引用聖句:ローマ人への手紙10章8節-13節
言いたいことは、イエス・キリストを信じれば、絶対に後悔しないということです。 十字架の上で犠牲になった、代わりに死なれたイエス様は、宗教と関係のない方です。無宗教です。 結局人間は、宗教によって束縛されます。不自由になります。結局騙されます。 東京のひとりの弁護士の事務所行ったとき、ちょっと驚いちゃったんです。 大きなポスターがあって、何を書いていたかと言いますと、「人間は騙されやすい。」 結局、宗教はどうして存在してるかと言いますと、人間は騙されやすいからです。 人間は、何が正しいか正しくないか分からないなのではないでしょうか。その意味で聖書はありがたい。 聖書はなんと言ってるかと言いますと、「安心して。分かるもんじゃないよ。分からなくてもいい。」と分かれば正解。 結局、信ずるか信じないか、それだけなんです。今読まれた箇所の8節では、どう言っていますか。 ローマ人への手紙10:8
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 結局信仰がなければ、いくら聖書読んでも、勉強してもなんにもならない。 2,000年前にイエス・キリストを十字架につけた人々とは、聖書学者でした。無神論者たちではない。 彼らは聖書の内容を徹底的に勉強して、疑わずに信じたんです。 けども彼らは、聖書の中心なる救いの神を知らなかったのです。どうしてであるかと言いますと、正直になろうとしなかったからです。 結局宗教的な考え方は、「勉強すれば分かる。」 違う。分かったから信ずるという考え方は間違ってる。そしたらどうして信ずることができるか。 十字架の上で犠牲になったイエス・キリストは、詐欺師でもないし嘘つきでもない。自分の約束を守るお方です。 今読んだ箇所の中で、「聖書はこう言っています。」、この文章は何回も出てくるんです。 聖書はなんて言ってるか。聖書はこう言っています。 結局、大切なのはわれわれ人間は何を考えてるか、思ってるかなのではない。聖書はなんと言ってるか。 「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」、意味は、「元気になる。喜びに満たされるようになる。前向き生活することができる。」ということです。 もちろんここで、彼に、すなわち救いの神に「信ずる者は」、と書いてないんです。「信頼する者。」 「信じます。」と、多くの人が言います。けども、だいたいの人々はひとつの教えを信じてるなのではないでしょうか。 この聖書の言ってることは、人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われない。 知識ではなく心の持ち方、すなわち、へりくだればOK。したがって人間にとって一番大切なことばは、「ごめんなさい。」ということばです。 救われるためのすばらしい祈りが聖書に出てくるのです。どういう祈りかと言いますと、一文章だけなんです。 「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」 本当に心からそう思えばOK。聖書の言わんとしてることはそれなんです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える。終わり。それだけ。 神を信ずる者よりも、信頼する者とあります。 ひとつの教えを勉強して分かることよりも、生きるまことの神に頼ることによって、信頼することによって、明け渡すことによって祝福されるようになります。 ローマ人への手紙10:13
主の御名を呼び求めることとは、今のような心構えをもつことです。 「私も不完全で、過ちを犯す者でごめんなさい。お赦しになってください。」、そういう心構えがあれば、受け入れられます。 結局、生きるまことの主なる神に信頼する者は、幸せになり、祝福されるようになります。 聖書とは、人間に与えられてる一番すばらしい宝物です。なぜならば、永遠に続くものだからです。 今の地球だって、今の宇宙だって、いつかダメになると聖書は言っています。永遠に続くものじゃない。 けどもイエス様は、「天と地はいつか滅び去りますけども、わたしのことばは永遠に残る。」 ですから、「この永遠に残るみことばに頼らない人は愚かだよ。必ずいつか後悔します。」 今日、飛行機の中でちょっと新聞を見てたんですけど、今、インドでちょっとメチャクチャなのです。ガンジーの孫でしょうかね。総理になったんですけども、もう辞めます。 もう国民の大部分は、「とんでもない。