引用聖句:コリント人への手紙第I、1章4節-9節
コリント人への手紙第I、15:1-4
コリント人への手紙第I、15:55
コリント人への手紙第I、16:13-14
先週、私たちがいっしょに学んだテーマは、日々、新たに、毎日新たにされる必要性について考えました。結局、勝利の秘訣について考えたのですけれども、今日は、勝利の生活への道について、いっしょに考えたいと思います。 最後に読まれた個所をもう一回読みましょうか。 コリント人への手紙第I、16:13-14
このみことばでもって使徒パウロは、コリントという大きな町にいる兄弟姉妹に勝利の生活への道を示しています。彼らにはそれが必要だったからであります。というのは、コリントにいる兄弟姉妹において多くのことがメチャクチャだったからです。 パウロは、いわゆるキリスト教の教えを伝えようとしたのではありません。彼の手紙全体は、コリントにいる兄弟姉妹の抱えている苦しみに対する主なる神の答えそのものでした。そのコリントにいる主イエス様を信ずる者は、圧倒的な勝利者などではなく、あらゆる点においてダメになっていました。 けれど私たちも、また多くの挫折をしているのではないでしょうか。私たちもしばしば、イエス様の名誉を汚してしまう者ではないでしょうか。私たちもしばしば、主の働きの妨げとなっているのではないでしょうか。 二つのことが明らかです。すなわち第一番目、あらゆる信ずる者は、勝利の生活を営みたいと切に願っています。そうでなければ、救われていないのではないでしょうか。 もう一つ。聖書はこの勝利の生活がいかに私たちに分け与えられるかを、はっきりと私たちに示しております。けれどこれは敗北の生活ではなく、勝利の生活を意味しているのです。 イエス様は、ヨハネの福音書8章36節に、 ヨハネの福音書8:36
わたしが ヨハネの福音書8:36
パウロはローマ人への手紙6章14節に、 ローマ人への手紙6:14
そしてよく知られているローマ人への手紙8章の37節にパウロは、 ローマ人への手紙8:37
けれどこれこそ、勝利を意味しています。 また、コリント人への手紙第II2章14節に、 コリント人への手紙第II、2:14
ここでアンダーラインすべきことばは、「いつでも」、そして、「至る所で」。これも勝利を意味しているのです。 今日私たちはコリントの兄弟姉妹に向けたパウロのことばについて少し考えたいと思います。 今読みました16章の13節、14節をもう一回読みます。 コリント人への手紙第I、16:13-14
ここでは、気持ちの良い忠告ではなく、それ以上のことが取り上げられています。 すなわち、ここでは福音が宣べ伝えられています。 すなわち、次のように言われています。生きるまことの主なる神は、あらゆる信者が勝利の生活を送ることができることを可能にしてくれました。 主の命令を実行する力をお与えにならずには、いかなる命令をもお与えになりません。私たちはいかなる良い忠告も必要としない。私たちが必要とするのは福音であり、すなわち主イエス様です。 私たちが何をなすべきかを、だれかが私たちに語ってくれることは大切かもしれない。けれど、はるかに大切なことは、だれかが私たちに命令に従う力を与えてくれることです。 ここの聖句で問題になっていることは、理論ではなく、実践そのものです。これらの聖句は、ほとんど軍隊長の命令のような響きをもっています。将軍は指令し、最終的に統括します。これらのことがらが尊重されるならば勝利が確実であるということを、将軍が知っているから、そのように行なえるのです。 目を覚ましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。 主イエス様に出会った兄弟姉妹は、だれでもイエス様の兵卒です。愛弟子であるテモテにパウロは次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、2:3-4
また、コリント人への手紙第IIの5章9節に、初代教会の証しが述べられています。 コリント人への手紙第II、5:9
人間ではなく コリント人への手紙第II、5:9
今日、私たちは新たに、真剣に自分自身に問うてみましょう。 私たちのために、ご自分のいのちをお与えになってくださったお方に喜んでいただくことが、われわれの心からの願いなのでしょうか。 イエス様を信ずることだけではなく、本当にイエス様に喜んでいただきたいという願いがとても大切です。この願いを持っていない人は祝福され得ないし、用いられ得ません。 私たちは今日、私たちが恐ろしい戦いの中に放り込まれているという事実を新たに認識したいと思います。 エペソ人への手紙6:12
