あなたは生きているが実は死んでいる


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:ヨハネの黙示録3章1節-6節
1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
6耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

今読まれました1節の後半の言葉は、非常に厳しい言葉ではなかったかと思います。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」こういうふうに昇天なさったイエス様はサルデスという街にいる教会で集まった人々に呼びかけたのです。

昨夜ある兄弟の友達と話し合ったんですけど、彼は「はっきりキリストを信ずるために、キリスト教に入らなければならないと思ってたんですけど、」、と言われたんです。
大部分の人々はそういうふうに思ってるんじゃないかと思うんです。キリストを信ずるために人間はキリスト教という宗教団体に入らなければならないのではないかと。これはもちろん、とんでもない間違いです。だからこそ、主は1900何10年前に「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言わざるを得なかったのです。

キリスト教というと、それはおもにカソリック教会とプロテスタント教会を意味するものです。カソリック教会はよく旧教と呼ばれてるものであり、プロテスタント教会は新教と呼ばれてるものです。
旧教、すなわち古い教えです。カソリック教会はわれわれの教えこそが古い教えであり、すなわち本物だ。従ってカソリック教会以外に救いはないと教えられています。カソリック教会以外に救いはないと言いながら、救いの確信はあり得ないと言われています。それだけではなく何100年前に金を出せば罪が赦されるとカソリック教会は宣言するようになったのです。

そのとき原語を知る人々は、すなわちヘブライ語、ギリシャ語を知っている人々は、聖書を読むことによってカソリック教会の教えは100%間違っているとわかるようになったんです。
カソリック教会は、もちろん聖書を読んではいかんという態度をとり続けたのです。聖書を持っていた人は迫害され、何万人の人々がそのため殺されてしまったのです。カソリック教会は今日まで悔い改めようとしません。

今は聖書を読んではいかんと言いませんけど、心そのものはまったく同じです。結果として、いわゆる宗教改革者が出てきたんです。フランスだったらカルヴィンだったんです。スイスだったらツウイングリだったんです。ドイツだったらマルチン・ルターだったんです。
そういう人々は、結局カソリック教会の教えは決して古い教えではなく、新しい教えだ間違ってるもんだと宣べ伝えるようになったのです。宗教改革者の言わんとしていたことは全部、エペソ人への手紙2章8節にまとめられているのではないかと思います。よい行いによって、人間の努力によって、人間は救われるこれは、いわゆるカソリック教会の教えであります。宗教改革者たちは聖書にもとづいて、次のことを教えたのです。

エペソ人への手紙2:8-9
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

このことが福音そのものです。宗教改革者たちは旧教は、すなわち古い教えではなく、新しい教えだ。神の御心ではなく、人間のつくったものだ。必要なのは本当の意味での古い教えに戻らなければならない。すなわち聖書に戻らなければならない。すなわち聖書にだけ頼らないとだまされるようになるそういうものだったんです。
結果として多くの人々は、大部分の人々はヨーロッパではこの新しい教えを喜んで受け入れました。けど少数の例外を除けば、大部分の人々はなおも霊的に死んだ状態にとどまっていたのです。これこそが悲劇的なんです。
その当時、神への悔い改めとイエス様への生きた信仰が欠けていたために、真の生まれ変わりも行なわれることがなかったんです。多くの人々がこの新しい教えを知りましたが、しかし本当のいのちを得ることがなかったんです。

当時の大部分の国々の王様が、この新しい教えを喜んで受け入れたんです。カソリック教会の支配から逃れようと望んでたからです。カソリック教会ははじめから今日まで、人間一人一人の幸せよりも政治の力、経済の力を重ずるものものであるからです。
だからヨーロッパの王様たちはみんな、カソリック教会から逃げるために、この新しい教えを喜んで受け入れたんです。このことを通して、私たちが人が正しい教えを持ちながら生まれ変わりに至ることのないことがあり得ることを知ることができるのではないかと思うんです。
従った人は個人的に救いを受けることなくして、改宗者になることができると言うことです。

たとえば、いわゆるキリスト教の国々へ行くと、みんな一度聖書の内容知ってるんです。別に疑いません。大体の人々は教会員であり、洗礼を受けてます。クリスチャンだと言います。けど救いとは何んだろうかさっぱりわかりません。
会員になったから、洗礼受けたから、聖書の内容別に否定していないから、たまに教会に行くから、献金するから、それでいいんじゃないの、とみんな思ってるんです。
当時の400年前に、300、400年前の状態はそういうものだったんです。いろいろな国々の王様はカソリック教会に対して反抗したんです。

