引用聖句:申命記6章4節-7節
サムエル記第I、3:9
今日、できたら祝福式やってもらいたい、子どものために祈ってもらいたいと頼まれました。われわれの主にとって、子どもは非常に大切です。 イエス様の弟子たちにとって、子どもはあんまり大切ではなかったらしい。 「子どもは帰るべきです、うるさいから。邪魔者であるから。どうせイエス様の話は分からないから、大きくなってから結構ですけど、今無理です。」と。「帰れ。」と。 イエス様は、「弟子たちの考え方は間違ってる。子どもこそわたしのもとに来てもらいたい。」と呼ばれました。 大人はありのままで来ても困る。大人は幼子のようにならなければ、決して受け入れられません。大人は結局理屈っぽくて、聞く耳のない者です。子どもは違う。 子どもは正直であり、素直です。確かに産まれたばかりの子は何も分からないし、何もできません。けども主なる神は人間から何も要求しない。知識も、立派になることも、金も。これこそがすばらしいおとずれなのではないでしょうか。 もちろん子どもは生まれると喜びの種です。けど、あんまり大切にされれば、ちょっと偶像になる可能性がありますし、どういう親でもやっぱり自分の子どもをうまく育てたい気持ちを持ってるでしょう。けどもなかなかうまくいかない。子どもは大きくなればなるほど大変なんです。 「この子は私の子どもじゃない、主のものだ。授けられたものにすぎない。もう無理だよ。よろしくお願いします。」、この態度取ればやっぱり祝福があり、うまくいきます。 前に読んだことなんですけど、アメリカの警察は、青少年犯罪に対して親に次のような警告を発しました。見出しは、「いかにあなたの子どもは間違った教育によって犯罪者となるか。」という驚くべき言葉によって連ねられています。 内容は色々なこと書かれていましたけど、初めの文章は次のようなものでした。 「あなたは子どもが欲しいものを何でも与えるということを、また、子どもが小さいときからしてごらんなさい。 子どもは大きくなっても、世界は自分のために何でもしてくれると思い込んでしまうでしょう。 その結果はわがままな人間になるだけではなく、犯罪者になるという恐るべき者となる可能性を持ってるのです。」と。 教育することは訓練することです。正しい道を教えることです。導くことです。また教訓を与えることです。 主の教育の目的は次のものです。わたしは愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。 罪、わがまま、不従順は罰せられ、従順は報いられるというふうに、親は子どもを教育しなければならない。 大人は自分自身不確かで、しっかりとした心の支えを持っていないために、多くのことを曖昧に許してしまうのです。そのような大人は子どもを教育することはできません。 前に読まれました申命記の箇所は、教育のために本当に大切な箇所です。 申命記6:4-6
暗記しなさいだけじゃなくて、心に刻みなさい。 申命記6:7
これは教育の目的です。あなたの子どもによく教え込みなさい。 申命記6:7
前に言いましたように、教育とはやっぱり、教えることであり、導くことであり、教訓を与えることです。また訓練することです。 したがって、子どもは親から何が正しく、何が間違ってるかを正しく教えられなければなりません。主の言葉である聖書は、何が正しく、何が間違ってるかをはっきりと言ってます。 ですから自分の子どもを責任感をもって教育したいと思うなら、自分で聖書を読み、そのことを自分の子どもに言わなければなりません。 3,000年前にダビデという王さまは、次のように告白しました。「あなたのみことばは私の足のともしび。私の道の光です。」 みことばとはダビデ王にとってすべてでした。みことばによって彼は導かれましたし、みことばによって彼は教えられましたし、みことばによって彼は守られたのです。 また主は、「わたしを信ずる者がだれも闇の中にとどまることがない。」と約束してくださったのです。したがって大切なのは、イエス様を信じる、受け入れること、主に従うことです。 何かあるものを信ずるというのではなく、わたしを信ずる、つまり信仰の内容が大切です。そして信仰の内容とは、すでに十字架の上で成就されたイエス様の救いです。 ただ人間ひとりだけの力では、決して暗やみから脱出することはできません。ただ人間だけの力によっては、決して良心の呵責からの解放は実現できません。 また、ただ人間だけの力によっては、決してまことの満たされた人生を知ることができません。 これこそイエス様が永遠から持っていた神の栄光を捨てて、この罪だらけの地上に来てくださり、大いなる犠牲を払ってくださった理由です。また罪を知らないお方として、私たちのために罪そのものとなってくださるという、大変な犠牲を払ってくださったことの理由であります。 