引用聖句:ローマ人への手紙6章6節
コリント人への手紙第I、2:2
ガラテヤ人への手紙2:20
今言われたように、今日のテーマは、「勝利の生活の秘訣」について考えたいと思います。 すべてのキリスト者はいうまでもなく、遅かれ早かれ自分の生活の妨げとなるものは実は自分の周りの環境や人にあるのではなく、自分の心のうちにあるのだということに気付きます。 なぜ多くの信ずる者は、霊的に進歩しないのでしょうか。それは自分の生活の支配者がイエス様ではなくて、自我であるからです。 信ずる者のうちに二つの相逆らういのちがあります。御霊によって新しく生まれたキリスト者は、もちろん永遠のいのちを与えられていますけれど、生まれながらのいのちは、この新しく与えられた神のいのちを外に出さないように覆い隠そうとします。 コリント人への手紙第IIとは、聖書の中でちょっと特別な手紙だと思います。なぜならばパウロは自分のことについて、信ずる者の悩みについて色々なことを明らかにしたからです。 このコリント人への手紙第IIの4章では、生まれながらのいのちを、外なる人と呼び、そして神のいのちを、内なる人と呼んでいます。 コリント人への手紙第II、4:1-18
コリント人への手紙第II、4:16
とパウロは告白することができたのです。 外なる人をもってしては、どうしても主なる神に喜ばれる生活をすることはできないという体験をもたなければならないときが、やがてやって来るはずです。 いつも同じ失敗をし、いつも同じ罪を犯します。それを繰り返してついに自らに絶望してしまった経験をお持ちなのでしょうか。 この経験は、もし私たちが霊的に前進し、実を結びたいと心から願うなら、どうしても経なければならないことです。どんなに熱心でも、どんなに一生懸命祈っても、一度この霊的破産を通されなければダメです。 短く三つの点について、ちょっと考えたいと思います。 第一番目。今話したように、外なる人と内なる人。 第二番目。死によって実を結ぶこと。 第三番目。壊された器。 この三つの点についてちょっとだけいっしょに考えてみたいと思います。 まず、外なる人と内なる人について、パウロは色々な手紙の中で多くのことを書いたのです。 例えば、ローマ人への手紙の7章22節を見ると、やっぱり「内なる人」という表現も出て来ます。このローマ人への手紙7章は、本当に正直なパウロの証しです。 二十何回も、私、私、私、私ということばが出てきますが、そうすると、自分が中心になると上手くいかないのが決まり。 ローマ人への手紙7:22
この「内なる人」とは、もちろんイエス様なのです。主の救いにあずかったパウロはここで何とかしてイエス様のみこころにかなった生活をしようと努めているのです。 それからエペソ人への手紙の中で、少しあとになります、エペソにいる兄弟姉妹にパウロは、また「内なる人」という表現を使って書き記したのです。 エペソ人への手紙3:16
パウロはここではエペソ人の信者にこのように書き送っています。 すなわちエペソにいる愛する兄弟姉妹を、あなたがたはすでに救われているが、あなたがたの内なる人はさらに強められなければならないと書いたのです。 もちろん、前に読みましたコリント人への手紙第II、4章16節も同じ意味です。 コリント人への手紙第II、4:16
毎日、 コリント人への手紙第II、4:16
ここではパウロはコリントの兄弟姉妹に、内なる人は日ごとに新しくされ、日ごとに上から新しい力を受けなければならないと書き送っています。 このように、今挙げましたみことばを見ても分かりますように、聖書は救いにあずかった人々には内なる人と外なる人があることが書かれています。 聖書で言う外なる人は自我のいのちであり、内なる人は主なる神によって新しく与えられた神のいのちであり、すなわちイエス様です。 バプテスマのヨハネは、彼は必ず栄え、私は衰えるべし。あの方は盛んになり私は衰えなければならないと言っています。けれどヨハネが言った彼とは、もちろん内なる人、すなわち神のいのちであり、我とは外なる人、すなわち自我のいのちです。 私たちが主イエス様に仕え、霊的に前進しようと思うならば、内なる人、すなわち内に住んでおられる内住の主イエス様がわれわれの内で自由を持たせられなければならない。内なる人が外なる人によって縛られていては、実を結ぶ奉仕はできません。 内なる人、すなわち内に住んでおられる主イエス様が私たちの内に現実的に主となり、支配者となりたく思っておられます。 もちろんイエス様は当然そうされるべきお方ではないでしょうか。私たちの内にイエス様が支配者となっておられることが最も大切です。 私たちの内なる人は時々、牢屋に入ったように縛られてしまいますが、自由にされなければならない。 