信ずる者の幸せ


ベック兄

(上尾家庭集会、2004/02/18)

引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章1節-3節
1私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

聖書とは非常に厳粛なものです。なぜならば聖書の中で、人間はみな例外なく、信仰があってもなくても悩む者です。すなわち、悩まない人間はいない。どうしてであるかと言いますと、結局、明日のことでさえも分からないからじゃないでしょうか。五年先のことも分からないし、死んでからどこへいくのかも分からないし、やっぱりちょっと面白くないなのではないでしょうか。
けども人間にとってもっとも大切なのは、生きる希望をもつことなのではないでしょうか。諦めれば、もちろん生き地獄になります。今は辛いけど、いつまでも続く辛さじゃない。どうして、なぜか、今分からないけど、後になって必ず分かるという確信があれば、やっぱり違うなのではないでしょうか。

結局、例えば人間が自分の過去について考えると、みんなすべてをしてもいい。映画を作って、みんな見せてもいい。そういう気持ちを持つ人はいないはずです。だからこそ、自分の過去について考えると、自分のわがまま、過ちは赦されていると確信できれば、やっぱり楽になるなのではないでしょうか。
また、生きるまことの唯一の神は、自分の敵でもないし、裁き主でもないし、私のことを配慮してくださり、心配してくださるお方であることを分かれば、やっぱり見方も変わります。

今日ある方と初めて会いましたけども、聖書の内容を知ってるし、少なくても四十年間、色々なこと聞いたし、小さい時から日曜学校行ったし云々と。けども、確信がない。そうすれば、どういう知識があっても、はっきりとした確信がなければ、すなわち、自分のわがまま、過ちは赦されてる、私は今現在、まことの神との平和をもっている、それから、安心して将来に向かうことができなければ、ちょっと大変な問題なのではないでしょうか。
ですから、イエス様の呼びかけとは、本当にすばらしい呼びかけでした。「色々なことで悩むようになった者は、寂しくなった者は、おいで。わたしのところに来なさい。」
キリスト教に入れじゃない。教会に行けじゃない。「わたしのところに来なさい。」、イエス様のところに行った人は、必ず、受け入れられます。そして受け入れられた人々は、確信できるようになる。すなわち、私のわがままは赦されてるし、もう安心して将来に向かうことができるということです。

けども、そういう確信があっても、人間はやっぱり、信ずる者もそうなんです、大したもんじゃない。ですから聖書の中で、やっぱりイエス様を体験的に知るようになった人々も、待ち望んでいる者であり、うめいている者であり、また苦しんでる者です。
けど希望がある。すなわち、将来私たちの経験する救いとはどういうものであるかと言いますと、虚しさからの解放であり、死の終わりであり、それから救いの完成です。今読んできてもらった箇所の中で、大体全部、含まれているのです。ですから今日のテーマは、「信ずる者の幸せ」

理解する者の幸せじゃない。分かった人々の幸せなのではない。信ずる者の幸せです。結局大切なのは、信ずること。
聖書だっていくら勉強しても、分かるもんじゃないでしょ。多くの人は、「分かってる。分かってる。」と思ってるんですけど、ありえない。結局、知識が聖書の中で要求されていません。大切なのは、信ずるか信じないか。それだけなんです。

信ずる者の幸せについてヨハネは、引用しましたように書き記したなのです。彼はこの箇所を書いたとき、おそらく百歳以上だったんです。ほかの、彼もイエス様の弟子だったんですけど、ほかの弟子たちはみんな殺されてしまって、殉教の死を遂げたんです。彼だけ殺されなかった。けども代わりに、一人ぼっちで、寂しいところに追放されてしまったのです。パトモス島。
そのパトモス島に追放されてしまったとき、彼はやっぱり幻を見て、もちろん高く引き上げられたイエス様を見ることができたし、イエス様の声を聞くことができたし、結果は、聖書の最後の本。いわゆるヨハネの黙示録の本です。

パトモス島から戻って来てから、彼は色々な手紙を書いたのです。その中のひとつの手紙とは、このヨハネの手紙第Iです。彼はもちろん、信ずる者みんなのことについて書いたから、複数形に書いたんです。けどももし、私たちひとりひとり複数形じゃなくて、単数形で、自分の証しとして読むことができたら、幸せなのではないでしょうか。もういっぺん読みましょうか。

