引用聖句:イザヤ書30章15節
イザヤ書49:23
ローマ人への手紙10:8-13
集会の雑誌の題名は、「主は生きておられる」、どういう題名をつけるべきか集会の五、六人の兄弟たちは真剣に考えて、祈った結果は、これが一番いい題名なのではないかということになったんです。 私たちは喜びをもって、誇りをもって、「われわれの主は生きておられる。」と言うことができるのは、恵みなのではないでしょうか。 主が生きておられるから、もう何があっても安心して将来に向かうことができるのです。 2,600年前にイザヤは、今読みましたように言ったのです。「信頼すれば力を得る。」「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」 朝ちょっと分からなかったんです。そして昨日、後半のみことば見たとき、「あっ!これでいいじゃないか。」と思ったのです。すばらしい言葉なのではないでしょうか。聖書はこう言ってます。 「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 ここで、「主を信ずる者は」、とは書いてないんです。「信頼する者は」、決して同じではない。聖書の中では同じものです。けども現代人にとってはちょっと違うんじゃないでしょうか。 信ずるというと、やっぱり何かの教えを信じ込まなくちゃならないと思うようになるでしょう。けども聖書の言わんとしてることは、そういうことではない。一つの教えを信じ込むことよりも、生きておられる主に信頼することこそが、要求されています。そういう人々だけが、大いに祝福されるようになります。 ですから今朝の題名は、「主に信頼する者の幸せ」、あるいは、あとで二人の子どものための祝福式があるんですから、「主に信頼する者の祝福」と言ってもいいなのではないでしょうか。 このローマ人への手紙10章8節から13節まで、三回も、聖書の大切さ、みことばの大切さが強調されています。 8節、「みことばは」それから、「信仰のことば」、信仰がなければ、みことばは無意味です。単なるいのちのない教えに過ぎない。信仰があればみことばとは元気の素の素になります。 それから11節。「聖書はこう言っています。」この箇所を読むといつも嬉しくなってる。すなわちパウロは、私はこう思ってると言ってないんです。 パウロは私の思ってること、考えてることは別にどうでもいいよ。大切なのは聖書です。聖書は何て言ってるか。13節もすばらしい言葉じゃないでしょうか。 ローマ人への手紙10:13
この言葉こそ喜びの訪れであり、また初代教会の兄弟姉妹の告白、また証しでもありました。ちょっとだけ、三つの点に分けてこの箇所について考えてみたいと思います。 第一番目、祝福された人生の土台とはいったい何なのでしょうか。 第二番目、祝福された人生の確信とはいったいどういうものなのでしょうか。そして、 第三番目、祝福された人生の必要条件とはいったい何なのでしょうか。 まず第一番目、祝福された人生の土台とはいったい何なのでしょうか。 この土台とは言うまでもなく、みことばです。聖書だけです。聖書よりも古い本はこの世に存在していません。人間に与えられてる最高の宝物です。イエス様のように聖書を大切にした人は人間、いないでしょう。イエス様にとって聖書は、本当にすべてのすべてでした。 ですから聖書とは、古いものではないし、すばらしいものでもないし、永遠なるものです。 今の目に見える世界と、見えない世界はいつか駄目になります。ある人は、この地球はもうちょっと駄目になると言いますけど嘘です。少なくても千年間もつ。イエス様の約束された平和の国とは、この地上の上に実現されますから。 けども、いつか駄目になる。この地球だけじゃなくて、今の天も駄目になるんですね。 どうしてであるかと言いますと、悪魔はね、今も天で創造主の前に毎日、昼・夜出てるんですね。何のためかと言いますと、信ずる者を訴えるためです。「あなたの信ずるものは大したもんじゃないだろう。あの大阪で集まってる連中たちは、大したもんじゃないじゃないの。」、云々と。 もちろんわれわれの弁護士とはイエス様ですから、心配する必要はない。けど、悪魔は結局、毎日夜、昼、主なる神の所へ行くから、いつかこの天とは駄目になる。けど、駄目にならないなのは、イエス様のみことばです。 天と地はいつか滅び去ります。わたしの言葉は永遠に残る。この永遠に残るものに頼らない人は愚かです。必ず後悔するようになります。 ですから聖書とは、古いものでもないし、新しいものでもないし、永遠に残るものです。永遠なるものです。 ダビデは、「あなたのみことばは私の足のともしび。私の道の光です。」と証ししたのです。結局みことばなければ私は、迷えるばかりです。 パウロは、聖書はあなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができると書いたのです。 人間はだれでも心のよりどころを必要とします。だれでもが心の平安をもつ必要があります。そしてだれでもが、生ける希望をもつべきなのではないでしょうか。けどそういうものは、結局聖書を通してのみ与えられます。 聖書とは回心の種と呼ばれているのです。ヤコブの手紙1章の18節に次のように書かれています。 ヤコブの手紙1:18
