信ずる者の幸せ


ベック兄

(御代田、2002/08/18)

引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章1節-3節
1私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

今読んでもらいました箇所は確かによく知られておる箇所です。老人になったヨハネはこの手紙を書いたのです。
時間をつぶすためじゃなくて、御霊に導かれたからです。御霊はどうしてこういう風に導いたかと云いますと、当時の信ずる者にとってどうしても必要だったからです。
結局みな励まさるること、慰めらるること、勇気づけらるることが必要だったのです。誰もが励まさるる必要があります。だからヨハネは考えられない事実について書いたのです。
今日の題名は「信ずる者の幸せ」という題名であります。
本当にヨハネのように云うことが出来る人間は幸せなのではないでしょうか。もう一回読みましょう。今度は複数形ではなく単数形で読みます。

私が神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私は神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私を知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私はキリストに似た者となることがわかっています。

希望してる、望んでるじゃない、確信してる。

なぜならそのとき、私はキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

私は判ってる、確信できる、と云える人は幸せなのではないでしょうか。
勿論どうして確信できるかと云いますと、勉強して判ったからじゃない、何かを経験したからなのではない、神の声を聞いたり幻見たからじゃない、人に納得させられたからじゃない。どうして判っとるか、主が約束して下さったからです。
結局大切なのは人間の考えてること、思ってることではなく主は何を約束したか、それだけなのではないでしょうか。この確信こそ信ずる者の幸せです。ヨハネは三つのことについて書いたのです。

第一番目、私たちは今すでに神の子どもです。
第二番目、私たちはキリストに似た者となります。
第三番目、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになります。

現在について一つの事実が述べられています。すなわち私たちはすでに神の子どもです。
そして将来について二つの事実が述べられています。すなわち私たちはキリストに似た者となり、そして私たちはキリストのありのままの姿を見るようになります。
現在について一つの事実として、将来について二つの事実が述べられてるから、現在よりも将来は大切であるとはっきり述べられています。今述べた事実について少しだけご一緒に考えてみたいと思います。

信ずる者の幸せの根拠は、第一番目に私たちは今すでに神の子どもです。ある人は人間はみな神の子どもですといいますけど、それは勿論非聖書的でありウソです。人間がみな神の子どもであれば今の世界は違うものである筈です。
確かに人間はみな創造主によってつくられたものです。そう、「被造物」です。けど決して神の子どもではない。
結局つくられた命しか持っていない人間は、永遠の命を持つべきである、すなわち神の子どもとなるべきです。神の子どもとなることこそが一番大切なのではないでしょうか。

唯一の生けるまことの神は、天地万物をつくられたお方であり、そしてこの主なる神は、イエス様を通して救いの道を開いて下さいました。すなわちイエス様は罪滅ぼしのために遣わされたお方であり、十字架の上で私たち一人一人のために救いの代価を払って下さったのです。
確かに私たち信ずる者は自分の過去を振り返ってみると必ず次のように言わざるを得ないでしょう。すなわち、私は主なる神を知らなかったし、勿論主なる神を恐れなかったし、また拝もうとしませんでした。

わがままのかたまりでした。けど主なる神の働きの結果として、次のことを知るようになりました。つまり、
私は主なる神の前に罪、過ち、わがままがある。私はこの聖なる神の怒りの元にいる。私は主なる神から遠ざかってるのであるから望みのないものですと。
そして神なき人生の無意味さ、また空しさを認識するようになり、また、いかなる尽力も努力も自分の罪の問題を解決することが出来ないと判るようになったのです。

そして上からの光に照らされて、破産の宣告をするようになり、自分のわがままを、過ちをイエス様に告白する恵みにあずかるようになった。結果としてイエス様の流された血潮によって贖われ、神の子どもとされたことを確信するようになった。
この確信があるけど相変わらずピンと来ない、ちょっと考えられない、説明することも出来ない、けどもその確信がある、非常に考えられない奇跡なのではないでしょうか。

私たちの信仰生活のはじめとは何だったなのでしょうか。私たちは十字架につけられたイエス様を心の目で見たのです。聖書は次のようにいっています。

ヨハネの福音書1:29
29見よ、世の罪を取り除く神の小羊

であるキリスト。信ずるとは、十字架につけられたイエス様を自分のために死なれたお方として見ることです。
十字架につけられた主イエス様を、私たちの罪のために犠牲になられた事実を信ずることです。
十字架につけられたイエス様を心の目で見て、イエス様のなされた救いのみわざのために感謝をする者は、永遠の命を持つと聖書はいってます。
人間はそれを判っても判らなくても、感じても感じなくても関係ない。イザヤは2,600年前に次のように書いたのです。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

