真の幸せの根拠


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/07/12)

引用聖句:詩篇133篇1節-3節
1見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
2それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
3それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

私たちの主イエス様はいうまでもなく偉大なる教師だけではなく、真理そのものです。イエス様の話されたひとつひとつのことばは、ひとつの教えよりも、ご自身の啓示そのものでした。
この主イエス様を紹介することとは、やっぱりすばらしい特権ではないでしょうか。
ですからどこで集まっても喜びの集いです。イエス様が紹介されるからです。そうするとやっぱり希望があります。

福音書の中でイエス様はある非常に困った父親に言いました。「この子をわたしのところに連れて来なさい。」
その子は生まれたとき必ず、親の喜びの種だったに違いない。けれどこの子どもは結局悩みの種になってしまいました。けれどイエス様のところで彼は解放され、自由になり、本人だけではなく親も考えられないほど喜ぶようになりました。
ですから祝福式があったの四人の親もわかったでしょう。すなわちわが子を主イエス様のところに連れて行くと必ず祝福される。そして祝福されればもちろん子どもも親も必要なものを高めると。前に何回も言いましたように、大切なのは喜ぶことができることです。

今朝も、まだ会ったことのない人から電話がありまして、大変な試練の中にいるのですが、電話で彼女も言ったのですけれど、「イエス様は大好き。みことばを食べています。」、それで十分ではないでしょうか。彼女は何と言ったかと言いますと、「鬱になったけど幸せ。」
本物のイエス様によって捕えられたからではないでしょうか。彼女にとって一番好きなみことばとは、イザヤ書の43章の4節だそうです。「わたしの目には、あなたは尊い。高価である。わたしはあなたを愛している。」
永遠に変わらないお方によって愛されていることこそが、もう最高ではないでしょうか。主が働くと、祝福してくださると人間は本当の意味で喜ぶことができるのではないでしょうか。

主の祝福がなければ人生は確かに無意味で無価値なものになります。まことの満足を与えられるお方とは私たちの主イエス様だけです。
今読みました個所の3節の後半に、「とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。普通聖書の中で、「とこしえのいのち」とあんまり使われていない。いつも、「永遠のいのち」。
もちろん同じことでしょう。けれども永遠のいのちとはもちろん物ではない。イエス様ご自身です。わたしはいのちです。唯一の、永遠に変わらない方ですとイエス様は言われました。

確かにこのイエス様はわれわれの罪滅ぼしのために犠牲になって死にました。昇天なさったイエス様は言えたのです。「わたしは死んだが、見よ。いつまでも生きている。」
主イエス様をもつ者は永遠のいのちをもっており、主イエス様をもたない者は永遠のいのちをもっていないと聖書ははっきり言っているのです。
この主イエス様、このいのちそのものであるイエス様は、昨日も今日もいつまでも変わりません。ですから永遠のいのちそのものであられるイエス様の祝福を得ることこそがもっとも大切です。

私たちが必要とするただ一つは、主の永遠のいのちそのものであるイエス様の祝福ではないでしょうか。なぜならば私たちは主の祝福を受けるとき初めて、悩みながら喜ぶことができる。喜びをもって、平安をもって、生き生きとした希望をもって毎日過ごすことができるからです。
たしかに人間はみな例外なくひとつの共通点でしょう。みな、幸せになりたい。けれども大部分の人間はあきらめています。なりたいけれど無理でしょう。

確かに、問題をもっていない人は存在しない。信仰があっても人間は悩む者です。問題は悩みながら、問題をもちながら喜ぶことができるかできないかということです。
真の幸せの根拠とはいったい何なのでしょうか。主によって愛されているという確信を持つこと。主の祝福を得ることです。主の祝福を得る道とは何でしょうか。答えは三つです。

第一番目、本当の意味で主を知ることです。私たちは何と何と何を信じるかはそんなに問題ではない。だれを信じるか。だれに頼るかということです。
第二番目、本当の一致を持つことです。
もう一つ、心から主の栄光だけを求めることです。

