引用聖句:ヨシュア記14章6節-14節
今、兄弟が、祈りの中で、走り続けなくちゃいけない大切さについて言われたんですけど、今日は、「最後まで従い通す秘訣」について考えたいと思います。 10節を見ると、カレブはもしかすると、ちょうど自分の85歳の誕生日に頼んだんです。「どうか与えてください。モーセによって約束されたヘブロンという地を与えてください。」 ヘブロンという町とは、大体、世界一の最もすごい町であるかもしれない。ヘブロンという意味は、「つながり」、「結び付き」、「交わり」のような意味です。もちろん、カレブにとってどうしても必要であるのは、大切なのは、主との交わりをもつことです。主とつながってることです。 主と結び付いていなければ、結局まことの喜びもないし、平安もありえないなのです。本当の交わりの秘訣とは、一体何なのでしょうか。ヨハネはヨハネの手紙第Iの1章7節に、 ヨハネの手紙第I、1:7
光のうちに歩むことこそが、交わりの秘訣です。 主は結局、「最後まで走りましょう。」と呼んでおられます。ヨハネの黙示録の中で、色々なすばらしい約束があります。 ヨハネの黙示録21:7
ヨハネの黙示録3:21
考えられない、想像できない、約束です。 民数記の14章の24節で、カレブについて書き記されていますが、 民数記14:24
結局、子孫も救われるようになるだけではなく、結局主との交わりのすばらしさも知るようになる。前に話したように、主の恵みにあずかることとは、すなわち救われることこそが、考えられないほどすばらしい宝物ですけど、救われることだけでは、聖書によると、決して決して十分ではない。 イエス様をよりよく知ること、イエス様と一つに結び付くこと、イエス様に用いられることはどうしても必要です。今の激動と混乱と堕落の時代にあって、悩み、苦しみを超越した兄弟姉妹は、本当に必要な者として探し求められてます。勝利を得る者だけが、相続人となることができるのです。 そういう人々の日常生活は、荒野を行くようなものであり、人間の助けではどうにもならず、どうしても主イエス様の助けを必要とするものです。 一般的なキリスト者の日常生活は、敗北の生活ではないでしょうか。ですから勝利を得る者が、探し求められています。この勝利を得る者の一つの実例は、今から大体3,500年前のカレブです。 イエス様を知るようになった者は、もうこれで安心だと思い込んでしまわないためにも、どうしてもカレブの信仰を心に留めていただきたいのです。 カレブのことについて三つのことを一緒に見てみたいと思います。 第一番目、カレブが絶えず主により頼んだことです。 第二番目、いかなる状況の中、でカレブは主により頼んだのかということについて。そして、 第三番目、どうして彼は主により頼むことができたのか。 この三つの点について、少しだけ一緒に考えてみたいと思います。 まず一番目。カレブという男は、絶えず主により頼んだのです。カレブの名前は、確かに新約聖書の中に一回も出てきません。けど、彼の生涯は、不信仰と堕落の世界の真っ只中にあって、不動の信仰の模範的な実例なのではないでしょうか。 確かにその当時の人たちは、一度主を知っており、また主の御心ろを知っていたんですけど、実際は主の御心よりもそしてまた、主の御名の栄光よりも、自分自身の自我を大切にしていたのです。 カレブの場合は、まったく別でした。カレブは自分について、次のように証ししたのです。ヨシュア記の14章でしたね。 ヨシュア記14:8
普通だったらなかなか言えないなのではないでしょうか。けども彼は、そう言っただけじゃなくて、本当にそういう喜びをもっていたのです。 私は私の神、主に従いました。けども彼だけではなく、モーセもカレブについて同じことを言えたのです。 ヨシュア記14:9
結局、カレブの証しとは嘘ではなかったのです。モーセも、「その通り。」と言ったのです。もちろん決定的に大切なのは、カレブの自分の思ってること、モーセの考えてることじゃなくて、主ご自身の考えなのではないでしょうか。 主ご自身の判断とは、14節に書き記されていますね。 ヨシュア記14:14
