島根喜びの集い


ベック兄

(島根喜びの集い、2000/11/19)

引用聖句:ヘブル人への手紙4章15節-16節
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

おとといの晩、神楽坂で家庭集会がありました。もう人が多くて。ある方は息子さんと来ました。でも次から次と人が来てるうち、息子さん帰ちゃった。麻薬をやって、自分はダメ。ダメだから帰る。また麻布で会いましょうと言いましたが、これは大きな誤解です。
この集会はダメな人のためのものですよ。私はちゃんとした立派な人のために集会を開きたくありません。まったく無意味です。聞く耳を持たないからです。
自分がダメだとわかれば喜びの救いへ行けます。イエス様はダメな者を決してお捨てにならない。このイエス様のことを考えるとうれしくなります。イエス様が、私のためにおられる。
考えられない事実です。私のためにイエス様がいるとおっしゃってくださるのです。私達の大祭司とヘブル人への手紙には書かれています。これは弁護士とも言えます。仲人と言ってもいい。主イエス様が私達の側に立ってくださるから安心です。

ヘブル人への手紙4:16
16大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

一番大切なことは、主イエス様に祈ることです。助けを求めることです。悩んでいない人は助けを求めようとはしません。必要と思わないからです。
イエス様はよく言われました。「何が欲しいの?」、願いなさい。祈れば、主を体験的に知ることができるようになります。
ある方が証しされました、「救われたのは良かった。罪を赦された。もうひとりぼっちではない。問題はありますが、イエス様にゆだねることができます。」非常に単純な証しです。
そして私達は、それだけでは十分ではありません。主に用いられなければなりません。ヨハネの黙示録でエペソの兄弟姉妹はとても模範的な人々でした。でも「はじめの愛から、離れている。」と言われました。意味は用いられていないと言うことです。信仰生活が的外れになっていると言うことです。
冷たくも、熱くもない。自分が富んでいると思って、自分が、みじめで、あわれで、貧しいことを知らない。

2年前に召されたある姉妹は絵を書かれました。最後に書かれた絵に、

ヨハネの黙示録2:10
10死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

のみことばを書きました。
多くの人はイエス様を信じていると言います。それだけでは十分ではありません。「あなたから離れては、なにもできない。」と言うことを知らねばなりません。
一生懸命考えます。計画を立てます。でも主がいない。たえず、たえず主イエス様に頼らなければ何もなりません。「イエス様がいなともうダメ。」このことを知ると祈るようになります。ヘブル人への手紙の著者のように、大胆に恵の御座に近づくことができます。

今日、島根の集いから別れる時、「さようなら。」と言わずに、「祈ろうよ。」と言ったほうが良いかもしれないね。主に頼らなければ、主は御心を示すことができず、人間はもうダメ。ヨハネの黙示録のエペソの人々は、「もうOK。乏しいことはなくなった。」、でも主の判断は全然違っていた。
祈ることこそが大切です。ですからイエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負う人、悩んでいる人は、早くわたしの所に来て!」と、「首を長くして待ってるよ。わたしの所に来る者をわたしは決して捨てません。」
結局、イエス様の呼びかけは祈りへの呼びかけです。「私を呼べ、そうすれば私はあなたに応えよう。」

どういう人間が祈るかと言いますと、まず宗教家はみんな祈ります。けど心から叫ぼうとはしません。どういう人が本当に祈るかと言いますと、困っている人々です。多いに悩んでいる人々です。そのために主は、いろいろな悩みや問題を与えてくださるのです。
悩むことは本当に良いもんだと言えば誤解されるけど・・・、そうなんです。悩みがなければ誰も導かれません、救われません。悩みがなければ誰も成長しません。ひとりでできちゃうからです。

この間病院に、ある姉妹をお見舞いに行きました。32歳の奥さん。10階から飛び降りて死のうとしました。夫婦のあいだがうまくいかないし、4歳と8歳の子供がいました。夫は酒浸りで暴力。会話も全然ない。真っ暗闇。10階からだったらだいじょうぶ死ねる。
でもダメでした。多くの人が、死のうとして死ねないのはどういうこと?もちろん彼女は、もう足を使えません。今まで希望がなかった。そしてこれからもっとめちゃくちゃじゃないの。
病院の中でも2回自殺しようとした。みんな何をするかわからないから、とても心配。一番つらいのは、ご主人が1回も見舞いに来ない。もう離婚される。こういう状況に置かれた人間は、どうしたら良いの?

