引用聖句:士師記2章1節-3節
士師記2章12-22
士師記3:5-6、9
士師記18:9
今読んでくださった箇所の内容は、「前向き生活をしましょう。」、主は生きておられます。主はご自分の約束を、必ず実現しておられます。 イスラエルの人々は、みことばに頼った時、目に見える現実をある意味で無視した時、結局主はすごい、主に頼ると絶対に後悔しないとわかったのです。 申命記1章21節、同じことばが出てきます。 申命記1:21
イエス様は、祈りの中で次のように言われました。 ヨハネの福音書17:4
けれど、私たちは過去を振り返って、このように言うことのできる人は、おそらく一人もいないのでしょう。どうしてもやりたいと思っていたこと、どうしてもしなければならなかったことが何と多くあることでしょうか。 また、どうしても訪問したいと思っていた人々、見舞いに行かなければならなかった人々の所へ行くことができなかったことも少なくない。またどうしても主の御許に導きたいと思っていながら、できなかった人々が大勢いるのではないでしょうか。 我々の家族や親戚、友人たちの間で、依然として悪魔の手に渡されている人々が何と大勢いるでしょうか。このように考えてくると、未解決、未完成に終わってしまったことが次から次へと思い出されてくるでしょう。 これと同じように旧約聖書におけるイスラエルの民も、神の前に悔い改めなければならなかったことが数多くあったんです。 士師記という本は、非常に考えるべきものです。なぜならば、士師記の時代について考えると、認めざるを得ません。 士師記は聖書の中でも特に、ちょっとひどい書物です。その時代には未解決な課題が多く残されてしまい、それが一つの大きな悲劇を呼び起こしていたのです。 士師記の前にあるヨシュア記においては、イスラエルの民が主の民が、神によって約束された土地へ導かれたことが書き記されています。ヨシュアの時代には初めから勝利が続き、その後も勝利から勝利へと勝利を続けた時代であったことが解かります。 その時の主の神の目的は、カナンすなわち約束された土地を全部、イスラエルのために占領し、すべての異邦人、悔い改めたくない人々を殺害することでした。 けれど、ヨシュア記の終わりの章を見ると、神の民が激しく戦いを続けることを止めたんです。その土地に定住してしまったことがわかります。このように主なる神の命令に従わなかったために、異邦人たちは、約束された地から消滅してしまうことなく、その地に留まったので結果として、主のご目的が達成されないことになってしまいました。 イスラエルの民は、主によって選ばれた民であり、したがって主の民と言って差し支えないものでした。彼らは「その土地を全部占領するように」という主の召しを正しく知ることができたはずです。主は何を考えているか、何を望んでいるかもちろんはっきり解かったはずです。彼らは神のご目的は何であるかということを知っていました。 そして初めは彼らも、主のご目的を達成することがただ一つの課題であるということを正しく知っていました。したがって初めは大喜びで、主に従って戦いを続けましたが、それが完成する直前になって突然、その戦いを止めてしまったのです。 この悲劇について、士師記は細かく書き記されています。 そして、このことはただ単に、その当時にあっただけじゃなくて、今日も、我々イエス様を信じる者に対して全く同じことが当てはまるということを忘れてはなりません。 すなわち、初めは主との愛によって大きな喜びがもたらされ、すばらしい証しと栄光に満ちており、主がすべてを備えていてくださるがゆえに、もっともっと前進しなければならないということを知っていたはずです。 信じる者は、主が共にいて、あらゆる約束を成就してくださることをも知っているはずです。主の約束を信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われるというみことばは、信者一人ひとりに大きな喜びと望みとを与えてくださるのです。 このみことばは、多くの信者によって受け入れられ、そのために信じる兄弟姉妹によって受け入れられ、そのために信者たちは、家族のために熱心な祈りが捧げられたのです。 しかし、時がたつにつれて、祈りによる戦いが少しずつ衰えていき、ついには祈ることさえも全くしなくなる例が少なくないのではないでしょうか。 このようにして、救われた者が、信仰による前進を止めてしまい、そこで留まってしまうならば、霊的に成長もそこから先に行くことができなくなってしまうことは明らかです。 