主の祝福を得るために私たちはもちろんまず、主を知ることです。本物のイエス様を知ることです。
本物がいると偽物もある。キリスト教という宗教と関係しているキリストとは偽物。十字架の上で犠牲になったイエス様は無宗教です。宗教とはまったく関係のないお方です。
ダビデは詩篇の中で、115篇ですけれども、まことの神について色々なことを書いたのです、3,000年前なのですけれども。よく知られている個所です。おもに1節はよく引用される大切な個所です。

詩篇115:1-4
1私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
2なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
3私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
4彼らの偶像は銀や金で、人

人間

詩篇115:4-8
4の手のわざである。
5口があっても語れず、目があっても見えない。
6耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
7手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
8これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

まことの唯一の神についてダビデははっきり言ったのです。すなわちまことの神とは、天と地を造られたお方であると15節に書いてあります。
そして今読みました3節に、

詩篇115:3
3私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

と書いてあります。ひとことばで言いますと、まことの唯一の神は生きておられるお方です。祈りを聞いてくださるお方です。恵んでくださるお方です。必要な助けを、必要な導きを与えてくださるお方です。
したがって、ほかのいわゆる神々は生きていないものであり、人間の思想であり、人間の単なる産物に過ぎません。

人間によって造られた神々は、聖書の中でいつも偶像と呼ばれています。ダビデはこの詩篇の115篇の中で、このまことの神と偽物である偶像を比較しています。
まことの神に出会った人々は、結局主を知り、心の拠り所を持つ者であり、また彼らは喜んで、「主は私たちのものです。神は私たちの神です。」と言うことができる。
ダビデはイスラエルの人々も、3節に書いてありますように、「私たちの神」と証しすることができたのです。

まことの神に出会っていない方々はもちろん主を知らず、したがって決して「主なる神は私のものである。」と言えないのです。ですからダビデは4節に、彼らの偶像と言ったのです。
ダビデ王はまことの神と偶像とを比較されました。われわれの神は天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
まことの神は天に住まわれ、この主なる神にとって不可能なことは何一つない。私たちの主にとって不可能なことはないと考えると希望が湧いてきます。

偶像とは結局人間の作った物です。よく作られているかもしれない。芸術的に。けれども偶像はあるときは男に似せて作られ、あるときは女の形に似たものとして作られ、またあるときは動物にかたどって作られているのです。本気になってこれは神だと思う人はいないはずです。
いずれも偶像の共通点があります。それは偶像すべてが語れない。答えられない。これに対してわれわれの主は、真心から求められるところに必ず答えてくださいます。その意味で偶像はおしであり、めくらであり、つんぼです。

モーセは4,500年前にまことの神について次のように書いたのです。申命記の4章の27、28節。

申命記4:27-28
27主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。
28あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。

死んだ者に仕えてもこれは無意味なだけではなく危険です。
パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。結局生きるまことの神ではなく、例えば死んだ人にささげられているものは悪霊にささげられたものです。そうするとやっぱり悪魔の影響、悪霊の影響を受けるのは決まっています。

われわれの主は決しておしではない。みことばである聖書を通して、色々な悩み、苦しみ、病気を通して語りかけてくださいます。
またわれわれの主はめくらでもありません。まことの主はどのように隠れているものでも、どんな小さなものでもすべてを見通すことがおできになります。
また生きるわれわれの主は耳が聞こえなくもありません。必死になって救いを求める者、また心の貧しい者の叫びを必ず聞いてくださいます。

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える。」、エレミヤもひと文章で主とはどういうお方であるかについて書いたのです。エレミヤ書10章の10節。ひと文章だけです。

エレミヤ書10:10
10しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。

主、結局すべてを支配し給う、すべてにまさって偉大なるお方とはまことの神であり、生ける神であり、またとこしえの王であるとあります。
ですから、偶像に拠り頼む者は本当に愚かです。生けるまことの主なる神に信頼する者は、必ず助けを経験します。