結局みことばによって救われた。ペテロの手紙第Iの1章23節を見ると同じように書かれています。 ペテロの手紙第I、1:23
主の言葉とはすばらしい。確かに、当時の聖書学者たちもみことばの大切さを認めたらしい。だからイエス様は彼らに言われました。 ヨハネの福音書5:39
それは結構です。間違っていない。けどもイエス様は、 ヨハネの福音書5:39
聖書の内容とはひとつの教えよりも、わたしだよ。当時の聖書学者たちとはそれを認めたくなかったのです。正直になろうとしなかったからです。頭を下げたくなかったからです。結局、悔い改めようとしなかったからです。 ですからイエス様は、 ヨハネの福音書5:39-40
そうすると、いくら聖書読んでも全く意味のないことです。かえって危ない。聖書読んで分かったと思えばおしまいです。 いわゆる教会の歴史を見ると、がっかりします。まことの神の最大の敵は、いつも聖書学者でした。悲劇的です。イエス様は無神論者によって殺されたのではない。結局聖書学者でした。 結局、「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、この態度取らなければ、聖書は読まないほうがいい。全く意味のないことです。 まことの救いにあずかった人は、主のみことばである聖書を通して救いに導かれ、また、主との平和、絶えざる喜び、そして永遠のいのちをもつようになりました。 だからこそ聖書は祝福された人生の土台です。パウロはこのローマ人への手紙の中で、 ローマ人への手紙10:11
それを信じても信じなくても、認めても認めなくても関係ない。本当なんです。 イエス様に信頼する者は、決して決して後悔しません。大いに祝福されます。結局、聖書は何と言ってるか、これこそが大切なのではないでしょうか。 なんと多くの人々は、問題をもつと自分で考えたり、ほかの人と相談したりします。悪い道です。どうして直接、主のところにいかないなのでしょうか。どうして、聖書は何と言ってるかと考えないなのでしょうか。 人間の考えてること、人間の思ってること、人間の感じてることは、決して大切ではない。聖書は何と言ってるのか。それだけなのではないでしょうか。パウロはこの態度取ったから、やっぱり大いに祝福されるようになったのです。 結局大切なのはみことばです。なぜならばみことばは、永遠に変わらないものであるからです。聖書は事実だけを宣べ伝えてる書物であるからです。ほかの言葉で言いますと、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書がわれわれを判断すべきである。 主によって祝福された人々は、いつも頼み続けたのです。「主よ。語ってください。」、「主よ。教えてください。」、「主よ。導いてください。」と。 聖書は、主ご自身が語られたことを、そのまま私たちに伝えています。聖書に書かれてるのは、したがって事実のみです。それを人間が認めようが認めまいが、もう関係ない。事実は事実です。祝福された人生の土台とは一体何なのでしょうか。今話したように、みことばだけです。 第二番目、祝福された人生の確信とは、一体何なのでしょうか。確信の土台。また源は、主なる神のみことばである聖書だけです。 結局、信頼すると後悔しない、失望させられない、という確信が生まれてきます。ですから聖書は宗教と、もちろん関係のない書物です。聖書の中で、宗教という言葉は一回も出て来ません。 聖書はもちろん、哲学ともまったく関係ないものです。すなわち、人間の作ったものではない。主なる神の啓示そのものです。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示そのものです。 主は色々なことを知らせるために語ったよりも、自分自身を明らかにするために、語ってくださったのです。 動かせない確信をもって、パウロは次のように言ったのです。ガラテヤ人への手紙の1章。よく知られてる箇所ですけども、 ガラテヤ人への手紙1:12
