引用聖句:申命記20章1節-8節
新しい年になってしまったね。暮れにいろいろな兄弟姉妹から、はがき、手紙を貰って、一人の姉妹は書いたのです。 「今年、去年の話ですけれど、今年は、とても嬉しい年でした。みことばが、よりはっきりと私を照らし出してくださいました。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』このみことばは、今、私の希望となりました。 イエス様は、私を縄目から解き放ってくださり、楽にしてくださりました。長い間、訳のわからない歩みの者でした。みことばを素直に受け入れることのできない者でした。お赦しください。 イエス様は、私のためにも十字架にかかってくださり、そして、兄姉のところに導いてくださった憐れみを心から感謝しています。」と。 ある兄弟・姉妹は、みことばを書いて、それから一文章だけ付け加えてくださったのです。 「祈りの足りなさを思わされています。主が勝利してくださいますように。」 また、別の家族は、「集会の中にイエス様の愛が満ち溢れ、私たちがたくさんの主のご栄光を拝することができますように。」 今朝、玄関を開けて、少し兄弟と話したのです。彼は、この集会に来たとき、やはり違うと思ったのです。けれど15年、20年前の集会と、今の集会は違います。多くの人々は感じていないかもしれないけれど、ずっと私の心の痛みです。 昔は一年で、300人まで洗礼まで導かれたのです。もう何年もの間、2、30人です。 普通の教会だったら、2、30人バプテスマに導かれたら、もう大成功です。けれども、集会全体の上に、昔のような祝福がないのは認めざるを得ない。悲しいことです。 問題は、誰のせいかな。主のせいではないでしょうね。主は変わらないよ。昨日も、今日も、いつまでも変わらないのが我々の主です。 それから、悩んでいる人々、絶望している人々は、急に少なくなったこともありえないでしょう。 そうすれば、信ずる者のせいです。信ずる者の無関心さ、祈りの足りなさこそが、そのせいなのではないでしょうか。だから、やはり、集会全体が悔い改めなくてはならないのではないかと思います。 今、結局、いろいろな問題があるけれど、「祈りの輪」に入っている人が618人になりました。ありがたい。だから希望がある。 けれども、99%以上の人々は、「どうして、そんなに真剣に祈らなくてはいけないの。」とわからない。公に言えないことだからです。 けれども、多くの人々が一緒に祈るようになったのは、聖書は生きたものとなった。私たちは元気になったという証しを聞くと本当にありがたい。 結局、みな一つになれば、祝福があふれるばかりのものとなります。そうでなければ、やはり大変です。 ですからこの間の日曜日、少し話したのです。今年こそ、刈り入れのときであり、戦いのときです。戦いの連続です。また、今年こそ、真心から主を礼拝するときであります。 それから、今年こそ眠りから覚めるべき時刻がある。パウロは、信ずる者にそう書いたのです。未信者ではない。眠りから覚めるべき時刻がもう来ている。 もう一つ、今年こそ、さばきが神の家から始まるときである。どうしてであるかと言いますと、聖められるため、前よりも用いられるためなのではないでしょうか。 主のみこころとは、いったい何なのでしょうか。主のみこころは、人間の救いです。 主はどういう人間であれ、無関心な態度を取らない。みな例外なく、主の愛の対象です。 悪魔の願いは、もちろん、主と逆でしょう。すべての人間が呪われることです。 主のみこころが、すべての人間が真理を知るにいたることであり、悪魔の願いは、すべての人間が試みにあって、誘惑され、間違った道に行くことです。 主のみこころと悪魔の願いが、このように全部対立しているから、あらゆるキリスト者は、戦いの中に投げ込まれているのです。 今、兄弟に読んでもらいました申命記の20章1節〜8節のみことばは、重大な戦いがどのようなものであるかを指し示しているのではないかと思います。 戦いのためにどのような者がふさわしくないかということも、はっきり書き記されています。 今朝、少し二つのことについて一緒に考えたいと思います。第一は、五つの大切な事実です。第二番目。戦いに行くことのできる資格のいろいろな要素、ならびに、戦いに参加することのできないいろいろな理由についてです。 まず、第一に五つ事実のうち、最初の事実は、キリスト者の生活は決して遊びごとではないということです。 つまり、キリスト者の生活は、まずふさわしい歩み、あるいは、ふさわしく歩むことでなければならない。 よく知られているエペソ人への手紙4章の1節〜3節までお読みいたします。 エペソ人への手紙4:1-3