主は助ける力、また守る力を持っておられるお方です。前に、ある家族は非常に悩むようになったのです。息子が急に亡くなったのです。
それがきっかけになって母親はイエス様を信じ、イエス様に頼るようになったのです。それはだれも言ったことがないし、彼らはすぐ、もう今まで礼拝した物、大切にした物、仏壇など、全部燃やしてしまったのです。だれもそのことを言ったことがない。
結局、今まで必死になって拝んだけれど役に立たなかった。役に立たない物は場所を取るだけですから捨てるべきだと思って。

まともな考えではないでしょうか。確かに多くの人は、「いやー、そんなことをすると大変なことになるではないか。」
とんでもない。われわれの主は生きておられるお方です。妥協せず主に頼ると絶対に失望しません。
ダビデという王様は喜びをもって、確信をもって言えました。私たちの神はおしでもなく、めくらでもなく、つんぼでもない。われわれの主は生きておられ、この主とは私たちの助け手であり、また盾です。すなわちわれわれの主は助ける力、守る力を持っておられるのです。

このまことの生きる神はわれわれのわがまま、過ち、罪を赦してくださり、私たちのようなつまらない者を受け入れてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださるお方です。すなわち主は祝福してくださるのです。
主の祝福を得る資格のある人間はもちろんいない。どうして祝福してくださるかわかりません。主の愛とは結局永遠なる愛であるからです。
主を知るために頭を下げて、自分自身を低くして、正直に、「私はまことの主から離れている者です。過ちを犯す者です。満たされていない者です。心の拠り所を持たない者です。どうかあわれんでください。」と叫ぶと主は必ず祝福してくださり、恵んでくださるのです。

イエス様はこのように、「わたしのところに来る者をわたしは決して捨てません。」と約束してくださったからすぐに、あなたは赦してくださったことを感謝しますと信じ、また感謝することができます。
主の祝福を得る道とはどういうものなのでしょうか。今話したように、初めての答えはもちろん主を知ることです。
主についての知識を得ることではない。主は私の心の真ん中を開いてくださった。私のわがままを赦してくださった。主は私の羊飼いです。と言える人こそが祝福されます。

第二番目の答えは、本当の意味での一致をもつことです。始めに兄弟のお読みになりました詩篇の133篇の1節に書かれています。

詩篇133:1
1見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

聖書の中で一致されることの必要性について、大切さについて多くのことを言っています。まことの一致について、おもに3つの事がらが述べられています。

第一番目、同じ愛の心を持つことです。
二番目、心を合わせることです。
もう一つ、志を一つにすることです。

ピリピ人への手紙の中でパウロは次のように書いたのです。このピリピ人への手紙とは喜びの文と呼ばれているものです。
人間はいつ本当の意味で喜ぶことができるかと言いますと、もちろん主が祝福してくださるとき。主はいつ祝福してくださるかと言いますと、われわれが一つになるときです。

ピリピ人への手紙2:2
2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

もしあなたがたがそうしなければわたしは喜べなくなる。わたしは悩むようになる。悲しくなる。
パウロはこの刑務所から出られなくなったかもしれない。間違いなくパウロは刑務所の中で悩んだり苦しんだり、心配したのですけれど、はっきり言えることは、彼は自分のためによりも、彼を通して導かれ、救われた人々の成長のために心配したのです。
パウロは自分のことを忘れ、信者たちの成長のために戦った。祈り続けたのです。「私の喜びが満たされるように。お願い、お願い。あなたがは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」

同じ愛の心を持ちなさい。すなわちイエス様を通して明らかになった主なる神の愛を体験的に知ることです。
それから、この愛を伝える器になってもらいたい。エペソ人への手紙の中で、結局同じ内容のことばが書いてあります。

