引用聖句:コリント人への手紙第I、11章1節-16節
主イエス様に奉仕する者として、奉仕しているうちに、いろいろな悲しい経験をさせられるものです。自分が、これは主の御心であると確信し、ぜひ一度話さなければならないと思っていることがあるけれども、自分が話そうと思っていることを聞く者が、聞きたくない、また理解できないといったことがある。そのような時、非常に悲しい思いをしなければなりません。 けれども、主に仕える者にとっては、目に見える結果が大切なのではない。主の命令に従順であることこそが大切なのではないでしょうか。 主の命令に従順であるということは、時には誤解され、一人ぼっちになることを意味します。けれども、どんな立場に置かされても主にだけ従順であることは、聖所への唯一の道であり、また主に喜ばれる唯一の道であることも信じています。 今日はこのコリント人への手紙第I、11章2節から6節まで読んでもらいましたけれども、題名は「主にある姉妹の証し」であります。 きっかけになったのは、ある姉妹は面白くない環境で、どうしましょうか?神道の葬儀だったんですけれども、非常に迷ったらしいしけれども、かぶりものをして守られた、勇気が出てきた、葬儀の途中で大きな声で祈ることができ、賛美することができ、周りの人々の救いのために祈るようになった。 だから、このような今日の読んでもらいました箇所について、メッセージを聞いたことがない、多くの人々はしばしば、この箇所を誤った解釈を施しているように思われます。 パウロがこの11章3節に「あなたがたに知ってもらいたい」と言っているのです。 知るべき知識を持っていなければ、イスラエルの民と同じ結果になるかもしれない。次のように書いています。 ホセア書4:6
神の知識に富む者となりたいのではないでしょうか。 パウロはこの11章で、姉妹たちが祈ったり預言したりする時、どのような態度をとり、どのような服装をするべきか教えています。 すなわち、「姉妹は、女らしくしていなさい。兄弟と同じ権威を持っているとは思うな。」とパウロは教えています。 当時のコリントの兄弟姉妹たちの間では、非常に風紀が乱れ、男女の区別がつかなくなるといった危険にさらされていました。 主にある姉妹は、あくまで主から与えられた男女の区別をはっきりさせなければならない。もしそうしなければ、娼婦と同じように見られてしまうとパウロは、まず警告しています。 ここで2つのみことばを読みましょうか。 ガラテヤ人への手紙3:28
区別なし、一つだから。 エペソ人への手紙5:30-33
この2つのみことばを読むと、主にあっては男女の間は区別はなく、平等であることがもちろん解かります。けれどもそればかりでなく、同時に妻は夫をすなわち、女性は男性を敬いなさいという意味が含まれています。男女は主によって平等であるが、自然の秩序は男子に女子が従属するものだと言っているわけです。 けれどもこれは、男は偉くて女は低いといった区別ではありません。これを間違ってとったら本当に困ります。 父なる神とイエス様は一つです。けれども、イエス様は違うところで「父はわたしよりも上なるお方である」と言われました。 ヨハネの福音書10:30
ヨハネの福音書14:28
父なる神と主イエス様は、本質的には等しいお方ですけれども、イエス様は子として父なる神に従う立場を取られました。男子と女子の場合も同じです。 男子と女子は主にあって、何の差別もなく平等ですけれども、女子のかしらは男子であり、女子は女子として男子に従属する立場をとりなさいとパウロは、パウロだけじゃなくて御霊がパウロを通して言っているのです。その現れとして姉妹は髪の毛を長くし、被り物を被りなさいというわけです。 パウロはその当時の習慣がそうだからそうしなさいと言ったばかりでなく、その裏に隠れている霊的な真理に眼を留め、証しのためにそうしなさいと薦めているのです。 もちろん短い髪の毛をしている人で、本当に霊的に深い恵まれた姉妹方もたくさんいます。これに反し、長い髪の毛をしている女の方で真の救いを持たず、偽善者の生活をしている人々もたくさんいるでしょう。 ですから信者になるには、長い髪の毛をしていなければならないということは、もちろんありません。 パウロはここで、長い髪の毛をし、被り物をしなさいとはっきり言っていますが、この言葉と真正面から取り組まず、この言葉を避けて通るためにいろいろな解釈を施しています。 