知ること


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/09/27)

引用聖句:ルカの福音書23章39節-43節
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

ローマ人への手紙6:1-11
1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

イエス様こそが人間を変えられる力を持つお方です。このイエス様を紹介できることとは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。
このイエス様とは、結局真理を教える偉大なる教師であったよりも、真理そのものです。「求めよ。そうすれば与えられる。」と約束されています。

確かにイエス様のこと一番嫌うようになったのは、今日までそうなのですけれど、宗教家たちです。自分で、わかったと思う人々こそがかわいそう。
けれどもイエス様を信ずるようになった人々とは確信を持っています。すなわち、「イエス様は生きておられます。」
死んだけれど、罪滅ぼしのために代わりに殺されたけれど、生きておられるお方です。このイエス様とはあらゆる罪、過ち、わがままを赦すお方であり、また人間一人ひとりを考えて心配してくださるお方です。

兄弟のお読みになった個所の中で、ひとりの犯罪人は、たぶん人殺しでしょう、ひと文章だけ祈ったのです。「イエス様。私を思い出してください。」、意味は、「あなたがあわれんでくださらなければ、もうおしまい。希望なし。永遠の地獄にはいらなくては。」
けれどもイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。きょう、わたしとともに天国に。」、天国にはいったのはイエス様ひとりではない。あの犯罪人と一緒。
そしてイエス様は誇りをもって、喜びをもってこの犯罪人を紹介したでしょう。「わたしの弟です。」

イエス様とは本当にすばらしいお方です。このイエス様の目的とはもちろん人間の救いだけではなく、永遠に亘ってイエス様といっしょにいることです。
主のご目的とは、救われた人々はもちろんイエス様をよりよく知ることではないでしょうか。イエス様の御姿に変えられることです。
パウロは有名なガラテヤ人への手紙2章20節で言ったのです。

ガラテヤ人への手紙2:20
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

結局、私はもう死に価する者です。もう十字架につけられたのはイエス様だけではなくて、私もキリストとともに十字架につけられた。
問題はいかにしてイエス様をよりよく知ることができるのでしょうか。イエス様に似た者になることができるのでしょうか。
最近私たちはどうしても知らなければならない基本的な二つのことを、二つの問題をいっしょに考えてきました。すなわちわれわれの罪、過ち、わがままと主イエス様の血潮の価値について。

それからこの間、われわれの古き人に対するイエス様の十字架の価値についてでした。この事実なくして、私たちは揺るがないしっかりとした土台の上に立つことができません。
この事実は私たちの生活、信仰生活の土台です。新約聖書を見るとイエス様の血潮と十字架の間には、はっきり明らかに違いがあることがわかります。
ローマ人への手紙1章から5章の11節までには私たちが何をなしたか、すなわち罪を犯した。罪を消すためにはイエス様の血潮がある。その結果は赦しであると書かれています。

ローマ人への手紙3:25
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ローマ人への手紙5:9
9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

ローマ人への手紙1章、5章11節までの内容とはだいたいそういうものです。
それからローマ人への手紙5章12節から8章の終わりまで、39節までには私たちは何であるか。すなわち罪人である。その解決の手段は十字架である。その結果は解放です。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

今ここに、ローマ人への手紙はこのようにイエス様の血潮と十字架を分けていますが、イエス様の救いのみわざはいうまでもなくひとつでした。イエス様の救いとはこの両面があるということです。
私たちはここに両面をおのおの体験し、自分のものとしなければいけないとパウロは書いたのです。
父なる神のご目的とは一体何なのでしょうか。もう何回もこれは繰り返し言ったことですけれど、人間は一番大切なことを忘れ、枝葉のことを大事にしがちな者ですから、はっきり言うべきです。

私たちが御子主イエス様の御姿に変えられていくことは父のみこころでありご目的です。このためにイエス様の血潮が流されました。私たちの赦しのために、そして赦された私たちが御姿に変えられていくために、イエス様の血潮は流されました。
そしてイエス様は私たちとともに十字架の上で亡くなられたのです。これは私たちが知らなければならない、揺るがないところの事実です。ですから私たちはこれらのことを学んでまいりました。けれど実際面はどうでしょうか。