結局パウロの救いの土台なるものとは、ひとつの教えではなかった。心の目で、彼は十字架につけられたイエス様を見ることによって救われ、変えられたのです。 ガラテヤ人への手紙1:15-17
パウロの人生は、いっぺんに変えられたのです。何か教えられたからじゃなくて、イエス様の啓示によってです。私たちはいつも覚えるべきことは、すなわち人間の考えてることは大切ではない。主が何を語っておられるか。これこそが重要です。 主は真理であられるから、みことばも永遠なる真理そのものです。イエス様は祈りの中で祈ったんですね。あなたのみことばは真理です。そのときのみことばとはもちろん、創世記からマラキ書までの旧約聖書でした。 旧約聖書もイエス様にとって真理そのものでした。イエス様は信ずることができたから、私たちも安心して信ずることができるなのではないでしょうか。 ちっぽけな人間は、聖書に記されている事実を理解することができるかできないかは、決して問題ではない。事実は事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても。パウロは、 ローマ人への手紙10:11
彼とは一体どなたなのでしょうか。彼とは言うまでもなく、生きるまことの唯一なる神ご自身です。すなわち主イエス様を通して、自分自身を明らかにされた、万物の造り主、万物の支配者であります。 主なる神が、自分自身を主イエス様を通して明らかにされたのですから、イエス様はよく神の言葉と呼ばれています。再臨なさるイエス様は、神の言葉として現われて来ると聖書は言ってます。 イエス様に与えられてる名前は、いっぱいありますけども、ひとつの名前は、「神のことば」ですね。例えば、よく知られているヨハネの福音書の1章を見ると次のように書かれてます。初めの1節、2節読むとまったくピンと来ない。どういうことかさっぱり分からない。 ヨハネの福音書1:1
一体どういうことですかねぇ〜。 ヨハネの福音書1:2
今度は、言葉はとは書いてないんです。この方は、あー、そうか。そうしたら神の言葉でもないし、人間の言葉でもない。 ヨハネの福音書1:2-3
そこまで読んでもちょっとピンと来ない。言葉とは何?けども14節見ると分かりますね。 ヨハネの福音書1:14
この言葉とは主イエス様ご自身です。ですから言葉の代わりに、イエス様という名前をつけても、もっと分かりやすいなのではないでしょうか。 初めに、主イエスがあった。主イエスは父なる神とともにあった。主イエスは神であった。 この主イエスは、初めに父なる神とともにおられた。すべてのものは、この主イエスによって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 この主イエスは人となって、私たちの間に住まわれた。また私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 私たちは、主イエス様のことについていくら考えてもピンと来ません。想像することもできません。最近、非常にまた注意するようになったんです。私は昔、よく初めて人に出会って、「どう?イエス様のこと信ずるの?」と聞いたんです。 別に悪い気持ちはなかったんですけど、非常に悪かったことだと思います。相手の人は初めて来てるのに、イエス様だってピンと来ないでしょ。違うよ。けど私は分かってると思うでしょ。相手の人は。本当は違う。イエス様のこと分かってる人間はいないよ。 イエス様はそういうちっぽけなもの、お方ではない。ですからイエス様を信ずることとは、イエス様の約束を信ずることだけじゃない。へりくだればOK!わたしのところに来る者、わたしは決して捨てない。 イエス様の約束を信ずることによって、私たちはイエス様はすごいとしか言えないけども、イエス様のこと、つかめないよ。あんまり偉大であるからです。 例えばこのイエス様について、パウロは次のように書いたのです。コロサイ人への手紙の1章。まったくピンと来ない箇所なんです。想像できない箇所です。 コロサイ人への手紙1:16
主イエス様 コロサイ人への手紙1:16
