引用聖句:マルコの福音書4章35節-41節
司会の兄弟が言われたように、今の悩める世界の中で、めちゃくちゃな世界の中で、イエス様の比類なき救いを紹介することができるのは、素晴らしい特権なのではないでしょうか。 イエス様に出会った人は、どういう問題があっても前向き生活をすることができるのです。 聖書は、いつも強調しているのは、「今からだよ。」、どこでも主に仕える人は影響を及ぼすものです。そして、悩んでる人々はやっぱり、心開くようになるに違いない。 今の読みましたマルコの福音書の箇所を見ても、比類なきエス様を見いだすことができるのではないかと思います。 イエス様を知ること、イエス様をよりよく知ることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 私たちが、イエス様をよりよく知れば知るようになればなるほど、私たちは自分自身についても、より深く知ることができるようになります。 私たちが、イエス様を大切に思うようになればなるほど、私たちにとって自分のことはどちらでも良いことになります。私たちがイエス様に対して祈れば祈るほど、私たちは自分自身に対して信頼を置くことができなくなります。 困難に直面すればその時は、イエス様を見いだすきっかけになるばきです。 けれども、実際私たちが苦況に陥って、どうしようもない状態にある時、イエス様をその時こそ必要とする時に私たちは、イエス様のことを思わずにいたり、イエス様により頼むことを忘れていたりする者ではないでしょうか。 私たちは、イエス様が全能のお方であり、愛に満ちたお方であるということを確信しますけど、私たちは、その確信を現実に自分自身の力としているなのでしょうか。 私たちが、波が静まって凪ぎの時に、イエス様の全能と愛を確信していることと、私たちが荒れている海にいるとき、しけの時、主の全能の愛を確信していることとは、大きな隔たりがあります。 けどもイエス様は変わらない。昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。すなわちイエス様は、嵐の時も凪の時も、健康な時も、病気の時も、また富んでいる時も貧しい時も、気分の良い時も、そうでない時も、変わりのないお方です。 イエス様は、私たちが現実に絶対的な信頼を置くことができるお方です。 私たちが、いつでも何があってもこの揺るがない主を自分のものにすることは、大きな幸いです。 今の読んでもらいました箇所を見ると、イエス様と弟子達についての箇所なんです。すなわちイエス様の態度について、それから弟子達の態度についてです。 全く違ったのです。イエス様と弟子達のとった態度とは、まず苦難に対して、それから、お互いに対してであります。弟子たちのとった態度の特徴とは、不安、不信仰、絶望です。イエス様の特徴は、全き平安でした。 それからお互いに対する態度、イエス様は弟子達にどのような態度をとられたか、また弟子達は、イエス様にどのような態度をとったかということです。 イエス様に対する弟子達の態度は、不信頼と愚かさでした。弟子達に対するイエス様の態度は、恵み、寛容そのものでした。 苦難は、その人の心の状態を明らかにします。イエス様と弟子達は、同じひとつの船の中にいて、同じように波にのまれ、全く同じ境遇に置かれていたのです。けど、その苦難に対してとった態度は全く違っていました。 弟子達は恐れに満たされ、どうしたら良いかわからない状態であり、絶望していました。その原因は言うまでもなく彼らの不信仰と、疑惑でした。 イエス様とそれとは全く対照的に船の中で、枕をして眠っておられた。父なる神の御腕に安らっていたのです。イエス様の心は、その波と嵐を超越しておられました。 弟子達は、漁師で専門家であり、このような嵐にはむしろ慣れていたことを思います。けどこの場合には、彼らの直面している嵐は非常にひどくて、船が沈んでしまいそうな危険がありました。 彼らは、もちろん物事を大げさに話しする人々ではなかったのです。彼らは、自分たちがすぐに波に飲まれてしまい、死んでしまうと本気になって思ったのです。 これらのことは、人間的に考えれば正しいことではないでしょうか。けどこれは不信仰の現れでした。初代教会の人々とは、勝利者なるイエス様を体験しました。 コリント人への手紙第II、4:18