『私が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私を知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私はキリストに似た者となることがわかっています。』

原語を見ると、「確信してる。」となってるんです。

『なぜならそのとき、私はキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。』

ヨハネは、どうしてこのような文章を書いたかといいますと、色々なことを知らせるためよりも、当時の人々はみな、憎まれ、迫害された人々だったんです。
だからこの手紙を書いた目的とは、彼らを励ますためでした。われわれにとっても大切なのは、色々ことを知ることよりも、励まされること、力づけられることなのではないでしょうか。聖書はそのために書かれています。勉強するために書かれていない。
聖書は元気の素です。どういう状況に置かれていても、聖書に頼れば、理解できなくても、だれでもが元気になる。

例えば、危篤状態にある人々のところへ見舞いに行くと、何話したらいいなのでしょうか。「がんばって。」って言ってもおかしいよ。死にそうな人がどういうふうにがんばったらいいか。結局言葉がないんです。
けどもみことばを、聖書の言葉を読むと不思議なんです。本人が意識不明になっても、ちょっと違う。よくみことばを読むと、急に泣くんです。涙が出るようになり、理性でもってつかむことができなくても、やっぱり霊でもってつかむことができる。聖書とは本当にすごいものです。

今の目に見える世界も、目に見えない世界もいつかダメになるんですね。イエス様は、「天と地はいつか滅びさります。しかしわたしの言葉は永遠に残る。」
永遠に残る聖書のみことばに頼れない人は、ちょっとかわいそう。気の毒です。ですから、キリスト教に入ることじゃなくて、聖書に頼ることこそが一番大切なのではないでしょうか。

ヨハネは当時の信ずる者に書いたんです。すなわち、「私たちは分かってます。」、確信する。望んでるのではない。はっきり確信してると、この確信こそが、やっぱり信ずる者の幸せなのではないでしょうか。
ですから信ずる者は、「いやー、大変です。どうしたらいいか分からない。」、けど喜ぶことができる。苦しみながら、悩みながら、喜ぶことができなければ、ちょっと大変なんです。ヨハネは三つのことについて書いたのです。

第一番目。私たちは、今すでに神の子どもです。
色々な人々は、「人間はみな神の子どもだよ。」と言いますけど、聖書から見るとそうではない。イエス様ははっきり、神の子どもいるし、悪魔の子どもいる。イエス様は当時の聖書学者に向かって、「あなたがたは、悪魔の子どもです。」、確かに人間は創造主の被造物です。けども神の子どもじゃない。
神の子どもとなることこそが、もっとも大切なんです。だからイエス様は、招いてくださったのです。
「すべて疲れた人、重荷を負ってる人はおいで、おいで〜。わたしのところに来なさい。待ってるよ。休ませてあげます。」

結局ヨハネは、現在について一つの事実が述べられています。すなわち、私たちは、いまはすでに神の子どもです。それからほかの二つの事実は、将来についてでしょう。すなわち、私たちはキリストの似た者となり、そして私たちはキリストのありのままに姿を見るようになる。
現在について一つの事実。そして、将来について二つの事実が述べられていますから、現在よりも将来は大切であると、はっきり書き記されています。結局今の人生だって、大したもんじゃないでしょ?
みんな苦労してます。みんな悩んでます。明日のことも分からない。ちょっと面白くない。

それから例えば、無から何も作れないでしょ?人間は。創造主は、この無限と呼ばれている大宇宙を無から造ったんですね。命令しただけです。「光よあれ。」と言って、光になっちゃった。命令すると命令どおりになる。
それと比べれば人間はみじめすぎ。無から何にもできない。そして、将来のことも分からない。ちょっとかわいそう。けども、どうして幸せになることができるかと言いますと、私は、いますでに神の子どもであるという確信を得ることによってです。人間にとってこれこそ一番大切なのではないでしょうか。

この間、非常に娘のことで悩んでる母親はうちまで来まして、娘と一緒だったんですけども、母親は急に何と言ったかと言いますと、「私はイエス・キリストを殺した者です。」
それが分かると、すばらしいなのではないでしょうか。私のわがまま、あなたのわがままのゆえに、イエス様は十字架につけられてしまったのです。聖書の中心とはそれなんです。人間が何を信ずるべきか、何をやるべきかじゃないんです。