聖書を勉強して救われようなのではない。頑張って努力して救われようなのではない。
私を仰ぎ見て救われよ。
十字架にかけられた主イエス様こそが、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。
仰ぎ見ることとはすなわち受け入れることです。ヨハネの福音書の第1章の12節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、

理解する人々、と書いてないんです。この方を、すなわち救い主なるイエス様を受け入れた人々、

ヨハネの福音書1:12
12すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

最高の特権とは、神の子どもとなることなのではないでしょうか。
信ずる者は、私は今すでに神の子どもですと喜びをもって告白することができます。生きるまことの神、唯一のまことの神の子どもとなることとは、本当に最大の特権であり、喜びです。全能なるお方は私たちを子どもとして下さったのです。
主なる神はイエス様の故にあなた方の父となって下さった。私たちはもはや、決して一人ぼっちではない。この偉大なる主が常に共に居て下さるのです。
考えられない事実なのではないでしょうか。

恐らく十何年前に、ある方の見舞いに行きました。沖縄のある病院に入院されたのです。大学の教授で、そして自動車事故で結局体が不自由になったのです。
初めて見舞いに行った時は泣いてばっかりです。もう今の世界は崩れてしまった、もうおしまい。「どうして〜」「なぜ?」、そういう思う塊になってしまったのです。
けども主は恵んで下さったのです。彼女は後で確かにどうしてなったのか判らないけど、「私は幸せです。」
こういう、いわゆる不幸がなかったならば絶対に心開こうとしなかった。もう一人ぼっちじゃない、イエス様が近くにいると告白するようになったのです。

信ずる者は、どうして主なる神の子どもとなったなのでしょうか。説明することはできない。主は憐れんで下さったから、新しく生まれ変わることによって私たちは神の子どもとなったのです。
そして、ちょうどこの世に生まれてきたことが一回限りのことであるのと同じように、新しく作りかえらるるということも一回的な事柄です。回心の種は聖書に書かれてある神のみことばであり、神の霊の働きです。
ところがこの世に生まれてきたことを人生の始まりであるのと同じように、回心も、一つの始まりを意味してるのです。

赤ちゃんは両親にとって最初は喜びの種ですけれど、もし生まれてから全然成長しなければかえって悲しみの種になってしまうんです。回心しても成長しなければなりません。だから使徒たちは手紙を書いたのです。
もうすでに救われた神の子どもとなった人々、やっぱり成長すべきである。
回心は新しく作りかえらるることの始まりなんですけども、この変化と成長は全生涯を通じて絶えず行われなければならないのです。

初代教会の救われた人々は喜びを持って、また確信を持って確信することができたのです。
すなわち私たちは、今現在すでに神の子どもです。すごい事実です。天国へ行ってから初めてこの偉大さを知るようになるなのではないでしょうか。
現在どうして大いに喜ぶことができるかといいますと、自分の汚い過去が消され、自分の過ち、またわがままは流された血潮によって洗い消されたからです。

本当に大いに喜びましょう。主を褒め称えましょう。私たちは今すでに神の子どもだからです。
人間は自分の子どもを捨てる可能性がある。憎む可能性もある。ある親は自分の子どもを平気で殺すんです。けども生けるまことの神は自分の子どものために生きてる。最善をなして下さるお方です。

将来について、すなわち今からの成長について次のように書かれています。第二番目の点になりますか。私たちはキリストに似た者となります。
今までいいましたように、救わるるために、すなわち神の子どもとなるために、私たちは主イエス様を自分の救い主として見上げる、仰ぎ見ることです。

地の果ての全ての者よ、私を仰ぎ見て救われよ。
見よ、あなたの罪を取りのぞかれた、約束されてる主イエスよ。

と。イエス様は次のように約束して下さいました。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

救われた人々について、ここで私たちはキリストに似た者となる。私たちはイエス様の偉大さを全然理解できないし、掴めませんし、けど私たちはキリストに似た者となる。
昨日、リンデのパン屋さんですかね、自転車で三鷹からここまで来たんです。14時間かかって。大したもんです。
もしどなたか、「14時間かかったか、私だったら30分で平気で出来る」という人がいれば、ちょっとおかしい。ね。30分無理よ。
けども私たちはイエス様に似た者となる。これ考えればもう笑い話です。無理よ。有り得ない。想像できないよ。けどここで書いとる。

