引用聖句:ヨシュア記14章6節-14節
詩篇36:8-9
今朝、礼拝の時でしたか、愛する兄弟は次の個所を読んでくださったんです。主の呼びかけです。 イザヤ書55:8
信ずる者、 イザヤ書55:8-9
結局、主の考えとわれわれの考えとは全く違う。少しだけ似てればありがたいけど違う。また、エレミヤも言ったのです。 エレミヤ書29:11
今日、安心して将来に向かうことができる人は少ないのではないでしょうか。なぜならば今の世界は大変な速さで悪くなる一方です。良くなる可能性はない。 この間選ばれた法王はぼくの親戚じゃない。彼の目的とは、クリスチャンたちをみんなひとつにしよう。カトリック教会に属していても、プロテスタントの教会に属していても、バプテスマの教会に属していても構わない。みんなひとつにしよう。信仰は別にどうでもいいよ。みんなひとつになろう。+αすべての宗教と親しくなりましょう。 これこそが近いうちに現われる反キリストの目指すところです。宗教みんなひとつになれば、当分の間戦争は無くなる。 すべての戦争は宗教戦争なんです。滅茶苦茶な世界です。宗教が存在している限り、平和になりえません。 けども主は、「わたしはよく知っている。」と言われていますからすごい。悪くなればなるほどね、私たちは喜ぶことができるんじゃないでしょうか。もうちょっと、イエス様は迎えに来られます。 色々な理解しがたいこと、もちろんいっぱいあります。けども主はすべての背後に目的をもって導いてくださるお方です。われわれの視野はいくらイエス様を信じてもあんまりにも狭いので、多くのことをいくら考えても、理解することができません。 けど動かすことのできない事実は、主は決して過ちを犯しません。 われわれは理解できないことがたくさんあるとしても、われわれの主にとってもっとも益となることを考えていてくださる、何でもできるお方であると考えると、やっぱり希望が湧いてくるのではないでしょうか。 イエス様を信ずるようになった人々とは結局、周りの人々に宣べ伝えるべきことなのは、人間は心の虚しさのために造られたものではない。 必要としてるのはもちろん新しいものでもないし、近代的なものでもない。本当のものです。 そして人間はやっぱり騙されたくない。偽物、結構です。そういう気持ちを持ってるんです。 人間は絶望し、意気消沈し、不幸で、良心の呵責に責められ、情欲に駆り立てられ、自己追究に支配されても、この世に来られた、十字架の上で犠牲になられたイエス様を受け入れることによって新しい人間になります。 救われることとは、イエス様のことをわかることではない。主の愛を体験的に経験することなのではないでしょうか。 聖書は、傷付いた心は解放され、いやされるべきです。かたくなになった心は、主の愛によって克服され、新しくされるべきです。また満たされない心は、主イエス様によって満たされるべきです。 ですから大切なのは健康でもない。金でもない。名誉でもない。債務の重荷から解放されることなのではないでしょうか。 自分のわがままは赦されている、私は永遠のいのちを持っているという確信をもつ人々だけが幸せなのではないでしょうか。イエス様を信ずることによって人間は確かに変わらない喜びをもつようになります。 的外れな生活をしたくなければ、失格者になりたくなければ、また実を結ぶ生活をしたいと望めば、主の約束を信ずるべきなのではないでしょうか。 すなわち私たちのために十字架の上で死なれ、そして復活なさり、「わたしのもとに来なさい。」と呼ばれておられるイエス様の前に頭を下げ、へりくだり、良い牧者であるイエス様に「導いてもらいたい。イエス様のために生きたい。」と望むと、間違いなくあふれるばかりの祝福を得ることができるのです。 そういう人々こそが悩みながら喜ぶことができ、問題をもちながら平安に満たされることができ、そして生き生きとした希望をもって将来に向かうことができるのです。 今朝、愛する兄弟は祈りの中で言われたんです。「主の平安を得るだけではなく、勝利を得ることができるように。」、これは今朝の題名なんです。 救われることとは確かにすごい。すばらしい。けど、走り続けなければ的外れの生活になるのではないでしょうか。 最後まで走った男のひとりは、今の読んでもらいました個所の中に出てくるカレブという男です。 よく先に召された兄弟姉妹の最期を見て、「彼らの信仰にならいなさい。」と書かれています。ですからカレブについても同じことを言うべきなのではないでしょうか。カレブを最後までよく見て、彼の信仰にならいなさい。このカレブは祝福されました。 前に読みました、ヨシュア記の14章の13節でしたね。 ヨシュア記14:13
