引用聖句:イザヤ書、41章10節
イザヤ書41章10節です。非常に勇気を与える約束です。 もちろん当時のイスラエルの民のために書かれているだけではなく、現代人である私たちのためにも書かれてる主の呼びかけです。 2回も「恐れるな」「たじろぐな」と書かれています。どうして2回書いてるかと言いますと、必要だからです。 人間は先の先のこと分からないから、もちろん「どうしましょうか」という気持ちになります。だから、みことばが与えられています。 イエス様のお取りになったみことばに対する態度とは、私たちの態度でもあるべきです。イエス様はどういう態度をとったかといいますと、祈りの中でイエス様は言われました。覚えやすい箇所です。 ヨハネの福音書17:17
確かに私たちは、多くのことを理解することがあり得ないし、分からないし…。けども主の言葉が真理であることは動かすことのできない事実です。 ですから、みことばに頼ることができるのは本当にありがたい。 信ずる者の幸せの根拠は、3つの事実じゃないでしょうか。 1つは、「イエス様は私のために死なれた」という事実です。 確かに私たちはそれを見ていないし、ちょっと想像できないし、どうしてかなぜか全く分からないし。けども人間の考えていることは、大切ではない。神のみことばである聖書は、何て言っているか。 そして、この聖書の中心なるテーマとは、「イエス様は私のために死なれた」。それだけでも自分のものにすると、やっぱり喜ぶことができる。悩みながら、苦しみながら、重荷を感じながら、喜ぶことができる。 イエス様は確かに、代わりに死なれた。どうしてであるか分かりません。けどもイエス様の目的とは、私たちのような者と、永遠にわたって一緒になるためです。 もう1つの大切な、すごい事実は、「イエス様は私をも受け入れた」。 これも考えられないし、ピンと来ないし、理解できない。どうして信ずることができるか。イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない」と言っちゃったからです。 結局「イエス様。私はあわれで、みじめで、あやまちを犯す者でごめん」。そういう気持ちがあれば、もう大丈夫。イエス様は、そういう人々を決して捨てません。 そして結果として第3番目の大切な事実とは、「主が背後に導いてくださり、もちろん必要ない悩み、必要ない病気を与えられない。最善の時に召してくださる」。 それだけ考えると、やっぱり見方変わるし、喜ぶことができる。 どうしてイザヤは、当時のイスラエルの民に「恐れるな」「たじろぐな」と言ったかといいますと、結局ね、彼らはもう恐れてしまったからです。どうしたらいいかと、分からなかったからです。 人間は平気で悩んでる人々に「大丈夫よ、がんばって」と言いますけど、まったく意味のない言葉です。 主はそういうことを思っていない。どうして恐れなくてもいいかと言いますと、「わたしはあなたとともにいるからです。」と。 何でもできるお方、何でも知っておられるお方が、ともにおられればもう心配する必要はない。 「わたしがあなたの神です。わたしはあなたのものです。」 そうすればもう心配する必要はない。主は「強めて」くださるし、「助けて」くださるし、「守って」くださる、と約束されているのです。 このような言葉を読むことができるし、暗記することができるし。けどもそれだけだった十分じゃない。 「私のために書かれてる。理解できませんけども感謝します。」 この態度とれば、やっぱり違う。主に対する態度とは、結局みことばに対する態度です。 私たちは平気で「イエス様信じまーす!」と言うのです。そうすれば第3者は「あぁ、私はまだだよ。分かってないけど、あんたは分かってるだろう?」という気持ちになるよ。ね、イエス様のこと分かる人はいないでしょう? 主は、「わたしの考えとあなたがたの考えとは違う。わたしの思いはあなたがたの思いとは違う。」 ま、ちょっとだけ違ったならありがたい。けど天が地よりも違うように、もう比べられない。もう全然違うよ。 ですから、イエス様信じることとは、イエス様の約束を自分のものにすることです。そうすると、やっぱり元気になります。 ダビデはいろいろなことで悩みました。ある時ね、自分の子どもはね、彼を迫害し殺すつもりだった。他人に迫害されれば、殺されそうになれば、それくらいはまあ分かるけど、自分の子どもだった。 ダビデとは確かにいろいろなことで悩んだし、苦しみました。けども彼は何と言ったかといいますと、 「もし、あなたの御教えが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう」。 「みことばが与えられたから、助かったー」と。結局みことばとは、確かに「元気のもと」です。またダビデは言ったのです。 「あなたのみことばは、私の道の光です」。 みことばがなければ暗やみです。そうすれば大変な問題になる。 みことばに頼ると、もう喜ぶようになります。 「私は大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜ぶ!」 と、ダビデは心から言えたのです。 どうして聖書が与えられたなのでしょうか。もちろん勉強するため、頭の知識を得るためじゃなくて、はっきりとした確信を得るためです。いま話したように、