すなわち、人間 エペソ人への手紙6:12
私たちの戦いは、悪霊に対する戦いであると、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。 けれども主イエス様に感謝しましょう。最後の勝利はすでに獲得されているからです。 イエス様は、ご自分の死とよみがえりを通して、悪魔の力に対する完全な勝利を獲得してくださいました。 イエス様は、父なる神の右に高められ、座しておられます。 イエス様の獲得された勝利を、全ての信ずる者の生活の中で明らかにさせるために、聖霊が遣わされました。この御霊に、働く余地が与えられますと、私たちはイエス様の勝利にあずかります。それは私たちの勝利ではなく、主イエス様の勝利です。 この勝利にあずかるため私たちは、何をしなくてはならないのでしょうか。みことばの中でパウロは、五つのことに言及しています。私たちはそれをほかのことばで次のように言うことができるのではないかと思います。 第一番目。常に警戒し、用心すること。 第二番目。信頼によって罪を洗われること。 第三番目。成長して、完全に大人になること。 第四番目。主にだけ拠り頼み、依存すること。 第五番目。すべて愛をもって行なうことです。 まず第一の明確な間違うことのない命令は、目を覚ましていなさいという命令です。 あなたがたは目を覚ましていなさい。常に警戒し、用心していることが大切です。私たちは見回りをしている兵士に連想されます。 目を覚ましていることは、最高の掟です。というのは、敵はどんな瞬間でも攻撃しかけて来るからです。これは、われわれ全ての者に当てはまります。 三つの敵が私たちに対立しています。すなわち、この世、それから、われわれの肉、それから、悪魔です。 私たちが絶えず警戒し、用心していないと、これら三つの強力な敵が、私たちに襲い掛かるのです。 私たちはこれらの敵に対して何を知っているのでしょうか。すなわち、私たちを取り巻くこの世について。私たちの内に住む肉について。そして、私たちを攻撃する悪魔についてです。 まずわれわれの最初の敵は、私たちを取り巻くこの世です。この手紙はコリントにいる兄弟姉妹に書き送られたものです。コリントという町は当時、ギリシャの最も大切な都市であり、商業と教育の中心地でした。 コリントは豊かで美しく、魅力的でした。けれど他方において、罪と誘惑に満ちた所でもありました。 コリントの兄弟姉妹は、ようやく少し前に信仰に導かれました。大部分は偶像礼拝者でしたし、道徳的に堕落した生活を送っていました。 けれど彼らはイエス様との出会いを通して、自分たちの罪が赦されているということを知り、大いに喜ぶことができるようになったのです。 今からはイエス様のために生きたいということが彼らの切なる願いでした。けれど彼らを取り巻くこの世は、彼らを再び虜にし、無力にし、麻痺させるように、あらゆる手段を使って誘惑しました。 私たちが今コリントにいようが、ニューヨークであろうが、ロンドンであろうが、ベルリンであろうが、東京であろうが、どこで生活しようが、至る所、私たちを取り巻くこの世は、われわれを目くらにし、惑わし、快適な生活を欲するように誘惑します。 けれどヨハネの極めて重大なみことばが、われわれにも当てはまります。 ヨハネの手紙第I、2章の15節からちょっと読みましょうか。 ヨハネの手紙第I、2:15-17
われわれの第二の敵は、私たちのうちに宿る肉です。 ここで肉とは、根本的に滅び切っており、改善され得ないわれわれの生まれつきの罪の性質を意味しています。 パウロはそのことを知っていて、次のように告白しています。よく知られているローマ人への手紙7章18節です。 ローマ人への手紙7:18
そして最後にパウロはどうにもならず次のように叫んでいます。 ローマ人への手紙7:24
と。 これが終わりではないとは、すばらしいことです。さらにパウロは重荷が下ろされた気持ちで、次のようにことばを続けています。 ローマ人への手紙7:25
イエス様のうちに解放があります。 なんとしばしば私たちは、われわれの罪深い性質の虜になることでしょう。それは私たちが肉と罪、あるいは霊の罪を犯す時に明らかになります。 いわゆる肉の罪は、ガラテヤ人への手紙の中で例え挙げられています。5章の19節から読みましょうか。 ガラテヤ人への手紙5:19-21
