引用聖句:マタイの福音書14章13節-21節
マタイの福音書15:32-38
結局救いとはなんでしょうか。不安、心配からの解放です。自分の過ち、自分の我儘なイエス様の流された血によって赦されてる。私は永久的にイエス様によって受け入れられていると確信できることがまことの救いの結果なのではないでしょうか。 現代人は、世界の動きを見ても、心配するのは当然です。今の世界は、めちゃくちゃ。よくなる可能性がない。今の政治家達は、もう傲慢の固まりであり、本当のことを意識して言おうとしない。 3,000年前の政治家であるダビデは違う態度をとったのです。だから、彼は御心にかなう者と呼ばれました。「私は悩む者、貧しい者です。主よ、私を顧みてください、あなたは私の助けですから。」、結局、この態度をとる者は祝福されます。私は、悩む者、貧しい者です。 アブラハムは信仰の父と呼ばれた男です、彼はなんと言ったかといいますと、「私は塵、灰にすぎません。」と。 塵も灰も捨てるべきものです。アブラハムは、そう言っただけではなくて、思ったのです。私は、本当は、捨てるべき者です。全く役に立てない者です。こういうふうに成長されればすごいなのではないでしょうか。 「私は、悩む者です。貧しい者です。」ダビデはあらゆる不安、あらゆる心配を主に明け渡したのです。 明け渡す秘訣、ゆだねられる秘訣とはなんでしょうか。当然の話です。相手の力を知ることです。相手にとって、不可能なことがないとわかれば、安心してゆだねることができます。 イエス様は2,000年前も、弟子たちに同じことを教えようと望んでおられました。すなわち、私にとって不可能なことはない。今の箇所を見ると、四〜五千人について、書いてありますけど、くわしく見てみるとわかります。 すなわち、四〜五千人の数字の中に、女も子供も、含まれていないのです。けれどもイエス様は、男ばかりを集めようとしたことはちょっと考えられない。ですから四〜五千人と書いてあっても、女も子供もあわせると、1万人、2万人、3万人であったかもしれない。 そしてみんな満腹した。それだけじゃなくて、五千人の場合は12のかごに余った。四千人の場合は、7つのかごに余ったのです。考えられないことです。 この2つの奇蹟を通してわかることは、そこにいる人間の本当の姿が描き出されているのではないかと思います。すなわち彼らは、羊飼いのない迷える小羊と同じであり、羊飼いを持っていない故に、本当の霊の糧をも持っていないということです。 また2つの奇蹟を通して、イエス様が欠けているものを満たすお方として、すなわち良い羊飼いとして、また天から来られた生きた神として、現われて下さったことをも読み取ることができるのです。 イエス様は、ヨハネの福音書10章の中で、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」、良いことを教えるのじゃない、わたしは自分の命を捨てる。 イエス様の十字架における死の大切さを、生きてる間にわからないと思います。けど、永遠にわたって感謝せざるを得なくなる。 4つの福音書をみるとわかります。イエス様はご自分の力をお現しになり、主に心から信頼することを、知らせてくださったのです。 イエス様は、何千人に、弟子達が見ている目の前で食物をお与えになりました。そしてまたイエス様は、自然をもご自信に従わせることができることを明らかにしてくださったのです。 弟子達が、水の上で非常に困った状態に陥ったこともイエス様の導きでした。彼らはイエス様の一言によって、その瞬間、荒れ狂っていた波が静まったと言う素晴らしい主の力を経験したのです。 すなわち、嵐から静けさに、不安と恐怖から真の平安に、絶望からイエス様にある喜びに、変わったのです。 イエス様の導きの目的は、ただ単に弟子達がイエス様の力とイエス様の導きに信頼することだけではなくて、イエス様の無限の可能性をも信頼することでした。 イエス様にとって不可能なことはない。イエス様は全知全能の主です。従ってイエス様にとっては、奇蹟も当然のことであったということを弟子達は、知るべきでした。 当時の人々のイエス様に対する判断とは、どういうものだったでしょうか。ちょっとマルコの福音書を見てみましょうか。 マルコの福音書8:27-30