ヘブロンという所の名前の意味は、「主との交わり」「主とのつながり」「主との結び付き」、ヘブロンという町は、この世界でもっとも古い町のひとつです。 カレブにとってすべてのすべてであったのは、主をよりよく知りたい。主との交わりこそが彼にとって、結局すべてだったのです。 現代人の大部分はね、孤独病にかかっている。大変です。だから主と交わることこそが考えられないほど大切なのではないでしょうか。 夕べもひとりの方とちょっと交わったんです。彼は、「私はね、30歳になった時からもうノイローゼになっちゃった。最近もう、躁鬱になってしまった。やっぱり毎日山ほどの薬を飲まないとダメ。」 結局そういう人々にとって、もっとも大切なのは主との交わりなのではないでしょうか。 人間だってダメ。頑張って何とかなると言っても、意味のないことです。けど主との交わりを得ることによって、やっぱり違う世界を知るようになります。ヨハネは、その第一の手紙1章7節に、 ヨハネの手紙第I、1:7
結局、交わりをもつ条件とは、光の中を歩むこと。何も隠さないこと。正直になること。へりくだること。 今日の世界一のいいニュースとは何でしょうかね。ここで書かれているように、主イエスの血はすべての罪からきよめます。 すごい!考えられないすばらしい事実です。 このもっともすばらしいニュースを宣べ伝えることができるのは私たちです。すごい特権なのではないでしょうか。 なぜならば人間は赦された。主によってよしとされた。永久的に受け入れられた人々だけが、安心して将来に向かうことができるのではないでしょうか。 民数記の14章24節に、またカレブについて次のように書いてあります。 民数記14:24
カレブとは主との交わりを大切にしただけではなく、あなたの子孫も子どもも孫も、結局こういうふうに変えられるようになる。 主の恵みにあずかること、救われることこそ、確かに考えられないほど大切ですけど、救われることだけでは十分ではない。少なくとも主は満足しません。 イエス様をよりよく知ること。イエス様とひとつに結び付くこと。イエス様に用いられることはどうしても必要です。 今の激動と混乱と堕落の時代にあって、悩み、苦しみを超越した兄弟姉妹は、本当に必要な者として捜し求められています。 勝利を得る者だけが相続人となると聖書は言っています。おもにヨハネの黙示録の中で、何回も次のようなことばが出てきます。 ヨハネの黙示録21:7
そういう人々の日常生活は、荒野を行くようなものであり、人間の助けではどうにもならず、どうしても主の助けを必要とする人々です。 一般的なキリスト者の日常生活は、敗北の生活ではないでしょうか。ですから勝利を得る者が捜し求められています。 この勝利を得る者のひとつの実例は、今から大体3,500年前に生きていたカレブという男です。 イエス様を知るようになった者は、もうこれで安心だと思い込んでしまわないために、どうしてもカレブの信仰を心に留めていただくべきなのではないでしょうか。 カレブのことについてちょっとだけ3つのことを見てみたいと思います。 第一番目。彼が絶えず、日曜日ごとにじゃない、絶えず主に拠り頼んだとあります。 第二番目。彼はいかなる状況の中で、主に拠り頼んだのでしょうか。そして、 第三番目。彼は主に、どうして主に拠り頼むことができたのでしょうか。 まず第一に彼は、みことばによると、絶えず主に拠り頼んだ男でした。 確かに新約聖書を見ても、旧約時代に出てくる人々がいっぱい出てきます。ちょっと残念かもしれない。カレブの名前は一回も出てこない。 けど彼の生涯は、不信仰と堕落の世界の真っ只中にあって、不動の信仰の模範的な実例です。 確かにその当時の人たちは、主を知っている。そしてまた主のみこころを知っていると言いましたが、けど実際は主のみこころよりも、そしてまた主の御名の栄光よりも自分自身の自我を大切にしていました。カレブの場合は違ったんです。 このカレブについて何を書いているのでしょうか。あるいは彼の証しとはどういうものなのでしょうか。 なかなか言えないことです。前に読みましたヨシュア記の14章ですね。8節。これは彼の、本人の告白です。 ヨシュア記14:8
