引用聖句:エステル記3章1節-6節
エステル記4:13-16
ヘブル人への手紙11:32-38
今、読んでくださった箇所を見るとわかります。この世で新しいことはない。繰り返し繰り返し、同じなのではないでしょうか。 人間は歴史から何を習ったかといいますと、何も習っていない。結局、あらゆる時代で、ユダヤ人一人二人じゃなくて、みんな殺そうと思う人々もいました。 そして、イエス様だけを大事にする人々は、いつも、迫害されたのです。誰から迫害されたかというと、言うまでもなく無心論者からじゃない。いわゆるキリスト教からです。 司会の兄弟は、だいたい毎回聞くんです。「今日のテーマは?」、ちょっと考えて、「死んでもいい」と言ったんです。 今読みましたエステル記4章16節の後半に書いてあるから。「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」 結局、自分は大切ではない。死んでもいい。この態度を取ったのが、初代教会の人々だったんじゃないでしょうか。 コリント人への手紙第II、4:18
この態度を取るものは、本当にちょっと時代遅れです。おかしい。 けども、イエス様によって救われた人々とは、この態度を取らざるを得ないのではないでしょうか? ソロモン王は、箴言3章5節に 箴言3:5
厳しいけど、幸福への道なのではないでしょうか。理性はそのようなことを否定しても、信仰はこの態度を取らざるを得ない。 昔、ある日、二人の学生はうちまで来たんです。どうしてでありますかというと、大学で論文書書かなくちゃいけないから。 そしてテーマは、「理性と信仰」というテーマだったから、もう二人は、聖書知らないし、どうしましょうか。だから、「理性というものはどういうものか少しはわかるけれど、信仰とはどういうものか全くわからない、教えてくれ。」ということだったんです。 私たちも理性と信仰について、考えるべきなのではないでしょうか?何故ならば、イエス様に出会った者が取るべき態度が、理性的なものじゃなくて、信仰的なものであるからです。 理性とは、もちろん誰でもわかる。どういう物かと言いますと、概念を作る能力です。結論を出す能力です。判断を下す能力のようなものです。 人間に与えられている素晴らしいものです。 動物はそういう物、持っていないよ。色々なことやったとしても、本能的にやっているんです。けど、そういう理性は、動物はもちろん持っていない。 けども、人間はそういう素晴らしい能力を持っていたとしても、何と多くの見当違い、計算違い、あるいは意味のないことをして、頭を抱え込むのではないのでしょうか。 この理由から、ソロモンは書いたのです。「心を尽くして主に、」結局、主にのみ、「拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」 何故、自分の悟りにたよるなと聖書は言っているなのでしょうか。人間は結局、悪魔によって騙されて以来、人間は闇の中に置かれるようになってしまったからです。 この状態について、エペソ人への手紙4章17節から18節に次のように書き記されています。 エペソ人への手紙4:17
可能性がある。御霊に導かれなければ。 エペソ人への手紙4:18
これは、主の人間に対する判断です。 神のいのち、すなわちイエス様を持っていない者は、その知性において暗くなっていると聖書は言っています。 よく引用されるローマ人への手紙1章28節に、 ローマ人への手紙1:28
もちろん今の時代で、そういう言葉、当てはまらない。やりたいこと何でもいいじゃないか。どうして悪いの?結局、聖書がもとにならなければ、もうおしまいです。主を恐れないなのは、悲劇そのものです。 テモテへの手紙第IIの中で、「彼らは真理に逆らう」と書いてあります。「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。…云々」と。 真理に逆らうものは、救いの神を体験的に知ることができません。自分の理性に頼ることとは、破滅と悲劇とに終わるのです。 あらゆる人間の知識は限られており、不完全です。 コリント人への手紙第I、13:9
と、パウロは書いたのです。多くの人々は、知識によって傲慢になり、自己目的に終わる危険性に直面しているのです。 人間の知識が、限られれているということを、よくわきまえている者は、信仰を必要とします。信仰を持つ、すなわちイエス様の御許に来るものは、経験します。 すなわち、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている。」と。コロサイ人への手紙2章3節に書かれています。 それですから、人生においてイエス様を体験的に知ることが一番大切なことですけど、このような正しい知識と認識とは、ただ上からの光によって、ただ啓示によってのみ、明らかにされるのです。 イエス様を体験的に知ることは、上からの啓示を前提としているのです。 パウロの正直な証しとは、もちろん聖書学者としての証しとは、ガラテヤ人への手紙1章12節に書かれています。 ガラテヤ人への手紙1:12