エペソ人への手紙4:2-3
2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

まことの一致とはもちろん人間の作るものではない。だからここで、御霊の一致とあります。
御霊が働くと、イエス様が中心になると人間は本当の意味で一つになります。信ずる者ひとりひとりを通してほかの信者に祝福をもたらすように召されていると、パウロは何回も強調して書いたのです。
すなわちわれわれを通してほかの主を信ずる者たちがイエス様とさらに深い交わりを持つようになり、初代兄弟姉妹と同じように、やっぱり主の栄光を見いだすことができるように。主なる神が関心をもっておられる唯一のことは結局、イエス様を信ずる信者に関することです。

主が人間ひとりひとりをどのように大切なものであると思っておられるか。またそのひとりひとりを贖うために、どのような大きな犠牲を払ってくださったかということを考えてみると、私たちもひとりひとりを大切にすべきではないでしょうか。
これはもちろん自分の努力の結果ではない。主の愛の現われに過ぎない。

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と。確かに私たちはどなたが本当の意味で救われているか、救われていないかわからない。聖書の言っていることとは、聖霊の住まいになった者は救われている。そうでない者はまだ救われていない。
主の霊をもつ者は救われています、パウロはここで、私たちに与えられた聖霊という表現を使うことができたのです。

聖霊の宮になった者は知らないうちに神の愛をもつようになった。神の愛だったらできる。自分のちっぽけな愛によっては何もできません。
主は兄弟姉妹に対して最大の関心を払っておられます。だから私たちの最大の関心事も、区別なしに兄弟姉妹を心からうけいれるということでなければならいのではないでしょうか。

パウロは今話したように、刑務所の中で信者たちを思い、まず同じ愛の心を持ちなさいと書いただけではなく、第二番目、心を合わせてもらいたいと書いたのです。
同じ目的を目指して走りましょう。目的とはイエス様の再臨を待ち望むことです。イエス様の再臨について考えると、「あー、そうしたら困ってしまう。」、やっぱり家族の人々も導かれ、救われなくてはならないのではないでしょうか。
結局祈らざるを得なくなる。幸いに祈りの材料はみことばです。主の約束です。

主は、あなたもあなたの家族も救われると約束したから、だから前をもって感謝すべきではないでしょうか。
ちょっと難しいという気持ちとは不信仰の表われです。ですからおそらく多くの場合は、どうして、なかなか家族の人が救われていないかと言いますと、これは未信者の頑固さのためよりも、信ずる者の不信仰のためではないでしょうか。
あなたの信じたとおりになると、何回も何回も書いてあります。確かに目に見える現実だけを見るとなかなか無理なのです。現実は現実だから。けれどもいわゆる現実よりも主はすべてにまさって偉大であり、何でもできるお方です。

一つになることから、大切であるからダビデは、「見よ。兄弟たちが一つになって、共に住むことはなんというしあわせ、なんという楽しさである。」と書いたのです。
イエス様のからだなる教会は分裂したものであってはならない。体のそれぞれの器官はお互いに配慮し合うべきです。
御霊の一致と愛の一致があるところにのみ、ともなる賛美と主の御名が崇められることが成就されます。

ダビデは確かに主を大切にする者でした。彼はみこころにかなう人と呼ばれたのです。どうしてでしょうか。主を心からほめたためたからです。主を心の奥底から礼拝したからです。
けれども彼はあるときわかったでしょう。大切なのは私と主との関係だけではない。やっぱり周りにいる兄弟姉妹も大切です。ですから彼は詩篇の34篇の3節に、

詩篇34:3
3私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

結局彼はいっしょに主をほめたたえたかったのです。心と声を合わせてください。これはパウロの願いであり、主の命令であり、祝福される源そのものです。
いっしょになって何かいっしょにすること。奉仕したりともに働いたりすることはもちろん誰にでもできます。けれど心の一致がなければ疲れます。結局、本物ではないからです。一致のあるところのみ、主は働きます。

