引用聖句:エペソ人への手紙、2章8節-9節
五旬節のとき、次のような質問が出されたのです。 使徒の働き2:37
十字架の福音を聞いて信ずるようになり、救われたユダヤ人たちは、これからどうしたら良いか?と尋ねました。 それから2,000年たった今でも、同じ質問がなされます。「私たちは、どうしたら良いのでしょうか?」、信仰生活の土台なるものとは、いったい何なのでしょうか? まず、確信を持ちなさいと言えます。 エペソ人への手紙2:8
現在あなたがたは、救われている。確信の土台とは、もちろん人間の経験や気持ちではありません。みことばです。ですから、何があっても、聖書は神のみことばであると覚えるべきです。 このみことばに、私たちは信頼することができます。理解できないかもしれない。どういうもんか、わからないけど、それと関係なし。聖書は、神の言葉であるから、安心して信頼することができます。 神のみことばは、完全な権威を持っています。聖書を神の言葉として、信じていない人には、救いの確信は決してやって来ません。 いかに道徳的にすぐれた人であっても、聖書の一カ所でも、人間の言葉として考えれば、救いの確信はいっぺんに飛んでしまいます。にせの救いの確信は、神のみことばとイエス様の救いに預かっていない。にせの確信は、人間の中に土台を置いています。 たとえば、感情。理解力。また何かの体験や経験。人間のうちにあるものに土台を置いています。この土台は、しっかりとしたものではありません。揺れ動いているものです。 まことの土台は、イエス様のなされた救いであり、聖書のみことばそのものです。 私たちは、どうしたら、救われたということを知ることができるのでありましょうか?いうまでもなく、みことばを通してだけです。 イエス様の血潮が我々の救いのためになしとげられた。イエス様の流された血とは、イエス様の与えられた命です。血を流すことがなければ、罪の赦しはあり得ない。イエス様の流された血潮の価値を信じると、確信することができる。すなわち、赦されている。 ヨハネの手紙第I、5:13
結局、書かれていることは、大切だよって意味です。私が、あなた方が望んだり予感したり考えたりするためではなくて、あなたがたに悟らせるために、確信させるために書いたのです。 いい気持ちをあなたがたに送ったと書いていないのです。私はこれらのことを書いた。結局、書かれたことは、確信の土台です。 何が書かれているのでしょうか?たとえば、イエス様の約束のひとつだけを見ても、うれしくなります。 イエス様は、私の所に来る者を決して捨てません。罪人として、イエス様に近付き、悪かったぁ、赦してくださいという態度をとる者は、間違いなく永久的に受け入れられます。どうして? 「私は、決して捨てない。」と約束されているからです。 決して、拒みはしないということは、永久的に受け入れられることです。永久的に受け入れられた人は、もちろん救われています。イエス様は、 ヨハネの福音書1:12
結局、受け入れることは信ずることであり、受け入れ信ずることは、神の子供となることです。いつか、なるであろうということではなく、受け入れた、今神の子供です。 すべては、聖書、神のみことばにかかっています。 我々の感情はうつろいゆくものです。今日、救われたと思っても、明日にはまた違って感じるかもしれない。感情にこだわらないでください。みことばにだけ頼ってください。 主の言っていることを信ずることができる。主は、信頼できるお方です。うそを、知らないお方です。書かれていることを、信じなさい。これこそが、使徒たちの勧めの言葉でした。主の言葉は、決して変わることはない。 ローマ人への手紙10:17
もしあなたが信ずるなら、御霊は、あなたの霊にあなたが神の子であることを証しします。それで、自分の救いを確信されます。 わかったから信ずるのではない。何かを経験したから救われたのではない。みことばが書かれているからです。確信を持ちなさいの意味は、「みことばにだけ、頼りなさい。」です。 2番目の信仰生活のためにどうしても必要なのは、祈ることです。 「どうしたら、良いのでしょうか?」・・・祈れば、良いんじゃないの。 ヨブ記5:8-9