私たちはちょっと言えないのではないでしょうか。よっぽど目くらにされていなければ・・・。カレブは心から、「私は主に従い通した。」と言えたのです。 もちろんひとりだけ色々なこと言っても違うかもしれない。ですから聖書の中でやっぱり少なくてもね、証人も必要なんですね。 カレブに対する証人とはモーセなんです。モーセはカレブのことを一番よく知っていたのではないでしょうか。 ヨシュア記14:9
今度はモーセが出てきますね。モーセは ヨシュア記14:9
これはモーセのカレブについての証しです。同じものでしょう?「彼は主に従い通した。」 けども人間だっての証しはそんなに大切じゃないかもしれない。大切なのは、主が何を考えているか。主の判断とはいったいどういうものか。 ヨシュア記の14章の14節こそが、主ご自身の判断です。 ヨシュア記14:14
本人もモーセも主ご自身も、彼は結局最後まで従い通した。一度走るようになっただけじゃなくて、ゴールするまで走り続けたのです。ですからカレブの生涯は、私たちが不信仰と堕落の真っ只中にあって、いかに勝利を得る者となることができるかをわれわれに示すことができるのではないでしょうか。 もちろん当時のイスラエル人は、主によって特別に選ばれた民でした。小羊の流された血によって贖われ、エジプトの王パロから解放されました。 彼らは主の救いを喜び、主に従おうと心から願っていた人々だったのですけど、大部分の人々は途中で挫折してしまったのです。ダメになったのです。 主の誉れよりもむしろ主の恥となってしまったのです。 イエス様の恵みによって救われた兄弟姉妹は、だれでも確かに新しい人生の再出発を経験なさったわけですけど、大切なことは、これからの歩みです。 これこそが聖書のすばらしいところです。 今から。過去は過去。へりくだれば主は赦してくださるだけじゃなくて忘れます。問題はこれから。 カレブと同じように絶えず主に拠り頼み、主に従い通すことができれば、本当に幸せなのではないでしょうか。 私たちが一人残らず人生の終わりにあたって、この兄弟、あの姉妹は本当に最後まで忠実に主に従い通したと言われるならば、幸いなのではないでしょうか。 第二の点は、カレブはどのような状況の中で主に拠り頼んだの?という質問です。聖書から次のことが言えます。3つに分けて考えることができます。 第一番目。自分の兄弟たちに捨てられた時。 第二番目。人々によって攻撃された時。 第三番目。荒野の試練を受けた時、彼は主に拠り頼んだ。 ということです。前に読みましたヨシュア記の14章の8節、 ヨシュア記14:8
と。もともと身内の者たちは、カレブを助けるべきだったでしょう。そのためにこそ兄弟というのがいるのではないでしょうか。 けど彼らは主の声に聞き従うよりは、自分の理性の声に聞き従い、しかも彼らの心が分かれてしまったから、カレブを助けることができなかったのです。 「あいつはちょっと夢中になった。現実を見れば違うことを考えるべきなのではないか。」と彼らは思ったんです。けどもヨシュアは主に拠り頼みました。 彼はある程度まで単独で孤独だったでしょう。というのは、ヨシュアはちょっと特別な地位と多くの特権をもっていました。 ヨシュアはそのときすでにイスラエルの軍勢を率いる地位にあり、しかも主なる神の友であるモーセと非常に親しい関係にあり、しかも将来はイスラエルのすべての民を率いる指導者となるように選ばれた者でした。 これに対して、今見たカレブとは特別な地位をもっていなかったし、普通の人たちとまったく変わらない身分でした。 イスラエルの12部族から選ばれた12人の代表者がカナンの地に遣わされ、そのカナンの地の豊かさを見るとともに、その地にはいることが多くの困難を伴うことをもわかりました。 そのために遣わされた人たちはカナンの地にはいることができないと思ったのです。結局、絶望してしまいました。 けど、今の話したヨシュアとカレブ二人だけが別でした。変わった人々だった。