彼らはカソリック教会の間違った教えと、偶像礼拝に対して戦い、そして神の言葉を正しい教えを受け入れるようになったんですけど、彼らは神の言葉を受け入れましたけど、それにもかかわらず彼らは実を結び生まれ変わりを経験するに至らなかったのです、これこそが悲劇的なんです。
多くのヨーロッパの国民は、イエス様を個人的に受け入れることなくして、聖書にもとづく信仰告白をしたのです。彼らは名前の上では生きていたんですけど、大体において死んでいたのです。
正しい教えだけでは十分ではありません。神によって与えられたいのちが必要です。神に与えられたいのちがなければ力もなく、喜びもなく、また平安もありません。

たとえばこの集会の兄弟姉妹を通して、今までいろいろの人々が導かれ救われたのです。ある人々は一回も集会に来たことがないんです。病院で決心してイエス様を信じ、そして生き生きとした希望を持って、召されたのです。
たとえばある姉妹は、一回も集会に来たことがないんです。彼女はもっとも洗礼も受けなかったし、いわゆるキリスト教と関係のない方だったんですけど、イエス様信じることによって、絶えざる喜び、本当の心の平安を持つようになり、生き生きとした希望を持って死ぬことができたのです。

このヨハネの黙示録3章に書かれているサルデスという教会は、結局大きないつわりの中で生活していた者だったんです。
至るところにおいてサルデスの教会は生きた教会として知られいたんです。けど、主は表面の内側をご覧になります。そしてサルデスには大切なものが失われてることを見ておられたのです。
「あなたは死んでいる。」、「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。」これは主の判断だったんです。けど霊的に死んでる教会に対しても、イエス様は無関心ではなかったんです。無関心でないことの証拠にはイエス様がここに5つの命令を与えておられることがあります。

5つの命令とは?
(1) 目を覚ましなさい。
(2) 死にかけてる他の人たちを力づけなさい。
(3) あなたがたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい、
(4) それを固く守りなさい。 
(5) 悔い改めなさい。

5つの命令です。霊的に死んでる教会に対しては目を覚ましなさいと言う言葉があてはまります。
イエス様は目を覚まさせ、真のいのちへと導かれようとしているのです。神の霊と神の言葉によっても、生まれ変わることのなかったすべての人は、霊的に死んでる人です。
霊的に死んでるということは神に対して死に、罪とこの世と悪魔に対して生きてることを意味してます。霊的な死について聖書はいろいろなこと言ってますけど、エペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者だった。」と書いてあります。
霊的に死んでることとは、結局神との結びつきを持たないことです。神とつながっていない人間はみな、霊的に死んでるのです。神から離れてる状態こそが霊的な死です。あるいはコロサイ人への手紙の中でパウロは次のように書いたのです。

コロサイ人への手紙2:13
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

と書いてあります。「あなたがたは罪によって死んだ者であったのに、神はそのようなあなたをキリストとともに生かしてくださった。」霊的に生かされることが救いです。宗教団体に入ることではありません。正しい教えを信じ込むことではありません。霊的に生かされることこそが真の救いです。
ここで罪の赦しと言われています。罪が赦されている、私のようなものは永久的に受け入れられている、義と認められていると確信できない人は、結局霊的に生かされていない者です。

放蕩息子について聖書は何て言ってるかといいますと「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、」とあります。彼は死んでいたと神は言ってるんです。
もちろん別に病気にならなかったでしょうし、相変わらず生きていたんですけども、神の目から見ると彼は死んでいたんです。どうして?離れたからです。
神から離れている状態こそが霊的な死です。よく知られているヨハネの福音書5章の中で。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

と書いてあります。信ずる者は、すなわちイエス様を自分の救い主として受け入れた者は、永遠のいのちを持ってます。永遠のいのちを持っている人は、死後さばきに会うことがないと書いてあります。そういう人々は、死からいのちにもうすでに移されているのです。初代教会の証しとは次のものです。

ヨハネの手紙第I、3:14
14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。

原語を見ると、確信するという表現が使われてます。結局聖書勉強した、いろいろなこと理解するようになったということではなく私たちは、死からいのちにもうすでに移されたという確信を得ることこそが大切です。
当時、主はサルデスの教会に向かって「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。」、あなたは死んでると言われなければいけなかったんです。私たちも本当に生まれ変わりを経験してるのでありましょうか?あるいはそのように思い込んでるだけなのでありましょうか。