キリスト者の生活は、競争として説明されています。 ヘブル人への手紙12:1
千九百何十年前に、こういうふうに信ずる者は、励まされたのです。 自分のことをばかり考えたり、周りの人ばかりを見たりしないで、イエス様だけを目指して走る者だけがこの競争に勝つことができるとあります。 また、キリスト者の生活は、旅人や寄留者の歩みにも例えられています。おもにペテロはよくこの表現を使いました。 ペテロの手紙第I、2:11
とあります。主に従う兄弟姉妹は、「寄留者」あるいは「異分子」として、この世で歩まなければならないと聖書は言っています。これを一言で表現するならば、キリスト者の生活とは、結局戦いです。 私が出た神学校の校長先生は、よく言ったのです。「もし、あなたがたが悪魔の憎しみを感じなければ、あなたがたの信仰は、根本的に間違っています。」本当にその通りです。 我々の戦いや格闘とは、もちろん、血肉、人間に対するものではない。この目に見える世界に対するものではないと、パウロはエペソ人への手紙6章に書いたのです。 エペソ人への手紙6:12
このような歩みをするためには、人間は自分自身の力によることはできません。ただ、主の力に拠り頼む以外に方法がない。 ただ、イエス様にお従いして歩む兄弟姉妹は、誰でもこの戦いの中に投げ込まれます。 従って、悪魔の憎しみを感じることがない者は、確かに気の毒。用いられ得ない。 第二番目の大切な事実は、兄弟姉妹の生活が絶対なる力を持つ敵に対する戦いであるということです。 ですから、前に読んでもらいました申命記ですかね、20章の1節をもう一回読みましょうか。 申命記20:1
主が共におられれば、確かに心配する必要はない。言うまでもなく、敵は我々よりもはるかに強い。 もちろん、私たちの戦いは、今、話したように人間に対する戦いではない。敵は人間ではなくて、悪魔です。悪魔に使える悪霊たちです。 我々の戦い格闘とは、人間に対するものではない。悪霊に対するものだよと。 聖書によると、三種類の敵が我々に対立している。 第一番目。この世です。この目に見える世界です。 第二番目。肉です。人間の思い、人間の我侭です。 第三は、今、話したように悪魔です。 この世について、聖書は次のように言っています。ヨハネの福音書17章の14節です。 ヨハネの福音書17:14
聖書はまた、この世の友は神の敵であるとはっきり言っています。聖書の中で最も強いことばの一つではないかな。ヤコブの手紙4章の4節です。 パウロは、よく「愛する兄弟たちよ。云々」という表現を使いました。 ヤコブは、信ずる者に大変な言葉を使ったのです。「貞操のない人たちよ。」 ヤコブの手紙4:4
この世との内面的な分離がなければ、本当に主との交わりに与ることができません。 第二の敵は、いわゆる肉です。ガラテヤ人への手紙5章17節に、パウロは、ガラテヤ地方にいる人々に、次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:17
ここで肉とは、人間の我侭な意志のことを意味しています。自分のことばかりを考えている人は、悪魔の奴隷、虜。したがって、悪魔にとらえられ、悪魔の虜になっているものにほかなりません。 第三の敵は、この世と肉を利用する悪魔です。 だからペテロは、当時の信ずる者に書いたのです。ペテロの手紙第I、5章の8節 ペテロの手紙第I、5:8
これらの三つの敵を軽く考えることは、大きな間違いです。悪魔は日夜、我々を攻撃しようと隙を狙っています。 第三の事実は、私たちが勝利者の側に立つことを赦されているということです。 前に読みました申命記に戻りまして、20勝の3節からもう一度読みましょうか。 申命記20:3-4
