持つこと、従うことこそが大切です。 サムエル記第I、15:22
使徒の働き5:29
この中には、「人の理性に従うよりは、主なる神に従うべきである」という意味が含まれているに違いない。 パウロは、御子主イエス様の啓示に会った時、血肉すなわち人間に相談せず、すなわち人の理性に従わず、天の啓示に従ったと聖書は言っています。 ガラテヤ人への手紙1:16-17
使徒の働き26:19
主の導きを求める時、兄弟姉妹の忠告も助けになります。そのために、集会にかかさず集うということが大切なわけなのではないでしょうか。 したがって、集会に出る時の心がまえは大切です。もし、主のみことばを聞き、導きを求めたいという深い飢え渇きがなければ、あんまり役に立たないでしょう。 アモス書8:11
イザヤ書66:2
主のみことばを恐れおののいて聞く者には、主は豊かな導きを与えてくださいます。どうしたら、主の導きが解かるのでしょうか。 今話したように、まず、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためにあるということを、知らなければならない。2番目、主の導きは、いつもみことばにのっとっています。いつもみことばに基づいています。 そして今考えたように、3番目、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。結局、サムエルのように「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」という態度を取ることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 |