父なる神は、イエス・キリストを十字架につけてしまった。殺してしまったのです。結局人間を救う道はそれしかなかったんです。ですから聖書の中心となるテーマとは、十字架につけられた主イエス様です。
旧約聖書のイザヤ書の45章を見ると、次のような箇所があります。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

結局、「聖書を読んで勉強せよ。」、なのではない。「キリスト教に入れ。」、なのではない。「いい子になろうと努力せよ。」、なのでもない。ただ、わたしを仰ぎ見て、そうすると救われます。
わたしが神である。ほかにはいない。生きるまことの神とはもちろん唯一です。この唯一のまことの神とは、宗教と関係のないお方です。無宗教です。

結局、十字架に架けられた主イエス様こそが、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、受け入れることです。ヨハネの福音書1章の12節。「受け入れる」という表現が出てきます。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、

理解した人々とは書いてないんです。

ヨハネの福音書1:12
12すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

神の子とされることとは、最高の特権です。信ずる者は、「私は、今すでに神の子どもです。」と、喜びをもって告白することができます。
生きるまことの唯一の神の子どもとなることとは、最大の喜びであり、幸せです。全能なるお方は、私を神の子どもとしてくださった。イエス様のゆえに救ってくださった。
「私は、今からもう一人ぼっちではない。心配されている。」と確信できる人は本当に幸せなのではないでしょうか。

人間は確かに色々な面白くないことを経験します。
十何年前だったんですけども、沖縄に行きまして、ある人に頼まれて、「不幸な人にちょっと会ってもらいたい。」、入院されていましたし、女性なんですけども、独身で成功した者でした。
大学の教授になって、非常に大切にされた人でした。彼女は運転しながら、脳溢血に倒れて、そうすればもちろん、とんでもない事故になってしまったんです。車はメチャクチャで、もちろん本人は、初めて会ったとき、もう話さないよ。泣いてばっかり。結局もうおしまい。

そういう状況に置かれると、どうしてか、なぜかだれも言えません。もちろん彼女はこの不幸を通して幸福になっちゃった。
結局このことがなかったならば、やっぱり心を開こうとしなかったし、けども今、イエス様を知るようになってから、「幸せ!」と喜んで言えるようになったのです。
結局、もう体は不自由になっちゃったし、人間的に考えればもう、面白くない人生です。けども、「私は神の子どもです。もう心配する必要はない。」と確信するようになったから、やっぱり違います。

私たちは今、もう現在すでに、神の子どもです。現在、どうして大いに喜ぶことができるかと言いますと、自分の過去が清算され、自分の過ち、わがままは、イエス様の流された血によって洗い消されたからです。
ですから神の子どもとなることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

それからヨハネは、将来についても色々なことを言ったのです。二つの点でしたね。一つは、私たちはキリストに似た者となります。この事実について考えても、ピンとこないし、理解できないし、想像することもできない。
人間、だってみんな例外なくわがままの塊でしょ?立派になろうと思っても、なかなかうまくいかないでしょ?これが現実です。

「私はへりくだってます。私は柔和です。」と言える人間はいないよ。いたとしても笑い話です。そしたら一緒に住む人々に聞きます。
イエス様は言えたんです。イエス様の敵でさえも認めざるを得なかったんです。
悪霊は何を叫んだかと言いますと、「あの方は、生きるまことの御子です。聖者です。罪を知らない方です。」と認めざるを得なかったのです。

イエス様を裏切ってしまったユダでさえも、何と言ったかと言いますと、「私はとんでもない罪を犯してしまった。罪を知らない方を裏切ってしまった。」と言って、自殺して死んだんです。
後悔しただけです。悔い改めようとしなかったのです。これこそ、悲劇的なのではないでしょうか。三年半、イエス様といっしょに生活しながら、ずっと、偽善的な態度を取ったんです。

もちろん毎日、イエス様に向かって、「主よ。主よ。」と言ったけど、そう思ったことがない。一回も。偽善者そのものでした。けどもイエス様は彼を選ぶとき、彼はわたしを裏切るようになると、はっきり分かったんです。
もう耐えられない苦しみです。そうよ。大嘘つきと毎日いっしょに過ごすのは。けどもイエス様は三年半終わってから、最後の夜、言われたでしょう?
「あなたがたの中の一人はわたしを今晩、裏切るようになる。」と言ったとき、聖書は、弟子たちは「みな」、と言ってるんです。みな、「私ですか?私ですか?」

