引用聖句:マタイの福音書28章19節-20節
マルコの福音書16:15-16
ローマ人への手紙6:3-5
この間から、いわゆる信ずる者の信仰生活の初歩について考えてきました。 もちろん、もうわかったわかったと思う人もいるし、頭の知識としてわかっていても、問題に出会えば、やっぱり悩むようになります。信ずる者でさえも、自分の罪があんまりひどいから、おそらくだめじゃないか、もう捨てられるのではないか、そう思う人もいる。 また、救われたと思ったけど、はたしてそうなのでしょうかと疑問を感ずる人もいます。ですから第一歩、ABCにもどるのは、本当に大切なのではないでしょうか。 前に話したように、大切なのは、はっきりとした確信を持つことです。 聖書を通して与えられる確信とは、いわゆる頭の知識ではない。イエス様に出逢った人は、受け入れられている。私の過ち、わがままは赦されていると、理解できない、感じられないと思いますけど、確信を持つことができます。どうして? イエス様は、自分の約束を守るお方であるからです。ようく研究して、わかるんじゃない。気持ちで動かされて赦されたのではない。信仰の土台となるのは、みことばだけです。 イエス様は、約束してくださったから安心です。あいかわらずピンときません。どういうことかわかりません。けどもイエス様は、一度受け入れられた者を決して捨てません。決して、決して・・・。条件付きではない。 初代教会の人達は、はっきりした確信を持っていました。いわゆるカトリック教会では、救いの確信はあり得ません。救いの確信を持ってるという人があれば、のろわれよ。教会の教えであります。 聖書から見ると、とんでもないウソです。聖書から見ると、当時の人は、みな動かすことのできない確信を持っていたのです。 「私たちの国籍は、天国です。」 「天国に、なるかもしれない。」なのではない。イエス様は、私の言葉を聞き私を遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きにあうことがない。死から命に移されていると語られました。 「移されるであろう」ではない。もう移されている。 ですから、人間がどう考えているかは、どうでも良い。教会の言ってることもどうでも良い。聖書はなんと言っているか。そうでないと、簡単に疑問を抱くようになり、疑うようになります。 確信を持つこととは、非常に大切です。その確信とは人間の中のものではない。理性で考えるものではなく、みことばです。 2番目、大切なのは祈ること。 結局、いろいろなことを聞くと、どうしたら良いのでしょうか?一番正しい答えは、「祈れば〜」 唯一のカウンセラーであるイエス様に尋ねたほうが、いいと思います。人間は、自分がカウンセリングしているという考えも、傲慢なのではないでしょうか?人間の傲慢の現れなのではないでしょうか。 わかるもんじゃない。子供のことで悩んでる人は、よく専門家の所へ行けば良いであろうと行きます。 いつだったか、ある母親がカウンセラーの所に行った。息子はもう全然ダメ。聞く耳もない。何を言ってもダメ。どうしましょうか?と尋ねた。 カウンセラーは、「何もしなくても結構。子供の思うようにさせて。あなたのすべきことは、おいしいごちそうを作ること、洗濯すること。」 うまくいけばありがたい。うまくいかなけば、そういうカウンセラーは責任を取ろうとはしません。めっちゃくちゃですよ。 親は、一致していれば良いのですけど、だいたい夫婦はそれでもってダメになります。かわいそうじゃないか。 心の病いを持ってれば、かわいそう。父親は、「けしからん。なまけてるじゃないか。」 それぞれで、夫婦の間もおかしくなる。結局聞く耳を持たないとは、心の病いじゃないよ。「わがまま」です。もっと大切にしてもらいたい。 ですから我々の答えとは、いつも、「祈ってください。直接、唯一のカウンセラーである、まことのイエス様のといころへ行ってください。それしかない。」 