けれど霊の罪は、さらに巧妙です。すなわち、誇り、批判精神、不寛容などです。 われわれの第三の敵は、私たちを攻撃する悪魔です。悪魔は私たちの本当の敵であり、悪魔は強大な力を持っていて、われわれひとりひとりをダメにしようと狙っています。 悪魔はどんな代価を払っても、私たちをわざわいに陥れる決心をしています。私たちが勝利の秘訣を知らないならば、悪魔はわれわれを手玉に取ります。悪魔は色々な顔を持っています。 ある時には、ほえたけるししとして誘惑します。ペテロは、ペテロの手紙第Iの5章8節に次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:8
別の時には、光の天使として誘惑します。 コリント人への手紙第II、11:14
とあります。それですから、私たちが悪魔の考えをよく知ることは、どうしても必要であるということです。 パウロは次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、2:11
と。 私たちはいかにすれば悪魔に抵抗することが出来るのでしょうか。その結果、悪魔が逃げ出さなければならないかを学ばなければならない。この世、肉、そしてサタン自身は私たちを少しも休ませません。 私たちは警戒し、用心していないと、わざわいです。それですから、とっても大切な命令は、目を覚ましていなさい。サタンがあなたがたを陥れないように注意しなさいという命令です。 だれが日々、勝利を経験しているのでしょうか。われわれの最初の答えは、次のとおりです。いつも警戒し、用心している人。目を覚ましている人。眠りに陥らない人です。 次に私たちは第二番目の点についてちょっと考えたいと思います。すなわち、信頼によって強められることです。堅く信仰に立ちなさい。これもまた明確な命令です。 いわゆるよみがえりの書、コリント人への手紙第Iの15章の一番最後の節、58節にパウロは、コリントにいる兄弟姉妹たちに書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:58
ここで大切なことは、信じることではなく、信仰に堅く立つことです。 ある新聞に一冊の本を読む学生の写真が出ていました。この学生は眼鏡をかけ、それによって、かなり学識があるように見えました。そこに書かれている見出しがとっても面白いものでした。 「成功する人は勉強を始める人ではなく、勉強を始め、且つ本当にその勉強を続けることのできる人です。」と。 われわれの場合はどうなのでしょうか。私たちはしばしば諦めないのではないでしょうか。 戦いがいつ激しくなり、攻撃はますます度を加え、絶望の可能性が非常に大きくなると、私たちはみな内面的に疲れてしまう危険にさらされますけれど、私たちは簡単に放棄する根拠を決して持っていません。 というのは、堅く立ち、動かされることなく、いつも主のわざに励むようにと、命令されているのであれば、これは主によって可能でもあるからです。 これらのみことばは、よみがえりの書であるコリント人への手紙第Iの15章の終わりに記されています。 この書において、福音の内容が何であるか。それからまた、イエス様の復活の事実と栄光が何であるかが詳しく述べられています。それと同じように、信仰によってイエス様と結び付いている者の復活が述べられています。 それからさらに、われわれの主イエス様の再臨、また、死とよみに対する勝利も言及されています。 堅く立つこと。動かされないことは、どうしても必要です。その際、そこにとどまり、堅く立ち、動かされないことを可能にする。この内面的な確信の土台はいったい何なのでしょうか。それはみことばです。 私たちが拠り頼むべきものは、われわれの主の大いなる約束です。 みことばを理解することなのではなく、素直に、単純に信ずることこそが勝利の秘訣です。 信仰に堅く立ちなさいと言われる時、私たちはいつも、われわれの信仰の唯一の土台が主のみことばであるということをはっきりしておかなければなりません。 私たちは分かったから信ずるのではない。主は嘘を知らない。主は約束したから、安心して信ずることができるのです。 私たちが考えたり、感じたり、真理を見い出したりするのではなく、主のみことばが語られることこそ、徹底的に大切なことです。それだけがわれわれの信仰の土台でなければならない。 パウロはテモテに次のように書いたことがあります。 テモテへの手紙第II、2:15