当時の人々は、イエス様を「バプテスマのヨハネだ。」と言ったのです。すなわち、主なる神が、バプテスマのヨハネを甦らせ、もう一度新しい使命をお与えになったのだと思っていたのです。 確かに、イエス様はヨハネと全く同じように罪に対して厳しく戦ったのです。けど、イエス様はそれだけではなく罪の赦しを提供したのです。 またある人々は、「エリヤだ。」と言いました。エリヤとは、最も強い大胆な預言者でした。確かに、イエス様も人間を恐れなかったのです。大胆に来るべき神の国を宣べ伝えたのです。けどもそれだけではなく、イエス様こそが神の国の王そのものでありました。 またある人々は「預言者のひとりだ。」と言いました。すなわち悔い改めを迫る預言者として、父なる神がイエス様を遣わされたのだと思ったのです。けれども、イエス様は預言を語る方であるよりも、預言の成就そのものでした。 そこでイエス様は、弟子達に向かって直接尋ねたのです。「あなたたちは、どう?私を誰だと思っているの?」、その時ペテロは弟子達の代表としてすぐに言ったのです。 「あなたは、神の子キリストです。」、「あなたは、メシアであり、旧約聖書全体が約束されたそのお方にほかありません。」、「あなたは父なる神の完全な御心を行うお方であり、悪魔を滅ぼして永遠の命を与えることのできるお方です。」、「あなたのために旧約聖書が書かれている。」「あなたこそ世の救い主であり、来るべき王である。」 イエス様は当時の弟子達だけではなく、私たちにも同じように聞いて下さるのではないでしょうか。「あなたは、私を誰だと考えるの?」、ほかの人がなんと言うなのかは問題ではない。あなた自身が、この問いに対して、なんと答えるなのでしょうか。 また、これらのことをペテロと同じように信じたとしても、その信じたことを、私たちが日々体験しているかどうかが問題なのではないでしょうか。 ペテロの告白とは、言うまでもなく単なる頭の告白ではなかったのです。本当に上からの光によって照らされた啓示でした。ペテロの告白は、教養や理性によっては与えられないものです。上からの賜物でした。 ペテロは、主イエス様は、いかなるお方であるかを悟るようになり、イエス様は結果としてうれしかった、喜んだのに違いない。自分の思いではなく、この告白の土台はまさに上から与えられた宝物でした。 パウロも同じことを経験したから次のように告白したのであります。 よく引用される箇所です。ガラテヤ人への手紙1章の12節なんです。非常に、大切な箇所だと思います。 ガラテヤ人への手紙1:12
結局、私の信仰の土台となるものはひとつの教えじゃない。私たちは、何と何と何を知るのか。何と何を信じるべきか。それは別にどうでも良い。誰を信じているのかが、問題なのです。 結局、パウロは聖書学者でした。けれども、イエス様との出会いによって、彼は瞬間的に何がわかったかと言いますと、 「その聖書の知識は役に立たないものでした。かえって妨げものでした。私は、赤ちゃんのようにならないと救われ得ない。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただ、イエス・キリストの啓示によって、受けたのです。」 主イエス様は、主なる神の私たちに対する啓示そのものです。イエス様は、私は何々であると言われた時、それはいつもひとつの教えではなかったのです。上から啓示そのものでした。 私は何々であると言われたイエス様のみことばを、最後に7つばかりヨハネの福音書から取り出して、考えたいと思います。 イエス様は、あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じまた私を信じなさい。理解せよなのではない、信じなさい。私を信じなさい。これこそが、単なる提案ではなくて、はっきりとした命令です。最も大切です。 イエス様は道徳的に高い生活をせよ。私の教えを勉強せよ。理解しなさいと言ったのではない。ただ、私を信じなさい。 ですから、イエス様を信じることとはいったい何なのでしょうか?これこそが大切なのではないかと思います。 第一番目の箇所は、 ヨハネの福音書6:35
