信仰生活の第一歩1


ベック兄

(吉祥寺学び会、1997/6/10)

引用聖句:エペソ人への手紙、2章1節-10節
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

今の箇所ではっきりわかることは、救われることは本当に主の恵みの結果であり、けども救われた人々は成長すべきであると、パウロははっきり書いたのです。主のひとつの呼びかけとは、「おいで、私の所においで。」

この間、カナダの喜びの集い(1997年)で、ナイアガラの滝の近くのお店でひとつの看板があったのです。何が書かれていたかと云うと、「カム イン ウィ アー オープン」、「お入りになって、店は開いてるよ。」
これこそが、イエス様の呼びかけなのではないでしょうか。「おいで、待ってるよ。」、店の宣伝文句とは、もちろん儲けるためでしかなかったのです。「お入り、何でもただであげますよ。」、そういうものではなかったよ。「金を出せ、そしたらあげますよ。」

イエス様の呼びかけは、もちろん違います。イエス様は、お金を欲しくないし、努力して立派になってもらいたいのではない。「ありのままの状態でおいで!、休ませてあげます。」、そういう呼びかけです。

それからやっぱりカナダのバスの後ろに、Don’t just follow us、join us.保険会社の広告でしょうかね。
「我々に着いてくるのは、十分じゃないよ。一緒になってもらいたい。」、イエス様の呼びかけとも似ているのではないでしょうか。
ただ、私を信じるだけで結構ですけど、私とひとつになってもらいたい。そうしないと、やっぱり満たされ得ないし、用いられないし、周りの人々も、別に飢え渇きを感じようとしないでしょう。

トロントの喜びの集い(1976年)で本当に、ひとつのすばらしい経験は洗礼式だったんですね。
外だったし雨だったし、面白くない。ひとりの兄弟は、その雨のためにも感謝したんです。彼の子供も、16歳で洗礼受けたのですけれど、やっぱり雨のことより子供のことのほう思ったんじゃないかと思いますけど、本当に感謝でした。

そしてカナダにお住まいの兄姉の二人の子供。18歳の長女と17歳の長男も洗礼受けたのです。それから堺から来られた親の息子も、また受けたのです。
結局ね、親がいくら信じたとしても、子供が着いていくのは当たり前じゃないよ。本当に恵みです。多くの人はやっぱり、子供は自動的に救われると。そんなことないよ。
子供は小さいとき、もちろん素直に信じます。全然疑いません。その信仰はその時もちろん十分ですし、主も大満足です。でも、大きくなると悔い改めがついてこなければまずい。

主なる神は孫を持っていない。ひとりも。みんな子供だけ。ですから、親が救われている、子供はだいじょうぶなのではない。絶えざる戦いです。
ですから、今度トロントで4人の子供達が、信仰を告白したのは感謝でした。バンクーバーでも、6人はじめて祈られましたし、トロントでも12人が祈られました。人の言ってることは、意識して大切にしたくない。批判されても誉められても関係ない。けど今度、ちょっと誉められたことがあるのです。ちょっとうれしくなっちゃった。

ひとりの、めちゃくちゃな生活を送った男は、私になんと言ったかというと、What you say makes sense.、あなたの言っていることは、まともですと。(意味があると)
それ聞いたとき、うれしくなっちゃった。なぜなら、彼はずっと何年間も母親の言ってることを無視してしまったのです。父親は、めちゃくちゃな親だったそうです。お父さんの顔ぜんぜん覚えてないし、お母さんは苦労した。そういう子供は、不安定になるし、苦しむし、変な友達と一緒になりました。もう最低の人々と一緒になっちゃったのです。
もう7回も身の危険を感じました。もうおしまいと思ったけど、今まで運が良いと思ってたらしのです。

ぼく達行く前の日曜日、運が良かったんじゃなくて、神様に守られたと初めてわかったそうなんです。夜2時ころ、ふたつのグループがけんかして、彼も止めようとしたけどダメだった。
もうみんなピストルを出して、5-6人死んだと彼は思ったそうなんですけど、誰も死ななかった。奇跡です。ある姉妹が言ったのは、日本の大問題は、登校拒否、家出・・・。アメリカはそういうもんじゃない。殺すか、殺さないか。ちょっと考えられない。
彼は24歳なんですけど、7回そういう経験をして、「もう疲れました。今からイエス様に従いたい。どうすれば良いのか?」