私たちの内に住んでおられるイエス様がわれわれを自由に支配なさる、その度合いに従って私たちはイエス様のために役に立つ者となり、主の目に尊い者となるのです。 外なる人、自我のいのちを満足させようと努める人はたくさんいるでしょう。この世は自我のいのちを満足させるためにすべてのものを備えています。大部分の映画、テレビ番組、娯楽雑誌は人間の外なる人を満足させるためにできています。 イエス様の救いにあずかった私たちは内なる人を養うために何をしているのでしょうか。 イエス様は、人はパンだけで生きる者ではなく、主なる神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのであると言われました。私たちは本当に主の口から出ることばによって生きているのでしょうか。 いわゆるドロップしたキリスト者を見ると悲しいけれど、主のみことばをいただいて、みことばに生かされていかなかったために信仰の戦いから落ちてしまったことがわかります。 ただ聖書を読むだけではなく、もっとよくイエス様を知ろうと心掛けて、聖書の中にイエス様を求めようとしない者は、段々霊的な障害者になってしまいます。正しく聖書を学び、正しく祈りをしないキリスト者は同じところに留まったままです。 私たちは内なる人のために何をしているのでしょうか。パウロのように、外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていくと言えたら幸いではないでしょうか。 第二番目の点。すなわち死によって実を結ぶことについてちょっとだけいっしょに考えたいと思います。 よく知られている個所は、ヨハネの福音書の12章の24節ではないかと思います。 ヨハネの福音書12:24-25
一粒の麦の中にいのちがありますけれど、そのいのちは堅い殻によってしっかりと包まれています。いのちが外に現われるためには堅い殻が破られなければならない。殻の中にあるいのちが問題ではなくて、殻を破っていのちが現われるか否かが問題です。 麦の殻は私たちの外なる人、自分のいのち、自我のいのちを表わし、一粒の麦の殻の中にあるいのちは、内なる人、すなわち神のいのちであり、イエス様ご自身であることを意味します。 内なる人、主のいのちが自由にされるには、外なる人、自我のいのちが小さくされなければならない。イエス様は盛んになり私は衰えなければなりません。 何と多くの人々はただ自我のいのちだけしか持っていません。主なる神のいのちについては何にも知りません。 ただイエス様に出会った人々だけが、永遠のいのちを持っています。ヨハネはヨハネの手紙第Iの中で次のように書き記したのです。5章の12節です。 ヨハネの手紙第I、5:12
すなわち救われていない。多くの人は器だけを見、大切にします。すなわち外なる人だけを見ていますが、私たちは器の中にはいっているナルドの匂いを尊びたいものです。ですからキリスト者の中にも二つの種類があるのではないでしょうか。 すべてのキリスト者はイエス様を内に宿し、永遠のいのちを持っていますけれど、ある人は内なる人が押し潰されてしまって、外に現われず、またある人は主が心の内を自由に支配されて、外に現われています。 ですからキリスト者にとって問題なのは、いかにして永遠のいのちを受け取るかなのではなく、すでにいただいた永遠のいのちをいかにして私たちのうちで自由を持つかということです。 救いにあずかった人々を内なる人が外に現われて初めて、ほかの人々に祝福をもたらしていくことができるのです。けれど多くの実を結ぶには、まず死ななければなりません。 一粒の麦が死ぬには、まず地に蒔かれ、土の中に埋められます。一人ぼっちになります。光が見えません。そして外の殻が腐ってダメになります。 けれどもこのようにして死に切るなら、私たちもパウロと同じように経験することができるのです。 コリント人への手紙第I、4:12
その前の11節。 コリント人への手紙第I、4:11
最後に第三番目の点は、壊された器であります。ちょっとマルコの福音書から一節を読みましょうか。 マルコの福音書14:3-4
もったいない・・・。 ヨハネの福音書12:3
もう一ヶ所、コリント人への手紙の第IIの2章14節。よく引用される個所です。 コリント人への手紙の第II、2:14
今読みました個所を見ると、マリヤは価の高い匂い油を持っていました。自分のために使いたくなかったらしい。もったいないと思ったに違いない。けれどイエス様を知るようになってから、イエス様だったら丁度いい。 この香り高いナルドの香油の匂いが家中に満ちる前に、まず匂い油のはいった器が壊されなければなりません。もし器が壊されなければ、香り高いナルドの油は匂わなかったでしょう。 多くの信ずる者は香油をしっかりとしまったまま、信仰生活を送っているようなものではないでしょうか。イエス様をお受けして、永遠のいのちを与えられているけれど、いのちを外に現していくことをしません。 パウロはテモテへの手紙第IIの中で、こういう人々について次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、3:5
