引用聖句:マタイの福音書11章28節-30節
マタイの福音書16:24-26
いわゆる宗教の中心とはいつも人間です。聖書の中心とは、もちろん主イエス様です。 行動なさるお方とはイエス様です。そして、イエス様の呼びかけとは未信者に対する呼びかけだけではなく、信ずる者に対する呼びかけでも同じようなものです。すなわち、 マタイの福音書11:28
数えられない多くの人々は、この呼びかけによって、この呼びかけに従うことによって解放され、幸せになりました。 人間のために、助けを求めている人のために、絶望しているひとのためにイエス様は生きておられます。 悔い改めと信仰を通してイエス様の現実と救いが明らかになります。けれども、悔い改めと信仰は決して人間からやって来るものではありません。まさに上から与えられる賜物です。それですから信仰とは、この贈り物を喜んで受け取った人であると言えます。 人間にとってもっとも大切なのは結局、提供されている救いを自分のものにすることです。そのために当然ですけれど必要なのは、自分も救われなければならないという必要を知ることです。 それから、人間的な努力はまったくむなしいということを知ることです。すなわち、自分も他人も、ある宗教、ある教えも決して自分自身を救うことはできないということを知ることです。 すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている、提供している救いとは、結局罪の問題の解決です。 今朝もある兄弟は読みました。ヘブル人への手紙の10章の中で、主は、「わたしはあなたの罪を決して思い出さない。」 主は赦すと忘れます。意味は、その人は一度も罪を犯さなかったかのような状態になることです。ピンと来ません。考えられません。けれども主の義とはそういうものです。 人間だったら、「イエス様、私も過ちを犯す者としてみもとにまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝します。」という態度を取ると、人間は確かに感じられないでしょうけれども、御霊は人の中に住むようになります。 「いのちの水がほしい者は価なしにそれを受けるがよい。」、いのちの水とは、人間の努力の結果としてもらうものではない。ただです。 価なしに救われることこそが信仰をもつ人々にとって想像できない、考えられないことですけれど、本当なのです。 欲すれば受けるに違いない。欲しくなければ、主は強制なさいません。けれども将来は真っ暗闇です。 けれどもイエス様は「精神的に疲れているから、色々なことで悩んでいるからおいで。」、と言われただけではない。」わたしの弟子となりなさい。わたしについて来なさい。」、信ずる者にとってこれこそがもっとも大切ではないでしょうか。 すなわち、主イエス様を信ずることだけではなくて、主に従うことです。ちょっとだけ三つの点に分けて考えましょう。 第一番目。どうしてイエス様に従うべきなのか。 第二番目。イエス様に従うための条件とはいかなるものなのでしょう。 第三番目。イエス様に従うこととイエス様の十字架との関係はいかなるものなのでしょうか。 まず第一番目、なぜイエス様に従うべきなのでしょうか。 もちろん、イエス様に従うことをせず、またイエス様のみこころを行なわない多くの人がおり、イエス様のことについてとやかく言う人がおります。 多くの人々は聖書に記されていることを真理と認めれば、それで十分ではないかと考えます。 聖書に記されていることとは例えば、イエス様は約束された救い主であり、神の御子であり、神の小羊として完全な救いを成就した。復活なさり、すべてを支配して、生きておられることを信じています。 また、このような真理を宣べ伝えればそれでいいのではないでしょうか、十分でしょうと多くの人々が考えています。けれど、本当はイエス様に従うことは違うものです。 このことを正しく理解されていないならば、それが、その人の生涯が大変なことになるだけではなく、そのような人によって影響を受ける人々もとんでもないことになります。 本当にイエス様に従うことをせずに、主の恵みと愛を信ずる者があるならば、その人の道は誤ったものにならざるを得ません。 ただイエス様の恵みだけを要求し、イエス様に従わない者は、イエス様を閉め出して、遠回りをしようとすることにほかならない。 