それですから、カレブの生涯は、私たちが不信仰と堕落の真っ只中にあって、いかに勝利を得る者となることができるかを私たちに示すことができます。 もちろん当時のイスラエル人は、主によって選ばれた民であり、ほふられた小羊の流された血潮によって贖われ、エジプトの王パロから解放されたのです。彼らは主の救いを喜び、主に従おうと心から願っていた人々でした。しかし大部分の人々は途中で挫折し、ダメになり、主の誉れよりもむしろ主の恥となってしまったのです。 主イエス様の恵みによって救われた兄弟姉妹は、だれでも確かに新しい人生の再出発を経験なさったわけですけど、大切なことはこれからの歩みです。 それですから、カレブと同じように絶えず主により頼み、主に従い通すことが必要です。私たちひとり残らず人生の終わりにあたって、この兄弟、あの姉妹は本当に最後まで忠実に主に従い通したと言われるならば、本当に幸いです。 次に第二の点、すなわちカレブはどのような情勢の中で主により頼んだのかについて、ちょっとだけ見てみたいと思います。その前、私たちはさらに三つに分けて考えてみると、分かりやすいと思います。 すなわち第一番目、自分の兄弟たちに捨てられたとき。第二番目、人々によって攻撃されたとき。そして第三番目、荒野の試練を受けたときにカレブはいかに主により頼んだかということです。もう一回ヨシュア記の14章8節読みます。 ヨシュア記14:8
元々身内の者たちは、カレブを助けるべきだったでしょう。そのためにこそ、兄弟というのがいるのです。けど彼らは、主の声に聞き従うよりも、自分の理性の行為に聞き従うようになったのです。 しかも彼らの心が分かれてしまったから、カレブを助けることができなかったのです。確かにヨシュアもまた主により頼んでいました。しかしカレブは、ある程度まで単独で、孤独でした。 というのは、ヨシュアは、特別な知恵と多くの特権を持っていたからです。カレブとまったく違う。 ヨシュアはその当時すでに、イスラエルの軍勢を率いる地位にあり、しかも主なる神の友であるモーセと、非常の親しい関係にあり、しかも勝利はイスラエルのすべての民を率いる指導者となるように選ばれていたのです。これに対してカレブという男は、ほかの普通の人たちとまったく変わらない身分でした。 イスラエルの十二部族から選ばれた十二人の代表者が、カナンの地に遣わされ、そのカナンの地の豊かさを見るとともに、それに入ることが多くの困難を伴うことをも分かりました。 そのために遣わされた人たちは、カナンの地に入ることができないと絶望してしまったのです。けども、二人だけ違う態度取ったのです。ヨシュアとカレブです。 この二人だけ別でした。なぜなら彼らは、人間の力では不可能であっても、主にとって不可能なことはない。必ず、奇跡のみわざをなしてくださると信じ疑わなかったのです。このようにして二人は、主にだけより頼んだ結果、人々から誤解され、迫害され、殺されそうにまでもなったのです。 霊的な前進は、反対なしにはありえないでしょう。もし信者が周囲の状況を見て、その問題や困難に心奪われて、主の約束に頼らないで、諦めてしまうならば、これこそが悲劇的です。 当時の信者たちは、暗やみしか見ることができず、主とともに前進しようとはあえてしなかったのです。そのような状況の中にあってもカレブは、絶えず主により頼みました。 彼の兄弟たちは、彼を見捨てました。けどそれはカレブにとって、断念する理由とはならなかったのです。 信仰とは、信頼というものとは、まったく個人的なことがらです。私たちはその点でうまくいけなかったときでも、その責任をほかの人のせいにすることはできません。カレブはカナンの地に入ることを妨げる者を実際に見ましたし、そしてまた、自分自身の不十分さをももちろんよく分かったんです。 けどそれにも関わらず彼は、主にだけより頼みました。 私たちもまた、色々な問題や、困難に出遭って、試練を受けますけど、しかしそのときカレブと同じように、どんなことがあっても主により頼むならば、勝利を得る者となることができます。そして私たちは勝利を得る者となることができるのですから、そのようにならなければならない。 カレブは兄弟に見捨てられたときに、主により頼んだだけではなく、第二番目、人々によって攻撃されたときにも、主にだけより頼みました。あらゆる誤解や非難にも関わらず、堅く信仰に立つことは大切です。 私たちは心ひとつにして、主に従えば、人々から尊敬されと思いがちですけど、しかしもしもそうではなくて、それとは反対のことが実際に起こったとしたならば、それは私たちにとって大変な、大きなショックとなります。 彼もまた、こうした暗い経験をもたなければなりませんでした。民数記の13章を見ると次のように書かれています。 民数記13:30
この言葉を見ると、カレブの心の状態はどのようなものであったか明らかになります。 民数記14:8-10
99%だけではない、 民数記14:10
その前に必要じゃなかったでしょう、 民数記14:10