これらの信者は、もはや何のために自分が救い出されたのかが解からなくなってしまい、与えられた目的と使命が曖昧になってしまうために、証しをしたり、霊的に成長したりする力さえもなくなってしまうのです。そのような状態になると、自ずから光輝いていた顔から喜びが消えてしまい、その人に起こった変化がにじみ出てくるようになるものです。 かつてはイエス様が、主の主、すべてのすべてであったにもかかわらず、今はまったく変わってしまったということは何と悲しむべきことでしょう。 しばしば、それは知らず知らずのうちになってしまうため、多くの人々は無意識のうちに主の愛から離れてしまい、自分に何が起こりつつあるかということさえも正しく理解することができないで、したがって心から罪を悔い改めたこともしないのです。 しかし、何が起こりつつあることに気をつけなければなりません。その当時と今とは何が変わってしまったのでしょう。非常に多くの信者が、このような状態に陥りつつあるのではないでしょうか。 そこで私たちは、士師記を読む時には、絶えず次のような問題意識を持つようになります。 すなわち何故、神の民であるイスラエルの民が主を信じる者であるにもかかわらず、信仰的に前進することをせず、そこで留まってしまったのでしょうか。 第1の答えは次のものです。彼らは、戦いにうみ疲れ、主の御心が解からなくなってしまって、したがって戦う力がもちろん無くなりましたということです。 約束の地を占領するためには、多くの戦いが必要でした。彼らの戦いは休みなく、絶えず続けていかなければならない激しい長期戦でした。我々信じる者の生涯も、戦いの生涯でなければなりません。 パウロは次のように言ったのであります。 ガラテヤ人への手紙6:9
コリント人への手紙第I、15:58
その当時のコリントでは、絶望的雰囲気がみなぎっていたため、全力を恐れて主のわざを励むことを止めてしまう人々が少なくなかったため、パウロはこのような言葉を言わざるを得なかったのです。 べブル人への手紙6:10
イエス様の弟子たちも激しい戦いの中に投げ込まれたのでした。 そのために、イエス様は弟子たちに次のように言われたのです。 ヨハネの福音書14:1
主もヨシュア記で次のように言われたのであります。 ヨシュア記1:9
このような約束のみことばを、私たちも自分のために書かれたと思い、自分のものにすることができます。 イエス様は、マタイの福音書24章13節で次のように言われました。 マタイの福音書24:13
主の民は、士師記の時代にうみ疲れてしまい、もはや主の命令どおり戦いを続けることを止めました。私たちも同じような状態に陥る危険性にさらされているのではないでしょうか。 我々信じる者の戦いは、目に見えるものに対する戦いではない。目に見えないものに対する戦い、すなわち霊的な戦いであることを忘れてはなりません。 最も大切な戦いは、心の内で行なわれるものです。パウロでさえもある程度、この戦いから解放されることを望んだようです。ピリピ人の手紙を読むと次のように書かれています。 ピリピ人への手紙1:21、23
パウロは、このような激しい霊的な戦いから解放され、この世を去ってキリストとともにいることを切に望みました。 この世においては、主に救われた者は、欲すると欲せざるとを問わず、皆この戦いの中に投げ込まれています。我々信じる者といえども、イスラエルの民と同じように、戦いを止め、安易な妥協に陥ってしまう危険性に取り囲まれています。 その当時、初めはイスラエルの民も勝利の連続を勝ち誇ることができました。しかし、やがてその戦いが果てしなく続くことがわかった時、うみ疲れガッカリしてしまい、そのために戦い続ける勇気を失ってしまいました。 ご存知のように士師記の士師とは、敵に対する裁き人という意味であり、イスラエルの民にとっては、救い主に他ならなかったのです。したがって、主なる神の民が主の御前に罪を犯した時、彼らが心から罪を悔い改めるように勧めたのです。 悔い改めた時、その時は必ず主が士師、すなわち救い主をお与えになり、民を解放してくださいました。 彼らがいかにダメになったとしても、主は見捨てることをしないで、常に彼らのために救いの道を備えてくださったのです。 したがって士師記に描かれているイスラエルの民の歩みは、我々信じる者の信仰生活を反映しているものと言えます。すなわち、ある時には勝利の歌を賛美し、またある日にはみじめな敗北感に打ちひしがれるといった具合です。 