想像できません。すべてはイエス様によって造られたんです。どうして造られたかと言いますと、イエス様のためなんです。 このイエス様の偉大さを、もちろんだれも想像することができません。私たち一人一人もイエス様によって造られた。イエス様によっていのちをもつようになった。そしてそれだけじゃなくて、私たちは一人一人は、イエス様のために造られたとここで書いてるんです。 イエス様の死によって贖われた者となるためだけじゃなくて、イエス様の友となるため、イエス様の花嫁となるために造られ、救われたのです。 これこそが考えられないすばらしい事実であり、また考えられない特権、幸せです。私たちは近いうちに、主イエス様とひとつになり、イエス様の花嫁としていつまでも主といっしょになる。聖書はそう言ってるから、喜んで信ずることができるけど、想像できません。 この偉大なるイエス様は、私たちのような者を幸せにするために、祝福するために、すべてを捨てたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死まで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 聖書の中心なるテーマは、イエス様の死です。けど私たちはこのイエス様の死について、いくら考えても、ピンと来ない。 五月、日本でも新しい映画が見せられるようになります。日本のタイトルはちょっと分からないけども、結局、イエス様の苦しみについての映画なんですね。イエス様が殺されるまでの十二時間についての映画なんです。 ある男は莫大な金を使って作った映画なんです。イタリアで作られた映画なんです。 アメリカである人はこの映画を見て、心臓発作で死んじゃったんです。あんまり現実的で、恐ろしくて、もう耐えられないものだそうです。けども、やってる人々はみな俳優でしょ?もちろん俳優だって色々なことできます。 けども映画で見せられるものとは、イエス様の肉体的な苦しみぐらいだけでしょう? けど十字架につけられることだって、こういうふうに肉体的な苦しみを受けることだって、イエス様にとって別にどうでもよかったと思います。イエス様の精神的な痛みとは、想像できません。 想像できないから、映画を作ってももちろん出てきません。ありえないことです。すべてを創造された主イエス様は、私たちのわがままのゆえに犠牲になられた。 ある映画の新聞は、飛行機の中で読んでたんです。News Weekの中で、だれがキリストを殺したのか。ユダヤ人かローマ人かという問題に・・・・・ (テープ A面 → B面) 十字架につけられたイエス様は、すべての人間の過ち、罪を、ひとりぼっちで犯した者になっちゃったんです。ピンと来ませんし、考えられませんし、いくら映画を作ってもピント外れ。的外れです。 けども私たちは、天国行ってから、永遠にわたって主を礼拝せざるを得なくなる。 私のためにイエス様は犠牲になった。のろわれた者となった。人間になったイエス様は、苦しみの人、悲しみの人でした。 イエス様の唯一の喜びとは、みことばを食べること。そして父と交わることでした。これこそがイエス様の休息でした。夜中祈っても、次の日別に疲れていなかった。前よりも元気になった。父と話すことができたから。 十字架の上で、それは不可能になったんです。十字架につけられたイエス様は、罪のかたまりとされた。聖なる神は罪のかたまりと関係をもつことができない。 だからイエス様祈っても通じません。この沈黙とは、イエス様にとって考えられない悩みでした。ですからイエス様は、人間のためだったら喜んで何でもする。 けど、罪のかたまりにされることとは、恐ろしい。父から捨てられることとは考えられない。地獄の地獄だから、「もしほかの道があれば、お願い・・・。」、けど、わたしの思いではなく、御心だけがなるように。 こういう祈りをささげられる者は幸せじゃないでしょうか。私の思いではなく、御心だけがなるように。ヘブル人への手紙の著者は、次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙9:26
宗教を造るためではなく、罪を、全人類の罪を取り除くためにイエス様は犠牲になられたのです。救いを得させる信仰の土台なるものとは、パウロはローマ人への手紙4章25節に書き記したのであります。 ローマ人への手紙4:25
すなわち信ずる者はみな喜びをもって告白することができます。 ローマ人への手紙5:1