私たちは実際にイエス様の御姿に変えられていくのでしょうか。実際に約束の勝利の生活を営んでいけるでしょうか。
この疑問に答える答えをローマ人への手紙6章から8章を学んで、見つけてみたいと思うのです。その答えは本当は4つの面をもっています。

すなわち第一番目。知ること。ですから「知る」ということばはよく出てきています。ローマ人への手紙6章3節、6節、9節です。
二番目。計算すること。6章6節です。
それから第三番目。ささげること。6章の12節、13節です。
そして第四番目。御子イエス様によって歩むこと。ローマ人への手紙5章の4節に書かれています。

私たちはこの4つの点を実際に体験しないとよくない。これを体験しないと罪を犯し、赦していただいて、また罪を犯すといった具合に、この前の信心深い顔をして回転木馬に乗っているといった状態になってしまいます。
今日はこの4つの点のうちの1つの点だけ、すなわち「知ること」についてだけちょっといっしょに考えてみたいと思います。

どうしたら内面的に、霊的に進歩、前進することができるのでしょうか。どうしたら勝利の生活を送り続けることができるのでしょうか。いったいどうしたら私たちのうちに主イエス様の御形が形作られていくのでしょうか。まず第一に知ることによってです。
この知ることを学ぶにあたって、これをまた3つの質問に分けてみたいと思います。

第一番目。私たちはどうしても何を知らなければならないのでしょうか。
その答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということは、歴史的な事実であるということです。信じても信じなくても、認めても認めなくても事実は事実です。

第二番目。私たちはいかにしてこの歴史的事実を知らなければならないのでしょうか。
この答えは啓示によってです。上からの与えられる光によってです。

そして第三番目。私たちはなぜこの事実をどうしても知らなければならないのでしょうか。
それは、イエス様の十字架は私たちの持っている問題の根にまで解決のメスを入れてくださるからです。

まず第一番目。私たちは、イエス様とともに十字架の上で死んだということは、歴史的な事実であることをどうしても知らなければなりません。
ローマ人への手紙6章の1節から、兄弟のお読みになりました個所ですけれども、1節から11節までのこの歴史的事実をはっきりと述べています。
イエス様の死は私たちがイエス様のうちにあり、イエス様とともに死にましたから私たちのための身代わりの死でした。この事実を心の目で見たことのない人は霊的に進歩しません。

イエス様がわれわれの罪を一身に背負って、十字架の上で亡くなられたということを知らなければ、私たちは義とされていることが確信できません。それと全く同じように、もし私たちがイエス様とともに十字架につけられて死んだことを心の目で見なければ、前進することもできない。
罪だけではなく、私たち自身とともに主イエス様は十字架にお架かりになったのです。

私たちはいかにして罪の赦しを自分のものにすることができたのでしょうか。私たちはイエス様が自分の過ち、罪、わがままを一身に背負い、身代わりに十字架の上で亡くなられたことを認めました。
そしてイエス様の流された血潮が自分のすべての罪を、おのおのの罪を全く聖めるということを知りました。
私たちは主イエス様が罪の負債を全部一身に背負い、十字架の上で亡くなられたということを知ったときどうしたのでしょうか。

そのとき私たちは、「イエス様よ。どうか今私のところに来て、私の罪のために死んでください。」と祈ったのでしょうか。決してそうではない。「イエス様よ。あなた様は私のためにもうすでに全てを成していてくださったことを感謝します。」と祈ったに違いない。
私たちは、「イエス様。私のところにおいでになって、私のために死んでください。」とは祈りませんでした。
イエス様が私のために十字架の上で全てのことを成してくださったのは、もうすでに過去に行なわれた事実だったからです。

罪の赦しのためにはどうしたらいいのでしょうか。解放のために何をしたらいいのでしょう。私たちはそのために別に祈る必要はないのです。もうすでに救いのみわざ、解放のみわざは過去の事実として終わっています。ですからただ感謝すれば良いのです。
父なる神は私たちを主イエス様のうちに置き給いました。ですから、キリストが十字架で亡くなった時私たちもともに死んだのです。ですから私たちは今さら「イエス様よ。私は悪人です。私を十字架につけてください。」と祈る必要はありません。