まず一つ、神の言葉はそのまま解釈する必要はないという考え方です。パウロはこのように書いたんですけれども、神の御心は違うところにあると思う人はいっぱいいます。 主なる神は我々一人ひとりに解かるようにお話になります。みことばにそう書いてあったら、主はそうさせたく思っておられる。それに加えて主は我々が、みことばに従順に従うように願っておられます。そして私たちの従順は、いけにえや奉仕に勝るものと主は思っておられます。 主は私たちの成した奉仕に従って我々に報いられず、みことばに私たちが従順に従うかどうかによって報いられます。大切なのは、みことばに対する態度であります。パウロは、神のことばを曲げないとコリントにいる兄弟姉妹に送っています。 コリント人への手紙第II、4:2
みことばを曲げて解釈するということは、「この問題はコリント人だけに向けて書かれている、神のことばは、そのまま受け取る必要はない、これは表面的また掟的に解釈されるべきではない、もっと霊的に解釈すべきだ、心の持ち方が大切であり、髪の毛の長さや何か外に現れることをあんまり大切ではない」このような態度は、みことばを曲げることです。 もしこのように、みことばを曲げて解釈し、そのように人々を導いて行くなら、盲人が盲人を導くといった結果になり、それに応じて主に裁かれてしまうと思います。 みことばを曲げていこうとする人には、みことばらしい従順がありません。何とかして逃れ道を見いだして、そのみことばを避けようとします。 もし主のみことばを避けて、逆らうならみことばから出る力を自分のものとすることが出来ないし、力のない生活を送らなければならない結果になるでしょう。 聖書には末の世になると、いろいろな間違った教えが入ってくると警戒しています。みことばをそのまま解釈しないような間違った教えは信じないようにしましょう。 コリント人への手紙第Iの11章はパウロによって書かれたばかりでなく、御霊によって書かれたことは言うまでもありません。御霊が語ることは、時間と場所の制約がありません。 ある人が神の御旨に反し、離婚した時、みことばに従わず、逃れ道を見つけるために「この箇所は、パウロが書いたのであって、神の教えではない。私は信じる者として御霊を内に宿している。私はみことばも何もいらない。内に住みたもう御霊に従って行くだけだ。」と言ってついに神のみことばを無視して、離婚してしまった人がいます。 その人が内に宿しているのは、聖い神の霊ではなく、みことばに従うことの出来ない悪の霊だったことを思います。これは実に恐ろしいことです。 パウロの言葉に疑問を持ち、この11章をそのまま受け取らない理由として、「これはね、今の時代にはあてはまらない。その当時と今とは違う。」という人がいます。もし髪の毛を長くし、被り物を被るのが時間がたつといつか消えてしまう流行であるならば、御霊は決して「このようにしなさい」と言われなかったでしょう。 御霊はつまらない表面的なことに関しては、永遠に変わることのない規則を作ったりいたしません。当時の習慣として、集会の時、特別に祈りの時、靴を脱ぐ習慣がありましたが、けれども御霊は、このコリント人への手紙第Iの手紙11章では、そのことに少しも触れていません。ただ、被り物について語っています。 主なる神はある時代にだけ、あてはまることだけを聖書に述べておられません。時代が変わり環境が変わったら、みことばも変わるなどということはあり得ません。 その当時と今の時代の教会の霊性を比べますと、今の時代は当時のコリントの教会と同じく、暗い霊的に低いか、またはそれ以下の状態ですから、この神のみことばは、今の時代にも当てはまります。 私たちは今日、どんな時に生きているのでしょうか。もちろん今は末の世であり、堕落の世です。ヨハネの黙示録は末の世は、淫らな大淫婦の時代と言っているのです。多分コリントの淫婦は、ヨハネの黙示録の淫婦の短い髪の毛を持っていたことでしょう。 今の時代の女の人々は、映画女優の服装や髪の毛の形を理想にして、それを真似ます。私たちは末の世に生きています。まもなく偽キリストが起こってくるでしょう。悪魔はだんだんその力を及ぼしてきます。 終戦後、法律で男女平等が唱えられました。婦人たちは、だんだん指導的立場を獲得し、男の上に立つようになったのです。