引用聖句:ルカの福音書1章68節-79節
ルカの福音書2:10-14
ルカの福音書2:29-32
クリスマスの頃一番読まれてる箇所は、このルカの福音書ではないかと思います。イエス様を生んだマリヤは次のように告白したのです。 ルカの福音書1:46-47
マリヤは「主なる神は私の救い主です。」と、告白することができたのです。 最も大切なことは、もちろん健康でも、たくさんのお金でも、権力でも、名誉でもありません。 大切なことは、債務の重荷から解放されること、そして万物の作り主なる神が自分のわがままを赦してくださり、私に永遠のいのちを与えてくださった、という確信を持つことです。マリヤはこの確信を持っていたから、だから彼女は大いに喜んで、 「主なる神は私の救い主です」と。 「主は私の救い主である」…これこそが、幸せな人間の告白ではないでしょうか。イエス様は、われわれの完全な救いをもたらすために、この世に来てくださったのです。 「救い」とは、決していわゆる一時的な問題の解決だけではありません。永遠なるものです。すなわち主なる神の愛を体験的に知ることによって心の拠り所を持つことであり、主なる神の前に立つことのできるための、義そのものです。 はじめてのクリスマスの、イエス様がお生まれになった晩は、御使いは次のように知らせたのです。ルカの福音書2章の10節11節。 ルカの福音書2:10-11
ここで複数形になってますけど、単数形で読んでもいいと思います。 あなたのために、い主がお生まれになったということです。 主なる神の与えようと望んでおられる祝福とは、今言いましたように、健康とか富とか美しさといったような様々な事柄ではなく、「イエス様ご自身」です。 あなたのために、救い主が来られたのであり、あなたのために、救い主が生きておらるるのであるということです。一言で表現するならば、「私たちはイエス様のうちにすべてを持ってる」のです。 イエス様のうちに汲み尽くすことのできない富が、われわれのために開かれています。 この「富」とは、いったいどういうものなのでありましょうか。今朝、3つの点だけちょっと触れたいと思います。 第1番目はイエス様の愛です。 第2番目はイエス様の恵みです。そして、 第3番目はイエス様のご配慮です。 「イエス様の愛」とは、永遠なる愛であり、決してだめにならない愛です。決してだめにならないイエス様の愛こそが、われわれの礼拝の原因ではないでしょうか。 私たちは将来を見ると、決して決してだめにならないイエス様の愛を、確認することが許されています。 イエス様が過去において、われわれを愛してくださったのです。イエス様の愛の証明なるものは、もちろんイエス様の十字架です。 一人一人は愛されてるということは、単なる教えではなく証明された事実です。イエス様の死こそがその証明であります。 過去において、一人一人はイエス様によって大いに愛されている、ということは動かすことのできない事実です。 けど、今日もなおイエス様は、私たち一人一人を愛していてくださるのです。多くの人々は愛されてることを感じません。見捨てられてるのではないかと思う人もいるかもしれません。けども、主は愛していてくださるお方です。 イエス様の一つの特徴は、人間一人一人に対する愛であります。そして、イエス様は、過去において愛されたお方だけではなく、今日も愛しておらるるお方だけではなく、永遠にわたって、私たちのような者を愛していてくださるお方です。 この主の愛について、たとえば、エレミヤ書の31章3節に次のように書き記されています。 エレミヤ書31:3
と書いてあります。うちのリンデが最も愛した言葉は、この言葉だったんですね。 「どういうことがあっても私は愛されている」、という事実を考えたとき、喜ぶことができ、安心して死に向かうことができたのです。 イエス様の愛について、私たちに疑いをもたらそうとしている悪魔に、決して惑わされてはなりません。 主の愛は、決して決してだめになりません。主の愛は永遠の愛です。「神は永遠なる神」と同じように主の愛も、永遠なるものです。 ヨハネの福音書の13章の1節に、イエス様の愛について次のように書き記されています。 ヨハネの福音書13:1