私たちはみことばを持ってるのであり、主の約束こそが最大の宝物です。主のみことばは回心の種であり、真理そのものであり、足のともしび、道の光です。聖書に宣べ伝えてるもっとも大切な事実は何でしょうかね。三つです。 第一番目、イエス様は私たちの罪のために死に渡された。罪滅ぼしのためにほかの道がなかったからです。 第二番目、イエス様は私たちが義と認められるために、復活なさったのです。イエス様の復活とは何を証明してるかと言いますと、イエス様の犠牲は、全人類の過ち、わがままを赦すために十分であったということです。 もう一つの第三番目の事実は、イエス様はまた来る。「わたしがまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」、とイエス様は約束してくださったのです。 昨日挨拶のとき、ある姉妹は、マラナタと言われたのです。意味は、「主は来られます。」 初代教会の人々はよく挨拶としてそう言ったんです。主は復活なさった。主は生きておられる。あるいは、主はまた来る。こういうふうに挨拶すれば、すごいなのではないでしょうか。 前のドイツの総理大臣の親戚は、大学の教授だったんですけども、彼はあるとき学生たちに向かって、「確かなことは何か。」と、尋ねたんです。 それに対して学生たちは、一人一人思い思いのこと言ったんですけど、いつまでたっても埒があかない状態でした。ひとりの学生は、勇気を出して言ったんです。「先生は、一体何と考えておられますか?」 博士は、「主イエス様は来られます。」、考えられないほど大切な事実です。今の世界を見るとだれでも分かる。もう長くないでしょ。イエス様は来られます。ニュース見ても、いいニュースはひとつもない。悪いニュースばっかり。イエス様はまた来られます。 もちろんイエス様は自分の約束を守ってくださいます。イエス様はみことばを必ず守るお方です。したがって100%信頼できるお方です。ですからパウロは言ったのです。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 信頼することの代わりに、待ち望む者と言ってもいいなのではないでしょうか。イエス様を待ち望む者は、決して失望させられることがない。決して失望させられることがないと信じ、確信する人々は、幸せなのではないでしょうか。 今まで二つの点について考えましたね。祝福された人生の土台とは一体何なのでしょうか。第二番目、祝福された人生の確信とは一体何なのでしょうか。 最後に、第三番目の点は、祝福された人生の必要条件とは一体何なのでしょうか。決して失望させられないための条件とは、信頼することです。 主の存在を認めることだけじゃない。主を信ずることだけじゃなくて、やっぱり主に頼ること、任すこと、待ち望むことです。継続的に信頼し続けることです。すなわち、意識的にイエス様により頼むことであり、私たちの全信頼は、イエス様に集中されなければならない。条件とは、人生の終わりに至るまで、意識的な信頼の態度が続けられなければなりません。 最後に、三つの実例についてちょっと考えましょうか。 第一番目は信仰の父と呼ばれている、神の友と呼ばれているアブラハムです。 彼は自分にみことばを与えてくださった主を信じたのです。彼は心から信頼したのです。死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる主に信じたと聖書は言っています。 アブラハムは主の全知全能を確信したのです。われわれ人間には、まったく望みがないように思われる場合であっても、主に信頼するならば、不可能が可能となります。 アブラハムは望み得ないときに、望みを抱いて信じたと聖書は言っています。アブラハムは意識的に目に見えるものから目をそらし、目に見えない主にだけ、目をそそぐことをしてたのです。これこそまことの信頼です。 信頼とは自分や他人から目をそらし、主が必ず約束をお守りになることを確信することです。 神には約束されたことを成就する力があることを、アブラハムは堅く信じたと聖書は言っています。主なる神が約束されたことを成就する力を持ってるゆえ、約束を守られるということを知ってる者は本当に幸せです。なぜならば、決して決して、失望させられることがないからです。 第二番目の実例は、モーセであります。 ご存知のようにモーセは、王子であったゆえに、すべてが自分の思うとおりにできたわけです。望むものはすべて自分のものになったのです。人間的に言うならば、恵まれた男でした。 けども彼は、そのように恵まれた自分の境遇をある日、捨ててしまったのです。人間的ならば、世界一の愚かな者だったなのではないでしょうか。なぜ彼はこのような愚かなことをしたなのでしょうか。よく知られてる箇所ですけども、もう一回開きましょうか。 ヘブル人への手紙の11章。ここで次のように書き記されています。このヘブル人への手紙の中で、信仰、信仰、信仰という言葉はいっぱい出てきますけど、やっぱり、信仰よりも信頼という言葉を読むべき、考えるべきなのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙11:24
あるいは、信頼によって ヘブル人への手紙11:24-25
