引用聖句:ピリピ人への手紙2章9節-11節
今読んできてくださった箇所の中でも、「主イエスは主である。」とあります。今朝の学びの題名テーマは、「イエス様の支配に満たされる秘訣」です。 イエス様ご自身が何を言われたかと言いますと、「わたしは主です。」 ルカの福音書6:5
パウロも全く同じことを言ったのです。 イエス様のことについて、「この方とは、唯一の主です。」と言ったのです。 コリント人への手紙第I、8:6
イエス様とは、唯一の主であります。 もちろんイエス様だけではなく、パウロもそしてペテロも同じことを言ったのです。 使徒の働き10:36
新約聖書の中で、イエス様こそが唯一の救い主そのものであると何回も書いているのをご存知ですか。26回。「イエス様は、救いを与える贖い主である」 26回。けど、イエス様とは主であることについて、26回じゃなくて、670回書いてます。 イエス様は、単なる助けておられるお方だけじゃなくて、主の主であられます。それをいつか解かるようになれば、やっぱり礼拝せざるを得なくなる。永遠にわたって。 今の聖書の箇所を見ると、どうしてもイエス様は、すべての者の主であられることを認めないわけにはいきません。イエス様のご支配こそが、もっとも大切です。 「イエス様は、すべての者の主であられる」、これは初代教会の兄弟姉妹が、述べ伝えた事柄であり、初代教会の真ん中に、このイエス様は中心となり、このイエス様はすべての者の主であるという精神は強く貫き通されたのです。 初代教会の信者たちは、上からのいのちに満たされていました。また、集会を持つたびに会衆はあふれ入れ、またそこでなされる信者の証しは、泉があふれいずるごとく豊かで、力に満ちていたのです。 めいめいの信者一人ひとり、また集会全体の内にイエス様の満たし、イエス様のいのちを見ることができた。 この秘密は、すべての者の主なるイエス様です。すなわち、イエス様の絶対的なご支配です。 今日簡単に3つの点にわけて、ちょっと一緒に考えたいと思います。 第1番目今日の悩み 第2番目解決する方法 第3番目主の御心 この3つに分けて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。 今日の世界中の教会における大きな悩みは、少なくても迫害されていない信じる者の悩みは、このイエス様の満たしに欠けていることではないでしょうか。 この満たしの欠乏を素直に認め、「私は富んでいる。私は豊かである」ということを止めなければいけないと思います。 イエス様は、ヨハネの黙示録の中で言いました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」とおっしゃっておられます。 私達の考えるところと異なり、主イエス様の仰せになることは全く真実です。 現状はどうでしょうか。多くの人々は救われ、兄弟姉妹の群れに加えられますけど、ちょっとしたつまずき、それまで前へ進んでいたのが止まってしまい、前進することができなくなり、満たしに至らない状態なのではないでしょうか。 それらの兄弟姉妹の霊的生活は、主の満たしに至っていません。 これらの兄弟姉妹は、初めに経験した救いについて語りますけど、それから続いて与えられる霊的な祝福、新しい恵みについて語ることをいたしません。前進が止まってしまっている場合を多く見うけます。 これらの兄弟姉妹は、主のあわれみによって、ドロップすることはしませんけど、前へ進むこともできなくなっている。これは大きな悲劇なのではないでしょうか。 2番目、この悩みを解決する方法はいったい何でしょうか。イエス様は、どうして初代教会の兄弟姉妹をあんなに、ご自身の形に創り変えることができたのでしょうか。 どうして初代教会の兄弟姉妹は、あんなに霊的に内面的に進歩したのでしょうか。 なぜ初代教会は、あんなに早く成長し、日々信者が加えられたのでしょうか。 また、いったいどうして最初の日に五旬節の時3,000人も加えられ、それからしばらくして、今度は5,000人もの大人が加えられたとあります。どうしてでしょう。 またどうして短い間に、あの広い世界に福音が述べ伝えられていったのでしょうか。どうして初代教会は、霊的な光といのちが満ち溢れていたのでしょうか。