引用聖句:出エジプト記40章1節、16節、34節
列王記第I、8:11
エゼキエル書44:4
ヨハネの福音書1:14
今朝の題名は、「従ったほうがいい」という題名であります。どうして従ったほうがいいのでしょうか。ご主人だからです。 もちろんもしご主人は、「あんた洗礼を受けると離婚だよ。」と言えば、洗礼、一応やめたほうがいい。そのあとでご主人と一緒に受けたほうがいいじゃないか。 あなたの洗礼よりもやっぱりご主人のほうが、ご主人の救いのほうが大切なのではないか。けどももしご主人が「信仰を捨てろ。」と言えば、もちろん従え得ないのです。 従ったほうがいい。どうしてでしょうか。親だからです。もし、どうしても結婚したいと思っても、やっぱり親が賛成するまで待ってたほうがいい。 親を無視して結婚した人々は必ずあとで悩みます。うまくいくはずはない。もちろんいうまでもなく、人間よりも主なる神に従うべきです。 どうして従ったほうがいいかと言いますと、絶対に主に従うと後悔しないから。損しないからです。 どうして従うべきなのでしょうか。もちろん納得したからなのではない。わかったからでもない。 最近、うちの娘はひとつの本のためによく宣伝してるんですね。「信仰とは感情ではない」そういう題なんです。 私はまだ読んでいないけど、非常にいい本だそうです。 何かを感じたから信ずるのではない。理解できたから従うのではない。結局、主を知るため、よりよく知るため。主のご栄光を拝するために従うべきです。 今読まれました箇所の中で、まずモーセについて書かれています。モーセは主に祈ったことがあるんです。 「主よ。あなたの栄光を私に見させてください。」、この祈りは聞かれたのです。モーセは主の栄光を見たのです。 いったいどうしてでしょうか。従ったから。 出エジプト記40:1
出エジプト記40:16
出エジプト記40:34
従った結果は、主の栄光を拝することでした。そしてソロモンの時代の祭司たちも、同じように主の栄光を見たのです。 列王記第I、8:11
とあります。もちろんエゼキエルという預言者も同じことを経験することができたのです。 エゼキエル書44:4
拝んだ。礼拝せざるを得なくなったと。そしてイエス様の弟子たちとはもちろん同じことを経験しました。 ヨハネの福音書1:16
と証しすることができたのです。 初代教会の初めての殉教者であるステパノも、主の栄光を見たと使徒の働き7章に書き記されています。 彼らはかの心無い人々に迫害されたとき、彼に神の栄光が現われ、イエスが神の右に立っておられるのが見えたと書いてあります。 パウロはテサロニケにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:12
とあります。 すなわち私たちは主なる神によって、御国とその栄光とに召された者であります。 なぜ主のご栄光が当時の幕屋に満ち満ちたのでしょうか。また、どうして弟子たちは主のご栄光を拝し、ステパノは主のご栄光を見ることができたのでしょうか。 私たちに関しても聖書は私たちを御国と栄光に召したとは言ってるのですから、私たちはこの栄光とはいったい何なのでしょうかという疑問をもつのは当然です。 栄光とは何なのでしょうか。ヘブル人への手紙の1章3節を見ると、ひとつの答えが出ると思います。 ヘブル人への手紙1:3
この箇所によるとはっきり納得なのは、私たちの主イエス様ご自身、父なる神の栄光の輝きそのものである。 もう一ヶ所、ペテロの手紙第Iの4章の14節。次のように書かれてます。 ペテロの手紙第I、4:14
同情すべきなのではない。気の毒なのではない。しあわせです。 ペテロの手紙第I、4:14
ここで、聖霊は栄光の霊であると書いてあります。この二つのみことばは、われわれの疑問に答えるものなのではないでしょうか。 すなわち、栄光とは何なのでしょうか。われわれに現わされた主のご臨在こそ栄光です。 イエス様は神の栄光の輝きとして、天よりわれわれの住むこの地上においでになりました。弟子たちはこれを見て、私たちは神の栄光を見たと証ししたのです。 イエス様の上には主なる神のきよい霊が限りなく注がれていました。どうしてでしょうか。 イエス様は従順でした。父なる神のみこころに、まったくかなったお方だったからです。 イエス様が私たちの上にその御形を形造ってくださる、そのはかりにしたがって、その度合いの御値で私たちは主のご栄光を見ることができるのです。 三つの点に分けてちょっとだけいっしょに考えてみたいと思います。 ・第一番目。