私の信仰の土台は、一つの教えじゃない。 ガラテヤ人への手紙1:12
神は、「御子を私のうちに啓示」してくださったと、パウロは、喜んで証ししたのです。 ただ、啓示によってのみ、自分の本当の状態、すなわち、罪の状態を知ることができ、それを通して、イエス様を体験的に知ることができるようになるのです。 そして、イエス様を認識することこそ、実際の信仰です。 この信仰によって、すなわちイエス様を体験的に知ることによって、初めて私たちは恵みに与ることができ、平安と永遠のいのちを自分のものにすることができるのです。 ペテロの手紙第II、1:2
結局、主を知ること、イエス様についての色々なことじゃなくて、イエス様ご自身を知ることこそが大切です。 イエス様は、祈りの中で証ししました。 ヨハネの福音書17:3
イエス様を体験的に知ることによって、滅ぶべき罪人として、主の恵みを得、本当の平安を持ち、永遠のいのちを与ることができる人々は、本当に幸いです。 今までのことをまとめてみると、次のことが言えるんじゃないかと思います。 人間の理性だけに集中することは、この世的なことであり、必ず限界にぶつかってしまうのです。 人間の理解力は、確かに論理的であるかもしれない。けど、突き詰めていくと内面的な空しさに帰着してしまうのです。 それに対して、イエス様の与えられる信仰は、あらゆる人間の認識、また理性に勝っています。 だから、パウロは言えたのです。 ピリピ人への手紙3:8
素晴らしい証しです。 何故パウロがこのような出来事に遭遇していたかというと、彼はイエス様の愛を体験的に知ることによって、その愛に満たされ、主の平安を味わい知ることができたからです。 エペソ人への手紙3:19
とあります。 ピリピ人への手紙4:7
…云々とあります。 信仰とは、主なる神に対する絶対的な信頼です。 これに対して人間の理性は、自分の体や命を心配しますが、その結果は不信仰に終わります。 パウロは、次のように書かなくちゃならなかった。辛かっただと思う。心の痛みだったに違いない。 ピリピ人への手紙2:21
これは、我々にも当てはまる言葉であるかもしれない。 人は4つの大きな願いを持っていると言われています。これによって、人は自分のことを思っているかどうかが、分かるなのではないかと思います。 第一に、人は身の安全を願います。すべての人があらゆる面で、もちろん安全でありたいと願っています。 人は、お金を銀行に預金し、将来、子供の教育を与えようとしますし、また、老後のことを考えて生命保険に入ったりします。これは、自らの安全を図る策に過ぎない。 イエス様は、地に宝を蓄えるな。思い煩ってはならない。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、そうしなければ、もちろんダメ。そうすれば、これらのものはすべて、みな添えて与えられると、イエス様は、嘘を知らないイエス様は、約束しておられます。 もちろん、お金だけでなくて教育のことを考えても、人々はそこに安全を求めていることが分かる。 福音を宣べ伝える場合、まず神学校を出て初めて一人前に成り、人の前で話すことができるんだと、考える人もいます。 これも一つの身の安全を考えている態度にほかならない。パウロの証しは、考えられないほど大切です。 コリント人への手紙第I、2:2
イエス様のいわゆる教えを宣べ伝えても、本当の意味での助けにならない。十字架につけられたイエス様を紹介しなければ、御霊は働かないと、パウロは知るようになり、こういう風に決心したのです。 もし私たちが、自分の身をイエス様に任せ、イエス様に委ねきるなら、私たちは不安定なものになるなのではないでしょうか。パウロは危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思ったことがあったことも、聖書は教えています。 パウロはまた、私は圧迫されている、私には逃れ道がない、迫害され地に倒された者のようになっていると告白しています。これは、安全とはおおよそかけ離れた状態ではないでしょうか。 2番目の人々が願っていることは、安楽です。 人の心に深く願っていることは、安楽な生活を送りたい。この身をいたわって生きたいという願いです。 これをイエス様は全然願わなかったのです。マタイの福音書20章の28節を見ると、イエス様は次のように告白しました。 マタイの福音書20:28
私が、 マタイの福音書20:28