けしからん。」 辞めたらいったいどういうことになるなのでしょうか。どうして辞めるか、もちろん分からないけども、彼女のお祖父ちゃんでしょうか、彼は次のように言ったことがあります。 「私の生涯に、もっとも深い影響を与えた書物は、聖書である。」 まことの神を恐れなかった、ナポレオンという男でさえも、「聖書は単なる書物ではない。それに反対する者すべてを、征服する力をもつものであり、生き物です。」と言ったのです。 3,000年前に、イスラエルを支配した王様は、次のように言ったのです。ダビデですけど、「神のみことばは、結局聖書は、私の足のともしび。私の道の光です。」結局体験的に経験したからです。結局人間は、みんな悩むでしょ? 今日の集いは、確かに「喜びの集い」です。 けど、集まってる人々は、悩んでる人々だけじゃないよ。悩んでない人はいないよ。 だいたいの人はうまく隠すんです。人間は悩む者です。 そして悩んでる人間を励ますことができるのは結局、聖書しかない。 けども、この聖書とは前も話したように、勉強しなくちゃならない学校の教科書のようなものじゃないよ。 普通の教科書を読めば、何回も何回も何回も読めば、だいたい分かるよ。聖書、いくら読んでも分からない。 けど、信ずると元気になる。聖書は、元気の素。 ですから聖書を開いて読むと、「分からなくちゃ、勉強しなくちゃいけない。」と思えば、ちょっとかわいそう。 「私はどうしたらいいか分からない。この問題もあるし、この悩みもあるし、今から読みますから語ってください。」、そういう飢え渇きをもつと、聖書はやっぱり働いてる。生きる希望を与えるようになります。 非常に覚えるべきこととは結局、いつも同じです。人間の考えてること、人間の思ってること、人間の感じてることは大切ではない。聖書はなんと言ってるか。 この態度取ると本当に、どういう状況に置かれていても、必ず元気になります。 もちろん私たちは聖書を判断するのではなく、聖書が私たちに判断すべきです。 イスラエルの民の初めての預言者だったんですけども、サムエルという男です。 彼はおそらく、まだ青年になっていなかったと思うけど、まだ子どもだったでしょう。彼は祈ったんです。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」この態度取る者は、祝福されます。 もちろん聖書とは、ひとつの教えではない。生きておられるまことの神の現われ、啓示そのものです。 イエス様はよく、「わたしは何々である。」と言われたのです。結局、自分自身を明らかにするためです。 例えばイエス様は、「わたしは真理を語るよりも、真理そのものです。」、「わたしは道しるべではない。道そのものです。」、「わたしは救いを与える方よりも、救いそのものです。」 聖書は、生きるまことの神の啓示そのものです。 ながい間、イエス様と関係をもちたくない男がいました。最高の教育を受けた人で、聖書を徹底的に勉強した男でした。サウロという男です。 あとで名前変えられて、パウロになったのです。パウロという名前の意味は、「小さい者」です。 彼は結局、ちいちゃくなっちゃったんです。なぜならば、イエス・キリストは、殺されたのは良かった〜。 「彼はまことの神を冒涜してる。イエス・キリストは、神を冒涜した者だ。」と思っちゃったんです。 そしてイエス様は殺されたとき、非常に、「はぁー。良かった。」と思ったんです。 けどもイエス様は殺されても、イエス様を信ずる者は増えたんです。 「いや、大変だ。自分に与えられてる使命とは、イエス・キリストに対する思い出を消すことだ。」 唯一の道は、あいかわらず頑固で、イエス様を信じ続ける人々を迫害する、刑務所に入れること、殺すことであると彼は思ったんです。真剣にそう思ったんです。 そして彼はやっぱり信ずる者を迫害した途中で、急に上からの光に照らされて、結果として彼は三日間、目くらになっちゃったんです。 そして彼は声を聞いたんです。やっぱりこれは人間の声じゃないといっぺんに分かったから聞いちゃったんです。 「主よ。あなたはどなたですか?」彼の期待していた答えは、「わたしは天と地を創造された万物の造り主です。万物の支配者です。」 彼はそういう答えを期待していたのです。そうすると、「あっ。なるほど。分かった。」と思ったでしょうけど、答えは違う答えでした。 「わたしはあなたが迫害しているイエスです。」彼の受けたショックは想像できない。 結局わたしの聖書の勉強だってまったく役に立たないものでした。「私は神に仕える。」と思っちゃったけど、知らないうちに悪魔の器になってしまった。 