土・日曜日、いろいろな悩んでる人達に出会ったのです。悩んでるのは、未信者だけじゃないよ。信者も同じように悩んでる。 ある姉妹、現在別々に住んでるし、ご主人は日本人じゃない。子供は外国で教育受けてるし、けどご主人は、急にもう離婚したい。子供は好きらしい。でも、子供のこと好きなのに離婚したいと思う気持ちは、全く的はずれです。あり得ない。愛人を作ったらしい。彼女は本当に信じています。信じても、そういう問題が起こります。 別の姉妹は、もう2回目家出して実家へ帰った。なぜなら、ご主人は暴力をふるうから。 彼女に言わなかったのですが、ご主人から数日前に電話あったのです。「また殴ちゃった。どうしよう?」、どうしたら良いの。彼もイエス様を信じてますよ。どうしたら良いか。なにもできませんよ。祈るしかないよ。 酒を飲めば自分のやってることわからないのは、わかるよ。でもある人々は、お酒を飲んでなくても、わからなくなっちゃう。ちっぽけなことで怒っちゃう。暴力をふるう。後で、何をやったか、わからないらしい。結局、自分の気持ち、押さえられない。たいへんです。 後でもちろん後悔します。悔い改めます。けど、繰り返し繰り返し、同じことだったらどうしましょうか?結局、祈るしかない。 いくら人間に相談しても、何にもならによ。現実問題として役に立たない。 別の姉妹は、一年半前に家出しました・・・。結局、原因はご主人のこと、いくら考えても愛することができない。 彼女が、心から愛することができたと思った婚約者は、亡くなったのです。それから、仕方がないからご主人と結婚したのです。結局愛そうと思っても無理。それで、悩みました。言いたいのは、結局信ずる者も悩みます。祈るしかない。 別の奥さんは、未信者でしたが、まだ若い3人の子供を持つ奥さんでした。もう、去年離婚してしまったのです。ご主人は愛人を作って、どうしようもない。結局、どうしましょうか。祈らなければ何にもならない。祈ると、やっぱり見方が変わります。楽になります。 問題は解決されなくても、問題に対する見方が変わると、安心して将来に向かうことができる。祈ることこそが、信ずる者の呼吸のようなものです。 それから、3番目。まなび。みことばに頼ること。みことばに頼らなければ、すぐに精神的に疲れます。みことばを勉強することではなく、幼子のように、自分のものにすることです。自分のものにすると、元気になります。 ダビデは、あなたに罪を犯さないため、私はあなたの罪をたくわえましたと語りました。みことばとは、本当に守る力、解放する力を持つものです。 イエス様は、どうしてみことばを宣べ伝えたかといいますと、いわゆるいろんなことを教えるためではない。私の喜びが、あなたがたの心にあるため。喜びに満たされるものになるためです。 そしてこの間、バプテスマについて話しあいました。もちろん確信を持つこと、祈ること、みことばに頼ることとは、どうしても必要です。 水のバプテスマを受けることとは、どうしても必要とは、言えません。 チャンスがあれば、もちろん受ければ良い。他人に勧められたからではなくて、本人の願いでなければならない。そしてこの間も話したように、聖書の中で、ふたつのバプテスマについて語っています。 今、3カ所読んでもらいました。バプテスマという言葉は、何回も出てきたのです。でも同じではない。 ローマ人への手紙に出てくるバプテスマとは、水のバプテスマとは関係のないバプテスマです。 そして、マタイの福音書、マルコの福音書のバプテスマとは、確かに水のバプテスマを意味する言葉です。 90%以上のバプテスマという言葉は、救いの経験を表す言葉です。残りの10%は、水の洗礼を意味するものです。 罪人が、イエス様を救い主として受け入れれば、その時救いの経験を持つのです。そして洗礼は、救いの経験に必要条件ではない。 カトリック教会ははっきり、洗礼を受けることによって救われますといいます。とんでもない間違いです。洗礼を受けたから、日曜にミサに出て、献金していいでしょう。