私たちは罪が赦されたとき、罪を赦すためにイエス様に「来てください。」とは祈りませんでした。それと同じように「イエス様。私の自我を十字架につけてください。」と祈る必要はありません。
罪の赦しは血潮によって自我の解放は十字架によってもうすでに成されています。これは過去に行なわれた事実です。私たちのできることは、主イエス様が自分とともに十字架にお架かりになり、自分の死に導いてくださったことを感謝することだけです。
イエス様に感謝し、この事実の光のうちを歩みましょう。そうするとき詩篇のみことばがわれわれのものとなります。詩篇の106篇の12節。ひと文章です。

詩篇106:12
12そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

とあります。信じ、賛美した。
「イエス様は十字架の上にもうすでに亡くなられたということを信じますか。」、「もちろん信じています。」、けれど、なぜそれを信じているのでしょうか。
なぜならば、神のみことばである聖書にそれがはっきりと記されているからです。この神のみことばである聖書は、イエス様は私たちの罪のために亡くなられたばかりでなく、私たちとともに亡くなられたことを告げています。

ローマ人への手紙に戻りまして、5章の8節。私たちのためにキリストが死んでくださったと書いてあります。これが揺るがすことのできない事実です。
6章6節。私たちの古き人がキリストとともに十字架につけられた。これも揺るがすことのできない事実そのものです。
ローマ人への手紙6章8節。私たちはキリストとともに死んだと書いてあります。いうまでもなく、これも動かすことのできない事実です。

なぜ私たちはキリストとともに十字架につけられたのでしょうか。また私たちが十字架につけられた日付はいつでしょうか。昨日だったのでしょうか、今日でしょうか。または明日なのでしょうか。
神のみことばである聖書は、私たちはキリストとともに、キリストと同時に死んだと言っています。私たちが十字架につけられて死んだのは、あの2,000年前に十字架につけられ、亡くなられた主イエス様と同時に十字架につけられた歴史的な事実です。
なぜ私たちは主イエス様が十字架で亡くなられたということを信じているのでしょうか。感ずるようになったのでしょうか。決してそうではない。私たちはイエス様が亡くなられたことを感じたことが今までに無いと思う。私たちが信じているのは神のみことばである聖書にそう書いてあるからです。

イエス様とともに二人の強盗が十字架につけられたのです。このことも私たちは感ずることはできないけれど信じています。どうして?神のみことばである聖書はそう言っているからです。
イエス様が十字架にお架かりになったこと、そして亡くなられたこと、またイエス様とともに二人の強盗が十字架につけられて死んだことを信じていますけれど、私たちもともに十字架につけられたしまったということを信じているのでしょうか。

二人の強盗は違う十字架につけられました。また主イエス様とは時間を異にして死にました。けれど私たちはイエス様と同じ十字架に架かり、同じ時間に死んだのです。
どうしたらこの事実を信じることができるのでしょうか。イエス様ご自身がそう言われたから信ずることができる。
この知識は私たちの感情とは何の関わりもありません。私たちがそれを信じようが信じまいが、主イエス様が十字架に架かって亡くなられたのは歴史的な事実です。同じように、私たちがイエス様とともに十字架につけられて死んだという事実は、私たちが感じようが感じまいが歴史的な事実です。

イエス様が十字架で亡くなり、強盗も十字架で死んだということも事実です。同じように私たちも主とともに十字架で死んだ。これも動かすことのできない事実です。私たちはもう死んだのです。運命のサイコロはもうすでに振られてしまいました。
ローマ人への手紙6章7節。すでに死んだ者は、罪から解放されていると書いてありますが、これは信ずる者にとっては実に喜ばしい訪れではないでしょうか。
私たちが十字架に架かるということは、私たちがどんなに意思を働かせても、もがいて努力しても自分の体験となるものではありません。これはただ、もうすでに成されたわざを信仰によって受け取り、自分のものとする以外に方法はありません。