ここで2回、「決して・・・ない。」とあります。 ヨハネの福音書6:51
命のパンとして、生きるパンとしてイエス様は父なる神の贈るものを私たちに与え、永遠の命に至ることを心から望んでおられます。 私たちは、本当の意味で主の御許に行ったことがあるなのでしょうか。 信ずることとは、イエス様の御許に行くことです。信ずるとは、命のパンを食べることです。イエス様を自分のものにすることです。それによってのみ、心の飢え渇きは、完全に満たされます。 2,600年前にエレミヤという男はそれをしたのです。私は、あなたの御言葉を見つけた。それを食べます。研究してわかったのではない。食べたのです。 自分のものにした結果はすごいものでした。あなたの御言葉は、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。 私たちの飢えと渇きは満たされているのでしょうか。満たされる秘訣はイエス様の御許に来ることです。イエス様を信じ、イエス様を早く自分のものにすることです。 第二番目の箇所は、ヨハネの福音書8章12節です。これもよく知られている箇所です。 ヨハネの福音書8:12
イエス様は世の光として、私たちを罪の闇から明るみに出るようにと招いておられます。そして、私たちが光の中にまことの命を見いだすように呼びかけておられます。 信ずることとは、この箇所を見ると、イエス様に従うことです。多くの人は、信じます、信じますと言いますけど、従順なしの信仰は、本物ではありません。 詩篇の作者であるダビデは、「あなたのみことばは、私の足の灯火、わたしの道の光です。」と言いました。イエス様ご自身の告白とは、御子を、私を信じる者は、永遠の命を持つが、私に聞き従わない者は、命を見ることがなく神の怒りがその上に留まるということです。 第三番目の箇所は、ヨハネの福音書10章9節です。 ヨハネの福音書10:9
意味は、イエス様は単なる道標ではありません。道そのものです。救いに至る門よりも、救いそのものです。この門を通る者は救われます。 聖書の中の最も素晴らしい約束は、「私の所に来る者を決して私は捨てません。」です。信ずることとは、イエス様を通ることです。門を通って入る者は救われます。イエス様だけが、まことの神に至るただひとつの門、一つの道です。 イエス様なしに父なる神に至ろうとする者は、反対に、哀れな悪魔の奴隷になってしまいます。救われることとは、イエス様によって、受け入れられることです。 第四番目の箇所は、ヨハネの福音書14章6節です。これも誰でもよく知っている言葉でしょう。 ヨハネの福音書14:6
ただ、イエス様を通って行く者だけが、真理に至のであり、永遠の命を見いだすのです。イエス様なしの道は、偽りの道です。今こそ、心の目を開けて、比類無きお方であるイエス様を受け入れましょう。 信ずるとはいったい何なのでしょうか。このみことばによると、イエス様を通して父の御許に行くことです。だから、初代教会の兄弟姉妹は、みんな心を一つにして宣べ伝えました。 この方以外には、誰によっても、救いはありません。世界中で、この御名のほかには、私が救われるべき名は、どのような名も人間に与えられていないからですとあります。 第五番目の箇所は、ヨハネの福音書11章25節です。ここで、イエス様は、一つの教えよりも自分自身を明らかにするために、言われました。 ヨハネの福音書11:25
罪による死が命に至る道を遮断しましたが、この問題をイエス様が完全に解決して下さった故に、私は甦りであり命そのものであるということができたのです。 イエス様を信じる信仰、イエス様を心から受け入れることが、私たちを主なる神に、そして真の命へと至らせるのです。 信じることとは、この箇所を見ると永遠の命を持つことです。死んでも生きるとは、永遠の命を持つことです。 第六番目の箇所は、ヨハネの福音書10章11節です。 ヨハネの福音書10:11
