引用聖句:イザヤ書40章25節-31節、41章1節
詩篇37:7
今、読んできてくださいました箇所は、非常によく知られて、多くの人々にとって大好きなことばの一つなのではないかと思います。 「目を高く上げて」「わたしの前で静まれ」2つの提案よりも、主の命令です。人間の幸せのために、主はこういうふうな命令をなさったのです。 「わたしの前で静まれ」、これは主の呼びかけです。哀歌の中で似ていることばが出てきます。 哀歌3:26
ダビデという詩篇の作者も、このみことばを聞いて、聞く耳を持つ方として祈りました。 詩篇62:1
主の前で静まることの大切さ必要性を、私は最近改めて教えられました。なぜならば、ただ「静まれ、待ち望め、主にすべてを委ねなさい」という命令は、我々の解放なのではないでしょうか。現代人が一番必要としているものは、静まることなのではないでしょうか。 同じイザヤ書40章の最後の節を見ると、そこには疲れとか無力さ、あるいはたゆむことなどが記されているのがわかります。もしも私たちが、本当に正直に偽ることなく、主の前に出るならば、私たちは自分が疲れて、無能力でたゆむ者であることを、もちろん告白せざるを得ないのではないでしょうか。 このことは、次の3つのことによって証明されています。 第1は、神のみことばがそのことをはっきり言っているから、否定できない事実であります。 第2は、他の信者たちを見ることによって、わかることです。皆、主を信じながら悩む者です。 第3は、私たち自分の経験によって教えられるということです。 主のことばは、主の民の中にも疲れている者、無力な者がいるとはっきり言っています。私たちは、確かにしばしば疲れ、疲労困憊し、力も勇気も失われてしまっている状態に陥ることがある。 現実だけを見ると。30節によると、多くの信者の特徴は、疲れ、たゆみ、つまずき倒れることであることが解かります。そしてそれこそが、敗北の原因であるとみことばは語っています。 私たちは、自分自身のことや他人のことを見ると、そこに無力さが支配していることを見ることができ、しかも主の大いなる力よりも、人間の無力さの方が目に映るのではないでしょうか。 そういったことは、誰も認めたくないことでしょう。しかしそれは、厳粛な事実であり、問題は私たちがそれを考えたり認めたりするかしないかではなく、それが不動の事実であるということです。 私たちが率直に反省するならば、実際に多くの者が疲れ、無力でたゆんでいることを認めざるを得ません。わずかな信者だけしか、鷲のように翼をかって上ることができるということを、自分のものとしているのです。この鷲のように翼をかって上ることこそが、あらゆる勝利の秘訣です。 そこで次に一つの大切な問いについて考えてみることにしましょう。すなわち、いったい私たちの敗北の原因は何でしょうか。何故私たちは、疲れ、たゆむのでしょうか。 その原因の第1は、私たちを本当に満たしてくれるものの源泉を知らないことであり、第2の原因は、提供されているものを受け取ることを怠ってしまうことです。 知らないこととは、どうでもいいことではない。無知とは、何か恐ろしいもの、悲劇的なもの、許すべからざるものを意味します。 ホセアという預言者は、次のように告白したのであります。 ホセア書4:6
これは本当に重大なことばです。そこでここに書かれていることについて、内容的にその順番を追って考えてみることにしましょうか。 第1に、未信者ではなく、主の民に属する信じる者が知識を退けた。すなわち、上からの光を退けたとしるされていることに注意すべきなのではないでしょうか。その結果、知識がないという状態に、必然的に用いてしまうのです。 しかしそれだけではなく、主なる神はそのような信者を、退けてしまうと書かれています。その意味は、永遠のいのちにあずからないとか、永遠の滅びに至るとかいうことではなく、そのような信者が主の祭司となることができない。主に用いられないということを意味しています。そしてまた、そのような信者は、主の教えを忘れてしまうとみことばは言っています。 自分の思っていることは正しいと思う人は、本当に知らないうちに盲目にされてしまいます。 同じことをイエス様は、当時の聖書学者、パリサイ人、律法学者たちに向かって言われました。 マタイの福音書22:29