私たちはどうやって救われたのでしょうか。聖書を勉強することによってでしょうか。祈ることによって、集会に来ることによって、また献金することによって救われたのでしょうか。
決してそうではありません。私たちはあるとき、もうすでにイエス様が自分のために成していてくださったみわざを見つけ出し、それを、その救いのみわざを心に受け入れ、感謝したのです。そのとき、自分の心のうちに喜びと平安と望みが湧いて来たのです。

絶えず覚えるべきなのは救いと主イエス様の聖きに至ること。赦しと解放は同じ土台の上にあるということです。
私たちは罪を赦されたのと同じように、罪からも全く解放されることができるのです。父なる神が用いられる解放の方法は人間の用いるそれとは全く異なっています。
人間は罪を下に押さえつけ、その上を乗り越えて行くことにより解放されようとしますが、主なる神の方法はそれとは異なります。父は古き人を、罪人を捨て去ってしまうという方法を取られます。

多くの信者は自分の弱さを悲しんでいます。「もっと強ければ良いのですが、」と考えます。
私たちが失敗しますと、その失敗の体験は私たちをしばしば過った結論に導きます。それがどういう結果になるかと言いますと、「一生懸命努力して自分の力で解放されなければ、」と考える結果になってしまいます。
罪の力を深く身に覚えます。また罪の力に対する自分の力なさをしみじみ味わいます。そのときに願い求めるのは力です。何とかして罪に打ち勝つ力を得なければならないと努力します。もっと強くなりさえすれば、この性格的に弱い点が強くなりさえすればと考えて悲しくなってしまいます。

けれどそのようにおのれをあわれむのは、主なる神の取られる解放の道ではありません。主なる神のお持ちになる、われわれを解放する方法は私たちを段々強くすることではありません。日増しに私たちを弱くすることです。
主なる神は私たちに罪の力からの解放を成し遂げてくださいます。それは私たちの古き人を強めることによってではなく、私たちの古き人の働きを殺すことによって成し遂げてくださいます。これを知っている人は自分で努力することをしないでしょう。
今まで私たちは、「どうしても何を知らなければならないのでしょう。」、その答えは私たちがイエス様とともに十字架につけられたということは歴史的な事実であるということです。

第二番目。私たちはいかにしてこの歴史的事実を知らなければならないのでしょうか。
この答えは啓示によってです。私たちはこの事実をどうしても啓示によって知らなければなりません。キリスト者の第一歩は啓示による知識で始まるはずのものです。

(テープ A面 → B面)

・・・色々な真理についての教え、また頭の知識がありますが、それらとは全く違った性質のものです。
私たちの心の目が開かれ、イエス様のうちに私たちが何を持っているか、それがわかったときに、この啓示による知識を自分のものとしたことになります。

私たちはなぜ自分の罪が赦されたということを知っているのでしょうか。その知識はどこから来たのでしょうか。だれかが教えてくれたのでしょうか。
そうではないでしょう。この知識はイエス様ご自身が啓示によって上から与えてくださったのです。
もちろん聖書の中には罪の赦しのことがらが書かれてあります。けれどもこれが自分自身のものとして当てはまるには栄光の父が、すなわちまことの唯一の主なる神が、知恵と啓示との霊を私たちに与えるときに初めて私たちのものとなることができるのです。

聖書に書かれている主のみことばはわれわれにとっては生きたことばとなる必要があります。
罪の赦しは啓示によって自分のものとなることができましたが、罪の力からの解放の場合も同じです。もし私たちが心の目をはっきりと開き、イエス様のうちに自分ももうすでに死んでいることをみると、罪の力の驚くべき解放を体験することができるのです。ローマ人への手紙6章にはこのことが書き記されています。

みことばを暗記することができるでしょうけれど、その知識では十分ではありません。私はキリストとともに十字架につけられたという事実を、啓示によって知らなければダメです。
私たちはそれを感ずることも理解することも、またいっぺんに飲み込むこともできません。けれどそれを知っています。頭でははっきりと理解できなくても救われたこと、イエス様とともに十字架につけられたことは知らず知らずの間に自分のものとなっています。啓示によって知ったのです。
もし私たちは自分がイエス様とともに十字架につけられたという事実を啓示によって知るならば、その知識は何ものによっても動かすことはできない深い知識となります。