主に従う重要さ。 ・第二番目。従順の不従順の結果。 ・第三番目。全き信仰の要求。 まず、主に従う重要さについて考えたいと思います。いったいどうして主イエス様に従うことは、そんなに大切なのでしょうか。 イエス様はご自分のご臨在を現わしたい。ご自身のご栄光を明らかにしようと望んでおられるからです。 父なる神のご栄光は従順によって現われます。イエス様に従うなら、主の栄光を見ることができます。 イエス様は語るたびごとに、私たちが従うなら主のご臨在を経験することができ、主のご栄光を見ることができます。 日常生活において、主は私たちに、「これはいかん。」「あれはいけない。」「こうすべきだ。」と囁いてくださいます。 このどんなに小さな囁きにでも私たちが従順に聞き従うなら、主はご自身のご栄光を現わしてくださいます。 この栄光は、私たちをして、主、われとともにいますという確信に導きいれ、この確信は限りない平安と深い喜びに私たちを憩わせます。 イエス様に従順に従うなら、この主のご臨在とご栄光を経験することができます。この事実をちょっと五つの実例でもって見てみましょう。 ・第一番目。モーセ。 ・第二番目。イエス様の弟子たち。 ・第三番目。ラザロのお姉さんであるマルタ。 ・第四番目。アナニヤ。 ・第五番目。ペテロ。 です。まず、モーセについてちょっと考えたいと思います。 モーセは実に主に従順でした。聖書を読んでいくと、モーセは主が命じられたとおりにしたと何回も何回も書き記されています。 ちょっともう一回出エジプト記の40章を開いてみましょうか。ここで、同じ書の中で何回も同じ表現が出てきます。 出エジプト記40:19
出エジプト記40:21
出エジプト記40:23
出エジプト記40:25
出エジプト記40:27
出エジプト記40:29
出エジプト記40:32
そして、その従順の結果について34節に書かれてるように、 出エジプト記40:34
モーセは本当に従順でした。結果として彼は主のご栄光を見た。 二番目。弟子たちについてちょっと考えたいと思います。 弟子たちはさまざまな敗北のうちから、またさまざまな経験を通して私たちは主の栄光を見たと証しすることができたのですけど、この弟子たちの場合、主に対する従順の結果、主の栄光を見たということが見られるのです。 すなわち私たちと同じようにあの弟子たちも初めからすぐに主に従順に従えませんでした。 ヨハネの福音書11:7-8
ここを読むと弟子たちのイエス様に対する態度がどんなであったかわかるような気がいたします。 弟子たちは前にユダヤで迫害がされたことを思い出し、「イエス様。イエス様。あの迫害をお忘れになったのですか。これから行ったら、またとんでもないことになります。」と言って、尻込みしたわけです。 しかし弟子たちは最後には主イエス様に従ってユダヤにまいりました。この従順の結果は何だったのでしょうか。迫害だったのでしょうか。 そうではなく、主に従順に従った結果、驚くべき主のご栄光を拝することができたのです。 すなわち死人のラザロが死よりよみがえらせられた奇蹟を見ることができたのです。従ったのは良かった〜と彼らは言うようになったのです。 三番目。マルタについても同じことがわかります。 ヨハネの福音書11:39-40
主は確かに命令してくださったのです。「墓の石を取りのけなさい。」、これに対してマルタはすぐに主に従いませんでした。 「主よ。もう臭くなっています。死んでから私の弟ラザロは四日も経っていますから、とんでもない。もうダメです。」と言ったことでした。 けども最後にイエス様のみことばに従い、墓の石を取りのぞいたとき、死人のラザロは生き返り、墓から出て来ました。 驚くべき主のご栄光を拝することができたのです。もし不従順のために墓の石が取りのぞかれないでそのままにされていたなら、主のご栄光を決して見ることができなかったでしょう。 四番目。アナニヤについてもちょっと考えたいと思います。 使徒の働き9章の中で、彼について次のように書かれています。 使徒の働き9:10-11
使徒の働き9:13-14
イエス様がアナニヤに現われ、「アナニヤよ。サウロのところに行きなさい。」と言いました。 そのときアナニヤはすぐに主に従うことをしなかったのです。どう言ったかと言いますと、「主よ。とんでもない話ではないでしょうか。あなたは『行け。』と言われてるサウロとは、われわれを迫害する指導者です。恐ろしくて行くことはできません。」と言いました。 けど、彼も最後には主に従いました。そのときアナニヤはやはり従順の結果として主のご栄光を拝することができたのです。 もしあのときアナニヤが主に従わなかったならば、サウロは、のちのパウロはどうなったことでしょう。あの偉大な使徒パウロは生まれなかったに違いない。 五番目。ペテロについて考えてみると、同じく使徒の働き10章の13節、14節をお読みいたします。 使徒の働き10:13-14