なぜでしょうか。 その答えは、先ほどのみことばである、すなわち「すべての者の主なるイエス」このことばの中にあるのです。 初代教会の兄弟姉妹は、イエス様を単なる助け手として、救い主としてじゃなくて、主として述べ伝えました。イエス様のご支配を、自分たちのメッセージとして述べ伝えました。 ことばだけではなく、実際生活において、彼らは「イエス様はすべての者の主」であることを証ししていきました。イエス様のご支配こそ満たしの秘密です。 けれども、満たしとはいったい何でしょうか。聖書の使われている満たしとは、完全な満足、そして絶えない湧きいずる喜び、また限りない主にある平安を意味しています。 もしイエス様が、我々の実際生活の主とならなければ、このような幸いなる満たされた生活に入ることができません。 こう言いますと、「それはもちろんそうだ。イエス様はすべての者の主である。」と言われるかもしれない。 信じる者はみな主のご支配を信じています。けど、多くの場合、信じる者にとってイエス様は、すべての者の主であるということがらは、抽象的な事実にすぎない場合が多いのではないでしょうか。 新生した、新しく生まれ変わった兄弟姉妹の多くは、イエス様のご支配を頭の中で信じていますが、中には少数の信者は、実際に具体的に、イエス様は支配したもう主であることを知り、かつ実践します。 イエス様は多くの信じる者の内で、主となっていない。これが多くの悩みの原因なのではないでしょうか。またあらゆる欠乏の原因でもあります。 もしイエス様が我々の心の内を全く支配しておられ、私達を支配する他のものは何一つなくなるはずです。 私達は、ありとあらゆる偶像から全く縁を切っているのでしょうか。多くの偶像の一つは、私達の意志であり、自分の思いです。私達の心の王座には、誰が座って支配しているのでしょうか。 イエス様なのでしょうか。あるいは、私達の自分の意思、自分の思いなのでしょうか。誰が我々の支配者なのでしょう。自分の性質ですか、好き嫌いでしょうか。 もしイエス様が、私達の心の内に王となっておられなければ、幸いなる豊かな主の提供されている満足、喜び、平安と望みを自分のものとすることは決してできません。 私達は、本当にしばしば、自分の考えを正しいものとし、判断し、自分の考え方だけが正しいとしてしまいます。己が正しいのであると、あんまり強く主張するので、主はその人の主となり得ないのです。 イエス様にお従いしていた弟子たちも、満たされる前に、イエス様に心の内で反感を持ち、口答えいたしました。 その時の弟子たちの内で、主となっているのではなく、イエス様ではなくて、彼ら自分の意思、自分の感情、自分の考えだったのです。 これらの主の喜びに至らない、自分の意思、自分の感情、自分の考えが十字架によって粉々に砕かれた時、その時イエス様が支配する道が大きく開いていてくださいます。 イエス様が、我々の内に全きご支配の権をとる時、初めてそこにイエス様の豊かな満たしが訪れてまいります。 全聖書は、この事実を我々に証明しています。その内の3つをちょっと取り出してみたいと思います。 第1番目イスラエルの歴史です。 毎日毎日、奴隷の生活であり、いつ解放されるかを知らず、絶望と苦しみの生活であり、行く先はただ死を待つのみであった、あのエジプトから導き出されたイスラエルの民は、荒野でさまよい続けましたが、その間欠乏、不平、不満が絶えなかったのです。 このようにして、イスラエルの民は40年もの間荒野をさまよい続けました。この間、主が支配者であることを知りながら、自分の意思が自分の考えが支配しようとし、迷い続けて遂に40年のうちにヨルダン川にやってきました。 このヨルダン川に来た時、イスラエルの民の指導者であるヨシュアに主の軍勢の将が現れ、「あなたの足の靴を脱ぎなさい。あなたの立っている所は、聖なる所である」と言った時、ヨシュアは靴を脱ぎ、主の御前にひれ伏した。 ヨシュア記5:13-15