それで彼は、結果としてなんと言ったかと言いますと、「主よ。私は今からどうしましょうか。」、彼はそういう気持ちを今まで持っていたことがない。 自分で、賢いですから自分で、強いから自分で分かるから。けど、急にちいちゃい子どものように、「主よ。どうしたらいいか分からない。」自信が完全に無くなった。 それで彼は、世界一の伝道者になったのです。 イエス様を紹介する結果は、数えられない多くの人々が信ずるようになっただけじゃなくて、彼は何回も捕まえられ、刑務所に入れられたのです。 おそらく合わせて七年間、彼は刑務所の中で過ごしたんです。 けども彼はイエス様を知るようになったから、どういうことがあっても嬉しい。イエス様から、もう離れられない。 最後に、ローマ帝国のネロという皇帝によって殺されてしまったんです。 彼はどうしてこういうふうになっちゃったか。彼は自分で次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙1:12
結局、私の救いとは、ひとつの教えではない。代わりに死なれたイエス様です。 彼は私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主イエスと言うようになったのです。結局、イエス様の愛によって彼は圧倒されてしまった。愛されることだって考えられない。 キリストが代わりに死ぬことだってもったいない。 確かにそうよ。神の愛を受ける資格のある人間はいないからです。けども彼は、イエス様のために生きたいと切に望むようになったから、祝福された生活を与えられるようになったのです。 結局自分がちっぽけな人間は、聖書に記されている事実を理解することができるかできないかは、決して問題ではない。 理性でもってつかめないよ。気持ちもついてこないけど、関係ない。聖書はそう言ってるから。この断固たる態度取るとやっぱり、だれでも元気になります。 主イエス様を信ずる者は、失望させられない。 私は前に、よく初めて人に出会ったとき、変なこと質問したことがあるんです。「どう、あなた。イエス様のこと信ずるの〜?」 初めてだったからもちろん、「違うよ。なんにも分からない。」と答えられたのですけども、あとで気が付いたのは、相手の人は私は分かってるとみな、思ってたんです。 本当は違う。イエス様のこと、つかむ人間はいないよ。イエス様のこと、理解できる人間もいないよ。われわれと全然違う。 人間の形をとられた生きるまことの神でしょう。 イエス・キリストを通して見える世界だけじゃなくて、目に見えない世界もお造りになった。ですから私たちはイエス様のことを分かるもんじゃない。けども信ずれば、やっぱり元気になります。 イエス様は、どうしてこの世に来られたなのでしょうか。聖書の答えは次のようなものです。 ヘブル人への手紙9:26
罪を取り除くことこそが、人間にとって一番大切なのではないでしょうか。 罪ほろぼしのためにどうしましょうかと聞いても。宗教の答えはもちろん決まってる。「いやー。もう少し勉強しなさい。悟れば大丈夫。」、「もう少し頑張って立派になれば大丈夫。」、「そして財布忘れないで金を出せ。」、いやー、笑い話。 人間は罪ほろぼしのためになんにもすることができない。だからイエス・キリストが遣わされたのです。 キリスト教造るためじゃないよ。死ぬためだけ。イエス様のこの世に来られた唯一の目的とは、代わりに罰せられることだけでした。 人間は変なことすると、人を殺すともちろん問題になります。けども、私たちはみな例外なく人殺しじゃなくて神殺しです。 考えられないけど、キリストの死こそがその証拠なんです。私たちのわがままのゆえにキリストは犠牲になったのです。 仕方がなくてじゃないよ。人間ひとりひとりのために、無視されても、殺されても結構である。これはイエスさまの変わらない気持ちです。 イエス様は、罪ほろぼしのために来られた。 イエス・キリストは代わりに罰せられたから、人間はただ正直になり、「ごめんなさい。悪かった。赦して。」という態度取ると、もちろん赦されるようになる。 これこそが聖書の中心テーマです。 多くの人々は、宗教の影響を受けてる人々はみな、「本当ですかね〜。そんなに簡単か。」と言うでしょう。 「うん!そんなに簡単です。」 今日救われようと思えば、今日救われます。 救われることとは、罪の赦しを得ることです。変わらない喜びを自分のものにすることです。そして真の心の平安を得ることです。 どうして人間は簡単に救われうるかと言いますと、主なる神はキリストを殺されたから。 