勝利の生活を送っている兄弟姉妹に会いますが、それらの方々に、「どうして?どうしたらそうなったのでしょうか。」と尋ねると、その答えは確かにまちまちです。
たいていの人はそのようなとき自分の体験だけが正しいということを主張するために、自分の好きなみことばだけを言います。これはちょっと悲しむべきことと言わなければならない。その兄弟姉妹が経験した特別な経験や特別な教えはそんなに大切ではないからです。

その人がその経験によって主イエス様を、または主イエス様が成されたみわざを心の目で見たかどうかが大切なのではないでしょうか。
もし兄弟姉妹の体験が、また証しが主イエス様からあんまり離れていて、あまりイエス様と関係がないようなら役に立たないものであるということです。パウロはこの点を強調して述べたのです。このローマ人への手紙6章6節です。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

原語を見ると、「確信する。」となっています。

前に中国で、ずっと何十年間、福音を宣べ伝えたイギリス人だったのですけれど、あるときから非常に悩むようになり、戦うようになったのです。
彼は自分のうちからイエス様のあふれるいのちが流れて、流れいずるような生活を心から願い求めていました。けれどどうしたらイエス様の中にとどまることができるか、その術を知らなかったのです。懸命に努力しましたけれど無駄だった。けれど突然彼に解放の日がやって来ました。
あるとき彼は御霊によって心の目が開かれ、自分がもうすでにイエス様とともになり、主とともに死に、主とともに葬られ、またもうすでにイエス様とともによみがえって、天に座ししめられたということを知ったのです。

イエス様は彼にこれらのことをみことばを通してお語りになりましたから、イエス様は私よりもすべてのことをよくご存知のお方である。私は主のみことばを信頼し、しっかりと信仰の計算をして踏み出そうと自ら信仰を固めました。このときより彼は驚くべき勝利の生活にはいることができたのです。
彼はイエス様がぶどうの木であり、自分がその枝である。私はぶどうの木の一部分である。このことは前からそうだったのであって、今そうなったのではないということを知ったのです。今さら、「主イエス様よ。私をぶどうの木の枝にしてください。」と言うことは愚かしいことだということを知ったのです。
平安の中にいる人は、一生懸命その平安にはいりたいと思い、努力するなどということはもちろん考えられないことです。馬鹿げたことです。

同じように、もし私たちが啓示により心の目が開かれ、私たちはもうすでにイエス様のうちにあるということを知るならば、主イエス様のうちにはいろうともがくことはなくなるはずです。
多くの啓示をもらえるとなると私たちは願うことが少なくなる。イエス様に感謝することが多くなるでしょう。なぜなら私たちはそんなに自分のことについてならう必要はない。もうすでにイエス様が成してしまっていたことに目が開かれていないからではないでしょうか。

今ひとりの信者が自分の霊的な状態を顧みて非常に悩んでいます。この人はほかの信者の勝利に満ちた立派な生活を見て、自分はあんなのではない。自分は信者ではないのではないかというところまで考え込んでしまいました。
そこへふたりの信者がやって来ます。その人に同情して、二時間以上も「あなたはイエス様から離れては何事も成すことができない。」、また、「イエス様から離れては何も得ることができない。何も経験することができないのですよ。」と一生懸命に話しますが、やはりダメでした。

終わりに、その悩んでいる信者がふたりに言いました。「私はもっと、もっとやっぱり祈らなくてはならないでしょう。」、ふたりは、「イエス様はもうすでにあなたにすべてのものを備え、与えていてくださるのですから、別に祈り求める必要はない。今さら必要ないよ。」と。
すると悩めるキリスト者は、「イエス様はまだ私にすべてを与えてくださっておりません。もしイエス様が私に全部を与えていてくださったなら、私はこんなにすぐ怒ったり、また、相変わらずこの弱い性格でいるはずはない。」と言います。「ですから私はもっともっと祈らなくてはならない。」
二人は、「あなたは祈れば祈ったことを全部もらえますか?」悩める信者はこれに対して、「残念ながら何も今までもらえませんでした。」と告白せざるを得ませんでした。そこでふたりはその人に、「自分は救われたときに、何も努力することをしませんでした。また同じように自分が聖きに至るためにも努力も必要としません。」と言いました。