これこそ、主の望んでおられる信仰です。そうすれば、不信仰とは何でしょうかね?すなわち、私たちは見えないものではなく見えるものに目を留める。そうすれば、うまくいくはずがない。 弟子達は、ただ単に目に見える現実に目を奪われていました。波はもちろん現実でした。風も現実でした。夢でも単なる想像でもありませんでした。 けど、弟子達はこの目に見える現実を信仰によって克服することができなかったのが、問題なのです。彼らは、目に見えるものを克服することができなかった故に不信仰とみなされたのです。 私たちが霊的に弱くなったり、過ちを犯したりすることの原因は、不信仰です。 私たちは、しばしば次のような不信仰な状態にあったのではないでしょうか。つまり、私たちが信頼すべき時、私たち自身の心の中に混乱があり、私たちが主に頼るべき時に、私たちが自分の思いでいろいろな逃れ道を考えています。 私たちが、主に対してだけ目を注ぐべき時に、他の人間の助けを求めたりするようなことがあったのではないでしょうか。これは、聖書の言う罪です。 このような状態では、私たちは主にご栄光を捧げることはできません。 このような状態では、他の人々を主のみもとに導くこともできません。 私たちが、主に対する自分自身の不信頼について考えるときに、私たちは、主の前に赤面せざるを得ないのではないでしょうか。 困難に直面した時に、もし私たちがその困難に対して正しい態度をとることができないならば、私たちはイエス様に対しても正しい態度をとることができない。 これら二つの事柄は、お互いに密接な関係を持った事柄です。嵐に遭う前の態度は、外側から見た限り、イエス様と弟子達との間にそれほど大きな違いは見られなかったでしょう。 一日の激しい御業の後で、イエス様は他の人間と全く同じようにぐったりと疲れ果てたことでしょう。けども苦難に、ここでは嵐ですが、弟子達と、イエス様との態度は、全く違うものになってしまいました。 弟子達は、嵐に大わらわでした。彼らはすぐに帆をたたんだり、船にたまった水をかき出したり、舳先を波の押し寄せてくる方向に向けたり、一生懸命だったでしょう。こうしなければ、船はたちどころに波をかぶって沈没してしまうから。 けれども、イエス様は、その時になっても、安らかに眠っておられたとあります。弟子達は、不安に満たされていましたが、イエス様には平安がありました。 弟子達は、自分たちが死ぬかもしれないと怯えていましたが、イエス様は、彼らが決してこのことによって命を失うことがないことを確信したのです。 弟子達は、押し寄せて来る波を見つめ、木の葉のように波に弄ばれる船を見て、自分たちは溺れて死ぬに違いないと思ったのです。 けどイエス様は、波をご覧にならず天におられる父をご覧になったのです。 イエス様は詩篇の作者と同じような経験を持っていたのです。 詩篇93:4
弟子達のとった態度は、不信仰の態度でした。不信仰とは、イエス様に対する不信頼の態度です。不信頼は、常に愛する者の心を悲しませます。 その一例を少し創世記の50章に見ることにしましょうか。創世記の50章15節から。 創世記50:15-22
ヨセフは、彼の兄たちが彼に対して犯した事柄をすべて許し、長い間彼らのために心配していたのです。 ヨセフの兄たちは、本当にずるい男たちだったのですけど、父のヤコブが死んだ時に、やっぱり急に不安に陥りました。弟のヨセフは、自分たちに対して、復讐するのではないかと、彼らは思ったのです。 何十年もの間、ヨセフは兄たちに対してその愛を示して来ました。けれども、ヨセフは兄たちから不信頼の態度を示されました。その結果、ヨセフはこのことを聞いたときに、もう我慢できなくて、泣いてしまいました。 ヨセフの兄弟たちが抱いた、このような不安は根拠のないものであり、また不幸なものであり、愚かなものでした。このような根拠のない不安な例を、聖書を通して、いくつも指摘することができるのです。 ペテロはある時、イエス様の近くへ湖を渡って行きたいと思ったのです。イエス様はそれに対して、「いいよ、ペテロおいで。来なさい。」と言われたのです。そして、ペテロは水の上を歩いたのです。 何メートルだったかわかない。天国行ってから聞きましょう。けど彼は、ちゃんとイエス様と同じように水の上を歩いたのです。 どうして途中でうまくいかなかったと言いますと、不安になってイエス様から目をそらしたからなのです。彼が、風を見て怖くなった。沈みかけたので叫び出しました。「主よ、助けてください。」 イエス様に従って行くならば、私たちは、どのような状況に陥ろうとも、不安を持つ必要は、もはやない。 弟子達はこの時に、弟子達だけで船の中に居たのではない。イエス様も共におられました。弟子達は、イエス様と行動を共にしていましたので、イエス様の全能の力とその愛とを何度となく体験したのです。 マルコの福音書4:38