初めて行ったとき泣いてばっかり。当然でしょう。それから彼女の父親に会いました。幸いにも、母親は悔い改めてイエス様を受け入れました。お父さんは、病室に入ることができない。娘になんて言ったら良いかわからない。
けど、その時お父さんも一緒に入った。そして娘と一緒に祈りました。結局、こういう不幸がなければ、あの母親も父親も祈らなかった。祈ることなんて笑い話しじゃないの。結局、悩みの種である彼女は、家族の幸せのために用いられました。

ひとりの若い娘も集会に来ました。びっくりしました。実は彼女のお母さんは、彼女のお兄さんを殺してしまった。今、刑務所にいます。
25歳のお兄さん。お酒の虜になり、暴力をふるい手におえない。母親は、「この子を産んだのは私。私の責任。息子を殺して、自分も死にます。」、でも人を殺すことはできても、自殺することができなかった。
今、和歌山の刑務所にいます。ですから近いうちに和歌山まで行きたい。もしお母さんと会うことができるなら。

結局こういう問題に何も言えないよ。けどイエス様を紹介できることは、本当に素晴らしい特権なのではないでしょうか。結局イエス様に出会った者の使命とは、イエス様を紹介することです。
イエス様を紹介することは、キリスト教の宣伝ではありません。「ああだよ。こうだよ。」と言っても、全く的外れです。みんなつまずくのです。結局、普通の人にとって聖書は良い書物です。戒めの本じゃないか、戒律の本じゃないか。聖書の知識を持たないとダメじゃないか。みんなそう思うのです。
聖書そのものはこれらと全く違います。主の呼びかけは、

イザヤ書43:4
4わたしの目には、あなたは高価で尊い。

です。もし何でもおできになる方に愛されていることが本当だとしたら、心配する必要はない。どういうことがあっても、もう、「よろしく。」という態度をとることができるんじゃないか。もちろん本当です。証拠となるのはイエス様の代わりの死です。
ですから不幸を経験した人々に、「あなたも、愛されている。」と言うことができるのは、本当にありがたい。「あなたは、ああしなければならない。こうしなければならない。」ではないのです。
私達は、大いなる大祭司を持っている。イエス様は私達のために生きておられる。だからイエス様のところへ行こう。恵みの御座に近づこう。これこそが最も大切です。

祈る人とはどういう人でしょうか。結局いろいろなことで悩むようになった人々です。唯一まことの神は、何を考えているかと言いますと、人間の永遠の幸せです。
この永遠の幸せを得るために、人間はいろいろなことで悩まないと心を開こうとしない。ですから主は、いろいろな問題や、悩み、病気を与えてくださいます。
けれども、世界的に多くの教会で今宣べ伝えられている福音は、違う福音です。「イエス様を信じれば、問題は全部、解決されてなくなるよ。」「イエス様を信じれば、金持ちになります。」「人気者になります。」
これは異なった福音です。異なった福音で、異なったイエス様が紹介されています。その背景に働いているのは、イエス様の霊ではない、異なった霊です。結局悪霊です。本当に恐ろしい。

結局愛の証拠として、イエス様はいろいろな苦しみや悩みをくださいます。我々にとっていやです。面白くない。長い目でわれわれは、見ることができないから。
いつか全部わかるようになれば、うれしくなります。ここにいる兄弟たちも、どうしてアル中になったの?多くの人々は、いっくら飲んでもアル中にならないよ。いや、本当なんです。どうして特定の人だけがなっちゃうの?誰も応えられない。医学的にも発見されていないでしょう。
けども、主のせいです。そうでなければ、あの二人は絶対に小さくならなかったよ。イエス様に頼らなかったよ。

