引用聖句:レビ記16章15節-17節
ヘブル人への手紙9:11-14
今、司会の兄弟が言われたように、イエス様はすごい。イエス様のことを考えれば、やっぱり誇ることができるのではないかと思います。 確かに奥さまである姉妹は悩んだと思います。あの男を残さなくては子どもの面倒はだれが見るのか。云々と。 けれども姉妹は本当にすべての心配から、死の恐怖から解放され、天に召されました。 奥さんの書いたみことばをたくさんの人々が読みましたし、おそらくこの奥さんの書いたみことばを読んで先に導かれ、救われたのは残されたご主人である兄弟ではないでしょうか。 やっぱり奥さまが、自分の字でみことばを書いたのは、やっぱりみことばこそ私の望みであり、前向き生活をすることができる原動力であると体験的に知るようになったからです。 ですから私たちは人間を納得させよう、そういう努力は全く必要ありません。どうせ出来ないからです。けれども愛する兄弟のように主の恵みによって悩みながら喜ぶことができる人々こそが、イエス様を紹介するために一番用いられるのではないかと思います。 イエス様の死こそが聖書の中心テーマです。いわゆる教えの内容とは人間は何を信ずるべきか、何をやるべきか、それだけなのです。その意味で聖書は根本的に違います。 人間はどうしようもない者です。全く役に立たない者です。邪魔虫にすぎない。けれどもこのどうしようもない人間が中心ではなく、イエス様です。イエス様の代わりの死です。 パウロはあるとき決心したのです。私は十字架につけられたキリスト以外に何も宣べ伝えません。イエス様はどうして死なれたのでしょうか。聖書は色々なことを言っています。 ヘブル人への手紙1:3
とヘブル人への手紙1章3節に書かれています。 イエス様は罪のきよめを成し遂げるために、色々なことを宣べ伝えるためではありません、ある新しい教えを伝えるためではありません、イエス様は罪のきよめを成し遂げるために来ただけではなく、成し遂げてくださいました。 あるいはヘブル人への手紙の中で、 ヘブル人への手紙9:26
イエス様の来られた目的とは、罪の問題を解決するため。罪を取り除くためです。 バプテスマのヨハネはイエス様を紹介したとき、何と言ったかと言いますと、 ヨハネの福音書1:29
またイエス様は確かにわれわれの罪のために死に渡されたお方です。よく知られているローマ人への手紙4章の一番最後の25節。 ローマ人への手紙4:25
それからイエス様はどうして死なれたかと言いますと、私たちに主なる神の義を与えるために、われわれが義と認められるためでした。 次の5章1節。 ローマ人への手紙5:1
イエス様はまた私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放すために犠牲になられた、とヨハネの黙示録1章5節に書かれています。 ヨハネの黙示録1:5
またイエス様は、われわれを今の悪の世界から救い出すために代わりに死なれたとガラテヤ人への手紙1章4節に書かれています。 ガラテヤ人への手紙1:4
またペテロは私たちを神のみもとに導くためにイエス様は死なれたと書いたのです。 ペテロの手紙第I、3:18
とあります。 将来のことを私たちは今知ることができます。聖書は言っているからです。 ヨハネの黙示録5:12
なぜこのようにして救われた喜びの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか。 主は私たちのような者を愛し、私たちのために犠牲になり、その血によって私たちを罪から解放してくださったからです。 人間の最大の問題はみなさんご存知ですけれど、罪の赦しの問題です。したがって一番大切な問題は、われわれの罪がもうすでに赦されているかどうかということです。 聖書を通して罪の赦しが提供されています。 主なる神の救いのご計画は非常に大きく、且つ深いものであるから、主なる神だけがそれを説き明かすことができます。 したがってその主の救いのご計画を例話などを使って人間が説き明かそうとしても、ごく一部しか明らかにできないほど深いものです。 また旧約聖書の中に出てくる幕屋を通して、主は救いのご計画を見る材料として書き記してくださったのです。 今、兄弟がお読みになりましたレビ記の中の一番大切な章とは、おそらく16章ではないかと思います。 その16章の中で一番大切な日について、いわゆる贖罪の日について書かれています。 この日を通してイスラエルの人たちはもっともよく救いの奥義を知ることができたのです。この日は旧約聖書の最高の日を意味し、イスラエル人たちにとってもっとも意味の深い日でした。 そしてすべてのイスラエル人にとってその日は聖なる日でした。今日でもこの日はイスラエルの最高の祝祭日とされています。 けれども新約聖書の光によって、私たちはその日の本当の意味を知ることができます。もしも新約聖書の光によらなければ本当の意味は分からず、そのままになってしまったことでしょう。 贖罪の日という、もっとも大切なこの日こそ、イスラエルの人たちにとって罪が赦され、贖われたかけがえのない日だったのです。 その救いの日の実際の成就はゴルゴダの丘でイエス様が成し遂げてくださったのです。 私たちはこの贖罪の日から二つの出来事だけを取り出して、ちょっと考えたいと思います。第一は、債務が支払われた。もう一つ、罪は赦されたということです。 今、兄弟がお読みになりましたレビ記の16章をもう一回ちょっと見てみましょうか。 レビ記16:15-17