結局、私は祈ります。ヨブの態度はそういうものでした。聖書全体は、もちろん祈りへの呼びかけです。 詩篇50:15
ダビデは、私が神に呼ばわると、主が私を救ってくださる。あなたの重荷を主にゆだねよ。あなたが心配してくださると。 もちろん、ゆだねることとは、祈ることによって全部主にまかせることです。祈ることこそが、信ずる者にとってもっとも大切です。 もちろん未信者にとってもそうです。祈ろうとしなければ、救われ得ない。助けを求めなければ、主は強制的に助けようとは思わないからです。 詩篇の作者は、ダビデでしたけれども、素晴らしいことを言ったのです。私は祈りです。ちょと変わった言い方。 音楽で夢中になった人々は、時々言います。「ウイ アー ミュージック。」、我々は音楽好きじゃない、いろんな音楽するのでもない、私たちは音楽そのものです。われわれの命そのものですと...。 だいたいそういうこと言う人達は、音楽だけじゃなくて、プラスアルファー必要です。麻薬です。現代的な音楽をするそういう人達は、だいたい麻薬なしにはできません。ですから、もう多くの人々は、若くして自殺してしまう。喜びや、平安を与えるものではない。 ダビデは、わたしは音楽ですとは言わなかった。わたしはダメです。信じます。疑いませんけど、祈らなければ終わり。主が、私を絶えず守ってくださらなけえば、何にもならない。 私の人生そのものは、主に対する叫びそのものです。だからこそ、彼は、御心にかなう者になったのです。 祈らない者は、ほんとうに、かわいそう。みじめです。孤独です。実を結ばない者です。 どうして人間はいろいろなことで悩み苦しむかといいますと、結局、祈らないからです。 祈らないこととは、自分の知恵、自分の力に頼ることです。あらゆる失敗の原因は、不十分な祈りの生活の結果にほかならない。 祈りによって、だめな人間は、主の全能の力を用いることができるようになります。呼び求めよ。そうすれば、私は与える、あなたの知らない大きな技をなすと約束しておられます。 人生の大きな目的とはなんなのでしょうか?後に残る実がなければ、本当に悲劇的です。後に残る実は、いつも祈りの結果です。 パウロはよく、手紙の中で絶えず祈りなさいと書いたのです。自分でそういうふうに思ったよりも、主の願いでもあり、主の命令です。 主の恵みによって、祈りの人になりましょう。そうすれば、自分も変わるし、周りの人々も必ず変わります。見る目も変わります。急に、知らないうちに楽になります。 祈ることとは、信じる者にとって呼吸のようなものです。呼吸しなければもちろん死にます。祈らなければ、信仰生活も、結局どこかに行ってしまいます。宗教生活は、残るかも知れない。 けど、祈らない生活とは、実を結ばない生活です。 誰が祈るのでしょうか?もちろん、自分がダメだと、わかっている人だけです。努力すれば、なんとかなると思えば、とんでもないことになります。ですから、私たちは、祈るか祈らないかということは、どうでも良いことではありません。 主の命令です。主の命令に耳を貸さないことは、人間の弱さでも、欠点でもなくて、罪です。 1番目、確信を持ちなさい。2番目、祈ることによって、主に頼りなさい。主の助けを求めなさい。そして、3番目は、学びです。 聖書を食べ物として、受け入れることです。いわゆる理性で理解しようと努力することではありません。書かれているから、ありがたい。この態度をとることです。 イエス様は、人はパンだけで、生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による。みことばによって生きることとは、本当に大切です。 ダビデは、私は祈りですと言ったのです。 結局祈らなければ、もうどうしたら良いかわからない。同じ態度をとるべきなのは、みことばに対してなのではないでしょうか? みことばが、なければ餓死してしまう。みことばがなければ、もう喜びがない。失望してしまう。祈りが呼吸であるなら、みことばとは食物です。 みことばが、あなたがたを育成すると、聖書は言っているのであります。 「あなたに、罪を犯さないために、あなたの言葉をたくわえました」、ダビデは、告白したのです。人間に与えられている宝物は、間違いなく聖書です。天国行ってから、聖書の内容を説明されるようになれば、もう、本当に、驚きそのものだと思います。あんまり、素晴らしいものであるからです。 4番目は、バプテスマです。 マタイの福音書28:19