確かに多くのことを理解しようとしてもできません。でもやっぱり主は支配者です。悩む結果として祈るようになれば、主の救いに預かれます。救いとはもちろん救い主を持つことです。救い主を持つ者は、主をほめたたえるようになります。
ドイツにこのような歌があります。

「主イエスよ。あなたの、十字架は計り知れず大きなものであり、またあなたの愛は、私を愛し続けてくださり、あなたの憐れみは毎日、私を満たしてくださる。
あなたの私に対する忍耐のゆえに、私は、あなたにより頼みます。私はあなたに信頼します。
あなたは、私を決して捨てない。あなたの光によって、心配もまた恐れもなくなる。従う勇気も、与えてくださる。いかなる困難があっても、あなたは私を導いてくださいます。
絶対に忘れたくないのは、人々にあなたを紹介するために救われたということ。
あなたは祈りを聞いてくださるからこそ、あなたを褒め称え、確信を持って私は告白します。すなわち、あなたにとって、遅すぎることはあり得ない。
あなたが、近くにいることがうれしくてうれしくて仕方ない。あなたに栄光あれ。」

強調したいのはまん中の文章です。「絶対に忘れたくないのは、あなたを人々に紹介するために救われたということです。」
いつか天国へ行くために救われるなのではない。イエス様を今、現在、紹介するために救われた。結局イエス様は、人間一人一人を用いようと望んでおられます。人間がどういうふうに用いられるかと言いますと、結局祈ることによって。
人を納得させようとしても全く無意味。人間によって納得させられた人の信仰は、たいしたものじゃない。祈ると、主は光を与えてくださり、恵をくださるのです。
ヨハネの福音書11章の中で、祈ってるふたりについて書き記されています。ひとりの祈りではなくふたりの祈り。一緒に祈ることは、考えられないほど大切です。

全国でいろいろな集会があります。2種類に分けたら次のように言えるのです。
ある所で祈り会のとき、心をあわせて喜んで一緒に祈ります。ほかの所はやっぱり祈り会のことでばらばらになっちゃうんです。悲劇的です。どうしてかというと、結局悪魔です。
たとえば、こういう聖書について学んだり、話しあったりしても悪魔は別に反対しません。ああ、やりなさいよ。けど心をひとつにして一緒に祈れば、もう悪魔のために居場所ない、逃げざるを得なくなる。一緒に祈ったのは、マルタとマリヤです。

ヨハネの福音書11:1-4
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

ここで書かれているのは、3人の兄弟はイエス様のことを心から愛した。このマリヤは全財産で香油を塗った。ある人々は批判した。「もったいない。売って貧乏人にあげたら?」、でもマリヤは、全然もったいないと思わなかった。イエス様のためならもったいなくない。
みんなどういうふうにイエス様を喜ばせられるか。タイプは違っても、みんなイエス様を喜ばせたいと思った。そういう人々は病気になるはずはないと、新興宗教の人は、みな言います。
結局、ラザロは病気になっただけではない。もう危篤。おしまいじゃないか。危篤状態になった人から離れられない。だから人をやって、「早く早く、イエス様来てください。」
ふたりは賢い女性でした。どうしよう、医者を捜そう、薬を探そうとせずイエス様に知らせようとした。イエス様に知らせば、もうOK。イエス様に知らせばもう心配しなくていいよ。イエス様は何でもできて最善をなさるお方です。イエス様に相談しましょう。人間に相談しても何にもならない。

ふたりは使いを送って、イエス様に、「私達の愛する兄弟」とも言わなかった。「私達は困っている」とも言わなかった。「イエス様、あなたの愛している兄弟。」「今病気。」、それだけを伝えて。イエス様に伝えることとは祈ることです。
家族のために祈ることは非常に大切です。集会に来て一生懸命になった者はみな、神か、家族かという問題にぶつかります。そしてやっぱり家族よりも神のほうが大切じゃないかと思います。
これはとんでもない誤りです。神か、家族かじゃないよ、両方だ。主を大切にする者は、今までよりも家族のことを大切にします。自分の家族を顧みない人は、未信者よりも悪い。主は祝福しない。