知らないこと、すなわち無知であることは、非常に恐ろしい結果をもたらすことが解かります。すなわち、その結果は思い違いをして、間違った方向に行ってしまう。的外れの人生を歩むことを意味しています。 前に読んでもらいましたイザヤ書40章28節、29節に同じことを見ることができます。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。」と主は無知を責めておられます。 私たちは、いったい何を知るべきなのでしょうか。私たちは、我々を満たしてくれるものの源、すなわち主ご自身を知るべきです。 主についての知識を得るよりも、主ご自身を体験的に知ることです。その答えは、同じく28章29節に見いだすことができます。すなわちそれは、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方、力と活気を持つお方」を知ることです。 我々の神は、永遠の神です。その神は、初めも終わりも持っておられません。その神は変わることがなく、永久に変わらざるお方です。そしてまた私たちの主なる神は、万物の造り主であられます。 すなわちそのお方は、過去において目に見えるもの、目に見えないもののすべてを造られただけではなく、今もない新たなるものをお造りになっておられる、生きておられる方です。 前に沖縄の兄弟は、とんでもない事故に出会いまして、病人になりました。簡単に証ししたことがあるんです。「イエス様といっしょですから、病気になったのは良かった。奇跡を経験するよりも、自分は奇跡にならなければならない。」と言われました。 我々の神は、無い者を有る者のようにお呼びになるお方でもあります。 詩篇33:9
主なる神が仰せられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現されるのです。そして、この主は力と活気を持っておられるお方であると聖書は言っているのです。 我々の側はどうかと言いますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちておりますが、主の側はどうかと言いますと、そこに全知全能の力があることが解かります。そしてその永遠なる神、造り主なる神、全知全能なる神は、我々の敗北を勝利へと変えてくださると、すばらしい約束を我々になさっておられます。 力と強さの尽きざる豊かさが、我々に提供されています。そして私たちは、この提供されたものを受け取らなければなりません。すなわち私たちは、主と結びつくことによって、超人間的な力を体験することのできる者の源と結びつきうることです。したがって、私たちは今や、我々の敗北の原因を考察することにします。 第1番目の原因は、我々を満たしてくれるものの源を知らないことでした。それに対して第2番目の原因は、主によって提供されたものを受け取ることを怠ることです。 これもまた恐るべきこと、悲劇的なことです。29節を見ると、私たちは主は、私たちにとって必要なものを、すなわち力と強さを我々に与えよう、提供することを約束してくださっていることが解かる。 主なる神は与えてくださる。そして私たちはそれをいただく、受け取る、自分のものにする必要があります。これこそ我々の与えられている約束です。主の提供に対する答えであるべきことです。 問題は、受け取るとは何を意味し、どのようにしたらそれを自分のものとすることができ、どうすれば、提供されたものを自分のものとすることができるのかという問いです。 その答えは、前に読みました31節に見いだすことができます。すなわち主を待ち望むことです。ではいったい主を待ち望むとは、どういうことでしょうかね。 それは祈ったり、礼拝したり、集会を訪ねたり、聖書を読んだりすることを意味するのでしょうか。もちろんそれらのことも当然含まれるわけです。 しかし、ここで一番大切なことは、この41章1節にあるように、神の前で静まることです。これは今日一番大切なことなのではないでしょうか。 ダビデ王は、このことを知り、そしてそれを実行しました。 詩篇62:5-8
ダビデはそれを自分で経験したから、こういうふうにイスラエルの民を励ますことができたのです。 このダビデの息子であるソロモン王は、次のように言ったのです。 箴言8:34