私たちは、同じようなことを経験しなかったのでしょうか。ある時は泣き、ある時は笑い、ある時は悲しむといった具合に喜怒哀楽の時であったと言えます。 けど、悲しみのどん底に落ち込んだ時も、頑なな心、思い上がった心が打ち砕かれるならば、その瞬間に主が慰めと励ましとを与えてくださり、救いの道を備えてくださることを確信し、そのために感謝することができます。 私たちの問いとは、次のようなものでしょう。なぜ主の民であるイスラエルが救われた者であるにもかかわらず、信仰的に前進することをせず、そこで止まってしまったのでしょうか。 第1の答えは、彼らは戦いにうみ疲れ、主の御心が解からなくなり、したがって戦う力がなくなってしまったということです。 第2の答えは、なぜイスラエルの民は、信仰的に前進せずストップして、約束の地をすべて占領する戦いを続けなかったのでしょうか。2番目の理由は、彼らが上に召してくださる主の勝利を得ようと努めなかったことが挙げられます。パウロは、ピリピ人への手紙を見ると、この主の勝利を得る必要性について書いたのです。 ピリピ人への手紙3:14
彼らは、目の前のことだけしか見なかったため、神のご目的を忘れてしまったのです。彼らは、目に見えない世界、霊的な世界を見ようとしなかったのです。 パウロはまた次のように書きました。勝利を得る秘訣でしょう。 コリント人への手紙第II、4:18
イスラエルの民は、永遠なるものを見ずに、目の前のものに心を奪われたため、道を誤ってしまいました。彼らは、全部占領せずに途中でうみ疲れてしまったため、本当の使命と目的を忘れました。初めは、主の命令どおり勝利の戦いを続けたことは正しかったけれども、途中で戦いを止めたことによって、悪魔の勝利が入り込んでしまったのです。 信じる者は、もしも信仰的な前進を続けない時、主の目的を忘れてしまい、逆に与えられた使命と目的を忘れてしまう時には、信仰の成長と前進が止まってしまいます。 途中で落ち着いてしまうということ、すなわちその所に定住してしまうということは、何を意味しているのでしょうかね。それはとりもなおさず、戦いの霊と勇気を失うことに他ならない。とりわけ、兄弟姉妹のため、未信者のためにとりなしの祈りをすることが、信仰の戦いには大切なことです。 士師記を見るとわかるように、主の民の敵であるペリシテ人は、イスラエルの民から武器を略奪するという戦略を使いました。そのためイスラエルの民は、大いに悩み、戦いの霊を失ってしまいました。ペリシテ人の戦略のために、神の民は武器を使って、戦うことができなくなってしまいました。 我々の敵は、目に見えるペリシテ人ではなく、目に見えない敵、すなわち悪魔であることを忘れてはなりません。悪魔は、ペリシテ人と同じように、私たちから信仰の武器を奪い取ろうとしています。 悪魔は、私たちが神の武具を身に堅め、祈りの戦いをすることができないようにと一生懸命になっています。 我々の祈りの生活は、いったいどういうものでしょうか。かつては失われた魂のために、一生懸命祈ったことがありましたが、今はどうでしょうか。共に祈る大切さを本当に知っているのでしょうか。 祈りの時は、とりもなおさず霊的な戦いの時に他なりません。私たちは、祈りの時に多くの祈りを主に捧げます。しかし、一番大切なことは、霊的な戦いで悪魔に打ち勝ち、勝利の戦いを最後まで続けることができるようにと祈ることです。 そのように私たちが、真剣に祈っている未信者の中には、何ヶ月か何年間たっても、依然として罪を悔い改めて主を信じない人は大勢いることを知っています。戦いのために召し出されている人とは、まさにそのような人々です。 もう少し解かりやすく言うと、霊的な戦いを続けるために、我々に与えられている人々こそ、今述べた方々であるということです。ここで大切なことは、私たちがイスラエルの民のように、戦いにうみ疲れることなく、目に見えるものによらないで、目に見えない霊的な世界で、その人々のために祈り続けなければなりません。 祈りの中での戦いの霊が消えうせてしまった信者には、もはや戦う力がなく、したがってこのような喜びもありません。これこそ狡猾な悪魔の策略です。しかし、戦う霊を失った者は、決して主のご目的を達することができません。 最後に第3の答えとは何でしょうか。すなわちなぜイスラエルの民が、約束の地を全部占領しなかったのでしょうか。この世の霊が入り込んだからです。居心地の良い楽な生活をしよう、楽しくやろうという霊がそれに他なりません。 