イエス様は、自分のいのちを与えるために遣わされたのです。 福音書を読むともちろん分かります。イエス様は、この地上に一つの持ち物も持っていなかったのです。この世に、いわゆる故郷を持っておられなかったのです。 イエス様は、辱められて黙り、誤解されて自らを弁護しないで、黙々として歩まれたのです。 イエス様については、「わたしは虫であって、人ではない」と詩篇22篇6節の作者の言葉がぴったり当てはまるなのではないかと思います。 人間は自らを弁護することができるけど、虫はそのようなことはできません。蛇と虫の違いは、大きさと力が違うだけではない。蛇は身の危険を感ずると鎌首をもたげて向かってきますけど、虫は何にもしないというところに違いがあります。 私たちは、我々の自我は、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても、逆らうことをしません。ただ、なすがままにされています。 イエス様は、「わたしは虫である」と言えたのです。イエス様は、辱められ、殺されました。イエス様は、我々のために虫となってくださったのです。 このイエス様は、「父がわたしを遣わしてくださったように、わたしもあなたがたを遣わす。」、と言われました。 イエス様は、我々の自我が打ち砕かれ、ヤコブが主と相撲を取って自我が砕かれたように、私たちも己に死んで、主に仕えることを望んでおられます。 私たちが、簡単な安楽な生活を願わず、ただイエス様のなされた生活を願い、それを行うなら本当に幸いです。 けどもその前に、まず私たちは、自分自身の心の状態を考えることが必要です。私たちは例外なく、自ら偽り、また、打たれたとき逆らっていく蛇のような性質を持っています。 人間はみな、身の安全を願います。また、安楽な生活を送りたいと思っています。 3番目、人間の願っているのは、楽しむことです。 私たちが疲れると、休むといいますが、この休みが、みことばを学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことをやめることを意味しているなら、それはちょっと問題です。 霊的ないのちを殺してしまうことを意味しているかもしれない。 主は我々の心の状態をよく知っておられます。私たちが、自分の時、自分の富、自分の計画、自分の楽しみを持っているかどうか、あるいは、「イエス様、私の持っている物は、みんなあなたの物です。あなたのみこころを明らかにしてください。」と願っているかどうか。 主はすべてをご存知です。 イエス様は、「私は自分のいのちを与えるために来た、仕えるために来た。」、と言われ、「私は自分の願いを持ちません。自分の立場を取りません。どうか、私の思いでなく、父よ、あなたのみこころを成してください。」という態度を取り続けたのです。 4番目の人の心に深く根ざしている願いは、人に認められたい気持ちなのではないでしょうか。 人は、何とかして自分の人気を集め、人々に自分の力を及ぼしたいという願いを心の中に潜ませています。大切にされ、誉れを得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っています。 人に認められたいと願う人は、惨めな人と言わなければなりません。救われた者たちの世界にも、この人から誉れを得たいという願いがあります。伝染病のように入ってきています。このために多くの人々は、主に用いられなくなっているなのではないでしょうか。 イエス様は、「人よりの人気を求めず上のものを求めよ。」、とはっきり言われました。 地を這う虫のように、地のことばっかりを考えず、ただ、上のものを求める者になりたいものなのではないでしょうか。 今あげたこの4つの、安全を願う心、安楽を願う心、楽しみを求める心、人気を得たいと願う心は、どこから来るのかといいますと、傲慢な人間の心からです。 言うまでもなく、イエス様の救いにあずかるようになったガラテヤに住んでいる人々に、兄弟姉妹にパウロは次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:19-21
あなた方信じる者に、 ガラテヤ人への手紙5:21
これらの肉の働きは、自分の誇り高ぶる心から出て来る。外は問題じゃない、中身。 先週でしたかね、北海道で色々な偉い人が集まったんです。結局みんなね、やっぱり外側のこと考えるんです。今、早くブレーキかけないと大変なことになる。 その通りです。けど、みんなわかるでしょう。今の地球を天国のようにしても、すぐにおかしくなる。問題は、人間の心だよ。心が変えられなければ、もう、何にもできません。 イエス様も、はっきりと同じことおっしゃりました。 マルコの福音書7:20
ここで未信者からと書いてないんです。信者も含まれている。 マルコの福音書7:20-23