聞こうと望む人は、聞く耳を持つようになります。主の前に静まらないキリスト者は、主の語ることを聞くことができない。また主の語ることを聞かない者は、主に従うこともできません。その不従順の結果は、主の祝福にあずからないことです。 主を待ち望むということは、すべてを主に明け渡すこと、徹頭徹尾主に拠り頼むこと、主のみことばに従うこと、そして主と主の導きに本当に信頼することを意味しています。 そしてまた主に拠り頼むこと、主に信頼することは、自分自身を意識的に信頼しないこと、またあらゆる人間的な助けに拠り頼まないことを意味しています。 そのような態度の結果は、どのようなものなのでしょうか。そして主を待ち望む者は、どのような事を体験するのでしょうか。言い換えれば、主の前に静まる者は、何を経験するのでしょうか。そしてそのことは、目に見えるものすべてのものから目を離し、ただ主にのみ意識して拠り頼むこと、ただ主の御心にのみお従いする備えがあることを意味します。 主の前に静まる兄弟姉妹は、次のようなことを体験します。それらのすべては前に読みました31節に記されています。まず私たちの弱さの代わりに、主ご自身の力が現れるということです。 すなわち、めちゃくちゃな努力の代わりに、主の創造的な力が現れます。何という違いなのでしょうか。 私たちはなぜ、敗北してばかりいるのかということを、考えたことがあるのでしょうか。 それは私たちが、自分の力に拠り頼むからであり、そのことが主の働きを妨げ、私たちの行ないが、主の御手を縛ってしまうような結果をもたらすのです。自分の不完全さを知っている者は、本当に幸いです。 その人は、主の御前に静まり、主の力と強さを豊かに経験することが許されています。 それでは、いったい主は我々に、どのような強さを提供してくださるのでしょうか。 第1は、肉体的な力でもあるのではないでしょうか。詩篇の作者であるダビデは、元気になったんです。いろいろなことで悩みました。どうして、なぜ云々と思ったに違いないけど、彼は元気になりました。 彼の証しは詩篇16篇に書かれています。 詩篇16:8
週に2、3回だけじゃない、 詩篇16:8
気持ちの問題ではない意思の問題です。 詩篇16:8
詩篇16:11
ドイツのアドルフ・ヒットラーは、宣伝文句としてよく言いました。どういうことであるかと言いますと、「喜ぶことによって力が出る」という宣伝文句でした。 もちろん彼は、知らないうちに聖書の言っていることを言っちゃった。 ネヘミヤ記8章10節「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」、喜ばなくなる人は、もうぺっちゃんこになります。落ち込むようになります。 ダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」、主を仰ぎ見ることによって、彼は元気になりました。肉体的な力は、確かに必要です。 第2番目、主は魂の力をも与えたいと望んでおられます。 主ご自身が、我々の知恵の源であり、私たちが自分の能力に基づかず、主にのみ拠り頼む時、主は私たちが考え、感じ、欲することを導いてくださるに違いない。 このことをパウロは、次のようなことばで表現したのです。 ローマ人への手紙12:2
他の者と違う心を持ちなさい。 エペソ人への手紙の中でも似ている箇所があります。 エペソ人への手紙4:23-24
この新しい人は、もちろんイエス様です。 また、パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのであります。 テモテへの手紙第II、1:7
第3に、主は、道徳的また霊的な強さをも与えてくださるのです。 しばしば罠が待ち受けているこの地上では、私たちはこの強さを必要とします。だからパウロは、愛弟子であるテモテに「そこで我が子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と書いたのであります。 有名なエペソ人への手紙6章の中にも似ていることばがあります。 エペソ人への手紙6:10
我々の主は、霊的な力、すなわち主の霊の力を与えてくださいます。 ルカの福音書の中で、イエス様は、弟子たちに言われました。 ルカの福音書24:49
この預言の約束が満たされた時、五旬節の時、 使徒の働き1:8
イザヤ書30:15-16
そしてパウロはこの力を経験し、次のように告白したのです。有名なすばらしい箇所です。 彼はご存知のように自分の問題について、自分の病気については、あんまり誰にも話さなかったようです。けどもこの12章を見ると解かります。 コリント人への手紙第II、12:7
彼は病気になっちゃった コリント人への手紙第II、12:7
コリント人への手紙第II、12:8-10
主を待ち望む者は、主の前に静まる者、意識して主に拠り頼みたいと思う者は、いったい何を経験するのでしょうか。 今、何回も言いましたように、我々の弱さの代わりに主の力が現れるのです。 |