主なる神は、聖書の中でもう何百回も言います。「恐れることはない。」、勝利者なるわたしはあなたがたと共にいる。あなたがたの代わりに戦っている。 敵は、決して想像上の偶像物ではありません。このような恐るべき敵の力のために、恐れをなすことはまったく当然なことといえましょう。 けれど、ここで書かれているね。「彼らに言いなさい。『イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。 私たちは、主と共に圧倒的な勝利者であることを赦されています。 よく知られているローマ人への手紙8章の終わりの方に書かれています。37節ですか。 ローマ人への手紙8:37
もちろん、主のおかげです。 第四の大切な事実は、戦いの結果が我々と主イエス様にかかっているということです。 勝利者なるイエス様は、器を求めており、その器を通してご自分の勝利を明らかにすることが出きるのです。そして、イエス様は、私たちのような者を同労者として用いようとしておられます。 すべては、イエス様に委ねられています。イエス様は、ご自分がお用いになれる兄弟姉妹、すなわち、すべてを主に委ねた兄弟姉妹を求めておられます。 今日、最も必要なのは主の同労者です。 初代教会の人々は、非常に恵まれた人々でした。自分で頑張ろうと思わなかったからです。コリント人への手紙第I3章9節、「私たちは神の同労者です。」とあります。 コリント人への手紙第II、6:1
「私たちは神とともに働く者である。」とは、すごい特権なのではないでしょうか。かしらなるイエス様は、体なる兄弟姉妹を通して働きになり、ご自身をあきらかになさりたいと思っていらっしゃいます。 第五番目の大切な事実は、多くの兄弟姉妹が、実際は、戦いに役に立たない、あるいは、戦う能力がないということです。 前に読んでもらいました申命記の20章ですか。4節から9節まで、ずっと読むとわかります。 結局、戦いに参加すべきでない4種類の兄弟姉妹について述べられています。すなわち、彼らは失格者とされたのです。それらの兄弟姉妹は、家へ帰らなければならなかったのです。 そのような兄弟姉妹も、また神の選ばれた民に属し、主はご自身を彼らの神でもあると言われ、ご自身を勝利者としてあらわされたのです。 主は、ご自身の民を、兄弟姉妹のお一人おひとりを用いたく思っておられ、ご自分の勝利があきらかにされることを望んでおられます。けれど、そのような失格者たちをお用いになることはできません。 戦いに参加する合格の要素、また、失格の理由について、ここで書かれていますね。合格のためのいろいろな要素が、いかなるものであり、失格に導くものはいかなるものでるかについて書かれています。 これから、四つの点についてふれたいと思います。 第一番目。すべてを主にささげない者は失格者です。5節 申命記20:5
聖書によると、その当時は、新しい家は主にきよめられるという習慣があったことがわかります。その新しい家は、主の物であり、主が自由にお用いになることがおできになったのです。 この家、すなわち全家族とともにすべて主の御手にささげなければ、戦いに参加する資格が与えられなかったのです。 このことは、我々にいったい何を語っているのでしょうか。それは、私たちイエス様を信ずる者が、神の家、主の住まい、そして、聖霊の宮であるということを意味しています。 よく引用される箇所を、もう一度、見てみましょうか。コリント人への手紙第Iの6章です。 コリント人への手紙第I、6:19-20
すべて、神にささげつくさない場合には、その者は、家に帰らなければならない。まず最初に、その人の家、家族が、主にきよめられて初めて、戦いに参加する資格を与えられるのです。 今読みました箇所で、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」忘れたの。いったいどういうこと。 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」 すべてを主にささげつくすことこそ、戦いのための資格として要求されています。それは、我々の場合には、自分の自己本位の生活に死ぬことを意味しているのです。 「あなたがたは、もはや自分自身のものではない。」