結局、あのユダだろうと思われたんですけど、だれも気が付かなかったんです。イエス様しかできないよ。人間だったら、いくら我慢しても、耐えても無理。できません。
けど私たちはイエス様に似た者となる。聖書はそう言ってるから、間違いなくそうなんです。どういうふうに変えられるなのでしょうか。
結局、救われるために必要なのは、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ることです。そしてイエス様の姿に変えられるために、必要なのは同じことなんです。

自分をいくら見ても、自分の力に頼って頑張っても何にもならない。自分の代わりに死なれたイエス様のことを考えると、やっぱり違う。結局、救われるために必要なのは、十字架につけられたイエス様を見ることです。
ですからヨハネは、ヨハネの福音書6章40節に、次のように書かれてます。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て

結局、わたしを見て、

ヨハネの福音書6:40
40信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

今のわれわれのいのちとは大したもんじゃない。造られたいのちにすぎないからです。創造主は、造られたいのちよりも、永遠のいのちを与えたくて、与えたくてしょうがない。

永遠のいのちを得る道とは、自分のために犠牲になったイエス様を、心のまなこで見ることです。そうすると永遠のいのちを持つ。そして、キリストに似た者となるために、やっぱり同じく必要なのは、自分のために犠牲になり死なれたイエス様、復活なさり、昇天なさり、高く引き上げられたイエス様を仰ぎ見ることです。

コリント人への手紙第IIの3章。このコリントにいる、確かにイエス様の恵みによって救われた人々は、救われていったんです。神の子どもになったんですけども、なかなか成長しなかったのです。パウロの悩みの種でした。
けどもそれと関係なし、パウロはあなたがたもキリストに似た者となる。どういうふうになるかと言いますと、

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

最後の文章が書いてあるからありがたい。人間の努力の結果じゃない。御霊の働きによるのです。
結局主を仰ぎ見ると、栄光から栄光へと変えられるのであると、ここではっきり書かれています。ですから、イエス様と同じ姿に変えられる秘訣とは、高く引き上げられたイエス様を仰ぎ見ることです。
主を仰ぎ見ると、知らないうちに変えられます。価値観が変わる。見方も変わる。人生の目的も変わります。詩篇の作者であるダビデは、

詩篇34:5
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

旧約聖書の中で、輝いた顔を見た人とは、モーセだったんですね。彼は40日間、シナイ山で主なる神と交わって、そして戻ったとき彼の顔は、あんまり輝いたから、イスラエルの民は、彼の顔を見られなかった。見たくなかった。
彼らはその間に、結局主から離れて、偶像礼拝者になってしまったのです。ここで、彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。結局私たちの目が探し求めてるものは、われわれの人生を反映するでしょう。

私たちの目が向けられているものに、私たちはついていく、その姿に変えられます。イエス様を見上げないかぎり、私たちは、目に見えるものだけを見ても、決して満足することはありません。
イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き、支えてくれるものは、何一つありません。

悪魔は、人間みな誘惑します。悪魔の誘惑の目的とは何であるかと言いますと、イエス様じゃなくて、自分を見えるように、自分のことについて考えるように。そうすればもう、すぐにダメになります。心配するようになるし、どうしたらいいかと分からなくなってしまうなのです。
主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくとパウロは書いたのです。自分自身を見たり、また他人を見たり、主を見たりしないで、ただ自分の代わりに死なれたイエス様を見上げることが、主と同じ姿に変えられていく秘訣です。

信ずる者は一体どうして幸せなのでしょうか。答えは、
第一番目、私たちはすでに神の子どもだから。
第二番目、私たちはキリストに似た者となるから。そして最後に、
第三番目。私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。

早く見たい。「イエス様、早く来て。迎えに来てください。」、初代教会の人々は、こういうふうに毎日祈ったんです。だから、苦しくても耐える力を持つようになったのです。
もうちょっとでイエス様が来られると考えると、やっぱり楽になります。もう少しで私たちも、主イエス様のありのままの姿を見ることができる。これはもう、考えられないすばらしい事実です。