靴を脱ぎ主の御前にひれ伏したということは、主に自分の持てる一切の支配の権をお任せするということを意味しています。この時からイスラエルの民は、主が前からすでに備えてくださった満たしを経験したのです。 主が支配する時、そこには主の満たしがあります。 また一方、旧約聖書の士師記を見ると、この時のイスラエルの民は、主の満たしを持っていませんでした。 士師記の時はもうすでにイスラエルの民は、ヨルダン川に渡り約束の地、カナンに入ってからのことでしたのに、満たしを失ってしまいました。そこには、ただ政権と絶望と束縛と囚われがあるばかりだったのです。 けれども、神の御心にかなった王ダビデは、イスラエルの民の王となった時、再び主の祝福、また主の満たしがイスラエルの民に訪れてきたのです。 それはどうしてでしょうかね。この神の御心にかなったダビデ王は、全部の支配を主にお任せしていたからです。 主のご支配が、主の満たしに至る鍵のようなものです。新約聖書にも同じことが見られます。使徒たちのうちにイエス様が主となられるまで、あの大きな働きをした使徒といえども、敗北と弱さに負けていたのではないでしょうか。 天におられる諸々の支配である主イエス様が、五旬節におよび使徒たちの心の内で王となり支配者となった時、使徒たちは満たされ、心からなる喜びを持って、「イエス様はすべての者の主である」と述べ伝えるようになったのです。 ペテロの生涯について考えると一番よく解かるのじゃないでしょうか。 イエス様がペテロの支配者となられるまでには、大変な戦いがありました。 ご存知のようにペテロは、3年間イエス様の愛を受け、共に生活し、主のなされた数々の奇跡を目の当たりに見て、「イエス様はまことに約束された救い主であり、神の御子である」と信じていたところの信者でした。 けれども、ペテロはイエス様が囚われ、自分の身に危険が及んだ時何と言ったでしょう。イエス様を指して、「私はあの人と関係ない。全く知らない。」と3度も否んだではないでしょうか。 その時のペテロの心は、もう暗闇でした。その後イエス様が、ペテロの心の内に光となり、支配者となるまでに、多くの戦いがあったのです。その内の1つの戦いが聖書に書かれています。 ペテロはある時、祈っていました。その時、幻を見たということが聖書に書いてあります。 ペテロが祈っておりますと、天から大きな布に包まれて、いろいろな種類の動物、すなわち聖くない食べてはいけない動物が天から吊り下ろされるのを見ました。そして天から声があり、「ペテロよ。これを食べなさい」というのでした。 ペテロは、「私は聖くないものを食べるわけにはいけません。」と彼の声に逆らいましたが、ペテロに与えられたこの幻は、1回だけじゃなくて、2回だけじゃなくて、3回起こりました。 そして布に包まれた動物が天に引き上げられた時、コルネリオという人の召使が、ペテロに訪れたんです。 「どうかお願い。コルネリオの所に来て。」と頼みました。そこでペテロは、聖くないとされていた異邦人のもとへ行くことになったわけですけど、その決心が固まるまで、並々ならぬ戦いがあったわけです。 ペテロは戦いに勝ち、主に全く従って、コルネリオという異邦人の所に参りました時、主の偉大な栄光また祝福を経験することができたのです。けれどもペテロは、どんなメッセージをコルネリオの所でしたのでしょうか。 これもめずらしい。我々はちょっと当てはまらない。「イエス様は、常に赦すお方です。孤独から解放するお方です。」と言ったらいいんじゃないの。 全く違う。「イエス・キリストはすべての者の主である」というメッセージでした。 そしてペテロが伝えたメッセージの結果、コルネリオ及びコルネリオの家族だけではなく、そこにいた親族全部が救われたばかりじゃなくて、「聖霊に満たされた」とあります。 これらすべてのすばらしい出来事は、どこから起こってきたかと言いますと、それはペテロが、新しく主のご支配をいただいたところから起こってきたということを見ることができます。 それまでのペテロは、主をほんの少ししか経験していませんでした。けどその時、主がどんなに偉大なお方であるか自分のものとすることができたのです。 使徒の働き11:17