彼は「主」と言ったんですけど、本当はそう思わなかったのです。主だったら従います。彼は従う気持ちがなかった。 使徒の働き10:14
確かに主はペテロにこれらの獣をほふって食べなさいと言われたとき、ペテロはやはり従順ではなかったのです。 主よ。聖書にきよくない物は食べてはならないと書いてあるのではないか。とんでもない話です。食べるわけにはまいりません。 ペテロはそのとき、ユダヤ人と同じく異邦の民も、神の祝福にあずかることができるのであるということを信じませんでしたし、考えられなかったのですけど、最後にペテロは主に従い、異邦人であるコルネリオのところへ行ったとき、主のご栄光を目の当たりに拝することができたのです。 すなわちコルネリオ及びその家族、また親族一同、そこに居合わせた人々みんな救われ、聖霊に満たされたのです。 正しい結論は、主に従いましょう。みことばに従いましょう。なぜならモーセや弟子たちやマルタやアナニヤ、ペテロのように主のご栄光を見ることが、主のご臨在を味わい知ることができるのであるからです。 今まで私たちはイエス様に従う重要さについて考えてまいりましたが、次に従順と不従順の結果について考えてみたいと思います。 私たちの従順の結果、また不従順の結果はいったいどういうものでありましょうか。 私たちの従うか従わないかの決定は実に大切です。すなわち主のご栄光を拝するか、または主の備えられている栄光を取り逃がしてしまうかのどちらかです。 もし、かのモーセが主に従わなかったら、主なる神のご栄光は幕屋に満ちなかったでしょう。 もし弟子たちはイエス様に従ってユダヤに行かなかったら、やはり主のご臨在、また主のご栄光を拝することができなかったでしょう。 もしアナニヤの従順なくして、パウロはいったいどうなっていたことでしょうか。もしペテロが主に従っていなかったなら、ペテロ自身もコルネリオも決して主のご栄光を拝することができなかったはずです。 われわれの決定によって私たちは主の栄光を見ることができますし、また天の窓を閉ざしてしまうこともできるのです。 マルタのように、「主よ。ラザロが四日間墓の中にいて、腐ってるのをお忘れになったのですか。」と言って石を取りのけることをしなかったならばどうでしょう。ラザロはよみがえられなかったばかりでなく、主のご栄光を拝することができなかったでしょう。 もし主が私たちに、「あの兄弟、この姉妹を訪問しなさい。」と語ったとき、「主よ。あの兄弟は意識して罪を犯し、この姉妹は自分の仕事を偶像のようにして集会に来ていません。とんでもない話です。何をやってもダメです。」と言うなら、同じように私たちは自分自身、信仰を進めることもできず、また主のご栄光を拝することもできないでしょう。 離れてるその兄弟姉妹もやはり主の豊かな祝福とご栄光に接することができないでしょう。私たちはどんな道を選んでるのでしょうか。 主の囁きに対して不従順で、主の栄光を拝する道を自ら閉ざしているのでしょうか。それとも、日々主に聞き従い、従順をもって主のご栄光を拝してるのでしょうか。 第三番目。全き信仰の要求。すなわち主の栄光を拝するには、全き信仰が必要であるということについてちょっと考えたいと思います。 主イエス様はマルタに、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われました。 ここでは、従うならと言われていないのです。もし信じるなら、と言われてます。けど、従順と信仰は同じなのではないでしょうか。 それをヘブル人への手紙の二つの箇所を調べてみると分かります。ここで著者は当時の信ずる者にイスラエルの経験について次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙3:19
そして、 ヘブル人への手紙4:6