そこで三番目の兄弟が入って来て、その話を耳にし、側にあった魔法瓶を、悩める兄弟に見せ、「きみ、今もしこの魔法瓶が、『どうか私を魔法瓶にしてください。』と祈ったとしたならば、あなたはどう思いますか。」、「それはおかしい。もうすでに魔法瓶なのですから、魔法瓶にしてくださいなどと祈ることはおかしい。」と。
「きみ、そうだよ。しかしあなたも今まで魔法瓶と同じような愚かしいことをやり続けてきたのではないでしょうか。主なる神はあなたを永遠の昔よりイエス様のうちに置き給い、キリストとともに死なしめ、キリストとともによみがえらせられる、すでに新しいいのち、勝利のいのちに生きているのです。ですから『私を主ととともに十字架につけてください。よみがえらせてください。勝利の生活を送らせてください。』などと祈る必要はもうないのです。」

イエス様は、「あなたは信じる。あなたはよみがえりのいのちを持っている。」と言っています。あなたがいくら祈っても、その祈りは魔法瓶の祈りと少しも違ったところのない愚かな祈りです。
私たちはこのこと、あのことのために祈る必要はない。もうすでにイエス様が成してくださったことに心の目を留めることが必要なだけです。

私たちは、私たちの古き人が主のように懸命に努力する必要はない。また、死ぬまで辛抱して待つ必要はない。私たちはもうすでに死んでしまっているのですから。私たちはただイエス様の流されたことを心の目で見て、それに対し心からなる祈りをささげさえすれば良いのです。
「天のお父様。感謝します。私のような者をイエス様のうちに置いてくださった。イエス様のうちに、またキリストとともにすべてのものを与えてくださったことを心から感謝します。」と言えば良いのです。

初めに私たちは何を知らなければならないのでしょうかという疑問について考えました。それに対する答えは、私たちは主とともに十字架の上で死んだということは、歴史的な事実であるということを学びました。
また今は第二番目として、事実をいかにして知るべきかということについて考えてまいりました。それは啓示によって知らなければならないということでした。

今度は最後に短く、私たちは第三番目、なぜこの事実をどうしても知らなければならないのでしょうか。
それはイエス様の十字架は私たちの持っている問題の根にまで、解決のメスを入れてくださるからです。
私たちは持っているあらゆる問題をその根まで解決してくれるためには十字架が必要です。

今、ある国の政府が、「酒の害は大変ひどい。以後酒を呑んではいかん。」という法律を設けたとします。そして警察ではあらゆるバーや酒場に行って、酒を没収したとします。これで酒を完全に取り締まることができるのでしょうか。
それだけではいけない。酒を作る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立たないでしょう。私は工場です。私たちの行ないは酒という製品です。
イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりをなさいました。けれどイエス様はそれだけでは満足されません。工場を潰してしまいたいのです。罪人をどうにかしてしまわなければならないと思っておられるのです。

イエス様の血は全く十分でしたから、私たちは罪の赦しを努力無しにいただきました。同じように私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。
イエス様は全き救いを成し遂げたとき、製品、すなわち罪ばかりでなく、工場、すなわち罪人自体のことをもお考えになっておられました。
イエス様の血潮は全ての罪、おのおの一つ一つの罪から私たちを聖めてくださいます。それとともにイエス様は私たちの古き人、アダムから受け継いだ罪の性質を十字架につけて死んでくださいました。

どうかこの事実を、この永遠なる事実を啓示によって見ることができますように。そうするなら全ての問題を氷が溶けるように解決してしまいます。
もう一回ローマ人への手紙6章6節をお読みします。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ここに、「私たちは知っています。」とありますが、私たちはこれを実際に知っているのでしょうか。それとも知らないのでしょうか。

ローマ人への手紙6:3
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

イエス様が私たちの心の目を開いてくださいますように。




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