多くの兄弟姉妹の足りないところは、いったい何なのでしょうか。中身よりも器を大切にしているのではないでしょうか。 多くの兄弟姉妹は熱心であればそれで良いと思い、それが肉の力、自分の力であるかどうかを見分けないで、またこの世の教育を問題にします。すなわち彼らは器だけを見、外なる人だけを見ている。けれど大切なのは器よりも中身ではないでしょうか。 器は隠れ、ただ内なる主のみが現わされていきたいものです。 私たちは土の器であり、内なる人はイエス様ご自身です。生まれつきの賜物や能力は主の支配のもとになければ、何の役にも立たない。まず砕かれることが大切です。 私たち自身は消えて無くなってもいい。ただ内に住んでおられるイエス様がわれわれを通して現れていくことが大切です。 主の御霊は休みなく私たちに働きかけておられます。御霊は私たちを導いて、私たちが自我に死に、下り切り、ただイエス様の御栄えのために主の道具として用いられるようになるように導いておられます。 外なる人は破れなければなりません。殻は砕かれなければなりません。 なぜなら死なくして、実を結ぶことなく、霊的破産なくして、いのちと祝福をもたらすことはできないからです。これを深く主イエス様に教えられて知りたいものです。 少し小さな困難が来ると、不平を言い、呟きが出、度を失ってしまう。主なる神はわれわれの内に御位を定められてから、われわれの内でひとつの目的をもって働き続けておられます。 それは器の中にある永遠のいのちが、内なる人が自由に外に現われていくために外なる人が壊されていくことです。 土の器の中に持っている宝が外に現わされていかなければなりません。 今日差し迫って必要なのは器ではなく、外に溢れ流れていく主のいのちです。 またこの世が求めているものは、器ではなくイエス様の光です。 前に読みましたコリント人への手紙第II、4章6節です。 コリント人への手紙第II、4:6
けれど外なる人に死に、内なる人に生きることは悩みを通してのみできるのです。 もし私たちが本当に主に仕え、ほかの人々に祝福をもたらそうと願うなら、自我のいのちを捨てなければなりません。 イエス様は次のように言われたことがあります。 マタイの福音書10:38-39
多くのイエス様の救いにあずかった人々が、自分に対する主のみこころは何であるかを知っていないことは、大きな悲劇です。 私たちは主のわれわれに対するご目的を深く知りたいものです。 私たちの心の目が主のご目的に開かれるなら、今までの色々な問題や悩みや苦しみはわれわれのうちに、また私たちを通して内に住んでおられるイエス様が現われるためにあったことがわかります。 私たちの過去に起こった出来事は、無駄はひとつもありません。主イエス様は最善の道を歩ませてくださいました。 どんなに苦しいときも、また先が見えなく苦しかったときもイエス様はそのような時にも最善を成していてくださったのです。 これらの全てのことはただ一つ、イエス様は栄え私が衰えるために成されていました。 イエス様の霊がわれわれのうちに自由を得るために、外なる人は砕かれなければなりません。 イエス様はこの目的を目指して私たちを導いておられます。もちろんその導きはひとりひとりによって違います。ある人には早く、ある人には遅く主は働きます。 たいていの場合自分がゼロとなり、自分のうちに主を主とするには長い時間がかかります。心の内に主のご支配を妨げるものを持っていますので、主は前へ導くことができません。 また主にささげていないものを持っておられるなら、今日それを主におささげしましょう。 「イエス様。あなたのために、兄弟姉妹のために、またあなたを知らざる人々のために、私はすべてをあなたにささげます。 あなたが私のうちにあなたを通して外に現われることができるように私は私自身をあなたにすべてをおささげいたします。」 すべてを主に明け渡したいものではないでしょうか。 今までに自分自身に恐れを抱いたことがあるのでしょうか。 いくら救われたとしても、どんな悪いことでも、できる可能性をもっているということに気付いたことがあるのでしょうか。 巨人ゴリアテのような自我が自分の前に立ちふさがり、どうしてもそれに勝つことができず、パウロのように、私は本当のみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。 イエス様は言われました。今読みましたヨハネの福音書12章25節。 ヨハネの福音書12:25