このような不安は、全く根拠のないものでした。マルコの福音書5章を見ますと、ひとりの病気の女性が出てきます。 12年間、彼女は病気を患っていました。でも、イエス様によって、たちどころにその病は癒されました。 その女の人は、イエス様の着物にでも触れば、癒されるのだと信じて思ったのです。 マルコの福音書5:33
立派な態度です。「真実を余すところなく打ち明け」る者は、大いに祝福されます。絶対に損しません。 悪魔は逆のことを言います。「隠さないとたいへんだよ。」 イエス様のみもとに来て、何事かを信仰によって為そうとする者はもはやどのような不安をも持つ必要がない。イエス様はこの女に対して良いことを言ったね。 マルコの福音書5:34
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」これこそ愛の現れなのではないでしょうか。 復活なさったイエス様に出会った女性たちは同じように変な態度をとったのです。 マルコの福音書16:5、8
真っ白な長い衣を着た青年は、イエス様はよみがえったと語りました。けれども、女たちは恐ろしく思え不安に陥った。 けどもこのような不安も、全く無意味なことでした。イエス様の甦られたということは、決して恐るべきことではない。かえって、大きな喜びであるべきです。 ルカの福音書の中でザカリヤという男について書かれています。彼は長い間、子供のために祈ったのです。けれども主の御使いが、彼に現れて、彼に男の子が与えられると告げた時、彼は、不安を抱き恐怖に襲われたのです。おかしいじゃないの。 ルカの福音書1:11-12
前に言いましたように、ヨセフの兄弟たちの不安と恐れも全く根拠のないことでした。この彼らの不安は、ヨセフに対する疑いの念からきたものでした。 もちろんザカリヤも、別に恐怖に襲われなくても良かったのです。恐怖、不安、不信頼は、不信仰の現れであるだけではなく、おかしい。ばかげたことです。 弟子達が、その不信仰によって不安に陥ったことは、全く悲しむべきことでした。もし、そうでなければ神の御子が、溺れ死ぬことはあり得ないことであり、このような弟子達の考えは、笑い話であると言わざるを得ない。 不信仰とは、目に見える現実に目を奪われ、イエス様のことを忘れてしまうことです。 それと反対に、信仰とは目に見える現象の背後におられるイエス様に目を留めることです。すなわち目に見えるものから目を離して、イエス様だけを仰ぎ見ることです。 信仰に立つ人は困難や苦難に直面した時、悲しまないで、喜びます。なぜなら、それらの困難や苦難を通して、私たちは主イエス様をよりよく知ることができるようになるからです。 もし、弟子達がこの時イエス様に目を留めさえすれば、彼らは不安から解放されて魂の平安を得たことでしょう。なぜならば、そこには、イエス様が彼らと共におられたからです。 彼らは、その不信仰のゆえに不安になり、狼狽してイエス様を眠りから揺り動かして起こしたのであります。イエス様とは、全く違ったのです。 このイエス様について、ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙4:15