変人だった。あの二人は何を考えているの?と民は思ったのです。 彼らは人間の力では不可能であっても、主にとって不可能なことはない。必ず奇蹟のみわざを成してくださると信じて疑わなかったのです。 旧約聖書の中で書いてないけど、信ずれば神の栄光を見ると二人は確信したのです。 このようにして二人は主にだけ拠り頼んだ結果、人々から、信ずる者から誤解され、迫害され、殺されそうにまでもなったのです。 霊的な前進は反対なしにあり得ないでしょう。もし信ずるのなら周囲の状況を見て、その問題や困難に心奪われ、主の約束に頼らないで諦めてしまうならば、それは本当に悲劇です。 当時の信者たちは暗やみしか見ることができなかったのです。主とともに前進しようとは、あえてしなかったのです。そのような状況の中にあってもカレブは主に拠り頼みました。 主を理解したのではない。主を理解する者、主の導きを理解する人はいないよ。 (テープ A面 → B面) 信仰とは、信頼というものは、まったく個人的なことがらです。 私たちはその点で上手くいかなかったときでも、その責任をほかの人のせいにすることはできない。 カレブはカナンの地にはいることを妨げる者を実際に見たんです。そしてまた自分自身の不十分さをもよくわかったんです。けどそれにも関わらず彼は主に拠り頼みました。 私たちもまた色々な問題や困難に出会って、試練を受けますけど、そのようなとき、カレブと同じようにどんなことがあっても主に拠り頼むならば、勝利を得る者となります。 そして私たちは勝利を得る者をなることができるのですから、そのようにならなければならないのではないでしょうか。 カレブは今話したように、兄弟に見捨てられたとき、主に拠り頼んだだけではなく、第二番目、人々に、信ずる者に攻撃されたときもカレブは主に拠り頼みました。 あらゆる誤解や非難にも関わらず、堅く信仰に立つことは大切です。 私たちは心をひとつにして主に従えば人々から尊敬され、驚かれると思いがちですけど、しかしもしもそうではなくて、それとは正反対のことが実際に起こったとしたならば、それは私たちにとって大変な、大きなショックとなります。 カレブもまたこうした辛い経験をもたなければならなかったのです。 民数記13:30
このことばを見ると、カレブの心の状態はどのようなものであったか明らかになりますね。 民数記14:8-10
99%だけじゃなくて、全会衆と書いていますね。みんな。 民数記14:10
そのとき初めて 民数記14:10
主は自分のご栄光を現わしてくださった。 カレブに対する反対は、結局憎しみに変わりましたが、それはいったいどうしてそんなことになったのでしょうか。カレブはただ真理だけを宣べ伝えたからです。 真理に耳を傾けたくなかったので、そして主に徹頭徹尾従い通そうとはしなかったゆえに、カレブを殺そうとしたのです。 このようにしてカレブは辛い経験をしましたが、主にだけ拠り頼む人はだれでも同じようなことを経験するのです。 信ずる者はただ主にだけ拠り頼まないと感傷的になり、目くらとなり、悪魔の虜となってしまいます。 けどカレブが殺されそうになったとき、主の栄光が現われ、カレブを助けました。そのときカレブは何一つ自衛措置を講じませんでした。主がカレブを助け、守ってくださったのです。 私たちも同じように主にだけ拠り頼むならば、何ものも恐れる必要はない。主はそのとき私たちのがわに立ってくださるからです。 そのとき主に反抗したり、カレブを攻撃した人々は次々と死んでしまったのです。 そのとき主に反抗したり、カレブを攻撃した人たちは、結局姿を消した。死んだ。不信仰が支配するところには霊的な死もまた支配するようになります。 民数記の14章の38節。ヨシュアと、カレブは生き残った。2人だけ。20歳以上の人々はみんな荒野で死んでしまったのです。 不動の信仰の道は、常にいのちに至る道です。今まで、カレブは、第一番目。自分の兄弟たちに捨てられた時。二番目。人々によって攻撃された時も、いかに主に拠り頼んだことを見ましたが、今度は第三番目。荒野の試練を受けた時も、彼が主にだけ拠り頼んだ様子をちょっと見てみましょう。 ヨシュア記に戻りまして、ヨシュア記の14章の10節です。 ヨシュア記14:10