自己否定は自分の権利をささげることです。自己否定は自分に拠り頼まないことです。 「私の心ではなく、あなたのみこころを成してください。」、これがイエス様の生涯の変わらなかった態度でした。 ですからイエス様から恵みの流れが、いのちの泉が人々に分け与えられていたのです。 私たちの願い、考え、感情、意思すべて主のご支配のもとに置かれるとき、私たちの内からもいのちの泉が湧き出てくるはずです。 私たちの生まれながらの考え、感情、意思は決して霊的ではない。これを御霊の支配にゆだねるとき初めて、それはみこころにかなう者となります。それらをイエス様にささげることにより、霊的な者になります。 自分自らの考え、感情、意思を自分からイエス様にささげなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ないのです。 多くの人々がいっしょにする決心ではなく、ひとりひとりが決心しなければならない。 「主よ。私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通してご自分のみこころをなさしめください。」と言いたいものではないでしょうか。 アブラハムは信仰の父と呼ばれて、アブラハムはイサクをささげる前に、イシュマエルという子どもをささげたのです。 多くの救いにあずかった者は、反対のことをしたいのではないでしょうか。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげます。自らの肉の力で、結局主に仕えようとします。 聖めは罪からの解放より、もっと深く大きいものです。それは自分の意思を主にささげ、自分の支配を主にゆだねることです。 アブラハムは勇気を奮い起こして自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。そのあとでアブラハムにもたらされた主の祝福はどんなに大きかったことでしょう。 アブラハムの勝利の生活を私たちも送るためには何をやったらよいのでしょうか。 アブラハムと同じように、自分の最も愛するものを主にささげることによって勝利の生活を送ることができるのです。 前に話したことがあるのですけれども、ドイツのアイドリンゲンの姉妹会の神学校の校長先生であるハイデ姉妹はもう本当にすごい、すばらしい姉妹でした。まだ生きています。おそらく九十何歳なのではないでしょうか。 けれども彼女はあるとき自分の生まれながらの性質を非常に苦にしたことがあります。いったいどうしましょうか。私は何をしなくてはいけないのでしょうか。いつも悪魔に試みられ、お前は繰り返し、繰り返し同じ失敗をしているではないか。 お前はもうダメだ。そういう声を何回も聞いたのです。 けれどもある日、ちょっと解放されてしまったのです。どうしてであるかと言いますと、夢を見ていたのです。夢は夢なのですけれども、彼女にとって大切な夢になったのです。 遠くで何かの木でしょうか、人間でしょうか・・・いや、動いていない。もう少し近づくと十字架だったのです。もっと近くに行くと、からっぽじゃない、どなたか架かっている。もっと近づくとびっくりした。自分だった。 それで悪魔が来て攻撃しようと思って近づいてみると、ああ、死んでしまったかと分かって逃げてしまったのです。 彼女にとってこれこそやっぱり解放だった。私はああしなくてはいけない、こうしなくてはいけないではない。 もう全く役に立たない者です。捨てるべき者です。 結局死に価する者です。結局古き人が十字架につけられた。もうダメ。 ある兄弟は8年間集会から離れてしまったのですけれど、戻った時、彼は次のように告白しました。 「私は十字架につけられていなかった。」 十字架を見るとそこにはイエス様だけではなく、われわれの古き人もそこについています。 ローマ人への手紙6章。前に読んでもらいました個所です。 ローマ人への手紙6:6
どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことができる。 イエス様の勝利は完全なる勝利です。イエス様はわれわれの古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださいました。 生きているのはもはや私ではなく、イエス様が私のうちに住んでおられる。悪魔は私たちに対して何の権利もない。「悪魔よ退け。」と言うことができるのです。 私たちのもっている問題が何であろうと、イエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて、主の声を聞きましょう。 そうしていくなら、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるようになります。 |