は〜それ考えるようになればもう驚くし、ショック受けますし、やっぱり崇拝せざるを得ない、なのではないでしょうか。
考えられない。どういうふうにキリストに似た者になるなのでしょうか。答えはコリント人への手紙第IIの3章の18節です。みんな暗記してる言葉ですけども、

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられた主イエス様を仰ぎ見ることです。主を仰ぎ見ると知らないうちに変えられるようになり、勝利が与えられ、大いに祝福されます。人間はその人が見るものの姿に変えられます。
詩篇の作者であるダビデは次のようにいったことがあります。詩篇の34篇の5節、

詩篇34:5
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

喜びに満たされた。あなたの目が探し求めてるものはあなたの人生を繁栄させるでしょう。
あなたの目が向けられているものにあなたはついて行き、その姿に変えられます。イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても決して満足することはありません。
イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き支えてくれるものは何一つありません。
悪魔の誘惑の目的は、知らず知らずのうちにイエス様を見上げることから自分自身だけを見つめるようにと、私たちをいざなうことです。
イエス様を見上げることをしないで自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は本当に惨めな自己中心に陥ってしまいます。

私たちは主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行きます。私たちは一体どこ見てるなのでしょうか。一体何に目を止めているなのでしょうか。
自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。
そのような状態になる人々は主イエス様は用いる、また祝福することは出来ないし、むしろ悪魔の道具にされてしまうのです。他人を見たり周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられた主だけを見上げることが主と同じ姿に変えられて行く秘訣です。

信ずる者の幸せの土台とは一体なんなのでしょうか。
今話したように、第一番目、私たちは今すでに神の子どもです。この大宇宙を無から創造されたお方の子どもです。
第二番目、私たちは、キリストに似た者となる。確かに想像できません。考えられません。けども約束されとるから間違いないくそうです。
もう一つ、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになるとここで約束されてます。

十何年前にある病院に行って、アナウンサーだった兄弟に出会ったんですけど、状態は決して良くなかったんです。
意識不明だったらしいんですけども、祈った後で涙が出たから間違いなく聞いたに違いない。
そのとき奥様である姉妹は何回も何回も、「もう少しでイエス様と一緒になるよ。もうすぐイエス様と一緒になるよ」とご主人に呼びかけたのであります。
もう少しで私たちも主イエス様をありのままの姿で見ることが出来ます。これは確かに考えられないすばらしい事実です。

私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる、そのとき私たちは想像もできず、説明することも出来ませんけど、主に似た者となります。イエス様を見た瞬間に。
勿論私たちは、主の御姿に似た者とさるることが決して自分の手柄ではありません。主の恵みによるものです。それ考えるとやっぱり主を崇拝せざるを得ないなのではないでしょうか。
私たちが作り変えらるるために、私たちがすることができると云えば、ただまあ意識的に自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、主イエス様、十字架につけられたイエス様、近いうちに又来らるるイエス様だけを見上げることです。そして主のみことばと主の霊が我々の心に働くことができることを妨げないことです。

私たちはみんな次のように告白すべきではないでしょうか。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さを持った惨めな哀れな自分の姿を見て、日々痛い程にその自分自身の姿を示される時、主の御姿に似た者とされるなどということは、どんなに考えても考えられないことであり、自分の内にはそのような可能性が一つもないと云わざるを得ない、なのではないでしょうか。
けども聖書は主のご計画の約束として、次のことをはっきり書いてあります。

私たちは主を見つめながら、主と同じ姿に変えられます。
私たちはキリストに似た者となることが確信しています。何故ならその時私たちはキリストのありのままの姿を見ることです。

動かすことのできない事実です。
確かに理性でもって掴めませんし、気持ちもついてかない。けども主はウソつきではないから間違いなくそうです。
結局大切なのは、私たち自分の考えではありません。考えらるるかどうかでもない。主のみことばはそう語っておらるるから私たちはそれを安心して信ずることが許されています。
私たちのような者でさえも、イエス様と全く同じ姿に変えらるるようになります。