イエス様は人間でありましたから、私たちと同じように働いた後に疲れました。イエス様は弟子達と同じように嵐の中にあり、波で揺れ動く船の中にありました。 海を造られた主、風を静める力を持っておられる主は、木の葉のように波に弄ばれる小舟の中で眠っておられた。 ここで、イエス様が人間として持っておられた性質を見ることができます。弟子達は不信仰からイエス様を揺り動かして起こしました。弟子達はイエス様に次のように尋ねたのです。「先生!私たちが溺れて死にそうでも、なんとも思われないのですか?」 弟子達のこの言葉の中に、イエス様は私たちのことを思っておられないのではないか?私たちはどうなっても構わないのか?という気持ちを明らかにしました。 弟子達は、イエス様の持っておられる全能の御力、イエス様の持っておられる変わらない愛とを完全に忘れました。 「なんとも思わないのですか?」、このような問いを私たちはしばしば日常生活でとったり、心の中でこのようにつぶやいたりすることがないでしょうか。 たとえば、私たちは、病気になり動かなくなるとします。そのような時に、イエス様がただちにこの病を癒してくださる力を持っていることを確信していますけど、主はなぜなかなか癒せないのかと。 また私たちが経済的に悩むようになるとします。イエス様は富んでおられるお方なのに、どうして早く答えてくださらないのかとつぶやくようなことがあり得るのではないでしょうか。 私たちが、たびたび困難に突き当たってどうしようもない状態に陥るときに、私たちは、しばしば、主よあなたは私をお忘れになったのではないのと言うふうにつぶやきがちな者です。 このようなことは、いかに深く私たちの上に愛を注いでおられるイエス様の御心を悲しませることでしょうか。このような不信仰な態度は、なんと馬鹿げたことでしょうか。 イエス様は、天にある自分の富をすべて捨ててこの罪に満ちた地に下り、私たちのためにご自分の命を捨てられました。 このイエス様がどうして私たちのことをお忘れになることがあるのでしょう。絶対に、あり得ない。 ペテロの手紙第I、1:6-7
様々の試練は、金よりも尊いものです。 なぜならば、それらの試練を通して私たちは主イエス様をより深く知ることができ、イエス様の素晴らしさをさらに体験することができるからです。 弟子達は弱り果てて不信仰に陥り、心配、失敗しました。心配しましただけじゃなくて、ほんとに失敗してしまったのです。 私たちは自分がある問題に陥ると、そのひとつの問題の故に今まで受けた多くの恵みをきれいに忘れてしまうものです。不信仰は、主の力と主の助けを忘れさせます。 弟子達は、「私たちは滅びます。」と本当に思ったのです。思い込んでしまいました。もちろん弟子達だけではなくダビデも同じ気持ちになったことがありました。 すなわち不信仰に陥ってしまいました。 聖書は言っています。ダビデは、公ではない、心の中で言った「私はいつかサウロの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるより他の道はない。そうすれば、サウロは私をイスラエルの領土内でくまなく探すのをあきらめるでしょう。こうして、私は彼の手から逃れよう。」 イスラエルの敵の国へ逃げたらと彼は思ったのです。もちろん、決してそうではなかったのです。 その後で、彼を殺そうと思ったサウロ王は自殺してしまいました。ダビデはサウロの代わりに王座につきました。外国まで逃げなくて良かったのです。 旧約聖書の中で、最も信仰の強い勇気に満ちたエリヤという預言者も同じことを経験しました。 結局、当時の王様の奥さんは非常時ひどい女性でした。イゼベル。エリヤは、このイゼベルから逃れなければもうおしまい。必ず殺されます。 けれども聖書を見ると、彼は死ななかったよ。死を見ないで天に行かれるようになったのです。彼を殺そうとしたイゼベルという女性は残酷な死に方で、滅んでしまいました。 弟子達は滅びることはありませんでした。風と波は、それらをお造りになったイエス様の一言によって、静められました。 イエス様は起きあがって、風を叱りつけました。弟子達じゃないよ。ありがたい話じゃないの。風を叱りつけて、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風がやみ、大凪になった。 ここから私たちは、二つのことを読み取ることができるのじゃないかな。すなわち、第1にイエス様の恵み。第2にイエス様の全能の力であります。 イエス様の恵みとは、イエス様が弟子達によって揺り動かされたにもかかわらず、イエス様は弟子達に怒りを示されないで、そのかわりに、風と波を叱られたことです。 このことは、「私たちのことをなんとも思われないのですか。」