私たちこそ、本来ならば神のさばきを受けるべき者でした。けど主イエス様はわれわれの身代わりとなって、そのさばきをご自身のうえに受けてくださり、そのことを通して贖いの道を開いてくださいました。 イエス様を信ずるというのは、取りも直さず光に来ることです。イエス様のみもとに来ることを意味しています。そしてイエス様のみもとに来る者は必ず受け入れられ、決して捨てられません。 聖書ははっきり言ってます。すなわち、人間は失われた者ですから、救われなければならない。ただ主イエス様だけがとこしえの神であり、罪を赦すことができるお方です。 そして救いの道は赤ちゃんのようになること。正直、素直になることです。 すなわち悔い改めることであり、信ずる、信頼することです。これは決して倫理や道徳の問題ではありません。人間に対する神の判断であり、また人間を救うための愛そのものです。 親の関心事は教育、いわゆる教養だけではなく、子どもがイエス様によって救われることでなければならない。いかに教育すべきなのでしょうか。 答えは明瞭です。すなわち主の言葉である聖書によってです。次に厳しさによってです。厳しさのない児童教育はありえません。だから聖書は次のように言ってます。 箴言13:24
もう一箇所、 箴言29:17
そうしなければダメ。 箴言29:17
自分の子どもを愛する者は、決して子どもを我儘勝手にはさせないはずです。愛のためには厳しくならなければなりません。 結局、子ども厳しくしないととんでもないことになるんです。 親は結局、神の立場の代わりとなって、神とともに働く者となるべきです。親は子どもに行くべき方向を示すべきです。不従順や反抗する子どもは厳しい態度を取るべきです。 親に従わない者は、一生涯苦しめなければならないし、主に従うことも難しくなるでしょう。子どもが従順を学ばないならば、それは結局親の責任です。 教育の問題について考えてみると、次のことが言えるでしょう。すなわちイエス様を体験的に、個人的に経験するまで本当の解決がないということです。イエス様に出会ってイエス様に従う者だけが、永遠の幸せ、本当の満足、満たされた人生を体験することができるのです。 われわれの人生にとって一番大切なのは一体何なのでしょうか。ある人は、東大に入って、博士になり、やがて名誉教授となって、文化勲章もらうということになると、多くの人々は、「いやー、大したもんだ。」と考えるでしょう。 それも確かに人生の歴史であるかもしれないけど、それがすべてとなって終わってしまうならば、あわれむべきことです。われわれの人生はただ、イエス様との出会いによってのみ、本当の内容のあるものとなるのです。 前にサムエル・・(録音不明)・・長の言葉は、一度エリのサムエルに教えた言葉だったんです。「主よ語ってください。しもべは聞いております。」 これを教えたエリは祭司であり、大祭司でありながら、自分でこの態度取らなかったんです。彼の子どもはもうメッチャクチャになってしまったし、イスラエルの民全体、そのために悩むようになったのです。 彼は、「子どもは間違ってる。我儘だ。」と分かりながら、厳しい態度取らなかったんです。当時の時代は大変な時代でした。士師記の17章の6節に、当時の時代の特徴について次のように書かれています。二十世紀の特徴もまったく同じです。 士師記17:6
そうすると大変な問題になります。結局、みな自分勝手なことをしてしまったということになりました。 けどもこの時代の中で、ひとりの模範的な母親がいまして、彼女について聖書は確かにたくさん言ってないんです。けども二つの大切なことは次のことです。 第一番目は、彼女は悲しみと砕かれた心の持ち主でした。まず、子どもが生まれないということは彼女にとって大変な憂いと苛立ちの種でした。けど彼女は主に対して、不平や不満をぶちまけたりしなかった。 彼女は苦しみを通して心を砕かれ、謙遜な者になりました。そして砕かれた謙遜な心は必ず救いを経験します。彼女は悲しみと砕かれた心の持ち主でありました。 第二番目、彼女は祈りの人でした。すべてをささげたいと願う者になったのです。 彼女は一人ぼっちで苦しんだのではなく、自分ではどうすることもできない悩みをもって、主なる神のみもとに行ったのです。彼女は主の前で長く祈ったと聖書は言ってます。 二、三十分だけじゃない。結局、自分の心を主の前にそそぎ出しました。祈りによって彼女は解放されたのです。自由になり、主なる神をほめたたえる者となりました。 主は彼女の祈りを聞いてくださり、子どもを与えてくださった。彼女はそのとき、「このはしために男の子を授けてくださったなら、くださいますなら、私はその子の一生を主におささげいたします。」 彼女は、生まれる前にそう思っただけではなく、生まれてからも変わらなかったんです。「この子を今、主にお渡しいたします。