ローマ人への手紙。よく知られとる箇所ですけども、8章の29節。多くの場合は28節だけ読まれますけど、続いて29節を読むべきなのではないかと思います。

ローマ人への手紙8:29
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

イエス様とは確かに一人子と呼ばれていたのです。この一人子とは長子とならなくちゃいけない。結局、妹、弟さんたちも必要である。主はいつも家族のことを考えておらるるからです。
確かに私たちの人生においては、いろいろバラバラの重荷となるもの、我々の力を無力にするものがあります。その結果、私たちは全てを投げ出して諦めてしまいたいと思うような気持ちになることもあります。
けども、イエス様が私たちの内に新しくかたち作らるるべきであるという切なる願いを持って主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しくかたち作らるるようになります。

私たちはキリストのありのままの姿を見るようになります。いつかな?
もちろん空中再臨の時です。このいわゆる空中再臨についての箇所は、本当に我々を励まさるるために書かれたものです。テサロニケ人への手紙第Iの4章、13節からお読みいたします。

テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
13眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

ね、もうちょっと、会える。

もう、多分十何年間寝たきりで、ちょっと考えられない状態にいる姉妹がいます。
倒れて手足も使えなくなり、話すことも出来ないし、結局、自分の気持ちを云い表せない状況なんです。去年、たまにいい時があったんです。その時、指一本動かすことが出来たんです。1mmぐらいです。そしてパソコンにつながっていて、自分の云いたことを云い表すことが出来たんです。
彼女はもちろん急にきっと何も出来ない、ですから、何時間前に云うと、いい時やっぱり自分の云いたいこと表すことが出来たんです。ある時彼女は次のような文章を書いたのです。

痛みの塊です。だからいつも祈ってます。
耳も聞こえないし、食べることも出来ず、ラッパの音を待つばかり。

再臨のこと首を長くして待っとる。早く駆け足で迎えに来て下さい。再臨近いものと首長くして待っとります。
本当にすばらしい証しじゃないですか。

彼女の娘さんである姉妹は云ったことがあります。いつまでも十年でも二十年でも私は喜んで母の面倒みる。
一緒に住んでるんです。勿論いろいろな機械揃っていて、だから入院されなくてもいいんです。どうせ医者は何も出来ないからです。
けども彼女は結局お母さんの病気のことで、出掛けられない。やっぱり家族と一緒に、ね、主人と子どもと一緒に御代田に来たくて来たくてしょうがないけど、無理です、お母さんのため。

けど彼女は母のためだったら喜んでするつもりです。これも奇跡じゃないでしょうか。結局、イエス様は全部しておられ、イエス様は支配しておられ、イエス様は必要ない重荷を、必要ない病気を与えられないお方である。
この確信を持つとやっぱり見方変わる。普通耐えられない力も与えらるるようになります。

コリント人への手紙第Iの15章51節、52節を見ると次ように書かれてます。同じ箇所はやっぱりいわゆる空中再臨についての箇所です。

コリント人への手紙第I、15:51-52
51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ね、イエス様と同じ御姿に変えられることとはもう夢じゃないですから。おかしいよ、考えられない。
いつになるの。この箇所によると、私たちはイエス様を見る瞬間、いっぺんに変えられます。私たちは変えらるるのです。

このコリントの教会とはめっちゃくちゃな教会でした。決して証しにならなかったんです。コリントにいる信者たちを見て魅力を感じ、彼らの信じとるイエス様知りたい、そういう気持ち、もうなかったよ。
「めちゃくちゃじゃないか、あの連中たちは。」
外からの人々はそういうふうに判断したんです。けどもここで「私たち」と書いとるんです。本当に考えられない。けども主は自分の約束を守るお方です。

もう一回、前の箇所、読みましょうか。

ヨハネの手紙第I、3:2
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

そして私たちはいつまでも主と共にいることになります。
再臨を待ち望む者は、主のために生きたいという目標を持っています。コロサイにいる人々にパウロはまた次のように書いたのです。3章の1節から読みます。

コロサイ人への手紙3:1-4
1こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
2あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
4私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

変えらるる秘訣とは、もちろん主を仰ぎ見ることです。へブル人への手紙の12章2節に次のように書き記されています。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエスから目を離さないでいなさい。私たちにとって最も大切の励まし、また、命令なのではないでしょか。




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