イスラエルの民は、自分たちだけが、激しい戦いを永遠に続けなければならないとは、どういうことなのか、他の民はもっと楽な生活をしているのに、自分たちだけがなぜこんなに苦しい生活をしなければならないのでしょうかと、彼らはつぶやいたのです。 信じる者が、楽な生活をしたいと思う時には、必ず悪魔が心の中に入り込んで支配してしまうのです。 イスラエルの民が、敵と戦うことを止めた時に、この世的にはお互いに非常に親しくなることができました。この世と戦わない信者は、悪魔の誘惑に陥る危険性を持っています。敵と戦わなくなってしまった信者は、もはや主の僕ではありません。 敵と戦う備えのない者は、安易な妥協に陥ってしまいます。この世と適当にうまくやって行こうと思ったり、居心地の良い楽な生活をしようとしたりする者は、備えられた主の遺産を受け継ぐことができません。 イスラエルの民が戦い続けることを止めた時に、彼らは異邦人である敵と親しくなり、お互いに結婚しあうことが平気になってしまい、主の前に罪を犯したのです。悪魔は、このような堕落した時にイスラエルの民に対すると同じように、我々に対しても今からこそ、誘惑しようとすきをうかがっているのです。 今まで話してきたようなこと、すなわちイスラエルの民の失敗と、我々信じる者の欠点だけで今日の話を終えなければならないとしたら、ちょっと悲観的なことしか言えないことになってしまう。 士師記は、主なる神が信じる者を決して捨てないとはっきり言っています。我々信じる者が、主の前に心から罪を悔い改めるならば、主は我々を愛し、生き生きとした交わりを回復してくださるのです。ですから士師記の中に、デボラやギデオンあるいはサムソンなどの、悔い改めを読んで主に感謝できるのです。 これらの人々を通して、主はイスラエルの民を救いの道に至らせてくださいました。多くの人は、サムソンが女の奴隷になったため、優れた者ではなかったと考えるでしょう。けどはたして、私たちはサムソンよりも、はるかに優れた者なのでしょうか。過ぎ去った一年間に私たちを通して、何人の人を救うことができたのでしょうか。 主は、サムソンを通してイスラエルの民をすべて救いの道に至らせ、解放なさったのです。 過去を振り返った時、私たちは、果てしなく続く戦いにうみ疲れ、祈ることを止めたり、あるいはイスラエルの民と同じように、楽な生活をしようと思ったりしたことがあるかもしれない。 ギデオン、デボラ、サムソンという多くの人々は、主の器としてイスラエルの民に用いられました。しかし、その当時すばらしい人、すなわちルツという信仰者を見いだすことができます。 彼女は、士師記の時代に生きた人でした。彼女は初めは、イスラエルの民ではなく、異邦人に属する者でした。このルツは、主と出合ってから、主を大事にするようになりました。彼女は、決して楽な生活を望まないで、ただ主のそばにいることだけを請い願ったのです。彼女は、明日のことを思い煩わないで、すべてを主の御手に委ねたのです。 ある日、彼女は落穂を拾うために出かけました。しかし、そこで麦だけではなく、一人の男と出会うことができました。ルツは彼と結婚するようになりましたが、信仰を通して主の僕となり、イエス様の子孫に加えられるという光栄にあずかることができたのです。 主にすべてを委ね、明け渡す冒険をすることができた者だけが、ルツのように祝福された生涯を送ることができます。 私たちの前には、戦いが横たわっています。私たちも戦いにうみ疲れることがあるでしょう。私たちも時には落胆したり、失望したりすることがあるでしょう。私たちもイスラエルの民と同じように、成すべきことが完成する前に、どこかに定住してしまうかもしれない。 このような可能性は、信じる者一人ひとりの生活の中に含まれており、そのような状態に留まってしまう事は悲劇であると言えましょう。 主は決して、我々を捨てるようなことをなさらないで、絶望的になることはないということを忘れてはなりません。私たちが、砕かれた心を持って、主のもとに立ち返るならば、主は必ず、力と喜びを与えてくださいます。 主は、私たちが戦いを最後まで続け、約束の地を完全に占領することを可能にしてくださる唯一のお方です。 主は、ヨシュアに対すると同じように、我々にも呼びかけておられます。 ヨシュア記1:2-3、9
もう一回、士師記18章9節を読んで終わります。 士師記18:9
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