でも、聖書は、そういう考え方をしていません。 救いの経験について、新約聖書には、3つの意味があります。第一番目、この間もちょっと見たところですけど、「イエス様に預かるバプテスマ」 ローマ人への手紙の中、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙。全部、キリスト・イエスに預かる洗礼を意味し、水のバプテスマではありません。 罪人として、イエス様の御もとに行った人は決して捨てられませんから、永久的に受け入れられています。救われている。また、このまことの洗礼に預かることによって、救いに預かることによって、イエス様のさまになるのです。イエス様と共に葬られ、イエス様と共に甦るわけです。 洗礼は、ある意味で、ひとつの終わりを意味します。 パウロは、「私は、キリストと共に十字架につけられた。」と言ったのです。「生きているのは、私ではなく、キリストが、私のうちに生きている。」 このパウロの告白こそが、あらゆるキリスト者にとって、最も大切な言葉じゃないかな。勝利の秘訣、そのものであるからです。 ローマ人への手紙6:4
まことの洗礼、救いに預かる意味について、パウロは次のように言ったのです。 この十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死にました。この世とは、もう魅力的ではないのです。早く天国へ行きたい。 この日曜日に、ある兄弟と義理のお母さんの記念会があったのです。 彼女は、前に体悪くてどうしましょうと心配したのですけど、やっぱりこの記念会だけやりたい。いろいろな人が見えましたし、結局彼らにイエス様のこと紹介したかった。それ終わったからもう十分です。 天国行きたい。それも本当に素晴らしい証し。もう十分です。 行き先が決まっているから、毎日毎日安心して過ごすことができます。まことのバプテスマは、救いに預かることです。 2番目は、聖霊に預かる洗礼です。聖書の中で、よく聖霊によるバプテスマという言葉が出てきます。 マタイの福音書3:11
多くの人々とは、バプテスマのヨハネの、悔い改めの水のバプテスマを受けたのです。 けども、それだけでは十分じゃないよ。今度来るお方は、聖霊のバプテスマをもお授けになります。 マルコの福音書1:8
こうバプテスマのヨハネは言いました。私のやってることはたいしたもんじゃない。私の絶対にできないことは、今度来て下さる、本当の救い主イエス様がしてくださる。聖霊のバプテスマをお授けになります。 ルカの福音書3:16
ヨハネの福音書1:33
イエス様も、この働きのことを非常に大切にしましたし、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなた方は聖霊のバプテスマを受けるとおっしゃいました。 弟子達は、いつこの聖霊のバプテスマを受けたかといいますと、五旬節の日です。 使徒の働き11:16
これらの箇所は、信ずる者の、新生における救いの経験について述べている箇所です。 イエス様を受けれた兄弟姉妹は、みな聖霊の宮であると書き記されています。御霊は、信ずる者の中に住んでおられます。聖霊は、悔い改めて信ずる者に与えられます。この経験について、次のように言われました。 ヨハネの福音書7:37-39
イエス様の弟子達は、確かに多くのこと聞き経験しましたし、また、イエス様こそが遣わされた救い主だと信じたのです。信じたけど、彼らは、まだ救われていなかったのです。 彼らが、いつ救われたかというと五旬節の時といえます。彼らは、その時初めて聖霊の宮になったのです。もちろん彼らは、その前に聖霊の働きを感じましたし、でも五旬節の時からはじめて聖霊の宮になったのです。救いとは、聖霊の宮になること。ですからパウロは、 ローマ人への手紙8:9
