引用聖句:ヘブル人への手紙12章10節-11節
今読まれました箇所は非常にすばらしい箇所です。 「懲らしめられること」とは、偶然に起こるものではない。すべての背後に、主ははっきりとした目的をもって導いておられるのです。 ここで6節、「主はその愛する者を懲らしめ…る」と書いてあります。また10節、「父は、私たちの益のため、懲らしめるのです。」 懲らしめられる目的とは、私たちのような者を「…ご自分の聖さにあずからせよう…」、これは主の導きの目的であります。 「愛する者」は、懲らしめられるのです。とんでもない過ちを犯した者、わがままな者が懲らしめられるのではなく、「愛されている者」と、ここではっきり書き記されています。 懲らしめられることとは、罰せられる証拠ではない。特別に愛されている証拠です。 前に何回も読みましたコリント人への手紙第IIの中で、次のような箇所があります。 コリント人への手紙第II、1:8-9
「耐えられないほどの圧迫を受け…た」とあります。同じくパウロは別の箇所で、 コリント人への手紙第I、10:13
とパウロは書いたのです。この同じパウロは、「私たちはもう死を覚悟した。もうおしまいだ。耐えられないことになっちゃったから」と。 主の備えた脱出の道とは、彼らにとって何であったかと言いますと、彼らは非常に大切なことを知るようになったのです。 すなわち、「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」 「なるため」と書いてます。まだなっていなかった。 よく聞く、正直な証しですけれども、「『ゆだねてます』と言いながら、全然ゆだねていない。『信頼する』と言いながら、全然信頼してない」と。それをわかるとちょっとショックなんです。まかせたつもりなんですけども、相変わらず思い煩ってる。 結局こういう事実を知るために、確かに耐えられないほどの圧迫を受けることが大切であると、パウロはここで言っているのです。 いろいろな導きの最終的な目的とは、私たちが主により頼む者となることです。それによって問題はもちろん解決されます。 枝はぶどうの木と結びついていれば、もちろん実がなる。枝はそれを感じても感じてなくても、関係なし。結びついていなければおしまいです。 主は、すべての背後に立っておられ導いてくださる。 最近、確かにおもしろくないテーマについて、ずっと学んでるんです。「死」について。 「いのち」について、「生きる」について学んだ方がましかもしれないけど、聖書は「信じる者の生活の結末をよく見なさい。その信仰に習いなさい」と書いています。 結局結末は大切なんですね。ゴールインしなければ、途中でいろいろな心配があっても、問題があっても、ゴールインしなければ全部無駄なんです。 聖書を読むと、主なる神ご自身が、私たちの死ぬ日時を決めておられるお方です。 だれも自分の死について、はっきりとしたことは分かりません。主のみが知っておられるのです。 そして死ぬのは、決して病気や歳や事故によって、偶然あるいは自然に死ぬのではなく、それが主のみこころによるものであると、聖書を通してはっきり知ることができます。 この事実だけ考えると、もう心配しなくてもいいなのではないでしょうか。ですから、この間、ちょっとだけ自殺の問題について触れたんです。 聖書は、私たちが、主の定めに従って死ぬ前に、自分勝手に自殺することはもちろん望んでおられません。 病気になり、自分のやってること全然分からないで死ぬ人ももちろんいますし、けども自殺とは、一つの逃げ道であるかもしれませんけど、解決になりません。 聖書全体の戒めは、「自殺をしてはならない」です。「殺してはいかん」と、モーセの十戒に書き記されています。 それからこの間、また別の問題についてちょっと考えたんですけど、おもしろいんですけども、この間御代田で、ちょうど下駄箱の上に一つの英語の新聞があったんです。 「オランダの政府は、安楽死に対してOKなさった」という意味なんです。結局、「美しい死、安楽の死は許されている」という意味なんです。100%パーセント許されていないけれど。 人は、もちろんはっきりとした意識を持つ必要がある。ぼんやりして、ぼけてしまっている人が「殺せ」と言っても、もちろん駄目なんです。 けども、はっきりとした理性をもって「お願いします。殺してもらいたい」と言えば、「患者さんが死にそうでなくても、殺してもいい」とオランダで決められたことなんです。 世界初だと思うんです。もちろん滅茶苦茶なことです。非常に恐ろしいことなのではないでしょうか。 