カレブに対する反対は、結局憎しみに変わりましたが、それは一体どうしてそんなことになったなのでしょうか。カレブはただ、真理だけを宣べ伝えたからです。民は真理に耳を傾けたくなかったので、そして主に徹頭徹尾従い通そうとはしなかったゆえに、カレブを殺そうとしたのです。 そのようにして、カレブは辛い経験をしましたが、主にだけより頼む人は、だれでも同じ経験をするなのではないでしょうか。信者はただ主にだけより頼まないと、感傷的になり、目暗となり、悪魔の虜となってしまいます。 しかしカレブが殺されそうになったとき、その瞬間、主の栄光が現われ、カレブを助けました。主に信頼する者は、失望させられ得ない。そのときカレブは、何一つ知恵掃除を講じませんでした。主がカレブを助け、守ってくださったのです。 私たちも同じように、主にだけより頼むならば、なにものも恐れる必要はない。主はそのとき、私たちのがわに立ってくださるからです。そのとき神に反抗したり、カレブを攻撃した人たちは、次々と死にました。みな。99%だけじゃなくて、みんな途中で死にました。二十歳以上の人々。 不信仰が支配するところには、霊的な死もまた支配するようになります。民数記の14章の38節。ヨシュアとカレブは生き残ったと報告されています。不動の信仰の道は、常にいのちの至る道です。 今まで私たちは、カレブは自分の兄弟たちに捨てられたとき、そして二番目、人々に攻撃されたときも、いかに主により頼んだことを見ましたが、今度は第三番目になりますけど、荒野の試練を受けたときも、彼が主にだけより頼んだ様子を見てみたいと思います。 ヨシュア記の14章に戻りまして、 ヨシュア記14:10
カレブは、ただ単に困ったときや、うまくいってるときに、一時的に主により頼んだだけじゃなくて、失望や、どうしたらいいか分からない状態が何度も現われた、40年間という長い年月をとおして、絶えず主により頼みました。不信仰は決して待つことができませんし、また待ちたくないと思ってしまいます。 あるときイスラエルの民は、カナンの地に入ろうと一生懸命努力したことがあったんです。けど結局ダメでした。敗北に終わってしまったのです。そのとき彼らは、結局主に頼ろうとしないで、主にご命令に従わず、勝手なことをしてしまったからです。徹底的にへりくだり、罪を悔い改めなければ、その人を主は導きになることができません。 民数記14:29
主に従おうとしなかった二十歳以上の者たちはみな、荒野で倒れてしまいました。ですから、約束の地に入った者たちは、まったく新しい世代の者たちでした。主により頼む者は、ただ単に信仰によって歩む心構えをもち、それを実践するだけではなく、主のときが来るまで待たなければなりませんし、主の試練を受けなければならない。 カレブは長い年月をとおして主は必ず最善をなしてくださると信じ、主に従い通し、すべてを主にゆだねました。 第三番目、最後になりますけど、どうしてカレブは、絶えず主により頼むことができたなのでしょうか。 勝利の秘訣は二つです。第一番目、主の真実さです。二番目、ほかの者と違った心をもつことです。まず、主の真実さについてちょっと見てみることにしましょう。 死が支配する砂漠や荒野の中でも、カレブは生き続けました。二十歳以上の人々はみな荒野で倒れて死にましたけど、ヨシュアとカレブだけが、生き残りました。なぜなら彼らは絶えず真実なる主を見上げていたからです。ヨシュア記の14章の10節を見ると、次のように書かれています。 ヨシュア記14:10
主により頼まない残りの人たちは、みんな自分のいのちを保とうと努力しましたけど、結局失ってしまったのです。11節に書いてありますように、 ヨシュア記14:11
最初はカレブは、イスラエルの民と説得しようと、色々話し合うようにと努めていたなのではないでしょうか。けどもいくら努めても・・・・・ (テープ A面 → B面) ・・・・・ないかと思ったかもしれない。 カレブは忍耐して、主の約束は必ず成就すると信じ続けました。忍耐とは、決して弱さのようなものではありません。カレブは、壮健であり続けました。これは主の力の現われです。 カレブは死んだ人たちと同じ苦しみを経験しました。すなわち飢え渇き、荒野の単調さ、いっつも同じものを食べることなどでした。けども彼はすべてをともにしたのです。けど、結局、前と同じ力に満たされていたのであります。ちょっと考えられない。 40歳の人と、85歳の人とちょっと違うなのではないでしょうか。しかし同じだったらしい。40歳のときと、85歳のときと同じ力をもつということは、奇跡以外のなにものでもない。この奇跡の秘訣は、真実なる主により頼むことでした。 私たちが自分の力で主の御心を行なおうとするとき、初めは大成功に輝くかのように見えるかもしれないけど、やがて打ちのめされてしまいます。 時の経過とともに、私たちは徹頭徹尾試練に遭います。しかしこれは、私たちがただ主イエスお一人だけにより頼むか否かが、明らかにされるためです。 主により頼む者は、荒野の中でも新たなる力を得ます。カレブはただ単に、約束の地カナンに入っただけではなく、自分に前から約束されていたヘブロンという地をも、自分のものとすることが許されたのです。 