と、尋ねた弟子達の問いに対する素晴らしいイエス様のお答えでした。 イエス様は、人間でしたから疲れて眠っておられ、風の波間の舟の中におられましたけども、イエス様は同時に神でしたから、起きあがって、風と波に命じられました。 イエス様が目を覚まされたのは、弟子達と共に船を水をかき出したり、弟子達の助けをするためではなかったのです。 弟子達が、イエス様と同じように風と波に対して命令をしても、あるいは当時の最高の権力者であったローマ皇帝が同じように命じても、風と波が収まることは決してなかったでしょう。 けれども、イエス様が命じられた時、風と波はイエス様の一言葉によって、従ったのです。 ちょうどこれと同じように、イエス様は私たちの心の中にある波風をも静めることができるお方です。私たちは、もっともっとイエス様に対して信頼をしようではありませんか。 私たちは、イエス様に信頼する特権があります。もし、私たちがイエス様に対して信頼をおかなければ、私たちの失うものの大きさは言葉で言い表すことができない。 けれども、私たちはイエス様を信頼しないで、自分自身のことに没頭してしまうことが往々にしてあります。 私たちに問題が起ると、私たちはその問題を通して、不信頼ではなく、信頼をイエス様に対して持たなくてはならない。 私たちがたとえ心配したところで、自分の髪の毛一筋さえ自分の思い通りにすることができませんけど、主は、いつも私たちのことを心配して下さる。 瞬間、瞬間、昼も夜も。私たちが、主を今は見ていないとしても、まだ感情でそれをとらえることができないとしても、主はいつも私たちと共におられ、私たちとひとつになっておられるのです。それゆえ私たちを、お見捨てになることは決してありません。 ヘブル人への手紙13章5節、6節は、素晴らしい。 数えられない多くの人々の励まし、力の源になったんじゃないかな。うそを知らないイエス様の約束です。 ヘブル人への手紙13:5-6
このヘブル人への手紙13章5節、6節の確信の土台とは、イエス様の約束です。 「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」イエス様は、彼らに言われたのです。 マルコの福音書4:40
イエス様は、弟子達に向かってはっきりと、「信仰がない。」と言われ、あなたがたは、私が誰であるかを忘れてしまっているのとおっしゃいました。 主の力について福音書に7つの力について書き記されています。 第1、きょうの箇所です。自然界についての支配力。 第2、病人を癒す力。 第3、何千人の者に一度に食事を与える力。 第4、悪霊を追い出す力 第5、罪を赦す力 第6、十字架から降りる力 第7、死者を甦らせ、またご自分の死を克服する力 これらの7つの力を福音書は、イエス様の持っていた力として書き記しています。イエス様はすべてのものを支配しておられる主です。 エペソ人への手紙1:22
単なる助け手、救い主としてではない。頭として。 ペテロの手紙第I、3:22
弟子達は困難に直面した時に、イエス様を信ずる者であったにもかかわらず信仰を失ってしまいました。つまり、苦難に直面して信頼を持つことができなかったのです。 彼らはこの時、まるで信仰を持たない者のように行動をしました。 このことは、私たち自身に対する警告でもあります。 ヘブル人への手紙3:12
この箇所をみると、信頼を持たないということは、生ける神から離れるということを意味していることがわかります。 ヘブル人への手紙4:11
弟子達が溺れ死ぬことはあり得ないことでした。なぜならば、イエス様が共に船の中におられたから。 同様に、私たちもまた滅ぼされることはありません。なぜならば、イエス様が私たちの内に住んでおられるからです。 イエス様に対して大きな信頼を持ちたいものです。 また私たちは、もっと大胆に主の力を自分の力としようではないでしょうか。 弟子達が新たに主の力と愛とを、体験した時に彼らは喜びを持って主を礼拝したのではなく恐怖に包まれたとあります。 主に対する生きた信仰のある所では、常に礼拝の思いがあります。けれども不信仰の思いがある所には、常に恐怖が伴います。 マルコの福音書4:41
私たちも同様に、イエス様ご自身をさらに深く知る、その力と愛とをさらに深く知るべきなのではないでしょうか。 |