と。人は曲がって生きること、すなわち、聖書を自分勝手に解釈することもできます。 いわゆる聖書批判全体は、聖書の曲解です。私たちは決して聖書の一ヶ所だけを、聖書の全体の関連から取り出して来て、それによって私たちが好ましいと思うことを基礎付けようとすることを、してはなりません。 私たちが主のみことばを判断すべきなのではない。主のみことばがわれわれをさばき、整頓したいと望んでおられるのです。 信仰に堅く立ちなさいという表現で述べられている、もう一つの別の側面は、すなわち主に信頼し続けなさいということです。誘惑や私利によって屈服させられないようにしなさい。 色々な困難や悩みがあなたの上に襲いかかり、あなたが理解できないような苦しみに耐えなければならないようなとき、主に対するあなたの信頼を失われないようにしましょう。 悪魔の攻撃目標は、われわれの信仰です。 私たちがもはや主に信頼しないようにと、悪魔はあらゆる代価を払って誘惑します。 もちろん私たちはわれわれの主を多くの点において理解できません。けれど私たちは、なぜ主がこのようなこと、また、あのようなことを赦しになるのか、全く分かりません。 どんなに努力しても、私たちは背後にある意味を少しも理解できません。しかし、それにも関わらず、信頼に堅く立つことが大切です。 主は、主がなさること、お赦しになることをご存知です。われわれの信頼の土台は主のみことばであり、主の約束です。 みことばの中の最もすばらしい約束のひとつは、ヘブル人への手紙の13章に書かれています。毎日覚えるべきことばではないでしょうか。ヘブル人への手紙の13章の5節の後半から読みます。 ヘブル人への手紙13:5
天の使いではない、主ご自身 ヘブル人への手紙13:5
大切なのはそれだけなのです。 われわれの思っていること、考えていることではない。主の言われていることばです。 ヘブル人への手紙13:5-6
すなわち、唯一の土台なるものは主の約束です。 ヘブル人への手紙13:6
もの ヘブル人への手紙13:6
私たちは次のようなときに、イエス様の勝利にあずかることができます。 すなわち、まず第一に、いつも警戒し、用心して眠り込まない時です。第二に、信頼によって強められる時です。 その土台は、主の真実なみことばです。主のみことばに基づいて、私たちは信頼することができます。主は決して失望させません。 第三番目の点は、成長して、完全におとなになる時です。 男らしくありなさいという表現は、成長しておとなになること。つまり、本当の意味で成長することを意味しています。 ここで次のような問いが現われてきます。私たちはもうどのぐらい長い間、主のものとなっているのでしょうか。私たちは霊的な領域において、まだ幼いのではないでしょうか。これはパウロの悩みの種でした。コリント人への手紙第I。有名な13章の11節に、 コリント人への手紙第I、13:11
これはパウロの告白でした。われわれの場合はどうでしょうか。私たちも子どものことをやめたのでしょうか。 未成熟のしるしは、コリント人への手紙第I3章3節によると、ねたみや争いです。 エペソ人への手紙4章の13節を見ると、パウロは、今度はエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 エペソ人への手紙4:13
大切なことは、信仰の一致に達すること。また、御子イエス様に対する知識の一致に達すること。完全なおとなになることです。 けれどこれは、どうすれば可能なのでしょうか。どうすれば私たちは、いつも警戒し、用心していることができるのでしょうか。どうすれば私たちは、信仰によって強められることができるのでしょうか。どうすれば私たちは、成長することができ、もはや幼子ではなく、おとなとして信仰生活を送ることができるのでしょうか。 私たち全ての者にとって明らかなことは、このことが自分の力では絶対にできないということです。 私たちがどうして絶えず挫折するのか、この根拠は次のようなことです。 すなわち私たちは、主イエス様がご自身の勝利の生活をわれわれの中に生かすことがおできになるために、イエス様に働く余地を与えることが必要なのですが、その代わりに、自分で勝利の生活を送ろうとしてしまうのです。 