とあります。 その当時イスラエルの民は主の愛を忘れ、とんでもない罪を犯してしまったのです。この主なる神の前に犯した罪は債務となったのです。 長い年月の間にこの債務は積もり積もって莫大なものになりました。いわゆる贖罪の日は義なる、聖なる神の前を歩む日でした。 しかし主は、罪を犯した者はすべて死ななければならないとエゼキエル書18章4節に厳かに言明したのであります。 したがってイスラエルの民の状態は、みんな罪を犯したため、死の判決を宣告されていたのです。主はご自身の義を無にすることはできませんでした。主は義のために罪を犯した者はすべて追放しなければならなかったのです。そのため主は実際の死の判決を下さざるを得なかったのです。 けれども実際はイスラエルの民ではなく、代表者がさばかれました。すなわち代表者、代理者としては羊を犯罪にささげることが行なわれたのです。この羊はイスラエルの民の犠牲となりました。 そしてそれに対するしるしは、羊を殺し、血を流すことによって示されました。そして民のための罪を、羊をほふり、その血を贖罪所の上と贖罪所の前に注がなければならなかったのです。 この贖罪所は神の箱のふたであり、箱の中には律法と戒めとを書き記した石の板があり、この箱のふたにほふられた羊の血が流されました。 それはいったい何を意味しているのでしょうか。その石の板の上には神のみこころが書き記されていました。いわゆるモーセの十戒と言われていたものです。 結局あなたはわたしのほかには何ものをも神としてはならない。あなたは殺してはならない。あなたは盗んではならない。あなたは姦淫してはならない。あなたはむさぼってはならない。云々と。 イエス様はこれらの律法と戒めとを要約して次のように言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛せよ。」、ただ信じなさい、ではありません。「心から愛せよ。」 それから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」 このみことばは旧約聖書にあるみことばだったので、ユダヤ人はみなよく知っていました。けれど彼らはみなこの掟を、この戒めを破ってしまったことを認めざるを得なかったのです。 また主の掟を破る者は死ななければならないということもよく知っていました。したがって彼らは罪を犯したがゆえに義なる、聖なる神の律法を破ったため、死ななければならないということを知っていたのです。 しかし今やほふられた羊の血が流されたことによって、イスラエルの民の身代わりとしてその血が民の罪をおおったのであります。 しかしいかにしてその血が債務をおおうことができるのでしょうか。主ご自身が、その血の意味が何であったかを答えておられます。 同じくレビ記の次の章です。17章の11節をお読みいたします。17章の11節。 レビ記17:11
いのちは血の中にある。主なる神は血の中にいのちがある、とはっきり言っておられます。 血はいのちです。血が流されるといのちがささげられます。したがって流された血はいのちがささげられたことのしるしです。 血は債務が支払われたことを意味します。したがって血の犠牲は債務が支払われたことの証明です。借金を返済すると借用証書を破る。領収書が与えられるように、血の犠牲によって債務が支払われたのです。 イスラエルの民によって破られた律法がはいっている神の箱の上に、血が流されることによって債務は支払われたのです。 主が見ると、贖罪所には血が流され、その血は神の律法の上をおおっていたのです。 血は罰が下され、いのちがささげられ、債務が支払われたことを意味しています。 イスラエルの民が律法を持っていたのと同じように、私たちは聖書を持っています。 聖書は、あなたは死に定められている。しかしあなたの身代わりとしてほかの人がすでに殺された。あなたの債務は支払われた。あなたは今や恐れることなく、主の近くに近づくことができるとはっきり言っています。 何という力強い、すばらしい主なる神の知恵と英知でしょうか。すでに旧約聖書の中で明らかにされた主の救いのご計画は何とすばらしいものでしょうか。 3,000年前に旧約時代のダビデ王はこの救いに至るようになり、次のように証ししたのです。 よく知られている詩篇の32篇をちょっと見てみましょうか。本当にすばらしい、心からの賛美、また告白です。 詩篇32:1-5