恵みとはすばらしい救いのみならず、主イエス様が完全に支配なさることでもなければならないのです。ことばを変えて言うならば、恵みとは私たちが固執しているものから解放してくれるものです。 したがって、イエス様に従うということは、決して決して頭で考えたものではなく、実際の行ないにほかなりません。この点について、聖書はまことに厳しいことを私たちに言っております。 すなわち、「もしも目が罪を犯すなら、その目をえぐり出し、手を罪を犯すならば、その手を切り捨てよ。」とイエス様は言われました。 恵みと主に従うことは密接、不可分なものであり、どちらか一つだけを切り離して考えるということはできません。どちらか一つだけが切り離されるならば、それはもはや意味の無いものであり、力の無いものになってしまいます。 主に従う備え無くして、恵みにあずかるということは決してありえません。確かに、提供された恵みを受け入れた者だけが、主に従うことができるのです。 なぜイエス様はご自分に従うことを要求しておられるのでしょうか。なぜならば、私たちを富んだ者とならせようとしておられるからです。 イエス様が与えようとしておられるもの、すなわち恵みは、決して主に従うこととは別居のものではないのです。私たちが本当にイエス様に従う備えのあるときにのみ、主イエス様は私たちに恵みを与えてくださり、豊かに富ませることがおできになるのです。 イエス様に従うことは、取りも直さず、イエス様のみこころに私たちのすべての思いを明け渡すことです。このことだけはいかなる人と言えどもせざるを得ないことなのです。 イエス様に従うことは、まさに日々、主に対して従順であることを意味します。主に従うように、という招きそのものが大いなる恵みではないでしょうか。 本当にイエス様に従う者だけが心から主を賛美することができ、主の御名をほめたたえることができるのです。 悪魔は私たち人間が主の恵みを信じようとするときには、比較的反対しないかもしれないけれど、イエス様にだけ従おうとするときには、悪魔は猛烈な反対をするのです。 私たちは日々、豊かな主の恵みにあずかろうとするならば、主に従う必要性を知らなければなりません。 その結果、私たちの生活は空の桶にすぎないか、それとも満ち溢れる泉かのどちらかです。 次に第二番目の点、すなわち、イエス様に従うことの招きとその必要条件についてみことばから見てみたいと思います。 ちょっとマタイの福音書から読みましょうか。まずマタイの福音書の4章の18節。 マタイの福音書4:18-19
迷える羊にとってこれこそが安全を意味します。ただ、わたしについて来なさい。 マタイの福音書4:19-22
マルコの福音書の中で同じ意味についての個所があります。マルコの福音書1章の16節から読みましょうか。 マルコの福音書1:16-20
ルカの福音書からもう一ヶ所読みましょうか。ルカの福音書5章の1節から。 ルカの福音書5:1-11
福音書を見ると明らかなことは、イエス様ご自身がご自分に従うべき人々を召されたということです。イエス様は人々が召される前にその人のことをじっと見ておられることも聖書からわかります。 主はご覧になったというみことばが、繰り返し、繰り返し出てくることに気が付くことです。その際に大切なことは、私たちが自分の力でついて行くか、行かないかということではなく、われわれの心の状態がどうであるかということです。 イエス様に従うということは、幼子のごとく従順に聞き従うことです。また、イエス様に従うということは、たとえどれほど大きな犠牲を払おうともイエス様と共に行くという心構えです。 また、イエス様に従うということは、イエス様の要求に対していつでもそれに応じることです。イエス様の働きによって信仰が生まれ、その信仰が本当の従順を生み、その従順の表われがイエス様に従うことです。 人間的に見ればしばしば、イエス様に従うということが馬鹿正直に思われるものです。 いったい、信仰とは何なのでしょうか。信仰とは自分が価なく、罪深いことであることを認めることです。 イエス様を信ずる者は、決して人間的な尺度で物事を測ることをせず、このような信仰こそ、イエス様に従うとなるのです。幼子のように従順な行ないというものは、人々を通して傾聴せしめ、沈黙せしむものです。 