彼の誕生日だったらしい。彼はただ単に困った時や、上手くいっている時に、一時的に主に拠り頼んだだけではない。 失望やどうしたらいいかわからない状態が何度も現われた、40年間という長い年月を通して絶えず主に拠り頼みました。 不信仰は決して待つことができませんし、また待ちたくないと思ってしまいます。 あるときイスラエルの民はカナンの地にはいろうと思い、一生懸命努力したんです。けど敗北に終わってしまったのです。そのとき彼らは結局主の思いを主の命令に従わないで、勝手なことをしてしまったからです。 徹底的にへりくだり、罪を悔い改めなければ、その人を主は導くことができません。 民数記14:29
主に従おうとしなかった20歳以上の者たちはみな荒野で倒れて死にました。ですから約束の地にはいった者たちはまったく新しい世代だったのです。 主に拠り頼む者はただ単に信仰によって歩む心構えをもち、それを実践するだけではなく、主の時が来るまで待たなければなりませんし、主の試練を受けなければならない。 カレブは長い年月を通して、主は必ず最善をなしてくださることを信じ、主に従い通し、すべてを主にゆだねました。 彼は主の約束が成就するまで、45年という長い間、待たなければならなかったのです。 最後に、どうしてカレブが絶えず主に拠り頼むことができたのでしょうか。大切な疑問です。 結局勝利の秘訣とは何なのでしょうか。答えは2つです。 第一番目。主の真実さです。 第二番目。ほかの者と違った心でした。 まず主の真実さについてちょっとだけ考えたいと思います。 死が支配する砂漠や荒野の中でもカレブは生き続けました。今話したように、20歳以上の人々はみんな荒野で倒れて死にましたが、ヨシュアとカレブだけが生き残りました。どうしてでしょうか。 彼らは絶えず真実なる主を見上げていたからです。現実だけを見たならば、諦めて、がっかりして、落ち込むようになったに違いない。もう一回ヨシュア記に戻りまして、 ヨシュア記14:10
主に拠り頼まない。この人たちはみんな自分のいのちを保とうと努力しましたが、結局失ってしまったのです。 ヨシュア記の14章の11節に書いてありますように、 ヨシュア記14:11
最初はカレブはイスラエルの民を説得しようと、色々話し合うようと努めていたでしょうけどダメでした。何話しても失敗でした。 そしてほかの人たちは結局もう、カレブはあんまり話さなくなってしまったから、もう彼は負けた、ダメになってしまったのではないかと思ったでしょう。 けどカレブは忍耐して、主なる神の約束は必ず成就すると信じ続けました。忍耐とは決して弱さのようなものではない。カレブは壮健であり続けました。これは主の力の現われなのではないでしょうか。 カレブは死んだ人たちと同じ苦しみを経験しました。すなわち彼も飢え渇き、荒野の単調さ、いつも同じ物を食べることなどです。 けど彼はすべてをともにしたのですが、結局前と同じ力を満たされていたのです。40歳の時と、85歳の時と同じ力をもつということは、奇蹟以外のなにものでもない。この奇蹟の秘訣は、真実なる主に拠り頼むことでした。 私たちが自分の力で主のみこころを行なおうとするとき、初めは大成功に輝くかのように見える場合があっても、やがて打ちのめされてしまいます。 時の経過とともに私たちは、徹頭徹尾試練に会いますが、それは私たちがただ主イエス様をおひとりだけに拠り頼むか否かが明らかになるためです。主に拠り頼む者は荒野の中でも新たなる力を得ます。 カレブはただ単に約束の地カナンにはいっただけではない。自分に前から約束されていたヘブロンという地をも自分のものとすることが赦されたのです。 色々な問題は何年間も続きましたが、彼はただ主にだけ拠り頼みましたから、主の約束の実現を経験することができたのです。 ヘブロンはカレブのものになるということは主によって約束されていましたが、周囲の人々はだれも信じようとはしなかったのです。 けどもカレブは真実なる主の約束に拠り頼み続けましたから、主は必ずご自分の約束を守ってくださるということを経験することができたのです。約束を与えた主は自分の約束ぐらい守ることができると彼は堅く信じたのです。 彼はいつか約束の地にはいれるか、全然わかりませんでしたが、一瞬たりと言えども主の目標を忘れることがありませんでした。 それですから45年経ってから、約束のヘブロンの地にはいることができたとき、少しも驚かず、これはすべて真実なる主のなさった当然のことであると信じて疑いませんでした。 彼は主の啓示にしっかりと拠り頼み、ただひとつの主の目標だけをもって、主の真実にまったく拠り頼みました。そのような人たちは主の奇蹟を経験します。 民数記14:24