と書いてあります。イエス様は、自分の愛を残るところなく、示していてくださったのです。 たとえば、十字架につけられる前の晩、イエス様は12人の弟子に向かって、「あなたがたの一人はわたしを裏切るようになる」と言われたのです。 その時弟子たちは驚いてしまって、驚かなかったのはおそらくユダだったでしょう。けども、ほかの人々はみんな驚いてしまって、「ありえない。信じられない。」 そしてみんな「イエス様、私ですか?」「私ですか?」「私ですか?」と言われたのです。 結局イエス様は、3年半確かにヤコブを愛したのでしょう。ヨハネも愛したのでありましょう。ペテロも愛したのでありましょう。けども、同じようにユダも愛していてくださったのです。 ユダを選んだとき、「彼はわたしを裏切る者となる」とイエス様は知りながら、ユダをまったく同じように愛してくださったんです。もしそうでなかったならば、イエス様が「あなたがたの一人はわたしを裏切るようになる」と言われたときみんな、「あもちろんあいつでしょう。ユダでしょう。」と思ったに違いない。けども、だれも知らなかったんです。気がつかなかったんです。なぜならばイエス様は、ユダも同じように愛していてくださったのです。 裏切られた後で、イエス様はユダに向かって、「敵よ。」と言わなかったんです。「友よ。」と言われたのです。イエス様は自分の愛を残るところなく、最後まで示していてくださったのです。 イエス様は、自分の弟子たちをいかに愛されたのか、ま、死に至るまで。すなわち残すところなく、余すところなく、愛されたのです。 もちろん彼らがイエス様に愛されるに価しなかったということを、私たちは知っています。彼らはみじめで、どうしようもないだめな人たちだったんです。みんな逃げてしまったんです。ペテロは「俺はイエスを知らん。関係がない。」と言ったのであります。 イエス様は、本当に一人ぼっちになったのです。けどもイエス様は、愛し続けたのです。 イエス様の愛は、永遠の愛であるからです。 イエス様の愛は、たとえ拒まれたとしても、引き続き愛しつづけてくださるのです。 イエス様の愛は、たとえ足で踏みにじられても愛してくださる愛です。 ルカの福音書15章に出てくる放蕩息子は親を捨てたときも、遊女と遊んで財産を使い果たしたときも、また父親から遠く離れていたときも、愛されたとはっきり知ることができます。 ある信者は、「イエス様が、主を愛する者だけを愛する」と思ってます。けども、それはたいへんな間違いです。とんでもない偽りです。 再三再四、信者たちは来て、債務を告白し、自分の生活の中の罪を告白します。信者たちもあらゆる罪を犯し得るのです。そして、悪魔が罪に誘惑することに成功すると、次のように信者たちを訴えます。 「あなたは神の愛をないがしろにした。あなたがやったことは、本当にひどいことだ。」と。 こういうことを通して、神の愛に対する疑いが頭をもたげ始めるのです。そういうときに、ある人は来て、次のように言います。 「私は罪を犯してしまった。しかもそれを意識的にしてしまった。主が私のような者をもう愛してくださることは、不可能です」と。悪魔は「信者たちを、これほどまでにだめにすることができる」と勝ち誇ります。 確かに私たちは、愛されるに価しない者です。私たちの誰一人として、愛されるに価しないのです。けど、罪を犯してしまったので主が愛することを止めたり、信者たちを捨てたりすることは、まったくひどい、うそです。 主の愛は永遠なる愛です。主は、愛し続けてくださるのです。途中でどういう失敗・過ちがあっても、イエス様は愛し続けてくださるのです。そして、この愛は最後的に勝利を治めてくださいます。 確かに意識してうそと偽りを行なう信者もいます。信者の生活の中にもあり得ないようなことが存在します。すなわち信者であっても、罪を犯し、あり得ないようなことを行なう可能性は常にあります。 けど、最大の確実性をもって、主の言葉は、イエス様の愛は、決して決してだめにならないと言ってます。主の愛は永遠なる愛です。決して変わらないものです。なぜならば、イエス様は、決して変わらないお方であるからです。 イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。したがって、イエス様の愛も、決して変わることがありません。イエス様は、私たちを、私たちの一人一人を、まったく個人的に愛していてくださるのです。 もちろんイエス様は人間の罪を憎まなければなりません。けどイエス様は、罪人が立ち返るまで、罪人を愛し続けてくださるのです。私たちがしたことであれ、しなかったことであれ、どんなことをも主の愛を変えることはできません。 ヨハネの手紙第Iの4章の10節にこの愛について次のように書いてあります。 ヨハネの手紙第I、4:10