私たちではなく、われわれのうちにおられるイエス様。これこそが勝利の秘訣です。 すべての挫折は、私たちが主の御霊の導きと働きに従う代わりに、自分の力でしようとしたということを示しています。 私たちが挫折するのは当然のことです。というのは、私たちはとても不可能なことを自分でしようとするからです。だれ一人、主に喜ばれる生活を送ることはできません。それは全く不可能なことです。 だれ一人、自分の力で勝利の生活を送れるほど強くはないのです。 けれど私たちの次の命令は次のことです。強くありなさい。あるいは、要求されているのは、われわれの第四番目の点ですけれど、主イエスにだけ拠り頼み、依存することです。 イエス様にだけ拠り頼み、依存すること。このことがわれわれの標語であるならば幸いです。 なぜならば、自分の力でしようとすることは、全く無意味であるからです。 私たちはこの世とこの世の霊によって影響されずに、この世で生活することは、絶対にできません。私たちは、私たち自身の堕落した性質を直そうとしたり、克服したりすることは、絶対に出来ないのです。 私たちは自分の力で悪魔に対抗して、勝利を勝ち取ることは、絶対に出来ません。ですから使徒パウロはエペソ人への手紙に次のように書いたのです。 エペソ人への手紙6:10
とあります。 聖書のどこにも、頑張り、一生懸命になって自分の力で強くなりなさいと書いてはありません。主にあって強められなさい。主イエス様の大能の力によって強められなさい。と聖書は言っているのです。 さらにパウロはことばを続けて、神の武具を身に着けることが、この戦いで勝利者となるために、どうしても必要であることを記しています。 われわれの腰は真理の帯を締められなければならない。私たちは義の胸当てを胸に着けなければならない。私たちは平和の福音を宣べ伝える備えをしていなければならない。信仰の大盾が意識的に用いられなければならない。 必要不可欠なものは、御霊の与える剣としての主のみことばです。 だれ一人、敗北を帰する必要はありません。私たちが挫折するのは、私たちが自分の力でしたからです。悪魔はわれわれのちっぽけな試みを見てあざ笑います。決して自分に拠り頼まないようにしましょう。 私たちはどうすれば主の勝利にあずかることができるのでしょうか。 今まで学んだのは、いつも警戒し、用心していることによって。二番目。神のみことばに信頼し、主に拠り頼むことによって。三番目。子どものことをやめて、おとなに成長することによって。四番目。いかなることがあっても、決して自分自身をあてにしないことによってです。 さて最後に、もう一つの大切な最後の点を見てみたいと思います。五番目になります。すべて愛をもって行ないなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。 私たちが愛によって、しかも主なる神の愛によって満たされることが、すべてにまさって大切なのではないでしょうか。 主の愛は、われわれの生活の中で明らかにされなければなりません。主の愛は、われわれの行いによって示されなければなりません。 主の愛は、われわれの言葉の中で聞かれなければなりません。それがいかにして可能なのでしょうか。みことばの答えは、ローマ人への手紙5章5節です。 ローマ人への手紙5:5
もうすでに与えられていると。 このことばによると、新しく生まれ変わった者はだれでも、聖霊によって、神の愛を持つ者なのです。 聖霊は、全ての信仰者に与えられており、御霊の実は愛であると聖書は言っています。人間の心の中に神の愛があるのです。主なる神の愛で満たされるためには、私たちは聖霊で満たされなければならない。あらゆるキリスト者のおもな特徴は、この愛であるべきです。 ヨハネの福音書の13章の中で、イエス様はもちろん・・・内容的には同じ意味なのですけれど、次のように言われました。 ヨハネの福音書13:34
全く同じように、 ヨハネの福音書13:34-35
認めざるを得ない。 私たちは今まで、勝利の秘訣について考えてまいりました。 私たちは今、それがいかになされるかを知っていますけれど、今ここで大切なことは、この知識を実践に移すことです。 私たちにその覚悟があるなら、われわれの生活は変えられるのであり、私たちは大いに喜びに満たされ、イエス様は私たちを、主の名誉と栄光のために、主に仕えるようにお用いになるに違いない。 |