「キリストの御霊を持たない人はキリストのものではありません。」と言いました。意味は、救われていません。 聖霊に預かる洗礼は、本当の救いであり、パウロもこの解放を経験しました。今までパウロは、自分、自分、自分。自分のことしか考えられなかったのです。でも聖霊の宮になった時、小さな子供のように、私は何をしたら良いのでしょうか?わからないから、従いたいけどと祈ったのです。 この態度は、人間の作るものじゃない。聖霊に預かる洗礼は、聖霊の支配のもとに置かれることです。主は結局、人間はどうしようもないものですからダメだ、とおっしゃいました。だから、人間の死を望まれました。だから、イエス様とともに、十字架につけられたのです。 聖霊の支配とは、自分のわがままな生活は、十字架で終わりを告げたということを意味します。イエス様でさえも、同じ道を歩まれました。イエス様は、何があっても、いつも聖霊の支配の中におらえたお方です。 イエス様は、父なる神の考えなしに自分で考え、もの事を決定することを意識して退けました。イエス様は、弟子達やほかの人々や、悪魔の影響を受けることを意識して拒んだのです。イエス様の言われたことは、聖霊によって与えられたことだけでした。イエス様のなされたことは、聖霊に導かれてされたことでした。イエス様のなされたことは、「イエス様、お父さま、あなたの考えは、如何でしょうか?お父さま、あなたは、何を欲しておられるのでしょうか。お父さま、今は、あなたの時なのでしょうか。」、こう尋ねる解答でした。 イエス様は、いつも、私の思いではなく、御心だけがなるように、と望んだのです。私の判断ではなく、あなたの判断であるように。私の考えではなく、あなたの考えであるように。イエス様は、ご自身の思い、ご自身の考えについて死んでおられた。 まことの救いの経験とは、いったい何なのでしょうか。 まず、イエス様に預かる洗礼。二番目、聖霊に預かる洗礼。すなわち聖霊の支配のもとに。第三番目は、イエス様の体に預かる洗礼。 コリント人への手紙第I、12:12-14、18、26-27
このコリント人への手紙第I、12章13節は、非常に大切なみことばです。私たちは、ひとつの御霊によって、バプテスマを受け、そしてすべての者がひとつの御霊を飲む者にされた。このバプテスマとは、いうまでもなく水のバプテスマを意味している言葉ではありません。 イエス様を救い主として受け入れた兄弟姉妹は、ぴんと来ない、考えられない、何も感じられないけれども、神の子供。すなわち、神の家族の一員となります。救われた者、みながひとつの家族であり、兄弟姉妹です。 キリストの体に預かる洗礼は、従って頭なるキリストに関係することを意味します。すなわち、救い主イエス様を受け入れた時、私たちは、神の子供となったわけですが、その時、聖霊によって、キリストの体に属する洗礼も受けるようになったと、この箇所を通してわかります。 救われた特徴とは、他の兄弟姉妹との交わりを持ちたい、みんなに会いたいということです。イエス様に属する人々は、お互いに愛し合うことができ、信頼しあうことができるのです。 全く違う祝福です。高く引き上げられたイエス様は、私たちの頭であり、支配者であり、いつも、私たちのために心配してくださる良き牧者です。 初代教会の人々が救われたとき、聖書は、「彼らは救われた」とは言っていない。あるいは「彼らは、イエスの救いに預かるようになった。」とも、言っていない。 聖書は、なんと言っているかというと、「彼らは、信者の群に加えられた。」と言っています。彼らは、ほかの肢体とひとつになった。すなわち、彼らは、主イエス様との結びつきを持つようになっただけでなく、彼らは、ほかの兄弟とひとつになったということです。 本当の救いの経験とは、イエス様の体なる教会に預かる洗礼であると聖書は言っているのです 私たちが、この事実を認める認めないにかかわらず、これは過去においてすでに事実なのです。イエス様を信じた時、その瞬間、あなたは、イエス様の肢体となったのです。 イエス様をもっと知りたい、霊的に成長したいと願うならば、この事実を認めることは、どうしても大切です。 