私たちは自分自身の心を吟味し、自分は本当に新しく生まれることを体験しているか、あるいは信仰は単なるつけやきばにすぎないのかどうかを考えてみる必要があります。
一頃は熱心に集会に集っても、突然集会を去った方々もあります。それらの方々が本当に新しく生まれることを体験したどうか疑問と思います。それを、もちろん判断する最終的な手がかりはありませんが、私たちは自分自身の心に尋ねて、「自分はいったい本当に、主のために生きたい、主をよりよく知りたいという心構えを持つかどうか?」、はもっと大切ではないかと思います。

大切なのは、私たちがいろいろな信仰的な内容を信じているかではなくて、実際にイエス様と関係を持っているかどうか、イエス様との交わりを持っているかどうかです。
私たちは人間的な判断でイエス様に従ってるなのでしょうか。あるいは私たち自身がイエス様に捕らえられているなのでしょうか。われわれは心の中に住んでくださる聖霊の働きによって新しくつくり変えられた者となったなのでしょうか。

このヨハネの黙示録3章に出てくるサルデスの教会は、外面的には模範的な教会でした。正しい教えを持ち、活動的であり、この教会に対して主は死んでいると判断を与えられたのです。
この判断は本当に驚くべきものではないでしょうか。これは私たちを驚かせ、また自分たちの教会ももどのようになっるのかということを問題にさせるような判断なんです。
あなたは死んでるとイエス様は言わなければならなかったのです。人は自分では生きていると確信しながら、実は死んでいるということが実際にありうることです。このような自己欺瞞がありうることです。
私たち日々、心からの恐れの心を抱きながら、私たちの群れが霊的に死んでるのか、生きてるのかを問い続けなければなりません。

私たちが霊的に死ぬ危険が起こるのはまず、私たちの信仰が日常生活において認められることがなくなるときです。
多くの人々は信仰は信仰、仕事は仕事だと言います。これでは信仰と生活の間に一致がないのです。私たちとの主イエス様との結びつきが周囲の人々にイエス様に対しての飢え渇きを与えることなく、そして私たちが周囲の人々の中において異分子のような存在とならなければ、私たちに何か根本的な欠陥があると考えなければなりません。
真の信仰とは、私たちが罪を犯した時に、直ちにイエス様のもとに急いで立ち返り、流された血潮に対して感謝を捧げる信仰でもあります。真の信仰とは自分の失敗を素直にみとめる信仰でもあります。

霊的に死ぬ危険性があるのは、2番目に実を結ぶことが無くなった場合です。
未信者がわれわれを通して信仰に至ることのないのは重大な問題です。私たちが真の主との交わりを持っているならば、他の人々も新しい生まれ変わりへと導かれるはずです。
ここで、死にかけてる他の人たちを力ずけなさいと命令されています。私たちの周囲にいる人々は死にかけてる人々です。このようなところにいながら、他の人々に対して無関心であり、他の人々に対して祈らない者は、その人自身が生まれ変わってることが疑わしいことになります。
もしイエス様との交わりを持っているならば、信仰を自分だけのものとして、他にこれを分かち与えことをしないということはあり得ません。自分のことだけを考え、他の人々のことを心配しない人は霊的に死んでる人です。

霊的に死ぬ危険性がある第3の場合は、人が神の言葉を聞こうとしなくなる時です。みことばを通して、イエス様は私たちの罪を指摘することができるなのでしょうか?主がみことばによって私たちを導くことができるなのでしょうか?神の言葉が生活の中において権威を持つことなく、その人の生活を支配することがない時には、その人は自分自身と自分の周囲の人々に対してめくらな人になるのです。
自分の場合がどうであろうと、おののきつつ尋ねる人は生まれ変わってる証拠です。このようなおののきが自分自身と自分の教会に対して持たれていない時には、私たちは死の危険の中にいるのです。

前に言いましたように、5つの命令が与えられています。5つの命令とは主の心からの悔い改めへの呼びかけです。
それだけではなく、同時に5つの命令とは5つの約束でもあります。これらは人間的な行いを要求するものではなくして、全能の主の創造的な力の提供そのものです。
主は生まれ変わりを提供し、私たちの目を覚まそうとしておられます。生まれ変わりをしていない人は永遠の滅びに向かう人を救い出すことができません。死のあるところにいのちが起こり得ないのです。
間違った見せかけだけのところにおいては力があり得ません。パウロはテモテへの手紙第IIの中で、敬虔な形はしていても、その事実を否定する者になるからです。こういう人たちを避けなさい。仲良くしないのではなく、避けなさい。イエス様とのいのちの交わりを持たない人々は、他の人をいのちに・・・。

(テープ A面 → B面)

・・・死からいのちへと移された人は死にかけている人を救い出す使命を持っているのです。

箴言24:11
11捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

と書いてあります。救い出しなさいと書いてあります。助け出せ、これは全ての信ずる者に与えられてる主の命令です。同じような言葉は聖書の中にたくさんでてきますけど、エゼキエル書からも、ちょっと2ヶ所見てみましょうか。