彼は、本当に悔い改めて、母親と一緒に聖書を読んで祈った。
今までの友達のためにどうすれば良いか。イエス様を知らなければ、もうおしまい。自分の友達も次々に殺されてしまったのです。彼のこと祈ってください。

救われることとは、ひとつの考えられない奇跡です。けれども、今からです。やっぱり成長がなければ問題です。信仰の生活にとって一番大切な箇所は、

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

結局私ではない、キリスト。
未信者の考え方とは、「わたし」「わたし」「わたし」そういう考え方なのです。自分のことしか考えられなかった人が、急に、「わたしなんか、どうでもいいよ。」「イエス様に仕えたい。」「イエス様をもっと知りたい。」と思うこととは、考えられない奇跡です。勝利の秘訣とはそれです。「わたし」ではない、「キリスト」です。
それにしても、何回も何回もいろいろな問題に、もちろんぶつかります。「どうしたらいいの?」と思うようになります。

使徒の働き2:37
37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか?」、未信者だけではなく信ずる者も問います。「どうしたら良いのでしょうか?」
主にとって、一番の妨げになる人間とはどういう人間かといいますと「もうわかった。」そう思う人々なのではないでしょうか。パウロは、必ず毎日何回も祈ったに相違ない。すなわち、「主よ、わたしは、どうしたら良いのでしょうか?」結局、わからないから、教えて下さい、導いてください。
十字架の福音を聞いて信じたユダヤ人たちは、どうしたら良いかとペテロに尋ねました。2,000年ほど経った今でも同じ質問があります。「どうしたら良いのでしょうか?」

今まで、全然主のことを考えずに、滅びの道を歩いていた人が、急に180度の方向転換をして、主と共に永遠の命の道に進むのですから、実際生活において当然変化が起こります。主に喜ばれ、祝福されるためには何をどうすれば良いのでしょうか?これこそが、大切な質問です。
まず、大切なことは、確信を持つことです。前に読まれたエペソ人への手紙に戻ります。

エペソ人への手紙2:8-9
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

天国に行って、私はああしたから、こうしたからと誇る人間はひとりもいない。やっぱり全部、主のおかげです。主が、憐れんでくださったから救われたとしか言えません。
ここで、本当にはっきりしていることは、「自分自身から出たことではない」と書かれています。
確信について考えると、非常に大切な事実です。確信の土台とは、決して人間の中にあるものではない。人間の理性、理解力ではない。何と多くの人は、勉強すればわかると言います。そうではない。救いの確信とは、感情、気持ちではない。
すなわち、人間の感じてること、考えてることはどうでも良い。大切なのは、「みことばは、何と言っているか?」それだけ。

いうまでもなく、救われるために信仰生活をするのではなく、信じて救われたから、イエス様に従った生活が始まるのです。人は、この点で間違いやすいので注意をする必要があります。
たとえば、手紙の中に書かれている言葉は、例外なくもう救われた人々のために書かれていることです。未信者が読むと、必ず道徳にすぎないと、正しく思うでしょう。けど、「行いは、どうでも良いよ。」というのではありません。この2章の10節。

エペソ人への手紙2:10
10私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

「良い行いが、あってもなくても関係ない。」のではない。良い行いをするために救われたとはっきり書かれています。信ずる者は、良い行いによってキリストの栄光を表します。それは、非常に大切なことで、主に喜ばれることです。
もちろん、自分で頑張りなさいということではない。自分でできないから、主に頼りなさいという意味です。「私から離れたら、あなたがたは、何にもできない。」、善を行いたいけど、無理。善を行う力がないとパウロは正直に言ったのです。

強調すべきことは、良い行いをすることによって救われるのではない。良い行いによって救われるのではなくて、その行いの前に信仰によって、救われているのです。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

順序は、はっきりです。大切なのは、主のみことばを聞くこと。2番目は、信ずること。
いくら聞いても信じなければ全く意味のないことです。信じた結果とは、財産家になる、すなわち永遠の命を持つ。永遠の命を持っている者は裁きに会うことがない。罪に定められることがない。安心して、死に向かうことができる、ということです。
永遠の命を持ったのは、死から命に移っているのですと、約束してくださったのです。信じた人には、滅びに至る死後の世界がありません。すでに、救いを受けているのですから。