ヨハネの手紙第I、5:13
はっきり確信するためです。理性でもってつかめない。従って説明することができない。けどもみことばに頼ると、動かすことのできない確信が与えられる。 「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、はっきり確信するために、私はこういうことを書いたよ」と言ったんです。 この「永遠のいのち」とはもちろん、20節みると「イエス様」なんです。 ヨハネの手紙第I、5:20
ですから永遠のいのちとは、もらう物ではない。イエス様です。 2週間前でしょうか、先週でしたかねぇ、一人のドイツの友人が召されたのです。76歳だったんですけども、前にも2回日本まで来ましたし、一生懸命日本のために祈られた兄弟だったんですけども、人間的に考えれば成功した兄弟だったんです。 51歳ぐらいに会社をはじめて、大きな会社になっちゃったんです。もちろんあとで息子さんたちにゆだねて。けども誰でも知ってる方だったから、新聞にも大きな記事が出たんですけども、その一番上に書かれてるのはみことばです。 どういうことばであるかと言いますと、ヨハネの手紙第Iの5章12節です。 ヨハネの手紙第I、5:12
イエス様とは永遠のいのちそのものであるから、イエス様を持つ者は永遠のいのちを持っている。そうでない人は可哀想。 聖書は、私たちが主イエス様を受け入れることによって、永遠のいのちを持つようになる、ということを確信するために与えられているのです。 人間が、永遠のいのちを持つこととは想像できません。なぜならば、聖書は人間に対してあまりいいことを書いてないんです。人間は駄目。正しい人はひとりもいない! われわれは、いい人もいる、悪い人もいると考えてますけど、神の目からみると的外れ。いい人はいない。一人も。悟りのある人はいない。善を行なう人はいない。一人も。全ての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない。 結局駄目。 イエス様はもっと厳しいことを言われたことがあります。「人から…」、もしここで「未信者から」と書いていれば、助かるけど違う。「人から…」信仰があっても、なくても。人間とはどういうものであるか、 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち人の心から出て来るものは悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 問題は自分です。「内側」と書いてありますよ。だいたいの人々は、ちょっと違うんです。 今朝集会の前に、まだ若い32歳くらいの奥さんが見えたんですね。ま、2週間前に離婚したんです。3歳の子どもいるのに。 けども、離婚したばかりだけど、「今までいつも主人を変えようと思った。自分の理想に合わなければ、もう『けしからん』と。結局彼をずっと攻撃し続けてしまったから、こういうふうになっちゃった。けどもやっぱり主人だけじゃない。今分かったよ」。 もちろんまだ遅すぎじゃないよ。彼も導かれ、救われてまた籍を入れたらいいでしょうし。ですからやっぱり、まずね謝らなければ駄目。 あなたもわがままだろう?今になって分かる。 結局何か問題あれば、もちろんいつも相手のせいです。決まり。だからイエス様は、「違う、違う。外側からじゃないよ。内側からです」と、はっきり言ってるのです。 もちろん聖書は、人間のまずい面・真っ暗な面だけ記してるのではない。まことの神は、「罪人を憎む」と書いてないよ。「罪を憎む」。罪人と違う。 罪人、人間そのものは愛されている。けどもまことの神は、罪と関係をもつことができない。だから、罪ほろぼしのためにイエス様は、人間一人一人の代わりになり、代わりに罰せられたのです。 人間を罰する神は、従って存在しない!すごーい事実です。 宗教によってガンジガラメになってる人々は、それが分かると嬉しくなるはずです。なぜならば、全てのいわゆる宗教の神々とは恐ろしい、怖い、「いい子にならないと駄目」、「金を出さないと駄目」云々と言われます。 全部うそ。 イエス様の十字架の死は、私たちの過ち・わがままが贖われたということの永遠の保証です。主の呼びかけとは確かにすごい。