環境を良くすることができても、問題は解決にならない。 何故、まだ滅びに向かって多くの人々が希望なし、生きてるなのでしょうか?イエス様のことを聞かないまま、歩み続けているなのでしょうか?これは、もちろん全部信じる者のせいです。自分のことを願っているからです。 何故、イエス様の体である我々の兄弟姉妹は、弱く、力なく、悪の霊に闘うに弱いなのでしょうか。それは、私たちが自分のことを考えているから。 何故、多くの人々は生ぬるく、不熱心で、自己満足しているなのでしょうか?それは、自分のことを、自分のことばっかりを求めているからです。 まとめてみると、信仰とは、主に対する絶対的な信頼です。そして理性とは、自分の体や命を心配しますが、その結果は、不信仰に終わる。 そして、聖書の中で最も厳しい言葉の一つは、「信仰から出ないものはすべて罪です。」 イエス様につながらないで、自分で動いたりすることは、主の目から見ると全部罪です。 更に、信仰とは、全知全能なる主のすべてを確信することです。これに対して、人間の理性は、主の全知全能なることを疑います。 これもまた、不信仰の現われです。 また信仰は、目に見えないお方を見ることです。これに対して人間の理性は、心配そうに目に見えるものだけを見るのです。これもまた、不信仰の現われにほかならない。それゆえ、イエス様を信じるということとは、自らを主にゆだねることです。 イエス様は、私たちを全く支配する権利を持っておられるゆえに、そのことを私たちに要求しておられます。 信仰とは、みことばに対して全く従順であることも意味しています。信仰とは、あらゆる罪から背を向けて、離れることです。 それですから、このように信じている兄弟姉妹は、この世では、異分子であるとも言えるのです。 イエス様を信ずる者は理解されず、人から笑われる存在です。そのため人々は、信ずるものを馬鹿にしたり、哀れんだりするのです。 人々は、信ずるものを憎み、迫害します。 けど、イエス様の御名のゆえに、すべてを投げ捨てても、悔いるところはないという事実こそ、我々の喜びの源であります。 聖書を見ると、色々な実例が出てきます。例えば3,500年前にモーセとは、「自分はどうでもいい、大切ではない、用いてもらいたい。」と思うようになりました。 ご存知のように、彼は王子であったがゆえに、すべてが自分の思い通りにできたわけです。望むものは全部自分の物となったんです。けど彼は、そのように恵まれた自分の境遇を、投げ捨ててしまいました。ちょっと、考えられない。 このモーセは、世界一の愚か者だったなのではないでしょうか?どうして、そんな愚かなことをしたなのでしょうか。ヘブル人への手紙の11章に書かれています。その秘訣、書かれています。 ヘブル人への手紙11:24
よく考えた、祈った結果です。 ヘブル人への手紙11:25-26
主から、目を離さなかったのです。 ヘブル人への手紙11:27
このモーセは、エジプトの富を持っており、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれたんですけど、これらは彼にとって、急にはかない罪の楽しみとなちゃったんです。彼は、この世の富や教養と、とこしえの報いとを比較して、その結果、そのような決断を行ったのです。 彼は、この世の色々な楽しみの結果、死であること、そしてその死後には、裁きが下って永遠の滅びに行くべきことを、よく知っていました。 そのような意味で、彼はこの世とは違った、別の世界に住んでいたということができるでしょう。 モーセは、すべての富を自分の手中に置き、指導者としての才能も備えておりましたけども、そのような賜物を結局、捨てたんです。 「永遠の冠のゆえに、この貧しき生涯捧げん」そういう心構え、持っていたんです。 前に話したように、「私は死ななければならないのでしたら、死にます。」、私たちも常にこの心構えを持つことができれば、本当に幸せです。 もう一つの例は、3,300年前の人であるルツという女性です。 彼女は、父、母、故郷を捨てました。ルツ記の2章を見ると次のように書かれてます。 父、母、生まれた国を離れ、これまで知らなかった民の所に、彼女は行ったんです。彼女は自分の身の安全や暖かさなどを捨てて、これまで知らなかった所へとやって来た。 そのようなことをせずに、ここにとどまりなさいと彼女に注意した人々はいました。けど、彼女は姑であるナオミを通して、全知全能なるお方を知り、そのゆえにこれらの物を、喜んで捨てることができたのです。 このような歩みを踏み出したルツは、その翼の下に避け所を求めた主から豊かな実を、また報いを受けたのです。彼女は人間的な安全を捨て、主のみ翼の元に本当の平安を見出しました。 「私は死ななければならないのでしたら、死にます」という決心を持った彼女は、決して失望することはありませんでした。私たちもこの態度取ることができれば、決して失望することがありません。 また、2,600年前に生きていたダニエル、そしてダニエルの友達について考えてもわかります。 ダニエルの3人の友人たちは、本当にあらゆる心配から、不安から解放されたのです。 彼らの特徴は、妥協なき態度でした。「妥協するよりも、死んだ方がましだ。」、と彼らは思ったのです。だから3人ともは、火の中に投げ込まれたのです。 彼らは、単なる理想主義者、あるいは空想家だったなのでしょうか。彼らは思慮を失ったか、あるいはどうかしてしまったなのでしょうか。 決してそうではない。ちょっと見てみますか。これは、当時の世界を治めたネブカデネザル王の言葉です。 ダニエル書3:15