言葉を変えて言えば、この戦いに参加する資格を与えられる者は、バプテスマのヨハネのように、「イエス様は栄え、私は衰えるべきである。」と。 我々の体、我々の手足、すべてが主の器となるべきです。家全体のすべての部屋は、主の物であり、主にささげられるべきです。 我々のすべての肢体、すなわち、我々の心、我々の意志、我々の考え、耳、手、足、唇、これらのものすべては、主にささげられることによって、主の器となるべきです。 その時、初めて、私たちは戦いに役立つものとなり、戦う能力を持つ者となります。 主が我々の心の奥底を探り知ることがおできになりますように。 第二番目に、何の実も結ばない者は、失格者となる。実を結ばない信仰生活は、結局、ありえない。 申命記20:6
とあります。 パウロはガラテヤにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙6:7-9
ガラテヤ人への手紙5:22-23
とあります。この22節を考えながら、私たちは自分の日常生活がいったいどういうものであるかを、反省する必要があるかもしれない。 このガラテヤ人への手紙5章22節には、御霊の実として、九つのものが上げられていますが、見てみましょうか。 第一番目、御霊の実は愛です。もちろん人間の愛ではないよ。パウロは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が我々の心に注がれている。」いつか注がれるではない。もう、与えられている。 この愛は、主の愛は、我々の日常生活の中でも生き生きと働くことができているのでしょうか。 二番目。御霊の実は喜びです。 ヨハネの福音書15:11
とイエス様は言われました。イエス様の喜びとは考えられないものです。 第三の御霊の実は、平安であります。 イザヤ書26:3
と書かれています。 これは、困難と問題に満ちている日常生活の中で、私たちは、私たちの絶えざる経験となっているでしょうか。 第四の御霊の実は、寛容です。パウロは当時の信ずる者に書いたのです。 エペソ人への手紙4:32
キリストが赦されたように、同じように、互いに赦し合いなさい。 もちろん、人間の力によってできるものではない。だから、主を必要とする。幸いに、いつも御霊の実と書いてある。人間の努力の結果ではない。 第五の御霊の実は、親切です。「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。」と書いたのであります。この点において、私たちもイエス様に似た者とされているのでしょうか。 第六の御霊の実は、善意です。使徒の働き11章24節に 使徒の働き11:24
と書いてあります。すなわち、当時のバルナバは、立派な人物だったらしいが、原語を見ると、善意という言葉が用いられていることがわかる。 バルナバは、主によって豊かに用いられた器で、彼を通して大勢の人々が主に導かれたとあります。私たちもバルナバに似たものとされ、我々についてもバルナバと同じことが言われるのでしょうか。 第七の御霊の実は、誠実です。ルカの福音書17章5節。 ルカの福音書17:5
私たちの場合は、どうでしょうか。私たちの日常生活も、主に対する幼子のような信頼。また、主の呼びかけに対して、はっきりとした意識を持って行動する生活として特徴づけられているのでしょうか。 第八の御霊の実は、柔和です。 コロサイ人への手紙3:12
と使徒たちは、よく、当時の信ずる者を励ましたのであります。私たちも、このような謙遜な態度でもって人に接しているのでしょうか。 第九の御霊の実は、自制です。パウロはコリント人への手紙第Iの中で、「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。」と書いたのであります。 この点について私たちの場合、いったいどういうことなのでしょうか。 今まで、失格者について、申し上げたことをまとめてみると、まず第一に、主にすべてささげきっていない兄弟姉妹は、戦いに参加するための失格者であり、第二に、日常生活の中に御霊の実を見出すことができない者も、また、失格者であって、戦いには役立ちません。 さらに、第三番目としては、義務を軽んずる者は、戦いに役に立たないとあります。もう一回、申命記に戻りまして、7節 申命記20:7