もちろんこの言葉とは、弟子達に与えられた言葉であり、キリスト教にはいるためにバプテスマを授けなさいと書いてないし、その時、キリスト教という宗教はまだ存在していなかったのです。 パウロは、ある教会の会員になるためにバプテスマを授けなさいとも、もちろん書いていません。十字架のみわざをなし終えて、帰られるイエス様が、このように弟子達に告げて帰られました。このバプテスマは、イエス様の命令によるものです。 もちろん。この場合、水のバプテスマと言ったほうが正しいでしょう。ペンテコステの日に、聖霊の大いなる力によってなされた、ペテロの証しに心を刺された人たちが、今から私たちはどうしたら良いのでしょうかと、尋ねました。ペテロの答えは 使徒の働き2:38-39
ペテロは、このように言ったのですけど、おそらくはっきりした意味をつかめなかったんじゃないかなぁ。 ここで、遠くにいる人々とは、ユダヤ人であるより異邦人だったのです。あらゆる国々の人々。けどその時、ペテロは、そこまで進んでいなかったのです。 福音を聞いて、悔い改めて、信じてバプテスマを受ける。この順序は、使徒時代から、今までずっと続いています。 使徒の働きを見てみましょうか。エチオピアから来た宦官は、悔い改めて信じただけではなく、同じ日に、バプテスマを受けたと書かれています。8章です。 使徒の働き8:36、38
使徒時代には、バプテスマは水の中で受けました。ここで、ピリポも宦官も水の中へと書かれています。 現在、多くの教会では水滴を頭にふりかける、いわゆる滴礼といわれる方法で洗礼式が行われています。これは元来、形にとらわれる必要はないと説明されています。でも聖書は、ちょっと違います。 聖書の中でバプテスマという言葉はたくさん出てきます。けど、98%は、水のバプテスマを意味していません。 カトリック教会は、全部ごちゃごちゃにするのです。バプテスマを受けると救われますとカトリックはいいます。けど現実は、逆でしょう。天国に行く大部分の人間は、洗礼を受けていないでしょう。地獄行く人々が、もしかすると、みんな洗礼を受けてるかもしれない。意識して聞こうとしなかったからです。たとえば、ローマ人への手紙の6章でも ローマ人への手紙6:4
ローマ人への手紙6:11
バプテスマは、全身が水中に沈むことによって、以前の罪の身が完全に葬られ、次の瞬間、水から出ることによって、新たに生まれ、永遠の命に甦ったことが証しされます。 象徴は、その内容の持つ意味を表すものです。でも滴礼は、バプテスマの持つ意味を表しません。聖書の教えに従った正しい方法で、バプテスマを受けるべきなのではないでしょうか。 けど、多くの救われていない主人は、「まぁ、教会行っても良いよ。少し立派になれば。けど洗礼だけ、ぜったいダメ。洗礼受けるとおしまい。離婚だぁ。」と言います。 「ああ、そう、じゃ待ちます。あなたと一緒に受けます。」と言えば良いでしょう。自分の洗礼よりも、ご主人の救いのほうが、ずっと大切です。洗礼は、ひとつの儀式ではなくて、ひとつの証しです。ほかの証しする方法も、いっぱいあります。 多くの人々から聞くのです。何ヶ月間か教会行くと、すすめられます。「そろそろ、洗礼どうですか?」 おもに若者。高校生は受けます。でも後で、「イエス様のことさっぱりわからなかった。イエス様が、どうして死んだのか理解できなかった。」、そういう人々が洗礼を受けても、全く無意味です。だいたい、つまずくようになります。 洗礼とは、結局救われた証しです。救われるためのものではありません。結局洗礼とは、「救い」と関係ないものです。 キリスト教は、それを認めようとはしません。プロテスタントの教会もやっぱり洗礼受けないと、一人前と認められません。やっぱり何か欠けているでしょう。あらためて、イエス様受けた人は、救われている。