この子は一生、主に渡されたものです。自分のものではない。」 主のあわれみによって彼女はあらゆる利己主義から解放され、主の恵みによって授けられた子どもを自分のものとしないで、主にささげました。命令され、強制されたからではなく、彼女は主を心から愛したから自分のもっとも愛するものを主にささげたいと彼女は切に望むようになったのです。 そして彼女の主にささげられた子どもとは、本当に当時の数えられない多くの人々のための祝福となりました。 その当時、前に話したように、みな自分勝手なことをしてしまった。おのおの、おのが道を行く。これは当時の特徴でした。 自分の考え、自分の感情、自分の意思が絶対的な支配権を持っていたのです。結果は何だったでしょうか。主の言葉が稀にしかなく、幻も示されなかった。結局主は知らん顔をした。祝福することができなくなってしまったのです。 きのうのメッセージで、ある兄弟アモス書から次の箇所を引用してくださいました。 アモス書8:11
と。結局、サムエルの時代でやっぱりみな、聞こうとしなかったのです。 何十年前に旭川で喜びの集いがあり、その中でちょっと特別なグループがいたんです。十一人でした。 別々に座って、別々に喜んで、けども一般の人よりも喜んでいたんです。どういう人々であったかと言いますと、みな聞こえない人々ばっかりだったんです。生まれてから一回も音を聞いたことがない。音楽を聴いたことがない。人の話を聞いたことがない。一体どういう世界でしょうか。 けどもみんなイエス様を信ずるようになり、もう嬉しくって嬉しくってしょうがなかったんです。 彼らの喜びに満たされた顔を見たとき、聞こえなくても大した不幸じゃないなのではないかと思ったんです。彼らは聞こえなかったんですけど、みんな聞く耳をもっていたんです。必死になって聞いたんです。 ほかの人々の多くはおそらく聞こえたんですけど、聞く耳がなかったんじゃないかな。 結局、「主に従おう。」、そういう切なる願いがなければ、結局聞く耳がないことになる。これこそが悲劇的です。サムエルの時代の特徴とはそういうものでした。だいたいみな聞こえたんですけど、聞く耳がなかったんです。 サムエルは違う種類の人間でした。生まれつきもちろん、そうではなかったでしょうし、けども母親の影響は非常に強かったんです。あの子どもはやっぱり、「母は謙遜です。高ぶっていない。」 あの子はよく、「母ちゃーん。」と呼んで捜したとき、部屋の中でひざまずいて、祈ってたんです。「ああ、母ちゃん、また祈ってるの?また祈ってるの?」 結局あの子はそれを忘れられなかったんです。結局どういう問題があっても祈れば答えると、サムエルは小さいときから聞いたから、だから彼は本当に心から主のために生きたい、主に仕えたい、主のために生きたいと望むようになりました。 サムエル記第I、2:11
ちょっと不思議ですね。幼子は主に仕えていた。どういうふうに仕えたかちょっと分からないけど、聖書はそう言ってるから間違いなくそうです。 サムエル記第I、2:18
同じこと書いてるんです。それから3章1節。幼子はちょっと大きくなって、少年になっちゃったんです。けど、ここも サムエル記第I、3:1
結局、変わりがなかった。サムエルの唯一の願いとは、主に仕えること。仕えるという言葉は、彼の人生の中でもっとも意味のある言葉でした。 人はよく知っている人にだけ仕えることができます。サムエルは主をよく知っていたから、彼はつぶさに主を体験し、救いを確信したから、この主に仕えたいという強い願いをもっていたのです。 すべて目に見えるものから目を離した者だけが、本当の意味で主に仕えることができます。サムエルは腐敗、堕落、 (テープ A面 → B面) 人間の前じゃない。主の前に仕えた。 ある兄弟は一生懸命です、人間の前に。けど、だれもいないところで何もしない。ほかの人はだれもいないところで一生懸命よ。そういう二種類の人間はいるでしょう。 サムエルは人の前じゃなくて、主の前に仕えた。幼子であり、また少年でした。サムエルは主の前に立ち、主のご臨在のただ中にいました。彼の心のまなざしは、常に主を見上げていたのです。そして主は彼にご自身を現わすことができたのです。 主はサムエルに語られたことがありました。彼は開かれた心、開かれた耳をもっていたからです。彼は主に従う備えができていたからです。主が、「サムエルよ。」と語れると彼はすぐ、「主よ。私はここにおります。語って。聞く耳がある。従いたい。」 よく聞くことのできる者だけが、本当の意味で主に従うことができる。聞き従うことはいけにえに勝ると、彼はあとでイスラエルの民に呼びかけたのです。 主がお語りになり、それを聞いたサムエルが答える。これこそが本当の祈りです。神の言葉、主の御声を聞くという土台のない祈りは、まったく目的のない無意味なものです。 サムエルが自分の母を見たとき、彼女が本当の意味で祈りの人であることを、何回も自分の目で見ました。どんなに重荷となるようなことがあっても、それらをすべて主に明け渡すならば、悩みは喜びに変わる。これこそ彼の母であるハンナの体験でした。 サムエルは祈りの満ちた雰囲気の中で成長しました。われわれの子どもも同じように、祈りの雰囲気の中で成長し、主に仕える人となるように。この堕落した時代の中に惑わされることがなく、常に主の御声を聞き、主に従うことができるように。 主の御声を聞き、それに喜んで従っていく場合には、成長が早いものです。 サムエル記第I、2:21