ヨハネの福音書10:14
主イエス様だけが良い牧者です。そして、イエス様はほかのものは偽りである故に、私を信じ、私を受け入れなさいと、人間ひとりひとりに迫っておられます。 まことの命、完全な満たし、全き平安、本当の安全は、すべてイエス様によってのみ与えられます。 信じることとは、イエス様のものとなることであり、そして、イエス様のものになった人々はイエス様ご自身を知るのです。すなわち彼らは、主イエス様の流された血潮の赦しの力を経験することができ、すべては赦された、忘れられたと確信し、喜びの声をあげることができます。 イエス様を知ることは、本当に大切です。 イエス様について多くのことを知ることができましょうけど、このような大切なことを得ることによってのみ救われます。 最後の七番目の箇所は、ヨハネの福音書15章5節にしましょうか。 ヨハネの福音書15:5
この言葉を本気になって信じる人は、あんまりいないなのではないでしょうか。私を離れては、あなたがたは何もすることができない。成功するかもしれないけど、永遠でなく、結局無駄です。的外れです。 本当の交わりを持ってぶどうの木は豊かな実を結ぶのです。イエス様は、ぶどうの木であり、イエス様を信じる者は単なる枝に過ぎません。これは動かすことのできない事実です。 そして、イエス様はもちろんはっきりと言いました。枝は、木とつながっていればうまくいくし、つながっていなければ何をやってもむなしくて役に立たない。 イエス様と結びついていない人は、残る実を結ぶことができません。イエス様との交わりを持っている人だけが、豊かな実を結んでいるのです。私たちの人生は実りのあるものなのでしょうか。 もしもそうでないならば、私たちは主と結びついていないということの証明であることを知らなければならない。イエス様の呼びかけとは私を信じなさい、意味は、私に信頼せよ。全部私にまかせなさい。これこそが、イエス様の人間一人一人に対する呼びかけです。 イエス様を信じることとは、所謂人間の作ったキリスト教と言う宗教に入ることを意味していないし、イエス様を信じることとは、ある教会に籍を置くことでもないし、聖書知識を得ることでもないし、よりよい人間になろうと、努力することでもありません。 イエス様を信じることとは、ありのままの状態で、イエス様の御許に行くことです。そしてイエス様を受け入れた者として、イエス様に従うことです。 そしてイエス様を信じる者は、イエス様を通る者であり父の御許に行く人です。そう言う人々は、受け入れられ永遠の命を持つ者となり、そして、イエス様ご自身を知るものとなります。 イエス様を体験的に知るようになった人々は、イエス様から離れたくない。イエス様をよりよく知りたいと切に望むようになります。イエス様に留まること。イエス様と一つになること。木と枝のようになることこそが、イエス様の望んでいることであり、また私たちの望むべきことでもあります。 まとめてみると、大切なのはあらゆる不安から、全ての心配から解放されることです。 どういう風になるかというと、イエス様を命のパンとして、世の光として、救いに至る門として、道として真理として命として、また甦りとして、良い牧者として、まことのぶどうの木として知ることです。 最後に、2、3箇所読んで終わります。 マタイの福音書6:25-27
現代人にとって、考えられない程大切です。心配したらいかん。ゆだねなさい。 パウロは、ローマの刑務所の中でピリピにいる兄弟姉妹に次のように、書くことができたのです。 ピリピ人への手紙4:4-7
ペテロも同じことを言ったのです。 ペテロの手紙第I、5:7
もし、なんでもできるお方が心配すると、自分でまだ心配するのはおかしい。意味のないことです。愚かなことです。 イエス様の変わらない呼びかけとは、いつも引用されるマタイの福音書11章28節でしょう。 マタイの福音書11:28-30
もうすでに2,600年前に、イザヤはこの救いに預かるようになったから言えたのです。 イザヤ書12:2
こういうふうに言える人々こそが幸せなのではないでしょうか。 |