もうお手上げですと言っていますが、これは自分の考えは本当に制限されたものであり、イエス様に心の目を開くなら、主はどんなに偉大なお方であり、すべてであられるかが解かるということを、我々に教えていると思います。 私達もペテロと同じく、新しく心の目を開くイエス様がすべての主であることを知るならば、その結果、主の豊かな満たしにあずかることができると確信するものです。 それから3番目パウロの経験について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 パウロは非常に早く、内面的、霊的に成長した男でした。彼は早く霊的に満たされた主の器になったのです。いったいどうして? パウロは当時、秀才が集まったガマリヤの門下生となり、当時の最高の教育を受けたためでしょうか、決してそうではありません。 パウロは、イエス様を信じる者を迫害するためにダマスコに向かって急いでいるその道すがら、主の光に照らされ、改心してから数日の間、ダマスコの兄弟姉妹と共に過ごし、その後直ちに「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべての者の主である」と述べ伝え始めたのです。 なぜパウロは、そのように霊的に早く成長したのでしょうか。パウロは回心した時に聞いたんです、祈ったんです。「主よ。あなたはどなたですか。主よ。私はいったいどうしたらいいのでしょうか。」と2回ともイエス様を主と呼びました。 初めからパウロにとってイエス様は、限りなき主でした。これが満たされた祝福された生活の秘密だったのであります。使徒の働きを見ると、他の人たちはイエス様を救い主として述べ伝えませんでした。イエス様を主として述べ伝えました。 なぜなら使徒たちは、主の永遠からのご予定は、イエス様がすべての者の主であるということを知っていたからです。イエス様は、すべての者の主となられるために、救い主となられました。 もし、全人類が悪魔の支配のもとにあるならば、イエス様は支配者となることができません。ですからイエス様は、十字架にかかり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、そして支配者となられました。 「イエス様はすべての者の主である」これが使徒たちの証しでした。 もし主が、もしイエス様が主であるなら、救い主でもあるはずです。イエス様は、我々の生活において救い主であられるばかりでなく、主として崇められていなければいけないのです。 私達は、新しく生まれ変わっただけでは不十分です。霊的に育って、満たしに至らなければいけません。 ですから使徒たちは、イエス様を主として述べ伝えたのであり、それが父なる神の御心であると述べ伝えたのです。イエス様のご支配はイエス様の豊かな満たしに至る秘密です。 最後に信者一人ひとりに対する主の御心とはいったい、何なのでしょうかね。もし主なる神の御心は、私達が救われるばかりではなく、救われた後、御子イエス様によって完全に生活が支配される、これが主の御目的です。 主は、どんな値を払ってでもこの目的を達しようとしておられます。信者である我々の生涯には、偶然がありません。すべてが主の許しであり、主の導きです。 私達が主はすべての者に支配者であるということを認めるまで、主はいろいろな理解しがたい事柄を通して導いてくださいます。 主は、我々信者を一人ひとり全く個人的に、ご自身がすべての者の主であられることを知らせる、その目的をもって導いていてくださるのです。 主はパウロの場合もそうされたように、私達をも個人的に導いてくださいます。パウロは回心した時、共にいた者はみな、パウロと同じように地に倒れてしまいました。 けれども主は、パウロを個人的にお取り扱いになりました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」とパウロの母国語であるヘブライ語で、パウロ一人に名指しでお語りになりました。 使徒の働き26:14
私達は、パウロと等しい経験は持っていないでしょう。けど、主は我々を全く個人的に導いておられるのです。私達の生活において、主が絶対的な支配の権をお取りになるかどうかが問題です。 多くの兄弟姉妹は、イエス様を奴隷以上のものに取り扱っていないでしょうか。彼らが悩みに沈んでいる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。また彼らは弱っている時、イエス様から力を得たいのです。 また彼らは、自分ひとりでもはや出来ない時、主イエス様が飛び込んでもらいたい。助けてもらいたい。 イエス様は彼らに仕えるべきなのです。