1962年、日本でもちょっと大問題になったらしいんですね。名古屋のあたりで。 けども、結局、もう耐えられない痛みがあれば、そして100%、もうちょっと2〜3日後で死ぬということだったら、別に殺してもいいかということになっちゃったらしいんですけども、オランダでやっぱり違うことが決められたのです。 新聞によると、「mercy killing」 と書いてますけど、「恵みでもって殺す、殺してもいい」ということなんです。 オランダで毎年、何千人の人々はこういうふうに殺されます。 結局、病人が「耐えられない」と発表すれば、「もう希望がない」と言えば殺すということがどうして悪いのか、という考え方なんです。 けど、「mercy killing」 、あるいは「安楽の死」という、美しい言葉を使っても「死」には変わりがない、と聖書は言っています。 つまり、いかなる手段を持ってしても、他人のいのちを奪い去ることは許されないということです。 結局、生きてる限りは必ずそこに望みがあります。人間的にはいかに絶望的に見えても、主は奇跡をなすことのできるお方です。 家内の友人は、何年か前なんですけど、倒れて意識不明になって半年以上植物人間だったんです。 医者は徹底的に調べて、「もう脳は働いていない。脳死です」と。けど、本当ではなかったんです。半年後、意識少しずつ戻ったんです。身体、確かに不自由なんです。車椅子の生活なんです。 はじめ、何も書くことができなかったし、読むことができなかったし、けど、今は何でも読むようになり、何でも書くことができるようになったんです。 普通の医者は、「半年の植物人間になったから、診察した結果、脳は働いていないから、だから、ちょっと注射して殺してもいいんじゃないか。本人のためにいいじゃないか。周りの人々、金かかることだけですから。」 けど、決してそうではない。結局、ある人の死が早められるならば、その人が罪を悔い改めて「救いの確信」を持つ機会が失われてしまう危険性があるなのではないでしょうか。 もう一つの関係してる問題は、死刑の問題なのではないでしょうか。死刑について、私たちは何を考えたらよいなのでしょうか。 前に話したように、自殺をすること、あるいは死を早めることは許されていない。けど、社会の殺人犯罪者は、死刑にされるべきなのでしょうか。どうでしょうか。 旧約聖書から、何箇所か読んでみたいと思います。 創世記9:6
と書いてあります。「人間の血を流す者は、人を殺す者は、人間によって、人によって、殺されるべきである」という意味なんです。旧約時代、殺人以外にも、次のような犯罪に対しても、死刑が定められたのです。 出エジプト記21:14
死刑は許されてる、という意味です。 おもしろい箇所なんですけど、動物によって殺される場合、 出エジプト記21:28-29
とあります。そして、 レビ記24:17
とあります。人の血を流す者は人に血を流されるということです。姦淫の罪を犯すときも、死刑が許されると20章に書かれています。 レビ記20:10
とあります。それから魔法使い、口寄せあるいは占いをする人々も殺されるべきであると聖書は言っています。 レビ記20:27
とあります。出エジプト記の中で次のように書いてあります。 出エジプト記22:18
そして、たとえば主の御名を汚すと殺されるべきであると、 レビ記24:16
とあります。一つの実例にもなると思うんですけども、新約聖書の使徒の働きの中で、一つの実例が書かれています。 使徒の働き12:21-23
結局死んでしまったのです。どうしてでしょうか。主に栄光を帰せようとしなかったからです。 「神の声だ」と聞いたとき、「とんでもない話です。私は普通の人間にに過ぎないよ」という態度をとるべきだったでしょう。 けども彼は、結局「おれは神だ」という態度をとったのです。 それから父、また母をのろう者も殺されると書かれています。 レビ記20:9
とあります。もう一箇所、 申命記21:20
聖書は時代遅れじゃないね。今日までそういう態度とる人は、数えられないほどいますね。 申命記21:20-21
多くのカウンセラーは、「自分勝手にしなさい。」、「思うとおりにさせたほうがいいよ。」 聖書の考え方はちょっと違う。「彼を石で打ちなさい。」 申命記21:21
申命記の17章12節、13節にも、似てる箇所が書き記されています。当時の祭司裁判人に聞き従わない者は、殺されるとあります。 申命記17:12-13