よく考えた結果です。何日間、何週間、何ヶ月間、彼は心の中で闘っていたのか分かりません。 けども彼は、普通の人間のしないことをしたのです。苦しむことを選んだんです。普通の人間は苦しみたくない、問題に入りたくない、みんな楽な道選ぶんじゃないでしょうか。彼は意識して、祈った結果として、苦しむことを選んだのです。どうしてでしょうか。 ヘブル人への手紙11:26-27
彼はどういうふうにイエス様のことが分かったのかちょっと分からない。イエス様がこの世に来られる1,500年前に生きた男だったでしょ。けども聖書ははっきりとそう言ってます。アブラハムについても同じこと書いてます。イエス様はアブラハムはわたしの日を見て大いに喜んだと言ったのです。 結局、求めなさい。そうすれば与えられます。 いつの時代の人々も求めたとき、救い主を見いだすようになったのです。モーセは、この世の富や教養ととこしえの報いとを比較して、その結果、そのような決断を行なったのであります。 モーセはこの世の色々な楽しみの結果が死であること、そしてその死後にはさばきが下って、永遠の滅びに行くべきことをよく知っていました。聖書は永遠のいのちについて書いてるだけじゃなくて、永遠の滅びについても書いてるんです。 人間はどうして滅びるようになるかと言いますと、過ちを犯したからじゃない。頭を下げたくないからです。提供されてる罪の赦しを意識して拒むからです。 モーセの経験は、どういうものだったでしょうか。すなわち主に信頼する者は、失望させられることがないということでした。モーセは信頼したから、イスラエルの民は救われたのです。ひとりの人間の信仰、信頼、従順によって、二百万人以上の人々は、解放されたのです。 聖書はこう言ってます。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」、信仰の父と呼ばれたアブラハムは、この事実を経験したのです。神の友と呼ばれたモーセも、同じ事実を経験したのです。 第三番目の実例は、ダニエルの友だちなんです。 彼はおもに、三人の親しい友だちをもっていたのです。彼らは何を経験したかと言いますと、結局同じことです。主に信頼する者は、失望させられることがない。あの三人の特徴とは、幼子のような信頼、妥協なき態度でした。それゆえ彼らは、火の中に投げ込まれてしまったのです。 主にだけ信頼するとうまくいくはずじゃないですか。違う・・・・。彼らは火の中に投げ込まれてしまったのです。ちょっと見てみましょうか。ダニエル書3章。当時の世界を治めたネブカデネザルの傲慢に満ちた言葉です。 ダニエル書3:15
三人 ダニエル書3:15-18
その三人の確信とはどういうものだったでしょうか。主に信頼する者は、失望させられることがないというものでした。彼らは主の全知全能をより頼み、目に見えないお方を心の目で見たのです。結果はどういうものだったでしょうか。 異邦の王であるネブカデネザル王がもちろん主を知るようになっただけじゃなくて、主を紹介する者になったのです。考えられない奇跡です。 ダニエル書3:28
結局自分の命令にそむき、 ダニエル書3:28-29
当時の知られている全世界の人々は、神が生きておられる。信頼する者は、失望させられないということを聞くようになったのです。 知らないうちにこの王さまは、主の召使い。用いられる主の器になったのです。主に信頼する者は、失望させられることがない。これこそがこのダニエルの三人の友だちの体験であり、また喜びの告白でした。 彼らは近視眼的ではなく、また自分自身中心ではなく、ただ主のご栄光のため妥協せず、すべてを主に任せたのです。どうしたらいいか分からないけどよろしく。 妥協するよりも、死んだほうがましと彼らは思ったから、考えられない多くの人々は福音を聞くようになったのです。イエス様のため、また失われた多くの人々が救われるため、そして信ずる者が新しく造り変えられ、霊的に成長するために私たちも同じ態度を取れば、決して決して、失望させられることはない。 どういう状況に置かれていても、私は主に信頼しますという断固たる態度を取ることができれば、大いに祝福されます。主ご自身の呼びかけとは、次のような呼びかけです。 出エジプト記33:14
主はいっしょだったら、もう心配する必要はない。もう一箇所。イザヤ書の43章。これも多くの人々の大好きな言葉の一つです。 イザヤ書43:1
自分の名前入れてもいいんです。 イザヤ書43:1-4
もちろん主は、ともにおられるだけではない。パウロは、 コロサイ人への手紙1:27
と書いたのであります。 |