とあります。ここではイスラエルの民がエジプトの国から救い出されて、40年間、荒野でさまよった・・・ (テープ A面 → B面) イスラエルの民は主がエジプトの国より実りを多く、カナンの国に導き入れてくださるという約束を不信仰のゆえに従わなかったのです。 すなわち、不従順のその根が不信仰です。モーセはいったいどうして主の栄光を拝することができたのでしょうか。それはモーセが主に示したそのとおりに幕屋を作ったからです。 マルタはなぜ主のご栄光を拝することができたのでしょうか。マルタは信じて、従って、墓の石を取りのけさせたからです。 もしあの墓の石を取り除かなかったら、死に打ち勝つ主のよみがえりの力は現わされなかったでしょう。 前に挙げました人々は、主に従いたくなくて従わなかったのではありませんでした。 ユダヤへ行って栄光を拝した弟子たちは、行く前にあれほどまでに迫害されたユダヤへなぜ再び主は行きたいのか理解できなかったんです。 マルタは、腐って匂いのする、4日間も墓の中に入ってる死人がよみがえるなどということは、マルタにとって到底理解できないことでした。 またあのアナニヤは、荒れ狂ってイエス様を信ずる者を迫害しているサウロが祈りの人、主の御名を呼び求める者となるとは、夢にも思っていなかったのです。 またペテロは、汚れた者を食べなさいという主のことばを理解することができなかったのです。理解できない、考えられない、想像することもできないということはやはり、不信仰のゆえですが、この不信仰は不従順となるにおよんで、その頂点に達します。 そのときの結果は天の窓が閉ざされ、主のご栄光を拝することができなくなるのです。 けどもモーセ、弟子たち、マルタ、アナニヤ、ペテロは、おのおの主の見境を拝するようになりました。どうしてでしょうか。 彼らは主に従順に従ったからです。箴言の3章5節。みなさんよく知ってる箇所なんですけども、短いけども非常に大切なことばです。ソロモン王の書いたことばです。 箴言3:5
どっちか決めなくちゃいけない。人間の与えられてる理性とは、外面を作る能力、結論を引き出す能力、判断を下す能力であり、しかもそれこそまさに人間に与えられてる宝物です。 けどもそれにも関わらず人間とは、なんと多くの見当違いや計算違い、あるいは意味のないことをして頭を抱え込むことでしょうか。 この理由から、主は私たちに対しても、心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるなと言っておられます。 信仰とは主なる神に対する絶対的な信頼です。これに対し人間の理性は、自分の体や命を心配しますが、その結果は不信仰に終わります。 信仰とは全知全能なる主のすべてを確信することです。これに対して人間の理性は、主なる神の全知全能なることを疑います。 これもまた不信仰の現われです。信仰とは目に見えないお方を見ます。これに対して人間の理性は、心配そうに目に見えるものを見るのです。これもまた不信仰の現われにほかなりません。 それゆえに主イエス様を信ずるということは、徹頭徹尾自らを主にゆだねることです。 信仰とは主なる神のみことばに対して、まったく従順であることを意味しています。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 理解することができず、馬鹿らしく見え、不可能に見えても、主の囁く声に従いましょう。そうするなら、主のご栄光により、不可能に見えたことが現実に可能となってきます。 一つの実例は、エレミヤ書に書かれています。 エレミヤ書32:6-9
主は預言者エレミヤに「アナトテにある畑を買いなさい。」と言われたとき、エレミヤは、「ふん、とんでもない。アナトテは恐るべき敵に住んでるカルデヤ人たちの地ではないか。」とは言わなかったのです。 敵のものとなった土地のために金を払うのは、人間的に考えればおかしい。馬鹿らしいことです。けどもエレミヤはアナトテの畑を買いました。なぜなら、主は、「この土地は近いうちにまたイスラエルのものとなる。」と約束してくださったからです。 本当に覚えるべきなのは、信仰生活における従順の結果は驚くべき豊かな主の祝福です。私たちは自分の考えに従うことなく、ただみことばにただちに従ってゆく信仰生活を送りたいものです。 エレミヤ書32:17
エレミヤ書32:27
われわれの主イエス様にとっては不可能なことは一つもありません。行って、アナトテにある畑を買いなさい。 主のことばを信じ、主に不可能なことはないことを信じ、従順に従うならば、驚くべき主の栄光を拝することができるのです。 主がみことばをもってわれわれに語ってくださったら、どんなに不可能に見えてもすべてをなしてくださる主の御力を信じ、目に見えるところ、不可能なことをやりましょう。そのとき主の豊かなる栄光と祝福を経験し、また見ることができるのです。 |