そのときを、私たちは想像もできず、説明することもできませんけど、私たちは本当に、イエス様に似た者となる。もちろんこれは、自分の努力の結果じゃなくて、ここの18節に書かれているように、御霊の働きの結果です。
私たちが造り変えられるために、私たちがすることのできることと言えば、ただ意識的に自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、イエス様、お一人だけを見上げることです。

これは現実問題として、聞く耳を持つことです。「どうしたらいいか分からない。主よ、語ってください。しもべは聞いております。」という心構えを持つことです。
確かに人間はみな不完全で、未熟で、欠点だらけです。みじめで、あわれで、この人間は、イエス様と似た者となる事実について考えると、確かにピンときません。
けども聖書はそう言ってるから、間違いなくそうです。初めに読みましたヨハネの手紙第Iの3章2節に、

ヨハネの手紙第I、3:2
2私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

結局イエス様に会う瞬間、完全に変えられるようになります。
主の目的とは一体何なのでしょうか。ローマ人への手紙の8章に29節に次のように書かれています。

ローマ人への手紙8:29
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

この世に遣わされたイエス様とは、「ひとり子」と呼ばれたのです。ひとり子が、どういうふうに長子になるなのでしょうか。もちろん、弟、妹さんたち与えられることによってです。これこそが主なる神の御心です。

私たちの人生においては、色々われわれの重荷となるもの、われわれの力を無力にするものがありますけども、その結果私たちは、もうすべてを投げ出して、諦めてしまいたいと思う気持ちになることも確かにあります。
けど、イエス様がわれわれのうちに新しく形つくられるべきであるという、切なる願いをもって、イエス様の前に立つ者は引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しく形づくられるようになります。

私たちはいつイエス様を見えるようになるなのでしょうか。テサロニケ人への手紙第Iの中で、いわゆる空中再臨について書き記されています。人類の今まで経験したことがないことが起こります。いつになるか分からない。
この空中再臨についてパウロは書いたのですね。

テサロニケ人への手紙第I、4:13
13眠った人々

すなわち、先に死んだ人々

テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
13のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

もうすでに3,000年前にダビデは、詩篇の23篇の中で書いたのです。

詩篇23:6
6私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ここで私たちは、いつまでも主とともにいることになる。結局、これなんです。イエス様はいつ迎えに来るのかもちろん分かりません。
今日かもしれない。もし今日、イエス様が来られれば、もちろん空中までしか来ませんけども、そのとき、本当に見て、イエス様を受け入れた人々はみな姿を消すんです。体もない。結局死を見ないで、そのままで天国行くようになる。

考えられない混乱になります。車を運転する者は、イエス様を信ずる者であれば、もういなくなるよ。車は続いていくんですよ。めっちゃくちゃな事故になります。
飛行機のパイロットは、イエス様を信ずる者だったら、もちろんいなくなるよ。飛行機ももちろん落ちますよ。世界中の考えれない悲劇的なものになります。
今まであんまり考えたことがないんですけども、その出来事についての映画あるんです。そしてその映画の中で、子どもはみんな例外なく、引き上げられる。もちろんイエス様は天国は子どものものなんです。それもちょっと、考えられないこと。

現代人の多くは、メチャクチャですけども、夕べちょっと、アメリカのサンフランシスコについてのニュースだったんですが、サンフランシスコの市長は急に、ホモとレズビアンは結婚してもいいと宣告して、それから三日間の間、1,000組以上、結婚式をやったんです。男同士。女同士。
考えてくださいよ。ドイツのベリーの市長もホモなんです。彼はそれを公にテレビで言ってるんです。だから選ばれるようになったんです。この国民とは一体どういうものですか。ちょっと考えられない。

男同士、結婚すると子ども生まれないんですよ。女同士、結婚しても子どもできないでしょ。子どものない世界はメチャクチャな世界だよ。まったく無責任です。
ですから今の世界は、大変な速さでダメになる。けども聖書の中でそういうことが全部預言されていますから、私たちは別に怒らなくてもいいし、怒っても意味のないことですけども、イエス様は近いよ。もうちょっとと考えれば、すごいなのではないでしょうか。
私たちは、いつまでも主とともになる事実について考えると、やっぱりどういう辛いことがあっても、安心して、将来に向かうことができるのです。




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