旧約聖書の贖罪の日には今話したように、債務が支払われたのである。けれどもそれだけではなく、第二番目、罪も赦されたのです。 債務が支払われたとき、罪も赦されることができます。今話したように、領収書をもらった者は借用証書を破いて捨てることができます。それは贖罪の日における二番目の大きな事実です。 債務が支払われたゆえにその結果として、罪が赦されたのです。債務が支払われ、消されたとき、初めて罪が赦されたのです。 罪は確かに恐ろしい現実です。罪はひとつのことを通してのみ解決されるのです。 すなわち流された血の犠牲によってのみ解決されます。血は贖うゆえに罪が赦されたのです。 もう一回レビ記の16章に戻りましょうか。レビ記の16章20節からお読みいたします。 レビ記16:20-22
この贖いの二番目の事実は、荒野に送られたやぎを通して明らかにされたのです。このやぎは、罪の赦しとはいかなるものであるかを説き明かすためのしるしでした。 そして第一のやぎがほふられ、その血が贖罪所の上と前に注がれたとき、第二の生きているやぎを引いて来て、人々の前に立たされることになっていました。 そのときアロンはその生きているやぎの頭に両手を置きました。すなわちそのことによってイスラエルの人たちの諸々の罪を告白して、これをやぎの頭に乗せたのです。 聖書の中で、ある人は他の者の頭に両手を置くときは、ふたりのものはひとつになることを意味していました。 したがってアロンが、大祭司であるアロンがやぎの頭に両手を置くことは、イスラエルの民の罪がやぎの上に置かれ、やぎに移されたことを意味していました。 それはひとつの象徴でありましたが、やぎの頭に乗せられた重荷は何という大きなものだったでしょうか。しかもそれは一年間、イスラエルの民全体の罪の重荷でした。 ひとりの人間が一年間に犯した罪の重荷をちょっと考えてみてください。その罪の重荷は何と重苦しくのしかかっているでしょうか。 自分の罪の重荷に本当に悩んだ人は何人いるのでしょうか。ダビデは自分の罪について、今読みましたように告白したのです。 詩篇32:3
結局上手く隠そうと思ったとき、 詩篇32:3-4
ダビデは考えられないほど悩みました。欲しいものは全部持っていたのです。けれど必要であったのは罪の赦しでした。 赦されたと分からなかったから、もう昼も夜も寝られなくなったし、おそらく、もういくらご馳走を出されても、もう嫌ですという者になったのではないでしょうか。 この32篇だけではなく、51篇も彼の経験についての告白であります。 詩篇51:1-12
失くしたらしい 詩篇51:12-14
詩篇51:19
罪の重荷が、ただひとりでもそんなに重いものですから、ましてや民全体の罪の重荷はいかばかりでしょうか。しかもそれはすべての明らかにされた罪のみならず、知られていない罪をも含んでいるのです。すべての罪や考えや行ない、あるいは言葉による罪をすべて指しているのです。 このやぎは非常に重い罪の重荷を背負って担っていたのです。イスラエルの民はすべての罪がやぎの上に置かれ、荒野に送り出し、やぎを連れないで帰って来る人を見たのですが、そのやぎを二度と見た者はありませんでした。 ほかの動物だったら、猫だったら、犬だったら必ず帰ります。やぎと羊は無理です。方向感覚が全くないからです。 このようにしてイスラエルの民の罪は消されました。罪はやぎによって運ばれたがゆえに、もはや見ることも見いだすこともできませんでした。そのようにして主なる神はイスラエルの民に罪が赦されたことを明らかに示したのです。 もちろん旧約聖書における大いなる贖罪の日はひとつの象徴にすぎません。 実際の大いなる贖罪の日は、主イエス様が十字架につけられたときに始まったのです。もう一回へブル人への手紙をちょっと見てみましょうか。 ヘブル人への手紙9:11-14
ヘブル人への手紙9:22
ヘブル人への手紙9:27-28
いかにして贖罪の日に第一のやぎによって債務が支払われ、第二のやぎによって罪が荒野に運ばれ、赦されたかを見てまいりましたが、それと同じように、主イエス様の血によってその二つのことが成就されたのです。 すなわち全人類の債務が支払われ、罪が赦されたのです。もちろん実際にはやぎの血によって全ての債務が支払われたのではないことが明らかです。 聖書全体は旧約聖書における犠牲の燔祭(はんさい)がすべて、イエス様による罪の贖いと赦しとを指し示しているとはっきり言っているのです。 主イエス様はこの地上に来られる前から尊い聖なる血を流すことによって全人類の債務を支払い、罪を赦す備えをしておられました。 けれどイエス様は、われわれの身代わりになられるため、私たちに似た者、すなわち人間の形をとってこの地上に来られたのです。ただ人間だけが人間の身代わりとなることができるのです。 そのために、イエス様はわれわれの身代わりとなるために、人間の形をお取りになられたのです。イエス様は何と謙遜に、低くなられたことでしょうか。 最後にもう一個所読んで終わります。 キリストは、 ピリピ人への手紙2:7-8
これを考えると本当に心から礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。 |