エペソ人への手紙1:13-14
13またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

聞く耳を持つと、悔い改めて信じると、聖霊の宮になると聖書ははっきり語っています。確かに、救われた時、私は聖霊の宮になったと、ちょっと誰も考えていませんし、今日まで理解できませんし、感じられませんし、けど本当なんです。
イエス様を受け入れることによって、今までの死んだ霊が生かされます。霊的に生かされることとは救いです。すなわち、イエス様を信じ受け入れた人は聖霊によるバプテスマを受けています。聖霊の宮であります。

いわゆるカリスマ的な、教会の教えとは違う。「あなたは、信じてるかもしれないけど、救われてるかもしれないけど、今から聖霊のバプテスマを受けないとけしからん。特別なことを経験しないといけない。」
聖書の言っていることは違います。イエス様を受け入れた人は聖霊の宮です。聖霊は、イエス様から離れられない。聖霊はイエス様の御霊と呼ばれています。聖霊の働きによってのみ、イエス様の成し遂げられた救いは人間のものとなります。

御霊を持たない人は、イエス様のものではない。すなわち救われていないと、聖書ははっきり言っているのです。ですから、救われるために教会に行かなくても良いし、多くの聖書の知識を得なくても良いのです。洗礼を受けるのも、もちろん必要条件ではない。
「憐れんでください。恵んで下さい。赦してください。」、この態度をとれば人間は神殿となり、聖霊の宮となるのです。

信じた瞬間に、聖霊の証印を受けたとはっきりパウロは言ったのです。これは、真実な主の保証ですから、これほど確かなことはありません。
イエス様は我々の罪を負って、我々の身代わりに、聖なる神の刑罰を受けてくだっさったのです。そして、十字架の死後、3日目に墓を破って甦り、ご自身が、神の御子であることを立証されたのです。
信仰、確信の土台とはみことばです。そして、聖霊の働きによりみことばは生きたものとなるのです。確信を持つことこそが、最も大切なのではないでしょうか。確信を持てない人は、喜びもないし、本当の平安もないし、生きる希望もあり得ないからです。自分の国籍は、もう天国です。この確信こそが、大切です。

そして、第二番目に大切なのは、祈ること。主に叫ぶことです。何でもイエス様に話すことです。

ピリピ人への手紙4:6-7
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

パウロは、ある意味で幸せでした。人に言えなくなっちゃった。刑務所の中だったから。
だいたいの人々が、まず問題を持つと自分で考えます。それから人の意見を聞きます。相談します。横道です。直接、主に行ったほうが、ずっと早道です。
全部、あなたがたの願い事を主に知って頂きなさいと、パウロは書いたのです。

普通の人々は、ご成功を祈りますとか、ご回復を祈りますとか言いますけど、それは言葉だけのことであって、本当に祈りのできるのは、祈りを受けて下さる主と交わることができる者です。
神の子とされた者は、神である父と自由に交わることができるのです。ですから本当に祈ることができます。

ところで、今まで祈ったことがないので、どう祈ったら良いのだろうかと戸惑います。でも、むつかしいことではありません。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあるように、思いのままを述べれば良いのです。
型にはまった祈祷文などを暗記することは、全く無意味です。今の気持ち、今の願いをそのままに言うのです。
祈りには、個人の祈りと、公の祈りがあります。どちらも本当に大切です。言うまでもなく、最も大切なのは、個人の祈りなのではないかな。

マタイの福音書6:6
6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

個人の祈りについて、このように言われました。主は、直接に答えてくださる。
これは、ひとりで主と交わる祈りです。何を言っても、もちろん良いのです。やさしい主の胸によりかかって、心の内をすべて打ち明けるように、何もかも言ってしまえば良いのです。

何も言わなくても良いのです。私たちが言い表すことによって、大いに教えられ、導かれ、祝福を受けるのです。祈りの言い表しとは、結局、信仰のあらわれでなければならない。信仰があれば、主は恵んでくださる。
けど、個人の祈りだけではなく、ほかの人々との祈りも大切です。