けれども、彼らは主の支配を欲しくない。聖書は、そのようなキリスト者を肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉すなわち自己は支配を持っているから。そこには大きな心の悩みがないでしょうか。 自分のための生活が、本当の信仰生活にとって障害となっていることをしばしば感じます。もしイエス様が、我々の生活の主でなければ、我々の人生は真の価値を持っていないということになります。 悔い改め、イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主の御目的の第一歩にすぎません。 実に多くのキリスト者は、主の御目的でありイエス様の豊かな満たしに達していません。イエス様の支配に従う自然の結果は、イエス様の豊かな満たしそのものです。 我々の目的はいったい何でしょうか。私達の願いは何なのでしょうか。私達は「主の御心にかなった者となりたい。」その願いを持っているのでしょうか。 イエス様が我々の心の内に、心の王座に主として崇められ、限りなく支配をなしたもう、その時初めて主の御心は満足させるのです。イエス様のご支配によって、私達は決して哀れな奴隷となることはありません。むしろ非常に富める者となることができます。 エペソ人への手紙1:23
主の御目的は、欠けた所のない完全なる満ちた主イエス様です。 けれども、天におられるイエス様は、救われた兄弟姉妹の頭にすぎません。もし肢体である私達一人ひとりが満たされなければ、イエス様は完全なお方とはなり得ないはずです。 ですから私達信じる者が、主にとってどんなに大切であるかがよく解かります。 我々のテーマは、主のご支配は、満たしへの鍵であると言いました。けれどもここでは、教会はすなわち信者たちの群れは、満たしであるとみことばは言っています。ですからイエス様のご支配は、教会の秘密、霊的成長の秘訣であるということになるわけです。 私達は、今日パウロと同じように「私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」ということが出来るのでしょうか。 信仰によって、心からこのみことばを言い表すことができ、また喜んでこういうことができるようにしましょう。 これは全く実際的な事柄です。決して宙に浮いた抽象的なものではありません。日常生活でいろいろなことが起こってきますけど、何かをしようとする場合、自分でことを決心することができません。 イエス様と共に十字架につけられ、自分はもはや生きていないから。自分ができることは、「主よ、私には何もできません。ただあなたの御心を成してください。私の成すべきことを教えてください。」と言えるだけです。これこそ主のご支配です。 もしそうなったなら、私達は一言も語らずに、主はすべての者の主であることを証しすることができます。そうなったら、私達は自分の計画を遂行することを止め、自分の目的を追い求めることを止め、すべての兄弟姉妹と一緒になることができることを確信しています。 この一致は、またとりもなおさず、主イエス様はすべての者の主であるという証しになるのです。そして、始め主イエス様は、御栄えをお取りになり、このエペソ人への手紙1章23節のように、満ち満ちた形になることができるのです。 もし私達がパウロのように「私はキリストとともに十字架につけられて、生きているのはもはや私ではなく、イエス様が私の内に生きておられる。」ということができるなら、これこそ真の教会です。 イエス様はすべての者の主です。我々の生活の支配を、今日新たに意識的にイエス様の御手に委ねましょう。イエス様の意思を無条件に受け入れましょう。自分自身をイエス様に完全に100%、無条件に余すとことなく明け渡しましょう。 そうすれば、完全に満たされた生活、主イエス様の支配している生活、実を結ぶ生活が与えられるのです。 そうすれば、私達もパウロのように、告白することができるでしょう。 ピリピ人への手紙3:8
コリント人への手紙第II、1:9-10
ローマ人への手紙10:9-10
ローマ人への手紙14:8-9
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