このふたりは家族のために祈ったのです。どういうふうに祈りましたか。5つのことを述べます。
1.深い苦しみの中から。
2.心をひとつにあわせて。
3.イエス様だけを仰ぎ見て。
4.非常に緊急を要しつつ。
5.全く服従しつつ。

私達も同じように祈るべきじゃないでしょうか。ふたりは、深い苦しみの中から。
今週、火曜の朝の集会のあと、ある姉妹は玄関で泣いちゃった。どうしてそんなに泣くの?父はガンの手術受けて、長くないけど、救われていない。母も、救われていない。泣いてる姿を見たときうれしかった。
お見舞いに行きました。お父さんに、「娘さんは涙を流したよ。」と話しました。彼はショックを受けた。家族のために、ただ祈るのではないのです。深い苦しみの中から祈るべきです。
もちろん、ヨハネの福音書11章のマリヤとマルタも深い苦しみ中から祈ったのです。もう危篤状態、何をなすべきなのでしょうか。彼女たちは、ただひとつ正しいことを行った、イエス様に人を遣わした。イエス様がわかればそれで十分です。
祈ることが許されていること、あらゆる困難をもってイエス様のところに行くことが許されていることは、本当にすばらしい特権です。

あるおかしい人は言います。「いやー、たいへんだ、祈らなくちゃ。」、全くおかしいよ。祈ることとは義務ではなく、すばらしい特権です。
主は聞く耳を持っている、祈りに必ず応えるお方です。何でもイエス様に話すことができるのは、すばらしい特権です。

テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

この聖書のみことばの中に「絶えず祈りなさい」とあるんです。どうしてかと言いますと、イエス様から離れて何もできないからです。祈るとイエス様は必ず導いてくださるのです。祈るために、主はいろいろな問題を与えてくださる。そうしないと真剣になって祈ろうとしないからです。
マリヤは、深い苦しみの中から祈りました。まだ救われていない家族のために、涙を流したことがあるでしょうか。ふたりはいかに祈ったのでしょうか。

第二番目。「心をあわせて」祈ったのです。ふたりの祈りは、ただ単に深い苦しみからだけ来る祈りではなく、心をあわせた祈りでした。ですから3節、姉妹たちは人を遣わした。マリヤだけではなくマルタだけではなく、ふたりがイエス様のみもとに人を遣わした。それは心をあわせた祈りであり、心をあわせた願いです。
心をあわせることとは、考えられないほど大切です。結局一致がなければ、主は祝福されません。

半年前、ある所で集会をやめました。メッセンジャーが行けないようになりました。無駄だから。一致がない。みんなお互いに悪口言ったりして。
そうすれば、主でさえも何もしようとしない。近いうち、別の所でもそうなりそうなんです。非常に悲劇的です。けど主は勝利者です。前に読みましたヨハネの黙示録に書かれているでしょう。
もし悔い改めることしないなら、私は蜀台をとりはずしてしまおう。もう用いられません。ラオデキヤの教会もそういうものでした。あなたはOKと思ってるけど、全くすべては間違っている。それを知らなければ、もうどうしようもない。
一致があれば、主は豊かに祝福してくださる。一致がなければもうおしまい。

マタイの福音書18:19-20
19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

ここに約束が書き記されています。ひとつになることこそが最も大切です。
多くの人々は、「仲良くしましょう」と考えます。でも仲良しクラブになれば、主は祝福できない。いろんな考えがあるし、みんな同じようにならなくちゃいけないじゃないよ。もしそうだったら、人間を全部同じように創ったら。
でも全然面白くない。みんな機械のようにボタンを押して、同じ方向に行くようになる。みんな違うんです。けども、絶対に忘れたくないのは、人々にイエス様を紹介するために救われた。自分の家族、親戚、友人たちの救いのために救われた。