レビ、あとのマタイはイエス様に従うべき召された彼は、喜んですぐに主のために食事を用意したと聖書は言っています。 イエス様に従うことは決して個人的なことがらではない。まことにイエス様がすべてを支配なさることを意味します。 イエス様に従うことは、決して隠れていることではない。イエス様に従うことは、与えられた恵みを感謝することであり、人々の前でイエス様を証しする勇気の表われでもあります。 イエス様は私たちを召されるときに私たちがすぐに従うことを望んでおられます。 イエス様は本当にお用いになることができる者を召し出され、主に従うことを心から求めておられるのです。そして、そのような者だけが完全に主の支配化に置かれるのです。 そしてまた、イエス様にすべてを明け渡す者だけが主に召し出され、また用いられるのです。 富んだ金持ちの青年はすべてを正直にイエス様の前に言い表わし、イエス様にすべてを明け渡すことをしなかったため、悲しげにイエス様から離れて行き、主に従うことができなかったのです。 イエス様に従うということは、主の前に見栄を張ることをせず、誇らず、傲慢にならず、自信に満ちた振る舞いをせず、立派な振りをせず、心から飢え渇き、心の貧しい者であり、主イエス様のみことばを聞き、主に従うことを切に求めることにほかなりません。 イエス様を愛するがゆえに、主に従順であることこそ、主に従うことです。イエス様を本当に・・・ (テープ A面 → B面) ・・・十字架の関係は、いったいいかなるものなのでしょうか。 前に開いた、マタイの福音書16章からまた二、三節読みます。今度は16章の21節から26節までお読みいたします。 マタイの福音書16:21-26
もしもイエス様が十字架の苦しみを避けようとしたならば、主は悪魔に従うことになってしまったことでしょう。 主の目からするならば、十字架の苦しみはどうしても受けなければならないものでした。十字架と苦しみから分かれようとすることは、確かに人間的であるかもしれないけれど、やみから出て来るものです。 十字架なくして主に従うことはありえません。 マタイの福音書16:24
ヨハネの福音書の6章を見ると次のように書き記されています。ヨハネの福音書の6章の67節から69節までお読みいたします。 ヨハネの福音書6:67-69
イエス様は私たちが告白したり、心の中で認めること以上のものを望んでおられるのです。 もしも私たちが表面上、主イエス様のみそばにいて、主に従うような振る舞いを見せたとしても、それだけでは決して本当の意味で主に従うことはできません。自分自身をより多く愛する者は決して主に従うことはできません。 私たちは、ペテロがイエス様を拒み、「私はそんな人は知らない。」とか「イエス様とは何の関わりもない。」と偽ったことを知っています。私たちも自分自身を捨てなければペテロと同じように、イエス様を拒むことになってしまうのです。 自分自身を捨てるとは次のようなことでしょう。 すなわち、私はこの人間、すなわち私自身とは関係が無くなっている。私自身は全然大切ではない。あなたがたがこの私をどうなさろうと、それは私にとってどうでもよいことです。 ただ、あの主イエス、私の生きる主であられ、父なる神のひとり子であるイエス様だけを告白し、大切にしています。 自分自身を捨てるとは、自分の願いや自分の意思、いのちを一番大切なものとせず、それらを捨てて、ただイエス様だけを第一にすることです。 こういう実例は聖書の中で、もちろんいっぱいあります。例えば、モーセはそのまま行けば、人間的な力や努力なくして少なくとも当時の王様の跡継ぎになれたはずですけれど、彼はそれを捨てました。彼は自分自身を捨てたのです。それによってモーセは何万という人を救う器とされました。 ヨセフもポディファルの妻の言うとおりになれば、間違いなく大金持ちとなり、この世的には最高の名誉を得ることができたでしょうけれど、ヨセフはその富を得たとしても、己がいのちを損じたならば、何の益にもならないことをよく知っていました。 彼は自分自身を捨てたのです。そしてそのことによって、多くの人々が救われ、いのちを得ることができたのです。また、主に従うことは、主のために喜んで死ぬ備えができていることをも意味しています。 ペテロは、イエス様が捕えられようとしたとき、剣を抜いて、そのひとりに斬りつけました。