父なる神にとって、考えられない犠牲でした。結局父は、人間ひとりひとりの永遠の幸せのためだったら、わたしは、わたしにとってすべてのすべてであるキリストを犠牲にします。 父はイエス・キリストを死に渡した。これこそ聖書の中心テーマです。 死ぬ前にイエス様は何を叫んだかと言いますと、「救いのみわざは成し遂げられた。」、「終わった〜。万歳。」 宗教と聖書の違いは、簡単に言いますと次のようなものです。 宗教の中心は、ちっぽけな人間です。このちっぽけな人間は要求されます。 聖書の中心は違う。父はイエス様を人間ひとりひとりの平安の幸せのために犠牲にしたということです。 もちろん、いくら考えても、ちょっと考えられないし、ピンと来ないし、あの新しい映画見せられるようになった。 「パッション」 今の、イエス様の再び来られる前のとき、この映画出るようになったのは、やっぱりちょっと不思議です。 映画の内容は、イエス様が殺されるまでの最後の十二時間のことだけです。 もちろん出てくるのはイエス様じゃないよ。俳優なんです。けどもやっぱり多くの人々はもう、ちょっと言葉がなくて、もう泣く人もいるし、もう、恥ずかしくなる人もいるし、結局もう、「ひどい!」としか言えない。けどもそういうものだったでしょ。 けども映画を通して、分からない・・・ (テープ A面 → B面) ・・・に、結局犠牲になった。 イエス・キリストの犠牲によって私たちはいやされたということです。 そして一番最後に、やっぱりイエス・キリストは救いを成し遂げられたということです。 結局人間は、「イエス様は、私のために死なれた。」と素直に信ずると、見方変わる。 もうひとつ。イエス様は死なれただけではなく、復活なさいました。 今日は実は、イエス様の昇天の記念日なんですね。日本のカレンダー見ると書いてないね。 もちろん、ドイツのカレンダーちゃんと書いてます。イエス様の昇天なさった日の記念日なんです。 復活のあとでイエス様は、四十日間この地上にいたのです。何回も弟子たちに出会いましたし、一緒に話し合っただけじゃなくて、食べたんです。霊だったら食べませんよ。 イエス様はちゃんと、結局肉体的によみがえったのです。もちろんイエス様の肉体とは、前のからだとまったく違うものでした。 そして四十日のあとでイエス様は、弟子たちの目の前に天に引き上げられた。昇天なさった。 イエス様は、「わたしはまた来るよ。」と言われたのです。 結局イエス様を信ずる者にとっての最大の喜びは、イエス様の再び来られることを経験することなのではないでしょうか。 イエス様はまた来ます。だからと言ったらおかしいけど、今の世界はメッチャクチャな世界です。よくなる可能性はない。 人間はみな、平和を求めるのでしょ?政治家たちもそう言ってるんです。思ってるかどうか別。けども、「平和。平和。」と言うでしょ? けど、無理な話です。どうして無理ですか?宗教が存在してるからです。 ですから、大変な早さでダメになる。今の世界は。けども聖書を知る人々は別にがっかりしない。怒らない。そういうふうになると預言されています。 そして、イエス様がまた迎えに来る。これも想像できないことですけど、必ずなる。 イエス様は今度来るとき、目に見えないかたちで来る。けども、へりくだった人、「イエス様。ごめんなさい。あわれんでください。」という態度取る人々は、みんな急に姿を消すんです。 体もいない。みんないっぺんにいなくなると聖書は言ってるのです。想像できないけども、はっきり書かれています。 だから、やっぱり誰も残されないように、心配しなくちゃいけないなのではないでしょうか。 イエス様は、へりくだった人々、幼子のように信ずる人々を迎えに来る。今晩かもしれない。 結局悩んでる人々の最大の励ましとは、「イエス様。あなたは約束しただろ。早く来て。迎えに来てください。」という祈りをもつ人々は、絶対に失望させられない。 イエス様の再び来られることを待ち望む人は、前向き生活することができます。そして、いわゆる不安と心配から解放されます。 前に話したように、聖書の中心なのは、「勉強しないと。悟らないとダメ。」なのではない。「努力して立派にならないとダメ。」なのではない。 イエス様は代わりに死なれた。意味は、一人一人は考えられないほど愛されてる、心配されているということです。 なんでもできるお方に愛されてることを確信すると、やっぱり何が起こっても関係ない、私は愛されてると確信できるからです。 証拠なるものは、もちろんイエス様の代わりの死です。イエス様に、なんでもできるお方に愛されてると考えるとやっぱり嬉しくなります。 |