洗礼受けても受けなくても、関係ない。 教会は、どうして、洗礼を勧めるかといえば、会員を増やすため。会員が増えれば、献金も増える。結局、商売です。未信者の主人たちは、それをちゃんと見抜いています。「もう結構です。」、必死になって逃げてるんです。別に追う者いないのに...。 イエス様をはっきり信じていない人、救いを受けていない人に、洗礼を勧めることとは本当にひどいことではないでしょうか? そういうふうに勧める多くの教会は、ちゃんと川で洗礼式をするし、滴礼じゃないんです。けども、本当にたいへんなのではないでしょうか。バプテスマ。水のバプテスマ。決して、救いの条件ではありません。 イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人は、救われたのです。洗礼を受けなかったよ!イエス様は、彼に福音を宣べ伝えたのでもない、いわゆる教えをイエス様の口から、何も聞いてないよ。けどもイエス様は、「OK。あなたは、今日私とともにパラダイスにいるようになる。」 彼は、どうし、天国にはいれるのかわからなかったし、イエス様も説明しなかったのです。知識の問題じゃない。 彼は、砕かれてる。死刑になったのはあたりまえ。犯罪人になっちゃった。天国に入る資格がもちろんないのは決まり。ひとつのチャンスがある。もし、この隣にいるイエス様が、私のことを忘れなければOKと、彼は確信したのです。 「イエス様。御国に入るとき、私のことを思い出してください。」それだけよ。 救われるチャンスがないでしょう。けど、もしあなたが憐れんでくださるのなら、イエス様は、そういう祈りを喜んで聞いてくださるのです。「いいよ。今日、一緒に天国。」言われた時、彼は、本当にうれしくなったに違いない。 体の痛みも、忘れたんじゃないかな。もうちょっとで天国です。私の罪、過ちは赦されたと、彼は確信したのです。 言いましたように、彼は洗礼受けなかったのです。イエス様は、 ヨハネの福音書3:36
このようにおっしゃいました。 ここで、洗礼を受けなければダメとは、書いていないのです。信じようとしなければ、聞こうとしなければ、頭を下げたくなければ、正直にしなければ、ダメということです。 十字架の福音を聞き、十字架と復活を信じ、救いを受け、主に背を向けていた罪の生活から、イエス様に従う永遠の命に踏み出す証しとして、洗礼を受けます。バプテスマは、神の子として、主に従いたいという切なる願いの現れです。 パウロは、短い文章を書いたのです。「バプテスマは、ひとつです。」このバプテスマとは、いわゆる水のバプテスマではない。このバプテスマとは、まことの救いに預かることであり、救い主の名を呼び求めることであり、へりくだることです。主は、へりくだる者に恵みを授けてくださいます。 救いとは、初めに読みましたように、人間の努力の結果として、人間に与えられるもの、人間の研究の報いとして、与えられるものではなく、へりくだる者に与えられるものです。そして、ただで与えられるものです。 水のバプテスマとは、救いと関係のないものであり、もう救われた人々の公の証しにすぎません。 確かにイエス様は、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としないさと言われました。その後で、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさいと言われました。 日本語の聖書では、バプテスマで、洗礼という言葉は出てきません。そしていわゆる指導者たちや、牧師さんたちは、このギリシャ語の意味が、みんなわかっているのです。 「バプト」という言葉とは、結局、水の中にはいって、見えなくなって、また見えるようになることを意味します。ですから、滴礼とは、聖書のいってるバプテスマとは全く関係がないと認めざるを得ません。バプトとは、水の中にもぐり、他のものの様相に影響することを言います。 聖書の中で、バプトを表すために、いつも「に」という言葉を使っています。キリスト・イエス「に」預かるバプテスマ。その死「に」預かるバプテスマ。 いつも「に」という言葉が使われています。