もちろん彼は、自分が捕えられることを覚悟したのですけれど、自分の誇り、自分の傲慢などの人間的な思いをことごとく捨て去ることはできなかったのです。 イエス様が十字架につけられた時、すなわち全人類の罪を背負って、尊い血潮を流してくださった時、そこには誇りや傲慢の思いはなく、本当に砕かれた状態でした。 イエス様に従うということは、おのれに死ぬことであり、イエス様のために喜んで死に応じることであり、すべてを主にささげることです。それが具体的にどういうことかは、いわゆる山上の垂訓が明らかにしています。 山上の垂訓とはマタイの福音書5章、6章、7章に書かれていますけれども、マタイの福音書5章は、主に従い、十字架を負う者は隣人に対して新しい関係を持つと言っております。 そして、その人の生活は、自分自身のためであるとか、人に気に入られたいというようなものには向けられていないのです。 ただ、一つの願い、主イエス様に仕え、主イエス様のご栄光を拝することにほかならないのです。そして隣人も十字架の一断片となり、隣人を本当に愛することができるようになるのです。これはマタイの福音書5章の内容です。 マタイの福音書6章は、イエス様に従うことと聖めとが結び付いていると言っております。 聖めとは、自分自身のエゴを捨てることです。また聖めとは、ただイエス様にのみ栄光と誉れとを帰すことです。また、イエス様に従う者はだれでも祈りの人となるのです。 そしてその人の心構えは自分自身が大切なのではなく、自分の思いではなく、イエス様のみこころが行なわれますようにということです。 また祈りだけではなく、断食のことについても記されています。断食とは、自分自身に対してはあわれみ深くなく、他人に対してあわれみ深いことです。 そして本当にイエス様に仕え、イエス様に従う者は、主が何を望んでおられるか、またイエス様がいかに用い導かれるかに対して常に細心の注意を払うはずです。 イエス様に従う者は、決して明日のことを思い煩いません。なぜならばイエス様は常に私たちを見守り、昨日も今日も永遠に亘って変わらないお方です。私たちのことを心に留めていてくださるからです。 イエス様を知らない者は思い煩いますけれど、イエス様を知っていながらそれにも関わらず思い煩う者は、主に栄光を帰さない者ではないでしょうか。 またマタイの福音書の7章は、イエス様に従うことが主の再臨と密接に結び付いているということです。 本当にイエス様に従う者にとっては、この世のものはすべて見せ掛け価値しか持って折らず、ただイエス様の再臨を待ち望むことが唯一の喜びです。イエス様は必ず来てくださる。この確信こそ、主に従う者を支配しているものです。 イエス様のためのあらゆるご奉仕は自分自身に死ぬことを意味します。他人のために本当に仕えることは、自分自身を捨てて献身することです。 私たちが喜んでイエス様に従おうが、勝手に自分の道を行こうが、イエス様は今日も、「従って来なさい。」とわれわれを招いておられます。 イエス様に従うか否か、この選択にすべてのことがかかっていると言っても言い過ぎではありません。イエス様は私たちを主の口から吐き出されるか、さもなければ、イエス様とともに勝利の栄光の座に着かせてくださるか、どちらかをなさることです。 イエス様に従いますと、いうまでもなくイエス様といっしょになります。そうすると、孤独から解放されます。 いくら愚かな羊であっても、従うことができます。迷える羊に向かって、主は言わないのです。例えば、「もう少し頑張ってライオンになりなさい。虎になりなさい。」 これはもちろん羊にとって意味の無いことですし、全く不可能であり、ありえない。大切なのは、迷える羊である私たち人間ではなく、羊飼いなるイエス様なのです。従うと、安全に守られます。これこそがまことの幸せです。 山田正博兄弟の書いた可愛い、可愛い小羊の下に次のみことばが書き記されています。 ヨハネの黙示録3:17
ある姉妹から私はこのハガキをもらいましたが、姉妹はこのみことばの下に、次のように書いたのです。「このみことばは私にぴったりです。主の忍耐に感謝です。」 ダビデは3,000年前に喜んで言えたのです。 詩篇23:1、5
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