五旬節の前にイエス様を信じる人々はみんな一つになったのです。今からどういうことになるのでしょうか。イエス様は、今何にもしなくてもいい。静かにしなさい。御霊が来ますと。
早く出かけて福音を宣べ伝えなさいなどと言うのではない。もしそうすれば、すぐぺちゃんこになってあきらめたに違いない。彼らはまず何もしなくてもよかった。静かにしなさい。
使徒の働きの1章14節を見ると次のように書かれています。1章の14節。120人だったのですけれど、この120人の中で、もちろん婦人たちだけではなく、イエス様の母親だけではなく、イエス様の肉体の兄弟たちもいた。

使徒の働き1:14
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

とあります。一番考えられないこととは、イエスの兄弟たちもその中にいたのです。イエス様は生きている間に家族の救いを経験することができなかった。イエス様にとって、辛かったと思う。
マリヤは初めからもちろんイエス様のことを、天から遣わされた御使いによってわかりましたし、すなわち自分が生む子は約束された救い主ですと彼女は一秒も疑ったことがない。
ですから彼女とイエス様とは色々な点で本当に一つでした。けれども、弟、妹さんたちは大変でした。

あの二人はねたみもあったかもしれないし、憎しみに変わったのです。結局彼らは当時の聖書学者と同じ気持ちになったのではないでしょうか。本物ではない。
けれども彼らは導かれたのです。天国へ行ってから全部わかるようになると驚きだと思います。おそらくすぐ下の弟は先に救われたかもしれない。ヤコブという男は。
なぜならば、コリント人への手紙第Iの15章のよみがえりの書の中で、主イエスはヤコブに現われたと書いてあるのです。

それでやっぱり彼はいっぺんにわかった。「私は何という愚かな者なのだ。」
結局十字架の上で犠牲になり、死に葬られたイエス様とはこのヤコブに現われたのです。彼はいかに謝ったのかちょっとわからないけれども、イエス様は嬉しかったでしょう。

そこで彼の弟、ほかの弟さんたちも、何人いたのかわからないけれども、少なくとも4人だったのです。4人の名前書いているから。それから、姉妹たち、複数になっているから、2人だったか、5人だったかもちろんわからない。けれどどうでもいい。
けれども彼女は立派な女性でした。なぜならば、自分はどうでもいい。主に用いられれば嬉しい。殺されても結構。こういう気持ちを持っていたから、結局選ばれるようになったのです。
けれどもマリヤは崇拝すべき者ではない。彼女はやっぱり何もできない。単なる器に過ぎなかった。主が恵んでくださったとしか言えなかったのです。

みな結局導かれ、救われたのです。そしてみな五旬節を経験しただけではなく、みなも心から、「イエス様こそ生きておられる罪を赦すお方です、重荷から解放するお方です。」と宣べ伝えるようになったのです。
彼らは本当に心を一つにしたから、結局考えられない祝福を得るようになったのです。
もうひとつ。第一番目に、同じ愛の心を持つこと。二番目、心を合わせること。第三番目、志を一つにする大切さもパウロは強調したのです。

志を一つにすることは何を意味しているのでしょうか。結局イエス様のように人を見ることです。イエス様のようにこの目に見える世界を見ることです。イエス様の持っておられる要求をもつことです。
パウロは確かに信じる者の成長のために祈りました。心配しました。なぜならば、いつの時代でもふた種類の信者がいます。信じる者はもちろん永遠のいのちを持っているから行き先は決まり。天国です。けれど死んでから報いられるかどうかは別。
パウロの時代でもやっぱりふた種類の信者がいました。ピリピ人への手紙の2章を見ると次のように書かれています。いうまでもなくこの個所は、一度主の恵みによって救われた人々に書かれたところです。

ピリピ人への手紙2:20
20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。

パウロはテモテのことを考えたとき、やっぱり嬉しくなった。もう100%信頼できる。彼は自分のことを考えようとしない。イエス様は盛んになり、私はどうでもいい。
これこそがテモテの気持ちでした。けれどもほかの信じる者の気持ちとは違うものでした。21節。