パウロは、大いに喜んで「私を愛し、私のために自分自身を捨てた神の御子」と書くことができたのです。この愛によってパウロは圧倒されてしまって、この愛によってこそ、パウロの心の目が開かれるようになったのです。 主は、いつご自分に属する者を愛することを止めるのでありましょうか。聖書の答えは「決して決して、愛することを止めない」です。ほんとにこのことを決して忘れないでください。 イエス様は、あなたを!愛していてくださるのです。 イエス様は、あなたを愛し続けてくださるのです。 イエス様の愛は、決してだめになりません。 決して絶えることがありません。 「愛されている」これこそが、絶えざる喜びの根拠ではないでしょうか。 よく知られてるイザヤ書の43章の4節だと思うんですけど、主は、 イザヤ書43:4
複数形「あなたがた」ではなく、「あなた」となっています。あなたこそが主の愛の対象です。主の愛は永遠なる愛です。決してだめになりません。イエス様は、自分のものを決して決して捨てません。 第2番目の素晴らしい事実は「主の恵み」ではないかと思うんです。 主の愛は、永遠なる愛です。主の恵みは、十分なる恵みです。すなわち私たちは今おかれてる環境を見ても、あるいは将来を見ても、主の十分なる恵みを確信することが許されています。 わたしの恵みはあなたにとって十分です。と、イエス様は保証してくださるのです。 もちろん将来には、苦しみも悩みもあるでしょう。なければ、真剣に祈ろうとしないからです。なければ、主に頼ろうとしないからです。もちろん今からも、試練と誘惑がたくさんあることでしょう。嘆きや失望を経験するようになるでしょう。 こういう事実を考えると、勇気付けとか、励ましというものがあるなのでしょうか? もちろんあります。というのは、私たちは、決して決してだめにならないイエス様の愛を知ることができるのです。私たちは、決してだめにならないイエス様の愛の絶対的確信を持つことができるのです。そして、十分なるイエス様の恵みの絶対的保証をも持ってるのであるからです。 パウロはコリント人への手紙第IIの、よく知られてる箇所ですけれども、次のように告白したのであります。 パウロはこの十分なるイエス様の恵みを経験したことの告白であります。パウロの経験は、主が成すことのできること、そしてまた、私たちのために今日もなお成したいと望んでおらるること、しかもわれわれの人生の終わりに至るまで、主の願っておらるることを私たちにも示してくれます。 コリント人への手紙第II、12:7
パウロの経験したことは、何であったかはっきりわかりませんけれども、パウロのような経験を持つほかの人は、あんまりいないのではないかと思うんですね。 パウロとヨハネくらいじゃないかと思うんですね。二人とも、開かれた天を見ることができ、そして人間の言葉で言い表わせない言葉を聞くことができたと聖書は言ってます。 パウロは天に引き上げられたとも書き記されています。本当に彼の経験した啓示とは、素晴らしいものでした。 コリント人への手紙第II、12:7
一つの病気と言ってもいいでしょう。偶然に病気になっちゃったということではなく、与えられた一つの賜物として。 コリント人への手紙第II、12:7