3人はネブカデネザルに言った。 ダニエル書3:16-18
けど、2600年前のこの3人と同じように、どんなことがあっても決して妥協しないというキリスト者が、今日でも大勢います。 彼らは、決して命を粗末にしてもいいとは思ってはいない。主なる神の全知全能に拠り頼み、目に見えないお方を心の目で見ているからです。 3人は言いましたね。「私たちは死ななければならないのでしたら、結構です、死にます。けど、どんなことがあっても、決して妥協することはいたしません。」 もちろん、ダニエルも同じ態度取りました。彼は、祈ることを禁じられていたのです。変な命令です。一ヶ月、祈ることを許されていなかったのです。 けども、聖書は何と言っているかといいますと、 ダニエル書6:10
恐れて、向こう向いてなのではない。祈りながら感謝した。彼は、窓を閉めて誰にも気付かれないように、祈るという賢い方法を取ることもできたはずです。押入れの中で、音しないで。 けどダニエルは、窓を開けて祈り、普通の人にはちょっと理解できない、一見愚かと思う方法を取りました。 彼は、その当時、知恵者でありましたが、このような愚かと思われる態度取ったのです。 彼は、非常に危険を伴うこのようなやり方を、意識して行ったのです。 けど、彼は、自分自身のためを考えてそうしたのではない。主の名誉のためにそうしたのです。結局、私は殺されても結構。 私たちは、自分たちの生活を振り返ってみると、あんまりにも、ダニエルの祈りの生活とかけ離れていることを思い、恥じ入らざるを得ないなのではないでしょうか。 それから2,500年前の、前に読みました箇所なんですけれど、エステルという女性も、自分のことを知りながら、敢えてそれを行ったのです。 彼女が取った態度は、獅子の穴に手を入れるよりも危険なことでした。けど彼女は、無思慮にこのようなことをしたのではなく、三日間断食して祈った後に、言ったんです。「私は死ななければならないのでしたら、死にます。」 彼女はこの態度を取ったから、ユダヤ人一人も殺されなかったのです。 けども、当時の知られている世界、命令されたのです。何月何日、ユダヤ人みんな殺しちゃいましょ。それも、決まったことだったんです。 けど彼女は、自分の命を大切にしなかったから、ユダヤ人一人も殺されなかった。この悪魔の道具であるハマンは、代わりに殺されてしまいました。 千九百何十年前に、バプテスマのヨハネがいました。彼は何と言いましたかというと、「あの方、すなわちイエス様は、盛んになり、私は衰えなければならない。私自身は決して大切ではない。ただ、イエス様のご栄光だけが、崇められますように。そのために、私は死ななければならないのでしたら、死にます」 バプテスマのヨハネは殺されました。殺される直前、イエス様が本当に来るべきメシアであることを確かめるために、人をイエス様の所へ遣わしたんです。 それに対して、イエス様は、はっきりとお答えになりました。 マタイの福音書11:5
そのことによって、ヨハネは、イエス様が本当に来るべき救い主であることを知り、自分が殺されることに何の躊躇や、定められた自分の死に対する反対の気持ちを持つことがなく、正にこれこそ然るべき結果であることを確信しつつ、すべてを主の御手にゆだねたのです。 「私は死ななければならないのでしたら、死にます」 私たちが問題なのではなく、イエス様のご栄光だけが大切です。毎日、この態度取ることができれば、主は、本当に大いに働くことができるのです。 バプテスマのヨハネは殺された時、その首が、砕かれ落ちました。けども彼こそが、救い主なるイエス様を紹介した結果として、多くの人々は、悔い改めて、信ずるようになったのです。 「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」これこそが、彼のメッセージでした。 最後に、パウロ、またパウロと一緒に働いている人々考えると、同じことが言えます。 確かにパウロの生涯は、非常に輝かしいものでした。当時、最高の名誉であったローマの市民権を持っており、天才的な才能を持っており、最高の学問と教養を身につけており、 将来、非常に有望視された男でした。パウロ自身の判断と確信によれば、イエス様は最大の偽善者、偽り者だったのです。そのために、パウロは、イエス様を信ずるものたちを迫害し続けたのです。 けど、ある日、パウロはこのイエス様に出会いました。このイエス様との出会いによって彼は、自分が今まで悪魔によって盲にされていたことを、いっぺんにわかりました。 そして、かつては迫害者であったパウロが、燃えるような福音の戦士となったのです。 彼の証しは本当に素晴らしい。 ピリピ人への手紙3:7-8
意味は、「私は死ななければならないとしても、死にます」 この心構えを持つ人々こそが、大いに祝福されるようになるに違いない。 |