とあります。主は約束してくださっただけではなく、そのことを実際にカレブは経験しました。 カレブはどうして主に拠り頼むことができたのか。今話したように、主の真実のゆえです。そしてここで書かれているように、彼がほかの者と違った心を持っていたからです。 彼の生涯は、私たちもまたカレブと同じように、主に対する全き献身をするようにとの呼びかけの意味をもっています。 われわれは今日不信仰と混乱とによって囲まれています。 主の明らかな目的は、まだ今のところ完全に実現されたわけではありません。例えばわれわれの家族みんな、親戚、友人たち、知り合いの人々はみんなイエス様を信ずるようになったとは限りません。 ですから私たちの信仰は試されています。すべてを主にゆだねましょう。そして主が大いなるみわざを成してくださるのを待ち望みましょう。 そうすれば今は不可能なこと、実現されていないこともやがては成就されます。 カレブの生涯を通してわかることは、大切なのはわれわれの真剣さや真面目さや努力ではなく、ほかの者と違った心を持つことです。 最後まで主に従い通すために、ほかの者と違った心を持つことがどうしても必要なんです。 荒野での数年間は、決して無駄なものではありませんでした。20歳以上の者たち、すなわち古い年とった者たちはすべて取り除かなければなりませんでした。この辛い経験を通して、まったく新しい世代、すなわち主を第一にする世代が生まれました。ひとつの実例を見てみるとわかります。 ヨシュア記15:16-17
オテニエルということばの意味は、「神の力」です。それはすなわち荒野での長い年月を通して、まったく新しい力が働くようになった事実と密接な関連をもっています。 オテニエルは主の真実さを信じ、敵に対して勝利を収め、敵の地位を自分のものとしたために、主の約束を実現していただくことができたのです。 このオテニエルはカレブの甥でした。荒野での生活を通してカレブだけではなく、カレブの家全体が、親戚をも含めてみな、絶えず主に拠り頼むようになりました。 カレブの娘アクサも同じ霊に満たされ、すなわち一番大切な泉を取ろうとしたから得られた。 今度はね、ちょっと士師記になります。 士師記1:14
アクサ 士師記1:14-15
とあります。ヨシュア記にもう一回戻りまして、同じことばが出てきます。 ヨシュア記15:19
とあります。カレブの家族、親戚たちもまたカレブと同じ霊、すなわちほかの者と違った心を持っていました。 自分だけではなく、ほかの人々もまた同じように勝利を得る者となることは、カレブの初めからもっていた切なる願いでした。 モーセやヨシュアといった人たちは前に話したように、公に認められた者で、偉大な指導者たちでした。 これに対してカレブは目立たない存在でした。けど彼の存在は主の目から見ると極めて大切な意味をもっていたのです。 彼は、すなわちほかの者と違った心を持っていましたから、みこころにかなう者でした。 私たちは弱く、意味のない存在。したがって強くも賢くもない存在であるため、何もできないと思ってしまいがちなのではないでしょうか。 けど私たちひとりひとりを通して、大いなるみわざがなされるべきです。それは可能であるばかりじゃなくて、必要でもあります。勝利をもうすでに得られた主を通して、それは可能となります。 イエス様の御霊が自由にわれわれのうちに、またわれわれを通して働くことがお出来になると、私たちはほかの者と違った心を持つ者となるのです。 そのことによって人々は引きつけられるようになり、主のご栄光を受けるようになるに違いない。私たちひとり残らずカレブと同じように豊かに用いられる器となることができるように。 初めに読みました個所、もう一回読みます。 詩篇36:8-10
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