結局、悪魔でさえも、自分勝手なことをすることができません。主が許してくださらなければ、どうすることもできない。 長い目で見ると、悪魔は主の目的が達せられるために手伝わなくちゃならない「使い」にすぎないなのです。 「パウロは病気になると、めちゃくちゃになるじゃないか?希望を失うようになるのではないじゃないか?」と悪魔は、大いに臨んでパウロを攻撃したのです。 結局パウロの病気は、悪魔の攻撃の結果であったと、この箇所を通して知ることができます。どういう病気であったかわかりません。けども、パウロの書いた手紙全体を見ると、言えることは、病気の結果として、彼はまずだいだい見えなくなった。自分の手紙を、自分で書くことができなかったんです。 1回だけガラテヤ人への手紙の最後に、「私の名前を大きな字で書いた。」とあるんですね。自分の名前ぐらい、大きな字で書くことができたんです。本当に気の毒な人だったんです。そして多くの人々は、彼の病気とは、おそらくマラリヤの1種類だったのではないかと思うんです。 3種類があるそうです。けれども、1種類のマラリヤになると目が見えなくなる。そしててんかんになる。もしそうだったらパウロの苦しみはいかばかりであるか想像することができるでしょう。もし彼は福音を宣べ伝えた途中で、てんかんになったりして、きちがい… (テープ A面 → B面) 大変な苦しみだったのではないかと思うんですね。 「病気になってもかまわないけれども、てんかんになったりすると、もうみんな躓くじゃないか?きちがいじゃないかと思わるるのではないか?」と、彼は大いに心配したんです。そして、「主よ、どうかこの病気だけを癒して」と一生懸命祈ったんですけど、主は癒そうとしなかったんです。 パウロを通して、ほかの病人はたくさん癒されたんです。死人までもよみがえられたんです。けども、自分の病気は癒されなかったのです。死ぬまで病気だったんです。 どうしてであるかと言いますと、ここで2回、「高ぶることのないように」と書いてあります。 普通だったらパウロのように用いられた人は、間違いなく傲慢になります。傲慢になるともうおしまいです。主に用いられません。だから主は恵んでくださり、パウロに一つのとげを与えてくださった。 コリント人への手紙第II、12:7-8
おそらく夜中、祈り叫び続けたのではないかと思うんです。しかし主は、彼の願い通りに答えようとしなかったのです。違うふうに答えたのです。 コリント人への手紙第II、12:9-10
と。この7節からのみことばをまたゆっくりとお読みになり、内容についてお考えになってください。最も大切な箇所じゃないかと思うんですね。 パウロは、主が十分なる主の恵みに対して、パウロに保証を与えてくださったとき、なんと答えたでしょうか?たとえば、次のように言ったのでしょうか? 「主よ、この場合、私はこの病気をがまんする覚悟です。私は満足し、諦めます。私は、もはやそのことについて不平や不満を言ったり、嘆いたりしません。」 とか、これと似たような、何らかの反応をしたのでありましょうか? そうじゃないんです。パウロの採った反応は、全く別のものでした。「私はキリストの力が私を覆うためにむしろ大いに喜んでいる。私の弱さを誇りましょう。私は、キリストのために甘んじてる。」と言うようになったのです。 最初の2・3節はパウロがいかに苦しみ、いかに内面的に動揺したかを私たちに描きだしています。 パウロは、肉体のとげを取り除いてくださるようにと真剣に祈り続けたのです。彼は「癒してくださるように」と3度も主に懇願しました。けど主の答えは、次の通りでした。 コリント人への手紙第II、12:9
と。主の力が現われると、結局主は、中心になる。 多くの人々は、「癒してください。癒してください。」いわゆる癒しを願い求めます。主の目的は、多くの場合は違うんです。主は、病気を癒そうと思うよりも、病気を与えてくださるのではないでしょうか。 なんと多くの人々は、病気によって本物を得るようになり、病気によって、イエス様の力を体験するようになり、立派な証し人となったのではないでしょうか。 この間仙台で、ある姉妹のための記念会を持つようになったんですけども、そのとき彼女の祈りをちょっと引用したんです。 ちょっと今思い出したので、ちょっと読みます。彼女は、死ぬ前に次のように祈ってくださったのです。彼女は気がつかなかったんですけど、ちいちゃいテープレコーダー持っていって、結局後で、子どもさんたちは彼女の、お母さんの声をもちろん覚えられないから、お母様の声、後でね、聞くことができたらいいじゃないかと思って、テープレコーダー持っていったんですね。 そのときの彼女の祈りは、次のような祈りだったんです。 「この病気を通して、私はイエス様から多くのことを教えられました。