とあります。イスラエル、すなわち神の民から悪を取り除くために、死刑を行わなければならなかったんです。 今までお話したことを要約すると、モーセの律法を無視する者は、あわれみを受けることなしに2〜3の人の証言に基づいて、死刑に処せられたのであります。 たとえば、偶像礼拝をする者も殺されるとあります。 申命記17:2-6
とあります。 出エジプト記の中で「ただ主ひとりの他に、他の神々にいけにえをささげることは聖絶しなければならない。」とあります。 また、同じく申命記13章6節からを読んでも同じことが繰り返し繰り返し書かれてます。 申命記13:6-11
と書かれてます。不従順も罰せられたのです。レビ記の10章1節、2節です。 アロンとは当時の大祭司であり、最も恵まれた人だったんです。 レビ記10:1-2
(テープ A面 →B面) ヨシュア記7:11
ヨシュア記7:15
ヨシュア記7:20
云々と。 ヨシュア記7:25
と書かれてます。 今いろんな箇所一緒に読んだんですけど、他の似てる箇所、もちろんいっぱい数えられないほどあります。 ヘブル人への手紙の10章の中で、全部まとめられてると言ってもいいでしょう。あわれみを受けることなく死刑になるべきだ、とあります。 ヘブル人への手紙10:28-30
旧約聖書において、主の罰は肉体的、すなわち一時的なものでありました。けど新約聖書においては、主の罰はもはや肉体的、すなわち一時的なものではなく、霊的、すなわち永遠のものであるといえます。 すなわち、新約聖書の方がはるかに重く、重大なものであることが、今の読みました箇所を見ても分かります。 ヘロデが、神に栄光を帰さなかったときに、神から罰せられたと同じように、今日でも肉体的、すなわち一時的な罰もあり得ると、前に読みました使徒の働きを通して知ることができます。 今日の裁判官を通して、主が犯罪者を罰せられるということもあります。 ローマ人への手紙13:4
とあります。 この箇所は、この世の国家・社会の問題を取り扱っています。したがって、この世に生活しているわれわれにとっても、主の再臨までは、イエス様によって完全に支配された国家や社会などというものはあり得ません。 国家は、「善人を守り、悪人を罰する」という義務を持っています。それがなければ私たちが生きてる社会生活は、必ず滅茶苦茶になってしまいます。 けどイエス様の体である教会、およびその信者たちは、それとは違った心構えを持たなければならないでしょう。 すなわち、イエス様が山上の垂訓で言われたように、「私たちはイエス様の愛によって満たされ、また、押し出されなければならないということです。」 いわゆる山上の垂訓の中で、次のように書かれています。 マタイの福音書5:38-48
とあります。今の読みました箇所を見ると、私たちは決して悪人に手向かうことをせず、むしろ敵を愛し、迫害する者のために祈るべきであると、ここで書かれてます。 もちろん同じことを、パウロはローマ人への手紙13章の中で言ってます。 別の手紙の中でも、使徒たちも、同じことを繰り返し繰り返し書き記したのであります。「悪人に手向かわないということは、上に立つ権威にしたがうことである」と書かれています。 ローマ人への手紙13:1
とパウロは書いたのです。また、パウロはテトスへの手紙の中でも、 テトスへの手紙3:1
とあります。ペテロも同じこと書いたんです。 ペテロの手紙第I、2:13-14
とあります。イエス様が言われた言葉、「迫害する者のために祈れ」ということの意味は、すなわち少なくとも「権威ある者のために祈れ」ということを含んでいます。 テモテへの手紙第I、2:1
とあります。 イエス様は、信ずる者に「隣人を愛するだけではなく、汝の敵を愛せよ」と言われたのです。 パウロは、その当時キリスト者を迫害した政府のためにも書いております。たとえば、信ずる者を何千人も殺した皇帝ネロのためにも書いてる箇所でしょう。 パウロまたペテロは、決してネロという人間に対して手向かったのではなく、目に見えない世界との戦いをしていたのです。 そのような聖句を通して私たちは、今日いろいろな問題に対してどのような態度をとるべきか、またとらなければならないかということが明らかになるのではないでしょうか。 「悪人に手向かうな」「汝の敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」 もちろんこの世の問題に対して、信ずる者が頑なに目を閉ざしたり、まったく消極的な受身の態度をとってよいということではない。 何か問題が起こったときに、すぐそれに反対したり、ストやデモをすることは簡単でしょう。