これはやはり、末の世のしるしと言わざるを得ないのです。上から出たものではなく、下から出てきたと思います。 婦人が男の立場をとり男の立場に出て来る、これを人々は「進歩だ、発展だ」と言いますけれども、神の目からは正しくないものに見えます。 今が末の世であるというしるしは、大きな世界情勢に見られるばかりでなく、我々の身の回りにおける小さな出来事の中にもそれが見られるのではないでしょうか。 小さな出来事は、決して小さなこととして見過ごしにできないと思います。 戦前はそうではなかったんですけれども、終戦後、ドイツでは急に髪を切って、パーマネントをかける人が増えてきました。 従ってパーマネント屋が出来てきたわけですけれども、美容院の人々はもしこれが一時的な流行にすぎず、すたれてしまうなら、店を開いても何もならないと考え、相談したところ、これは一時的な現象ではなく、今までの時代の流れを振り返ってみると、パーマは決してすたれないという結論に達したということです。 確かにパーマはすたれないでしょうけれども、これは末の世に起こる一つのしるしであります。 多くの人は「どんな髪の毛をしてもかまわない。神様はそのようなことは気にも留めない。」と考えています。私たちもそう思うのでしょうか。 私たちに大切なのは何でしょうか。神のみことばでしょうか。この世の流行でしょうか。または自分の考えでしょうか。 とにかく大切なのはそれが上からのものか、または下からのものかを見極めることです。聖書の箇所をいくつか挙げて、主は髪の毛について、何を語っておられるのか見てみましょうか。 コリント人への手紙第I、11:15
コリント人への手紙第I、11:6
ペテロの手紙第I、3:3
マタイの福音書10:30
ルカの福音書の中で、 ルカの福音書21:18
とこのように書いてありますが、神の与えたもうたものを自らの思いで切り、その美しさを損なってよいものなのでしょうか。 テモテへの手紙第I、2:9-10
ルカの福音書7:38
長い髪は女の光栄です。罪の女は長い髪でイエス様の足をぬぐいました。罪の女には長い髪の他に一つの光栄を持っていなかったのです。 罪の女はこのただ一つの光栄を主にささげました。そして主はこれを非常にお喜びになりました。 もし、罪の女が短い髪をしていたらば、一つの光栄を身につけていなかったでしょう。主の足元をもちろんふくことも出来なかったでしょう。 御霊はコリント人への手紙第I、11章14節で、自然そのものが教えているのではないかと、私たちに語りかけておられます。自然は主なる神によって創られたものです。 聖書は自然に逆らうことをいたしません。かえって自然に目を留め、それを清いものにしていきます。 しかし、今日のいろいろな流行を見ると、主なる神によって創られた自然を壊していってしまっています。これはどの霊の影響でしょう。 自然は長い髪は女の光栄であると教えています。長い髪を持っていないなら、それは悲しむべきことであり、恥ずべきことであると教えています。 旧約聖書において、髪の毛を切るということは何を意味していたかと言いますと、それは悲しみと恥また裁きを意味していたのであります。 2、3の聖句をちょっと読みます。 イザヤ書3:16-17
イザヤ書3:24
似ている箇所はいっぱいあります。7章20節、15章2節、22章12節、全部同じようなことばが出ています。 我々が問題にしているコリント人への手紙第I、11章の主なメッセージは、信者は御霊のご支配の下では、男は男らしくなり、女は女らしく。 けれども、下からの霊の支配の下では、男が女らしくなり、女が男らしくなる。女は男のように髪の毛を切り、被り物をかぶらず祈るようになるということです。 14節の自然そのものが教えているのではないかと書かれています。黒人の婦人は生まれながらにしてちじれ毛であまり髪が伸びません。もし、この黒人の夫人たちに他の国の婦人のような長い艶やかな長い髪の毛をあげると言ったならば、黒人の夫人はすべてをささげても長い髪の毛をほしいのではないでしょうか。 黒人の女性たちは、どうして短い髪しか持っていないのでしょうか。呪われたしるしである。 今日は暇がないけれども、創世記9章20節から25節までを読むと書かれています。 創世記9:20-26