色々な問題は、何年間も続きましたが、カレブはただ主により頼みましたから、主の約束の実現を経験することができたのです。 ヘブロンは、カレブのものになるということは、主によって約束されていましたが、周囲の人たちは、だれも信じようとはしませんでした。けどもカレブは、真実なる主の御約束により頼み続けましたから、主は、必ずご自分の約束を守ってくださるということを経験することができたのです。 カレブはいつ、約束の地に入れるか全然分かりませんでしたが、一瞬たりといえども、主の目標を忘れることがありませんでした。それですから、45年経ってから、約束のヘブロンの地に入ることができたとき、すこしも驚かず、これはすべて真実なる主のなさった当然のことであると信じて、疑いませんでした。 カレブは、主の啓示にしっかりとより頼み、ただ一つの主の目標だけをもって、主の真実にまったくより頼みました。そのような人々は、主の奇跡を経験するのです。 民数記14:24
と、主は約束してくださっただけではなく、そのことを実際にカレブは経験しました。カレブはどうして主により頼むことができたなのでしょうか。初めての答えは、主は真実だからです。変わらないお方であるからです。奇跡をなすお方であるからです。 第二番目の答えは、カレブが、今読みました箇所によると、ほかの者と違った心を持っていたからです。 カレブの生涯は、私たちもまたカレブと同じように、主に対する全き献身するようにとの呼びかけの意味をもっています。 私たちは今日、不信仰と混乱とによって囲まれています。主の明らかな目的は、まだ今のところ、完全に実現されたわけではありません。例えば、私たちの家族がすべてイエス様を信ずるようになったとはかぎらない。ですから私たちの信仰は、試されています。 すべてを主にゆだねましょう。そうして主が大いなるみわざをなしてくださるのを待ち望みましょう。そうすれば今は不可能なことも、実現されていないことも、やがては成就されます。 カレブの生涯を通して分かることは、大切なのは、われわれの真剣さや、真面目さや、努力ではなく、ほかの者と違った心を持つことです。最後まで主に従い通すためには、ほかの者と違った心を持つことが、どうしても必要です。 荒野での数年間は、決して無駄なものではなかったのです。二十歳以上の者たち、すなわち古い、年とった者たちは、すべて取り除かなければなりませんでした。この辛い経験を通して、まったく新しい世代、すなわち主を大事にする世代が生まれたのです。 ここで私たちは、一つの実例を、ヨシュア記の15章を見てみましょうか。 ヨシュア記15:16-17
とあります。オテニエルという言葉の意味は、「神の力」です。それはすなわち、荒野での長い年月を通して、まったく新しい力が働くようになった事実と密接な関連をもっています。オテニエルは、主なる神の真実さを信じ、敵に対して勝利をおさめ、敵の地位を自分のものとしたために、主の約束を実現していただくことができました。 このオテニエルはカレブの甥でした。荒野での生活を通して、カレブだけではなく、カレブの家全体が、親戚をも含めてみな絶えず主により頼むようになったのです。 カレブの娘アクサも同じ霊に満たされ、すなわち一番大切なところを、泉を取ろうとしたのです。そして得られました。 士師記1:14
アクサのことです。 士師記1:14-15
ヨシュア記15:19
と、同じことが書かれいます。カレブの家族、親戚たちもまたカレブと同じように、すなわちほかの者と違った心を持っていたのです。自分だけではなく、ほかの人々もまた同じように、勝利を得る者となることは、カレブの初めてから持っていた切なる願いでした。 モーセやヨシュアといった人たちは、確かに公に認められた偉大なる指導者でしたが、これに対してカレブは、目立たない存在でした。けど彼の存在は、主の目から見ると極めて大切な意味をもっていました。 カレブはすなわち、ほかの者と違った心を持っていましたから、御心にかなう者でした。私たちも弱く意味の無い存在、したがって、強くも賢くもない存在であるため、何にもできないと思ってしまいがちです。 けど私たち一人一人を通して、大いなるみわざがなされるべきです。それは可能であるばかりでなく、必要でもあります。勝利をもうすでに得られた主イエス様を通して、それは可能となります。 イエス様の御霊が自由に私たちのうちに、また私たちを通して働くことができるようになると、私たちはほかの者と違った心を持つ者となります。そのことによって人々は、引きつけられるようになり、そして主のご栄光を受けるようになるに違いない。 私たちひとり残らずカレブと同じように、豊かに用いられる器となることができますように。 |