けど、イエス様の命じられたみことばにしたがうことは、それとはまったく違った意味をもっています。 実際には、私たちのうちに住みたもうイエス様だけが、それをなさることができるのです。そのことはすなわち、私たちがすべてを主にゆだね、明け渡すことを意味しています。 悪魔はわれわれを盲目にし、目に見える世界と見えない世界とのことをごちゃごちゃにさせようと、目的をもって働いています。 私たちが、もしも目に見えるこの世の世界と妥協してしまいますと、イエス様との生き生きとした交わりを失う危険性をもっています。 けど、もしも上に立つ権威が、私たちと主との交わり、あるいは主にある交わりを妨げるような場合には、権威に従うことにも限界があることを知るべきです。 たとえば国家がわれわれの信仰、すなわちイエス様との交わりを妨げたような場合にも同じことが言えるでしょう。 このような場合には、私たちは使徒と同じように、人間にしたがうのではなく、主にしたがう道を選ばなければならないでしょう。 使徒の働き4:19
使徒の働き5:29
われわれのテーマは死刑でしたが、このような問題も実際問題として大切なものであるから、死刑と関連してあえて話したのです。 死刑について、聖書は先ほど話したことをはっきりと言ってますが、私たちが実際問題として考えてみたときはどうでしょうか。 たとえば、現在国の責任者である者を、誰かが殺害したような場合には、その犯罪者を殺すのは当然であるというふうに考えることは、もちろん法律的に正当なことですが、私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。 このような場合に、殺人者を即座に殺すか、あるいは終身刑にするかなど、いろいろと考えることができます。 けど、もしもその殺人者を即死させてしまったならば、彼には罪を悔い改めるときが失われてしまうでしょう。 その場合に、私たちが考えなければならないことは、ただ彼を罰しさえすればよいということじゃなくて、彼を新しく生まれ変わらせるという目的をもって取り扱うということではないでしょうか。 たとえ極悪な犯罪者であっても、罪を悔い改めて生まれ変わることが、なきにしもあらずということを忘れてはなりません。 たとえば、イエス様とともに十字架につけられた一人の犯罪人が罪を悔い改めたことを聖書ははっきり言ってるのです。 ルカの福音書23:42-43
ここで、今までのいろいろな裁判を振り返って気がつくことは、たとえ最高裁判所の判決といえども、絶対正しいとは言えないということがあり得るかもしれないということです。 たとえば、最高裁判所の判決によって、ある人が死刑を宣告されたとします。そのときに、その訴えられている人が「自分は殺人をしなかった!」と叫び続けながら処刑されたとします。 その後で、その人が無実の罪であったことが明らかになった場合に、その人のいのちは何によって取り戻すことができるのでありましょうか。 人間である以上、たとえ裁判官といえども、そのような過ちを起こさないとは言えないのです。 したがって、そのような可能性を考えてみると、簡単に死刑を行なうことはできなくなるでしょう。 今話した、イエス様とともに十字架につけられた一人の犯罪人は救われたんです。、犯罪人は二人だったんです。二人とも自分の犯罪のゆえに確かに死刑が宣告され、死の宣告を受けて十字架につけられたのです。 けども一人は滅んでしまったし、もう一人はいのちを与えられた、と聖書は言ってます。このルカの福音書をみると分かります。 ルカの福音書23:39-43
ある兄弟が話されたように、救われることとは本当に簡単なんです。 あの犯罪人は聖書を読むことができなかったし、洗礼ももちろん受けるチャンスがなかったし、大した知識がなかったんですけど、彼ははっきり救われたんです。 イエス様は「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださったからです。 結局彼は、「私は滅ぶべき者である。」、「私は神の愛を受ける資格のない人間です。」、結局「主は恵んでくださらなければおしまいである。」 ですから彼は、「イエス様、御国にお入りになれば、よろしく。私のこと忘れないで。」、結局「あなたは私を救うことができる。あなたは恵もうと思えば、必ずうまくいく。」 頭を下げて、「あわれんでください。恵んでください。赦してください。」という態度とると、主は必ず恵んでくださり、生き生とした希望を与えてくださるのです。 |