人を愛すること、優しくすることなどそれまで知りませんでしたが、今は病気を通して知ったことを、心から感謝します。 主人が私と同じようにイエス様を知って、一日も早く楽になることができますように、切に切にお願いします。 イエス様は、『思い煩うな』とおっしゃってくださってますから、また主人の救いを約束していますから、ありがとうございます。 子どもたちや、私の兄弟たちや、親戚の人たちが、私のこの病気を通して、イエス様を知るようになることを心からお願いいたします。」 こういうふうに彼女は祈ってくださったのです。 結局、自分の病気を通して、もちろん自分の死を通して、イエス様は大いに働くことができるように。これこそが、彼女の切なる願いだったんです。 そして、この願いはもちろん聞き届けられたのです。パウロは、「主の恵みは十分です」と、体験的に知るようになったのです。 「わたしの恵みはあなたに十分である。」というのは、「わたしの力はあなたのみじめさ、無力さ、弱さのうちに完全に現われる。」 そして、このコリント人への手紙第II、12章の最後の2〜3節は、パウロがいかに主の恵みを受けたか、パウロがいかにこの恵みの十分さを経験したか、そしてまた、イエス様の力が、さらにいっそう明らかになるため、パウロがいかに弱くあることを望むか、を描き出しています。 ほんとに素晴らしい、証ではないでしょうか。 主は、私たちもそのような証し人となることを心から望んでおられます。 その前の9章。コリント人への手紙第IIの9章8節に、次のように書いてます。 コリント人への手紙第II、9:8
「すべて」はすべてです。 コリント人への手紙第II、9:8
とあります。主はできる方です。主の決してだめにならない愛を私たちは確信することができます。 また、主の十分なる恵みを、絶対に確信することができるのは、素晴らしい特権ではないでしょうか。 第3番目の事実は、「主のご配慮」です。主のあふれるばかりのご配慮ですね。 今読みました箇所の中で、「あふれる」という言葉が2回出てきます。私たちは不確実な将来を見ると、主のあふれるばかりのご配慮を、確信することができます。 イエス様は、われわれにあふれるばかりご配慮をなさることを約束してくださったのです。そして、イエス様は自分の約束を必ず守る方です。 たとえば、お金はますます価値を失ってます。将来を見ると、多くの人々は不安を持ち、心配で苦しむでしょう。決して良くなりません。もっともっと、みんな悩むようになります。すべてのものは、値段も高くなるのでありましょう。将来はどうなるのか、と多くの人々は心配してます。 けど、イエス様を知る者として、私たちは、主が私たちの牧者であり、私たちを決して決して捨てない、ということを確信することができます。よく知られてる詩篇の23篇に 詩篇23:1-4
これこそが幸せになった人の告白です。ダビデは、「私は目的地に着いたから、すなわち王になったから、大金持ちになっちゃったから、有名人になったから、乏しいことはない。」と言わなかったんです。 「主は私の牧者であるから、だからこそ、乏しいことがない。あなたが私とともにおらるるから、私はわざわいを恐れません。死の陰の谷を歩くことがあっても、死ぬようになったとしても、心配しません。独りぼっちではないから。主はよい牧者として、いつもついておらるるからです。」 そして同じく詩篇の37篇。ダビデは次のように告白したのであります。 詩篇37:23-25
そして34篇の9節と10節に、ダビデは次のようのに書き記したのです。 詩篇34:9-10
主に頼る者は、主の永遠なる愛、主の十分なる恵みを体験することができるのです。 最後にもう1ヵ所読んで終わりましょう。ピリピ人への手紙4章の19節です。 ピリピ人への手紙4:19
パウロはこういうふうに確信したのであります。主は忠実なるお方です。主はうそを知らない方です。主は、自分の約束を必ず守るお方です。これこそがパウロの確信だったんです。 イエス様の愛は、決してだめになりません。イエス様の恵みは、十分なるものです。 そしてイエス様のご配慮も、あふれるばかりのものであります。この主に頼る者は、安心して、将来に向かうことができるのです。 |