マタイの福音書18:19
19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

これを読むと、いっしょに祈ることも大変大切です。
でも、いつも一緒だけ、人間の前の祈りになれば、ちょっと問題です。一緒に祈っても、隣の人が何を考えてるのか、どういうふうに受け取るのか、別に考えなくて良い。大切なのは、やっぱり主の前に黙想すること、そしていっしょに祈ってる人々と、心をひとつにすることです。
数人で、もっと多くても良いのですけど、心をあわせて祈ることは、本当に大切です。初代教会の人々は、ようく一緒になって、祈り、心から叫んだのです。個人の祈りと、また違った祝福を必ず得ます。

初めてこのような公の祈りに参加する時、誰でも緊張するものでしょう。他の人々に笑われないように、上手に祈らなくちゃならないと思えば、ちょっと気の毒です。
祈りは、美辞麗句で語る必要は少しもありません。主は、真心から得る真実な言葉を喜ばれます。

初めてみんなの前で声を出して祈るとき、確かにむつかしいと思うでしょう。でも勇気を出してやってみると、案外楽にできるものです。そして次からは、安心して祈るようになるのではないでしょうか。
最初は、短く、ほんの一言でも良いでしょう。短いとは、恥ずかしいなどと思わないでください。

マタイの福音書6:7
7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

結局、宗教家たちの祈りとは、だいたいこのようなものです。くどくどと、長い祈りほど、公の祈りの場合益がないのです。

ヨハネの福音書16:23-24
23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。

おいで...待ってるよ。祈れば、結果として、わたしは行動する、奇跡をなすということです。

ヤコブの手紙1:6-7
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

結局、信仰があるかないかによって決まるものです。ですから、もう何回も言ったように、家族を救ってくださいというと祈りは、よくない祈りです。
救ってくださいと言いながら、「どうせ、時間かかるんじゃないか。今見向きもしないし、ちょっと・・・」、それは不信仰の表れ。そういう祈りは役に立たない。けど、現実見るとそういうふうになっちゃう。

現実は、どうであれ、主は約束したから、主はうそつきじゃないから、お願いしますじゃなくて、感謝します。この態度をとることこそが、最も大切です。
ですから、イエス様はよく、「あなたの信じた通りになる。」と言われたのです。信じれば神の栄光を見ると約束されています。
主イエス様の御名によって祈りましょう。また、主の愛と、主の全能を信じて、信仰によって祈りましょう。祈りは信じる者の呼吸のようなものだと言われています。祈りの人は、主の御心を知るようになり、霊的に成長するようになり、主の栄光を現す者となります。

まず、大切なのは、はっきりとした確信を持つこと。確信の土台とは、人間の中にあるものではなく、みことばであり、主の約束です。
第二番目は、祈ることです、主に頼ることです。人間は、頑張るか祈るか。疲れても良いと思えばがんばってがんばる。けども精神的に疲れないために祈る必要があります。
祈ることとは、主にまかせることです。自分にとって耐えれない。もう疲れたからおまかせします。
第三番目に大切なのは、まなび、まなぶことです。次のように言われました。

マタイの福音書4:4
4イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

本当の意味で生きるために必要なのは、主のみことばであるとイエス様は言われました。このイエス様のみことばは、もちろん信ずる者には、そのまま当てはまります。
神の子とされたものは、父なる神との霊の交わりにはいりましたけど、その霊の、神のみことば、聖書によって養われます。前に話しましたように、祈りが信じる者の呼吸と言えます。みことばは食物です。信者が、もし聖書を読まないと、霊的に成長しません。
もちろん強調すべきことは、聖書とはひとつの理解しなければならない学校の教科書じゃない。私たちが、どうして聖書を読むかというと、精神的に疲れ果ててしまわないため。毎日、喜びと平安を持つためだけです。みことばこそが、人間に与えられている、すばらしい宝物です。

使徒の働き20:32
32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

この箇所だけを見てもね、みことばの大切さを知ることができます。みことばは、あなたがたを育成する。

使徒の働き17:11
11ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

パウロは、別のところで良い人、正しい人はいない、だれもいないと強調したのです。けど、例外あるらしい。ベレヤにいる人とは、良い人だった。
どうしてかというと、パウロの宣べ伝えた福音をすぐに受け入れようとしなかったからです。「あのパウロの言ってることは良いらしい。けど、本当かな?」と、疑問符をつけたのです。
自分で調べないと危ないかも知れない。まどわされたら、たいへん。もし、今日の人々も、同じ態度をとれば、異端にはいる人はひとりもいないと思います。