ピリピ人への手紙2:21
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

パウロの悩みの種とはそれでした。彼らは疑いもなく、イエス様を救い主として受け入れましたし、けれども主の支配を求めようとしなかった。
「主よ。語ってください。従いたい。あなたを喜ばせたい。」そういう気持ちが残念ですけれど無かったようです。
覚えるべきことは、自分自身を無にして主の栄光を追い求めるということによってのみ、志を一つにすることができるということです。

イエス様はペテロに、あなたはちょっと変わってもらいたい。ヨハネを見てヨハネのようになってもらいたいと言われたことがない。
みな違ってもいい。色々な問題についての思いは違っても構わない。けれどもやっぱり主の再臨を待つことが第一にならなければ問題です。
なぜならばイエス様の再臨を待ち望まなければ、家族の救いのためにそんなに真剣に祈らないからです。これも問題ではないでしょうか。

確かに、いわゆる信仰の弱い人もいるかもしれないし、強い人もいるかもしれないし、能力がある人もいるでしょうし、そうでない人もいるかもしれない。けれどもそれとは関係なしに、周囲の賛美のために一つの心になるべきです。心の一致こそが大切です。
最後に、祝福される道とは初めてまことの主を本当の意味で知ることが要求されていますし、それから本当の一致を持つことも大切です。
最後に第三番目になりますけれど、主の栄光を求めることです。主だけが栄光を受けてもらいたいという切なる願いが要求されています。もう一回詩篇の115篇に戻りまして、1節と18節をお読みいたします。

詩篇115:1、18
1私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
18しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。

いうまでもなく、生まれつきの人間は主の栄光を求めようとしない。自分、自分のことだけしか考えられないからです。したがって、主の栄光を求めるようになることとはまさに、聖霊、主の御霊の働きの結果です。
御霊の働きについてイエス様は次のように言われたことがあります。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしの成し遂げた救いのみわざを大切にするのです。父は確かにわたしたちひとりひとりの救いを計画してくださいました。
イエス様はこの計画を成就してくださったのです。そして御霊の働きによって、イエス様のなされた救いは初めて人間個人個人のものになります。

御霊が主の栄光を明らかにされると人間は小さくなり、ひれ伏して主を礼拝せざるを得なくなります。すなわちダビデのように、私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してくださいと切に願うようになります。
ただ主にだけ栄光が帰せられますように。これは当時の王であるダビデの切なる願い、心からの祈りでした。
人間の危険とは、自分が大切にされたいという気持ちです。ただ自分の名誉だけを求める者は主の栄光を奪い取ってしまう。泥棒です。

反対に、ただ主の栄光だけを求め続けると、人生は本当に満たされたものになるに違いない。主の栄光を求めながら祈る者は必ず主からの答えを与えられます。
主の答えは決して崩れることのない喜びであり、また決して絶えることのない平安です。主の栄光を熱心に求めることが、われわれの信仰生活の特徴となるべきではないでしょうか。

バプテスマのヨハネは、主イエス様は盛んになり私は衰えなければなりませんと告白したのです。だからこそ彼は大いに祝福され、「私の喜びは満たされている。」と言うことができたのです。
自分自身のことが大切ではなくて、また自分の身の上に何が起こるかということも別に大切ではない。ただ主の栄光が現れることを求めることです。満たされる秘訣は、主の栄光だけをあがめられることではないでしょうか。
ローマ人への手紙の8章の32節。よく知られている個所ですけれど、パウロは次のようにローマにいる人々に書き記したのであります。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様によってすべてが提供されています。いうまでもなく主の祝福とは、健康とか富とか美しさといったようなことがらではない。イエス様ご自身です。
私たちは主イエス様のうちにすべてに持っているのです。イエス様のうちに汲み尽くすことのできない富がわれわれのために開かれて、また提供されています。
私たちが必要としているものはただ一つではないでしょうか。主によって祝福されることです。結果として喜びに満たされます。喜びに満たされれば周りの人々も結局心を開くなるように違いない。




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