今まで、まことの救いの経験について考えてきました。すなわち、キリスト・イエスに預かる洗礼、聖霊に預かる洗礼、それから、キリストの体に預かる洗礼。これらについて考えました。 救いに預かるようになったものは、このまことの救いを自分のものにすることができるようになったのです。彼らは、素直に、イエス様を信じ、イエス様の提供された罪の赦しを受けたのです。 そして、イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思いから、孤独から、傲慢から、利己主義から解放されたのです。そして、本当の喜び、満足感も与えられました。ダビデは、「私の杯は溢れています。もう満たされています。」と語りました。 福音書、手紙全体もイエス様を体験的に知るのは永遠の命を持つことである。イエス様との生き生きとした交わりの中にこそ、本当の喜び、耐えざる喜びの源があります。 イエス様こそ、命、喜び、平安の泉、そのものであられます。イエス様によって悲しみは、喜びに変わります。イエス様によって、日毎の重荷が喜びに変わります。 イエス様によって、疲れ果てた者が新しい力を得ます。ですから、イエス様を知ることとは、本当の喜びを持つことを意味します。この喜びがなければ、人生は、退屈で面白くない、この喜びがなければ、やっぱり人生とは何なのか、全くわからない。 イエス様との交わりによって、人間は、はじめて満たされるようになり、幸せになります。 けども聖書は、このまことの救い、まことのバプテスマについて言ってるだけではなくて、いわゆる水のバプテスマについても、いろいろなことを言っています、 まことの洗礼を受けた人々は、すなわちキリスト・イエスに預かる洗礼、聖霊に預かる洗礼、キリストの体に預かる洗礼を受けた人々は、もちろん救われています。 水のバプテスマを受けようが受けまいが、イエス様の前にだいじょうぶです。水の洗礼は、救いの必要条件ではない。水のバプテスマは、本当の洗礼のしるしのようなものです。 もうすでに本当の洗礼を受けたのだから、すなわちイエス様の恵みによって、救われたから、この救われたことを公に証しするために、水のバプテスマを受けるのです。 マルコの福音書16:15-16
バプテスマを受けない者は、罪に定められるとは書いていないのです。信じてバプテスマを受ける、イエス様がいつも強調されたのは、悔い改めです。 当時のバプテスマとは、結局悔い改めのしるしです。「主が、憐れんでくださらなければ、もうおしまい。」と、わかった人々だけが、水のバプテスマを受けたのです。 十字架の救いのわざをなし終えて、死から甦られたイエス様は、こういうふうに弟子たちに言われたのです。ですから、水のバプテスマとは、昇天されたイエス様のひとつの命令です。 弟子達は、いつこの事実を経験したのかというと、もちろん五旬節の日です。五旬節の日、主の大いなる力によってなされたペテロの証しによって、心を刺された人達は、「わたしたちは、どうしたら良いのでしょうか?」と尋ねました。 ペテロは、「悔い改めなさい。そして、バプテスマを受けなさい。」と告げました。福音を聞き、悔い改め、信じ、バプテスマを受ける。この順序は、使徒時代から、今まで、変わらずに続いています。 この間も、使徒の働き8章を読みました。 エチオピアから、エルサレムへ、ひとりの宦官が、まことの神を拝むために来ました。彼は、エルサレムに行っても、もちろんがっかりしてしまったのです。宗教家たちに出会っただけなのです。 でも帰り道に、馬車の中で、イザヤ書53章を読んで、そして、ピリポに導かれて、悔い改めて信じる恵みに預かるようになったのです。 使徒の働き8:36-39