聖書によると、その当時、婚約した者は、約束を守って結婚しなければなりませんでしたが、それから一年間は、兵役の義務から解放されていました。要するに、自分の約束を守らない者は主に用いられえないということです。 我々もまた、義務を持っているのであり、それは、まず主に対する義務、それから他人に対する義務でしょう。 主に対する義務とは、どういうものなのでしょうか。申命記の23章の21節を見ると次のように書かれています。 申命記23:21
とあります。私たちは、主に何かを約束し、それを守らなかったことがあるのでしょうか。 おそらく、私たちは主にすべてを委ね、主のご自由になさってくださいと約束したにもかかわらず、我侭な気持ちを捨てきれないというような経験を持っているでしょう。 けれど、これは、主がそのままにはさせておくことのできない罪です。 主に対する二番目の義務は、主こそ我々の生活の中で、最優先されるべきであるということです。山上の垂訓の終わりに書いてあります。 マタイの福音書6:33
主に対する三番目の義務は、福音を宣べ伝えることです。 マルコの福音書16:15
とはっきり書かれています。これこそが、すべてのキリスト者の果たさねばならない義務そのものです。 この主に対する三つの義務を果すことができない者は、主がお用いになることもできないし、また戦いに参加する資格もない者です。 けれど、主に対してだけではなくて、人間に対しても、義務を持っています。 第一は、和解が大切である、ということです。マタイの福音書5章23節。本当に、大切な言葉です。日曜日の集会、パン裂きの前にいつも一人の兄弟がたって話すのです。 洗礼を受けても、受けなくても関係ない。主の者になった者はOK。けれど、だいたい忘れられていることがある。 救いの確信があっても、光のうちに歩まなければ、ある罪を隠すと本当は与ってはいかんということです。 マタイの福音書5:23-24
言うまでもなく、人の力でできるものではない。だから、主に頼らなくてはいけない。わだかまりが解決されない限り、主はその人をお用いになることはできない。 第二は、まったき真実が大切であるということ。 ローマ人への手紙12:17
とあります。主はあらゆる嘘、あらゆる偽り、あらゆる偽善を憎みます。 それに対して真実であることは、常に主によって勧められています。 もう一つ、第三のほかの人の重荷を担うことも、要求されています。ガラテヤ人への手紙6章2節です。 ガラテヤ人への手紙6:2
イエス様のからだの肢体として、主のものである私たちはすべて、お互いにいたわり合い、助け合うべきです。 このように主に対して、また、他人に対しての定められた義務を軽んじ、その義務を果たすことをしなかったり、うるさがったりすることは戦いのための失格者です。 今まで、失格者について申し上げたことをまとめてみましょう。まず第一に、主にすべてささげきっていない者は、戦いに参加するための失格者です。 二番目、日常生活の中に御霊の実を見出すことができない者もまた、失格者であり、そして第三に、定められた義務を軽んずる者が戦いに役に立たないということです。 最後に、短く恐れたり臆病な心を持つ者は戦いのための失格者ですね。ですから、前に読みました申命記20章の8節 申命記20:8
戦いに参加できるための前提は、断固たる決意、また勇気です。臆病や心配が支配すると、そのような者だけがダメになるだけではなく、周りの人々もみな臆病風に吹かれてしまうのですから、だから恐れてはいかん。 臆病や勇気のなさは、我々の主に栄誉を帰すことができない。我々の周囲のものを損ないます。主はみことばを通して、日々、我々に語りかけておられるのでしょうか。 我々は、主の声を聞きたいという切なる願いを持っているのでしょうか。また、主のみ声に従う備えができているのでしょうか。もし、そうするならば、恐れはすべて消えうせてしまいます。 最後に、もう一箇所読んで終わります。イザヤ書の41章です。 私のために与えられた主のみことばと思うと、非常に幸いと思います。 イザヤ書41:10
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