ひとりで祈ってもやっぱりダメ。ほかの兄弟姉妹の祈りの助けがどうしても必要なのです。また、ひとりだけではなく、ふたりは心をひとつにしてイエス様に頼んだのです。そうしようと思っただけじゃなくて、ほんとうにそうしたんです。
ああすべきだ、こうすべきだと決心しても、現実に行わない。悪魔は現実にならないように必死になって働きます。
初代教会の場合は、毎日、信じる者の群れに人々を加えました。毎日、多くの人々が心配から解放され希望に満たされるようになったのです。いったいどうして?初代教会は、聖書を勉強する教会ではなかったのです。自分の聖書を持ってる人はひとりもいなかった。
われわれは幸せだよ。みんな自分の聖書を持っている。初代教会の人々は祈ったのです。初代教会の教会は祈る教会でした。心をひとつにして、一緒に祈ったのです。

使徒の働き12:5
5こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

結局、公に、復活なさったイエス様を紹介することは許されていなかった。ローマ帝国は、宗教は自由だった。ユダヤ教も許されていた。けども、なぜ初代教会が迫害されたかというと、彼らは、われわれの主はイエス様です。われわれの主はローマの皇帝ではない。イエス様はすべてにまさって偉大だと言った。
初代教会の人は、迫害されても関係なかった。いくら憎まれても、殺されても関係ない。ローマは、初代教会の中心人物のヤコブを捕まえた。ヤコブの手紙を書いた人です。彼は捕まえられ、殺された。よし、今度はペテロだ。ペテロは捕まえられ、次の朝殺されるべきだったんです。けどもここで書かれているように、初代教会は彼のために熱心に祈り続けていた。その応えとして、彼らは次のことを経験したのです。

使徒の働き12:7-9
7すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
8そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
9そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

鎖が手から落ちた。彼が、祈っている人のところにいった時、出てきた女性は戸を開けるのも忘れてびっくりした。「ペテロだよ。」「ペテロだよ。」
彼の解放のために必死に祈ったのに。あり得ないこと。そう思うのは人間です。それにしても彼らの祈りは応えられた。どうしてかというと、彼らは適当に祈ったのではなく、熱心に祈った。ちょっとだけ祈ったのではなく、祈り続けた。
そうなんです。もう、どうせダメだと祈りをやめるのは悪魔の勝利です。われわれの愛する家族や知り合いの中には、悪魔に束縛され、罪の深みに沈み、自分のことだけを考え、そのために不幸せになっている人が大勢いるのではないでしょうか。
われわれが、いくらしゃべっても何にもならないよ。納得させようと思っても無理だよ。われわれのすべきことは、熱心に祈り続けることです。主は応えてくださる。心をあわせて祈ることは大きな助けであり、特権です。

そして第三番目、主を仰ぎ見つつ祈った。意味は、現実がどうであれ関係ない、主はできる。そういう心を持って彼らは祈ったのです。
普通の当時の人々は、主という言葉を皇帝にだけに使いました。主とはローマにいる皇帝。イエス様を裏切ったユダも主という言葉をよく使った。でも1秒もそう思ったことがない。偽善者。主よ、主よと言いながら1秒もそう思ったことがない。暗闇の中にいたからです。

マルタとマリヤが、主よと呼びかけたとき、本当にそう思ったのです。あなたは王の王、主の主です。あなたにとって不可能なことはない。この心構えで祈ると、主は必ず働いてくださいます。
祈りは次のようなものです。自分の悩みを持って主のみもとに行くことです。すべてを意識して主にゆだねることです。もうゆだねちゃった。自分の問題じゃないよ。主の問題だよ。この態度をとることが、考えられないほど大切です。
主は全能なるお方です。主はラザロの復活を通して、ご自身の全能を証明してくださったのです。あなたたが愛してる人の中で、苦しんでいる人、悩んでいる人、将来を見て失望している人はいないでしょうか。彼らのために、熱心に祈り続けることを主は望んでおられます。
そのために、結局主を仰ぎ見ることこそが大切です。自分自身にあまりにも忙しすぎて、まわりの悩んでいる人々のために祈らないのは、とんでもないことです。マルタとマリヤは祈りました。