使徒時代は、バプテスマは水の中で行われました。現在、多くの教会は水滴を頭にかける、いわゆる滴礼と呼ばれる方法で行われています。 これは、残念ですけど聖書的ではありません。いわゆる幼児洗礼も、聖書的ではありません。結局彼らは何と言っているかというと、「単なる象徴だから、いいんじゃないの。」 イエス様は、そう思わなかったのです。初代教会の人々も、そう思わなかったのです。滴礼はバプテスマの意味を示しません。みことばに従って、正しい方法で、バプテスマを受けるべきなのではないでしょうか。もちろん方法が正しくても、イエス様を信じ受け入れていない人にそれを授けることは、全く無意味です。 水のバプテスマは、救いの条件ではない。もうすでに救われたから、主の恵みを経験したから、証しとして水のバプテスマを受けるべきであると、使徒たちはみな確信したのです。 信じて、バプテスマを受ける者は、結局その信仰を隠さないで公にする者は救われます。重病人はもちろん洗礼受けられないし、けどそれ関係ない、救われます。 御子を信じる者は、永遠の命を持つ、御子に聞き従わない者は永遠の命を持たない。 信じる者には、必ず従いたい気持ちが起こります。もちろん、姉妹たちが受けたいと思っても、主人が絶対いやと言えば、待つべきです。自分の水のバプテスマより大切なのは、家族の救いです。 水の洗礼の意味は、前に受けた本当の洗礼の告白です。そして第2に、世からの分離です。もうこの目に見える世界はどうでも良いよ。わたしは、永遠の世界のために、主イエス様のために生きたい。 第3に、信じる者の中での証しです。そして、救いの確信、清め、証しの喜びを促進させます。 よく、洗礼受けたいって言う人もいます。理由を聞くと、昔受けたんですけど、その時全く知らなかった。今、救われましたから受けたい。で、昔、どういう洗礼だったか聞くと、川で浸礼だったのです。2回受けることは必要ない。 滴礼だったら、聖書は実はこう言ってるから強制はしません。自分で考えなさい。 今まで、前に話したこともあったのですけど、洗礼を断ったこと、3回あったのです。初めては、今では愛する兄弟となっていますが、ある兄弟でした。 もちろん、まだ学生だったのです。「洗礼受けたい。」、「確信があるの?」、「いえ。」 あとで理由を聞いたら、大学の先生もクリスチャンだし、そんなに間違った道でないようだし受けたい。そんなに曖昧だったから、断ったのです。確信がなければ、受けてもなんにもならないよ。 2番目は、ある兄弟がまだダメだった時、息子が先にイエス様信じたのです。素直に信じたのです。もう、いつもうれしかったのです。ある日お見舞いに行った時、もう召される寸前だったのです。みんなその、酸素のテントの中で、兄弟たちとお見舞いに行きました。 「もう召される。洗礼しなきゃ。」って、ある兄弟は言ったのです。洗礼なんてもう笑い話しだよ。子供は天国に行く。洗礼はもうどうでも良いよ。 もうひとりは、2年前でしたかね。ある姉妹でした。39歳で、癌で天に召されたのです。証しの本で救われ、どうしても、洗礼を受けたいと望んでいたのです。救世軍のホスピスだったのです。 行ったとき、よくわからない。向こうで、チャプレンいるから、変な目で見られた。でも召されそうな姉妹が、洗礼を受けたいと言うから彼らも困っちゃったのです。 救世軍は、洗礼式をやらないのです。どうしましょうか。やっぱりね、患者さんの気持ちを考えると... 姉妹もベッドで喜ばれた。彼女は悩んでるご主人のために洗礼受けたかった。婦長さんやら、いろいろな人病室に集まって、洗礼は救われるためのものじゃない。救われたから、受けてもいいけど、姉妹は今は無理です。福音を伝えて、冒険だったんですけど、ご主人に、祈ったらいいんじゃないと、促したのです。 そうしたら、ご主人は奥さんのベッドの前にひれふして「イエス様、憐れんでください。わたしのわがまま赦してください。」と祈ったのです。彼が、「アーメン。」と言うと、周りの未信者も、みんな拍手したのです。 その時、彼も聖霊のバプテスマを受けたのです。奥さんのバプテスマは、どうでも良かった。もう姉妹は次の日召されました。 ご主人は無宗教で葬儀をしました。周りの人がどう思っても良いよと言ったのです。すばらしい証しの葬儀でした。 |