エゼキエル書3:17-19
17「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
18わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
19もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

そして、同じく

エゼキエル書33:7-9
7人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
8わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。
9あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

とあります。信ずる者に与えられてる使命はこういう使命です。すなわち近づいてるさばきを宣べ伝えることは、信ずる者の使命でもあります。
今日のような不信仰と絶望の時代において、近づいてるさばきを宣べ伝え、そして人々をイエス様のもとへと導くことがわれわれに与えられている使命です。
自分のことのみを考えて、この使命にご用しない人は災いです。まず自らが生まれ変わり、その後で永遠の滅びに向かっている人々を救いに導くことができるのです。

あなたは死んでる、全てのいわゆるヒューマニズムの上に、あなたは死んでいるという主の言葉があてはまります。人々をより良くしようとするのではなくして、人々にさばきのもとにあること、生まれ変わりを通して新しいいのちが与えられることを教えることがわれわれの使命であります。

このヨハネの黙示録に戻りまして、あなたが受けたことと、聞いたこととを思い起こしなさいと書かれています。それは何を意味してるかと言いますと、神のみことばのみに従い主の言葉へと立ち返ることを意味してます。それからそれを守りなさいと命令されています。 

それは神の言葉により頼み、自己の考え、自己の感情、自己の意志を捨て去ることです。霊的な覚醒とはあらゆるみせかけの仮面を取り去ることです。
その次は悔い改めということです。悔い改めとは180°方向を換えることです。その結果は自分から主へと方向を換えることです。
また主との交わり持つことです。悔い改めとは生ける真の神に出会って生ける真の神との交わりに入ることです。
死んだ者をいのちへと導こうとしている主イエス様は単なる道徳の教師ではありません。というのはイエス様ご自身が目を覚まさせ、力を与え思い出させ、固く守らせ悔い改めを与えようとされています。主ご自身が与え、そして満たそうとされています。これこそが主の賜物であり、めぐみそのものです。

けど、めぐみが拒まれる時にさばきが来ると聖書は言ってます。これが、主が盗人のように来られると書かれているとおりです。目を覚まさせるものとして、主は与え満たそうとされていますけど、寝る者が目を覚まさせることを好まない時には、主は目を覚まさせる者としてではなく、人の持ち物を奪い去る盗人のように来ると書いてあります。
これこそがさばきそのものです。目覚まし時計が朝鳴るとき、人はそれを止めて眠り続けることもあり得ることです。イエス様は悔い改めを呼びかけている目覚まし時計のようなものです。
これを聞く者は贈物へ満たされるのです。けども悔い改めようとしない人々からは、その人が持ってると思っているものまでも奪い取られてしまうと聖書は言ってます。

イエス様が盗人のようにやってくるというのは、さばきを意味しています。新約聖書の中にイエス様は盗人のように来る言葉がたくさんでてきます。全部で七ヶ所ありますけど、一ヶ所だけ、最後にちょっとだけ読んで終わりましょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:1-5
1兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
2主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。

と、盗人は突然気づかれないうちに盗みのためにやって来ます。本当の生まれ変わった人々は花嫁であると聖書は言ってます。これらの人々のために、イエス様は盗人としてじゃなくて、花嫁を迎える花婿としてこられます。
主の再臨は真の信者にとって決してさばきではなく、考えられない喜びです。けどサルデスの教会に対してイエス様は、その再臨を花婿としてではなく、盗人として来られると言ったのです。主はサルデスの教会を花嫁としてではなく、この世の属するものと見ておられたからです。
サルデスにおいてはこの世が支配をしているのです。主の再臨の時に誰が霊的に生き、誰が霊的に死んだかということを明らかにされます。

本当に生まれ変わっている信者たちは、主のもとに引き上げられ、突然姿が見えなくなります。泥棒は不法を犯して物を奪い取ります。泥棒は自分のことだけを考えます。
けどイエス様はご自分の血をもって買い取られたご自分の者たちを、ご自分のもとへと引き上げられるのです。イエス様はご自分のことを考えてるのではなく、われわれの救い、われわれの永遠の栄光を考えておられるから、花婿として再臨なさいます。
ヨハネの福音書の中で、イエス様はこのことについて次のように言われたのです。

ヨハネの福音書14:3
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

また、

ヨハネの福音書17:24
24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

イエス様の切なる願い、イエス様の切なる祈りはそれなんです。イエス様は今日来られるかも知れない。もしかすると、今日という希望を持って生活する人は本当に幸いだと思います。




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