第四番目、極度に緊急を要するものでした。姉妹たちは、イエス様のみもとに人を遣わしました。「イエス様、あなたの愛する者が病気です。急いで・・・。」
主は、疑いもなく助けを求められたことを喜んだでしょう。なぜならば、それは結びついていることのしるしであり、信頼されていることの現われだったからです。
もちろん祈ることとは、それだけではなく自分の無力さの告白です。本気になって祈る人は、「わたしはもうダメ!」、お手上げなんです。マルタとマリヤは、自分で何もできないことがわかりました。
「主よ。私達はもう終わり。人間的に見るならばもう絶望的です。あなたは何でもできるでしょう。私達はあなたの助けを求めます。待ち望みます。あなたに信頼し、あなたは決して失望させません。」この態度で、私達も主のみもとに行くことが許されています。
「あなたは私の悩みを、隠されている苦しみをご存知です。不信仰の夫もご存知です。聞く耳を持たなくなった子供のこともご存知です。私は信頼します。あなたの全能をお示しになってください。」こういうふうに、祈ることは御心です。

第五番目、服従した祈りです。マルタとマリヤの祈りは、「私達の兄弟、ラザロを癒して、癒して、癒して・・・」って祈りではなかったのです。多くの人々は、断食して長く祈れば、叫び続ければと思います。そういう人がいっぱい。でも覚えるべきことは、主は人間の召使じゃない。
人間のために最善であれば、主はただちに応えてくださいます。最善でなければ、われわれがいくらやっても、叫んでも、主はお聞きになりません。
けども、そういう人間的な祈りによって癒される人もいます。癒された後に精神的におかしくなり、自殺をした方もいます。彼らは主の力によって癒されたのではなくて、悪魔の力によって癒されたのです。

マルタとマリヤの祈りは服従した祈りです。癒して、癒してではなかった。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
「主」という言葉を使いました。それによって、自分の「服従」が示されました。マルタとマリヤは、自分たちの兄弟が癒されることを、主に「命令」しなかったのです。
ふたりは、いかなる代価を払っても、癒されることを見たいとは望まなかったのです。「主よ、あなたが愛しておられた者が今病気です。私達は、彼をあなたの御手にゆだねます。あなたのお好きなように、御心にかなうことを行ってください。」
全く、同じことを私達もしなければならない。私達が重荷を負い、配慮している、愛する人をイエス様にゆだねると、主は必ず働いてくださいます。イエス様の御手にゆだねられた人の悩みは、必ず解決します。

すべてを主にゆだねると本当の安心を得ることができます、というのは私達も愛する知り合いの人々のことをいろいろ心配するでしょうけど、それらに勝って、主ご自身がわれわれよりも彼らのことを配慮して心配してくださるのです。
私がしなければ、ではたいへんです。そしてなんという傲慢の表れなのでしょう。主は、本当に人間一人一人のために救いの代価を払ったから、一人一人のことを思い心配してくださいます。

私達は、主に私達の悩みを言います。でもそれから私達は、それから主に私達の悩みをすべてゆだねます。これこそマルタとマリヤの祈りです。彼女たちは、主が兄弟を癒すことができることを疑い得なかった。イエス様は、毎日いろいろな人々をただちに癒したからです。何でもできる。ふたりの証しを見るとわかります。

ヨハネの福音書11:21-22、32
21マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

二人は、全く同じことを言いました。「主よ、あなたはすべてをおできになる。」、二人はラザロに対するイエス様の愛を確信していました。ですから、次のことをも知っていた。「主は少しの間違いをすることもされない。」
われわれも、またこの態度をとるべきです。ちっぽけな私達が、主がどのように私達の祈りに応えるべきかを命令することはできない。私達の主が、生きておられるゆえに、主は私達の祈りに応えてくださるのです。
それは全く疑いもないことです。けど私達は、あまりにも近視眼的で視野が狭くて頑固です。ですから私達は、主が何を思われ、いかに働こうとされているのか、全然わかりません。
主がなさることはわれわれの最善であり、主があがめられるために役立つものである。ですから私達の態度は服従の態度であるべきです。
マルタとマリヤの祈りは次のような祈りでした。

1.深い苦しみの中から祈った。
2.心をひとつにあわせて祈った。
3.イエス様だけを仰ぎ見て祈った。
4.非常に緊急を要しつつ祈った。
5.全く、服従しつつ祈った。




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