理由として主は約束しておられます。
イエス様は違う。イエス様が何かを約束すると、安心して信じることができる。なぜならば、この約束を与えられたお方とは、自分の代わりに犠牲になられたからです。 主はわれわれのこと考えて、心配していてくださるお方です。自分は心配されている。大切にされている。愛されてること考えれば、やっぱり慰められます。励まされます。前向き生活することができるのです。 イエス様は、「わたしは唯一の良い牧者です」。 牧者は羊のため、いくら弱い者であっても、弱い者であるからこそ、病気になったからこそ、大切にされるものであります。牧者は駄目な者を、迷い出た者を、病気になった者を、どうしようもない者を、決して捨てません。 ダビデは安心して、「主は私の羊飼いです。だから乏しいことはない」と言ったのです。それだけではない。詩篇の37篇、ちょっと見てみましょうか。 これは全部ダビデ王の告白です。経験したから、彼は証ししています。 詩篇37:23-25
ダビデはそのとき何歳であったか分からないけども、少なくとも「年老いた者」でした。けどもやっぱり主に信頼すると、もう心配ないよ。 「主は、心配してくださる。決して捨てない」。と、ダビデは証ししたのです。 34篇を見ても彼はまた次のように言いました。 詩篇34:9
乏しいことがなければ、もう幸せじゃないでしょうか。 詩篇34:10
主は必要なものを必ず与えてくださるお方です。 将来を見て心配になるような時には、私たちはエリヤの経験について考えると、やっぱり慰められるなのではないでしょうか。 列王記第Iの17章。考えられない奇跡について、次のように書かれてます。 当時の王様。王様よりも王様の奥さんは、もう悪魔的な女性だったんですけども、イゼベルという女性は、彼(エリヤ)を殺そうと思ったんです。 そして彼は逃げるようになったんです。けども、もう住まいがないし食べ物もないし、もう死ぬのは確実なことでした。けどもそのとき主は、配慮してくださったんですね。 列王記第I、17:6
もし聖書に書かれていなければ、もう信じられない。信じたくない。吉祥寺の近辺で烏はいっぱいいる。だいたい朝4:00くらい、うるさくてうるさくてしょうがない。 最近、ちょっと何ですか、おとなしくなった感じですけど。あるときね大変だったんですよ。家内の洗濯。屋上行ってね、いつも逃げたんです。大信からうちまで150mくらいです。彼女はね、もう恐ろしくて恐ろしくて、来られなかった。電話してそして傘で迎えに行ったんです。もう大変ですよ。恐ろしいほど。こういう鳥はね、確かに危ないよ。 けどもこの鳥が肉をパンを運ぶのは、笑い話よ。取るんですよ。持ってくるんじゃないよ。けども烏を創造した方が命令すると、烏でさえもね、助け手にならなくちゃいけない。もうエリヤは驚いたと思う。 「烏は、いい子、いい子」と思わなかったと思う。「主はすごい!」この主に信頼すると、もう心配する必要はない。川があったし、水もあった。 けどあるときからちょっと困っちゃった。水が枯れてしまった。 ある意味でエリヤのせいだったかもしれない。彼は「3年間雨が降るな」って言っちゃった。主の命令によって。結局水が枯れてしまった。どうしよう。 主は今度は「あるやもめのところに行きなさい」と言ったんです。「金持ちのところに行きなさい」と言われれば、まだ通じますけど、「やもめのところ、何にも持っていない人のところへ行きなさい」。 考えられない導きです。けども結局それを通して、また奇跡が起こったんです。エリヤを通して言われた主の言葉の通り、かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならなかったのです。 彼女は奇跡的に自分の借金を払うことができたし、また二人の子どもと安心して生活することができたのです。 言いたいことは、もう心配する必要はないよ。いくら心配しても何にもならないよ。 心配することによって幸せになれば、大いに心配しなさいよ。不幸になろうと思えば心配しなさい。早道だよ。全く意味のないことです。 パウロは無実の罪で刑務所に入れられました。けどもその中でも、彼は「私は、独りぼっちじゃない。主は一緒にいる。主は面倒みてくださる。心配してくださる。配慮してくださる」と経験しました。 ピリピ人への手紙の4章19節に、彼は当時の信ずる者を励ますために書いたのです。すなわち「私の問題、早く解決されますように。早くこの面白くない刑務所から出られるように」と。 彼は信ずる者たちに頼まなかったよ。彼は証ししたのです。また祈りました。 ピリピ人への手紙4:19