人間は、悩むとすぐもう信じ込んでしまう。けど、どうして、聖書を調べないのか不思議なのです。ベレヤの人々は、自分で調べようとしたのです。彼らは、3つの点ですべての信じる者の模範ではないでしょうか。
第一に、非常に熱心に、彼らはみことばを聞いたのです。聞く耳があったのです。聞く耳を持つことこそが最も大切です。聞き耳を持たない子供を持つ親は、大変です。なんと言っても、聞く耳がなければ、本当にたいへんです。
でも、多くの信じる者も主に対して同じ態度をとっているのです。主は語ろうと思い、導こうと望んでいるけど全然ダメ。聞く耳を持つことは本当に大切です。

ローマ人への手紙10:17
17そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

信仰の土台はみことばであり、このみことば聞き、受け入れることこそが大切です。聖書の中である所で、食べることと言っています。
ある日、沖縄のある病室に入りました時、ある姉妹は、手も足も動かせない話せない患者さんに言ったのです。彼女は、みことばだけを書いたのです。そして、それを見せて、「みことばを食べなさい。」と言ったのです。それ聞いて、うれしくなっちゃった。
勉強しなさい、理解しなさいじゃないよ。食べなさい。あなたのために書かれてるよ。ぴんと来なくても、わからなくても、理解できなくても、素直に信じれば、元気出るよ。

聞く耳を持つこととは、食べることです、聞かなければ信仰は始まらない。
聖書を熱心に読んでいたエジプトの宦官は、「あなたは読んでることが、わかりますか?」と尋ねられました。彼は、生けるまことの神に会うために、アフリカからエルサレムまで旅をしたのです。何ヶ月かかったのか、わからないけど。大変な旅でした。
エルサレムに行くと、生けるまことの神に出会えると思ったのにだめでした。彼が出会ったのは、冷たい宗教家たちだけでした。主とつながっている人達と、会えなかった。けども帰り道で、彼はイザヤ書を読んでいました。

使徒の働き8:30-32
30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
31すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
32彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

普通、初めて聖書を読んだ場合、なかなか理解できないものです。どうしても、すでに救いを受けている信じる者の助けが必要です。そして、信じて救われてからも、経験あるキリスト者からの教えを受けるべきです。
けど、ただ教えられたことを、そのまま鵜呑みにしてしまわないで、はたしてその通りかどうか自分で聖書を調べることが大切です。
これは第二の点です。もし多くの人々が、自分で聖書を調べるように努めるなら、大いに祝福されるようになります。間違った教えに惑わされずにすむようになります。

第三の点は、毎日聖書を読むことです。ベレヤの人々は、毎日調べたと書かれています。肉体の糧は、毎日必要です。それと全く同じように、霊の健康を維持し、成長していくために、毎日聖書を読みましょう。ダビデは、詩篇で

詩篇119:11
11あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

みことばとは、守る力を持つものであると、ダビデは体験的に知るようになったのです。ヨハネというイエス様の弟子は、おそらく100歳を越えた時に、幻を見てヨハネの黙示録を書いたのです。

ヨハネの黙示録1:3
3この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

当時の大部分の人々は、読むことができなかったのです。そういう教育を受けていなかったから。ある人々しか、みことばを読むことができなかった。ですからここで、「朗読する者」「聞く人」は幸いですとあります。
ただ単に、読むというのではなく、主の御心を知り、教えを受けるという態度で、祈り求めながら読むのです。祈りながら読むこと、読みながら祈ることほど大切なのではないでしょうか。
そして強く感じたこと、示されたことは心に留め、その教えに従わなければならない。

ピリピ人への手紙4:9
9あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

結局、学ぶこととは、聞くこととは、受け入れることとか、見ることとは、十分でないし、実行しなさい。

テモテへの手紙第II、3:16-17
16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
17それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

創世記からヨハネの黙示録まで、人間の付け加えたものは何もない。人間が理解できようが、できまいが関係ない。
聖書とは神様のみことば。聖書はすべて神の霊感による。イエス様が話された言葉の大切さ。わたしの喜びが、あなたがたのうちにあるためですとおっしゃいました。

  • はっきりした確信を持つこと。
  • まごごころから、祈ること
  • 素直に、みことばに頼ること。

そうすると、主は大いに祝福することができます。




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