新約聖書の中で、洗礼についてふたつの区別を知るべきです。 まず、救いの経験。2番目は、水の洗礼。それは全く違う。水の洗礼とは、救いを経験した現れにすぎません。 罪人がイエス様を受け入れれば、その時、救いの経験を持ったわけです。ですからこの洗礼は、救いの必要条件ではありません。ひとつの公の証しであります。 人生において最も大切なのは、もちろん、水のバプテスマを受けることではない。救い主を知ることです。まことの救いを経験することです。イエス様を、罪人の友として知ることです。 そのことで、はじめて、この地上において、本当に満たされた人生を送ることができます。満たされた人生を送るためには、永遠の命、主との平和。罪の赦し。 したがって、主が私たちを心配し、導き守ってくださるという確信が、生活の土台とならなければならない。そして、私たちが死んだ後、永遠に主イエス様と交わり栄光を共にすることになります。 このような、人間の永遠の運命というものは、新しく生まれ変わることによって、はじめて可能となるものであるから、そのことこそ、私たちの人生において、最も、大切なことにほかならない。 救いについて、新約聖書では、つぎの、3つの意味を示しています。 第一番目、キリスト・イエスに預かるバプテスマ。第二番目、聖霊に預かるバプテスマ。第三番目、キリスト・イエスの体に預かるバプテスマ。3つの表現がよく出てきます。 これこそが、本当の洗礼であります。ちょっと考えたいと思います。もう一度、先のローマ人への手紙を開きます。 ローマ人への手紙6:4
彼の死に預かるバプテスマ。 ガラテヤ人への手紙3章、ここでも、水のバプテスマではなくて、まことの救いを意味する言葉です。 ガラテヤ人への手紙3:26-27
コロサイ人への手紙2:11-12
罪人として、イエス様のみもとに来た人は、決して捨てられませんから、永久的に受け入れられたのです。すなわち救われています。 そして、このまことの救いによって、すなわち救いに預かることによって、キリストのさまに預かるのです。ですからキリストとともに葬られ、イエス様と共に、甦るわけです。ですから、よくいわれます。「洗礼だって、葬式じゃないか。」 葬式というものは、普通悲しい出来事です。でも信じる者の間では、この葬式は、喜ばしいお祝いです。 この前の日曜の朝も、御代田で6人、洗礼を受けたのです。普通より涙が流されました。喜びの涙です。このいわゆる葬式は、救いの確信を持つようになった人々、神の子たちのためにあります。 洗礼を受けるとき、私たちは、神様が私たちになしてくださった救いのみわざを、感謝せざるを得ません。洗礼を受ける兄弟姉妹は、私たちのすべての罪を除いてくださったイエス様を感謝しますといいます。洗礼を受ける兄弟姉妹は次のように言います。 「私の罪はとり除かれたばかりではなく、私自身をも取り除かれた。そして、キリストと共に十字架につけられた。」 洗礼は、終わりを、終局を意味するといってもいいかもしれない。 ガラテヤ人への手紙2:20
この一節は、信じる者にとって、聖書の中で最も大切な一節です。秘訣そのものであるからです。 葬式は、いつ行われるなのでしょうか?人間の生きているうちにあるのではない。死ぬために行われるのでもない。もう、すでに死んだ人々のためにあるのです。 葬式は、すでに死んだ人のために行うのですから、死ぬために行うのではありません。洗礼を受ける人々は、もうすでに死んだのですから、死ぬ必要はない。 イエス様が、十字架におかかりになった時に、イエス様はただひとりで十字架にかかったのではなく、我々の罪、我々の我が儘、われわれの古き人とともに、亡くなられたのです。 まことの洗礼の意味とは、ガラテヤ人への手紙6章にも書かれています。 ガラテヤ人への手紙6:14
けど、この救いとは、前に話したように、水のバプテスマとは、関係ないものです。水のバプテスマを受ける人とは、このまことの救いに預かるようになった人々です。 ひとつの儀式でも、どこかに入会するものでもなく、もうすでに救われたから、受け入れられたから、この与えられた信仰を証しするものでしかありません。 |