彼はこの願いを持っていたし、確信を持っていた。どうしてであるかと言いますと、自分で経験したからです。 主の十字架における救いのみわざは完全で、一回限りのものでしたけど、主の呼びかけは一回限りのものではない。絶えざる呼びかけです。 すなわち、「疲れた人、いろいろなことで悩んでる人、心配してる人はおいで。わたしのところに来なさい。休ませてあげます。わたしのところに来るものをわたしは決して捨てません。」 結局主は、人間一人一人に対して関心を持っておられるから、こういうふうに呼んでくださいます。われわれが、どういう状況に置かれていても、主は「おいで、わたしのところに来なさい」。 迷える羊は、羊飼いの近くにいればもう安全です。心配する必要はない。毎日の呼びかけです。「おいで。わたしのところに。」 主がどうして代わりに犠牲になり死なれたかと言いますと、もちろん罪ほろぼしのため。 もう一つの目的とは、われわれとの交わりを願っておられるからです。もちろんイエス様は、われわれの交わりがなくても困っていないし、寂しくない。 けども人間は、主との交わりを通してのみ変わらない喜びを、心の平安を、生ける希望を、持つことができるのです。 主の贖いのわざは確かに一回限りのものであり、永遠に変わることのない不動の事実です。従って受け入れられたこと、贖われたことは、もう永遠の安全を意味しているのです。 理性でもってつかめない。ピンと来ない。考えられないけど聖書はそう言ってるから、安心して信ずることができるのです。 主の呼びかけ、主の約束こそ主の愛の最高の現れなのではないでしょうか。 イエス様は私たち一人一人のために、どれほど精神的に苦しめられたのか、もちろん考えられません。 イエス様の苦しみとは、間違いなく最高の苦しみであり、イエス様の犠牲も間違いなく最高の犠牲であり、そしてイエス様の支払われた代価も最高のものでした。 なぜならば、支払われた代価はご自身の血潮、ご自身のいのちだったからです。イエス様の流された血は、イエス様の捧げられたいのち、そのものを意味しています。 そのことによって、イエス様はわれわれのあらゆる負債を支払ってくださいました。イエス様はこのようにして、ご自身の犠牲の死を通して、私たちの救いを成就してくださったのです。 そしてこの全能なる主の呼びかけとは、ただ「わたしのところにおいで」だけではなく、「わたしはあなたを愛してる。ありのままで愛してる。」 たとえみじめで悩みを持ち、絶望し、もう駄目だと思えるような時でさえ、主は「わたしは、あなたを愛してる」と、ささやいてくださいます。 私たちは自分勝手な生活を行ない、怒りの子として生きていた時、そのとき主は顧みていてくださり、代わりに犠牲になられたのです。 ま、聖書はどういうものであるかといいますと、滅茶苦茶になった人間に対する主の愛の知らせです。 主の愛は永遠であり、いかなる場合にも変わることなく不動のものです。 主の愛の証明するものとは、もちろん与えられた「イエス様」です。 ヨハネの福音書3:16
主の愛は変わらない。永遠に変わらない愛です。主は私たちのようなものを愛していてくださるお方です。 どのような問題があり、みじめな状態にいても、主は顧みてくださいます。とりなしてくださいます。愛し続けてくださいます。 どんなにみじめな状態に置かれても、のけ者にされても、主は決して見捨てられない。最善をなしていてくださるのです。 言いたいことは、大切なのは「主」です。主のなさったみわざです。主のなさるわざです。決して人間のすべきことじゃない。 「私たちは不真実であっても、主は真実である」とパウロは、喜びをもって証しすることができたのです。 どうして、主は私を捨てられないなのか。彼はいくら考えても分からなかった。けどもこれこそが、彼の喜びの源になったのです。 ダビデは、「主は 私の羊飼いです」と言った。結局「主は、私のものです。私のために犠牲になられただけじゃなくて、私のために生きる。私のこと心配してくださる。もう心配する必要はない」。 この確信こそが、まことの幸せなのではないでしょうか。 もう一箇所読んで終わりましょうか。ヨシュア記の1章。ま、はじめに読みました箇所もね、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と書かれてます。 主とともにおられることとは、もちろんほんとの幸せのもとであり、祝福された生活の秘訣です。 ヨシュア記1:9
提案じゃないよ。 ヨシュア記1:9
主とともにあれば、もう心配する必要はない。主は何でもできるお方で、主は何でも知っておらるるお方です。 「あなたがたの父は知っておられる」とイエス様は当時の弟子たちに言ったのです。「主は全部知っておられる」と考えれば、これこそすごい励ましです。力の源です。 何でも知っておられる方が知っておられれば、もう心配する必要はない。安心して、全てをゆだねることができるのです。 |