当時のハムという男は、父の裸を見て喜んだんです。その罰として恥を覆う髪の毛がハムの子孫の黒人に無くなったとあります。 コリント人への手紙第Iへ戻りまして、女に長い髪があれば、彼女の光栄になるのである。長い髪は光栄のかわりに女にあたえられているのであるからであるとあります。 けれども、今日の人々の多くは、信者でさえもわざわざお金をかけて、黒人の女の人のまねをしているのではないでしょうか。辱めを受けて裸で十字架に架かってくださったイエス様を思う時、恥のしるしである短い髪の毛をあえてすることができるでしょうか。主は決してそれを喜ばないでしょう。 もし、イエス様が今日の信じる者をご覧になれば、悲しまれるのではないでしょうか。イザヤ書53章3節に十字架につけられるようになる、イエス様に対する預言のことばでしょうね。 イザヤ書53:3
髪を切るのは、当時のコリントの習慣であり、時代が問題で今日の時代には当てはまらないとするのは、悪魔の策略です。 パウロは御霊により、もし人のためにやらないなら、天使のためにやってください。人のためにじゃなくて天使のためにやりなさいとあります。 私たちはいつも天使に囲まれています。ヘブル人への手紙1章14節には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」と書かれています。 ペテロは、天使によって奇跡的に救いにあずかったことが聖書にあります。よく知られている使徒の働きの中で、この奇跡について書きしるされています。 使徒の働き12:7
ペテロだけではなく、パウロも経験したのであります。 パウロもよく御使いについてしるしています。 使徒の働き27:23-24
このパウロは、天使と悪霊を身近に感じて生活していました。パウロは言っています。「信者であるあなたがたが、悪魔の仲間になることを望まない」、悪魔の杯を飲むことはできない。コリント人への手紙第I10章20節から22節を読むとわかります。 結局、我々の戦いは、血肉すなわち人間に対する戦いではなく、天上にいる悪の霊に対する戦いであるとパウロは、エペソ人への手紙6章12節に書いています。 パウロは信者にも注意を怠るなら、悪霊の仲間になることができるのだと忠告しています。 けれどもパウロは、なぜ髪の毛を長くし被り物をかぶるのは、天使のためにそうしていると言っているのでしょうか。 おそらくそれは、信じる者は将来、御使いたちを裁く者であるからです。 コリント人への手紙第I、6:3
信じる者は将来、御使いたちの裁き主になるとあります。 またエペソ人への手紙3章10節もそれをよく書かれています。 エペソ人への手紙3:10
悪魔は末の世に、いよいよ光の御使いを装い合い、信じる者の目をくらまそうとしてやって来ます。 私たちも当時のコリント人たちと同じように、天使と悪魔に取り囲まれているはずですが、このコリント人への手紙第I、11章のみことばは、我々にもあてはまるはずです。 けれどももヨハネは書いたのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と、このみことばは当時の時代だけに通用するという人は、どこにいるのでしょうか。もちろんいないはずです。または人によって、解釈することが赦されるなのでしょうか。 イエス様は言われました。「天地は滅びるであろう。しかし、わたしのことばは滅びることはない。」 もうすでに申命記の中で書かれています。「わたしが、あなたがたに命じることばに付け加えてはならない。また減らしてはならない。」と申命記の12章32節に書いてあります。 また聖書の最後のヨハネの黙示録22章18節にも同じことがかいてあります。 ヨハネの黙示録22:18
ヘブル人への手紙12:25
イエス様が地上で語られたことは、福音書にしるされています。けれどもその後、書簡にしるされていることは、天から啓示されて与えられたことばです。 この天から啓示されたみことばで、今日の私たちに当てはまらないみことばがあるのでしょうか。 パウロはまたコリント人への手紙第I、14章37、38節で、今まで説いてきたことばは、自分から出たものではなく、神の命令だと言っています。 コリント人への手紙第I、14:37-38
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