と書かれています。サムエルは成長し、主は彼とともにおられた。もう一人ぼっちじゃない。私はがんばらなくてもいい。主はともにおられるから、主だけに頼ればうまくいくと、彼は何回も何回も経験したのです。 サムエルの成長の現われは、ちょうど母親が自分自身を忘れたのと同じものでした。彼の祈りはほかの何にもまして、集中的に行なわれました。 彼の祈りの対象は自分ではない、ほかの人々でした。すなわち彼の第一の祈りは自分や愛する者のためではなく、堕落した人々のためにささげられたものでした。 二十年間、イスラエルの民は当時、敵の虜でした。次のような聖句を通して、その当時の状態がいかに絶望的ものに見えたとしても、サムエルの態度はどのようなものであったか分かります。 サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に応えられた。サムエルは主に呼び求めた。私もまたあなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなどとてもできない。サムエルは祈らないことが主に対する罪だと言ってます。サムエルは夜通し主に向かって叫んだ。 そういう箇所はいっぱいあります。苦しみ、困難、罪、堕落、絶望などが渦を巻いてる中で、彼は主に叫び、祈り、主に呼び求め、夜通し主に叫んだのです。 彼は常に主に頼ったのです。主に信頼し、主と結び付いていました。 妥協なき従順こそ彼の特徴でした。主がイスラエルの民の罪と堕落の上に、サウルという王さまを任命することを一度お許しになりました。サムエルこそが、このイスラエルの初めての王であるサウルに油をそそぐ備えをいたしたのです。 サムエルは、神がご自分の民を導きたいと思っておられることを知っていましたけど、人間的な考えで人を王にすることを拒まず、ただ主だけがイスラエルの民を支配すべきであることを十分に知っていたサムエルでありましたが、主がそれを許され、そのようにサムエルにお告げになられたとき彼は、自分の考え、自分の感情、あるいは、自分の意思を捨てて、主の命令に従ったのです。 けどもサウルが不従順によって主に捨てられる結果になってしまったんです。そしてこのさばきをサムエルが王に告げなければならなかったんです。 サムエル記第I、15:11
サムエル記第I、15:23
とサムエルは当時の王さまに告げなければならなかったのです。 サムエルは確かにサウルのことを非常に悲しみました。けどそのような、自分の人間的な思いや感情、あるいは意思を退け、主が命じられたように、ダビデに油をそそいだのです。 多くの子どもはどうして我儘になるかと言いますと、親は同情するからです。気の毒じゃないか。かわいそうなのではないか。主なる神は同情しません。 サムエルも同情しなかったのです。サムエルはただ一つのこと、すなわち、主の御心に対して従順に従うということだけを大切にしたのです。 彼は絶対に妥協せず、いい加減なことはしなかった。決して自分を大切にせず、自分の利益のために行動することをしなかったのです。 彼ははっきり言ったのは、主の言葉を捨てる者は、自分自身も捨てられる者になる。 サムエル記第I、7:3
サムエルは模範的な主のしもべでした。そして、そむいたイスラエルの民に、主に仕えるようにと呼びかけたのです。 まず、「心を尽くして主に帰りなさい。」と彼は叫んだのです。これは実際問題としてあらゆる偶像から離れることです。すなわち私たちにとって、われわれの自我を心の座から捨てることです。自分自身を拒否することです。 二番目、心を主に向けることです。その他のものから心を離すことは、どうしても必要なことです。詩篇の中で、「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」と書かれています。 三番目、主にのみ仕えることです。この三つのことを忠実に守るならば、必ず主の救い、主の解放を、また主の祝福を体験できます。 サムエルによってイスラエルの民は敵から解放されただけではなく、彼らは本当に主を、まったく違う形で知るようになり、主に仕えたいと思うようになりました。 われわれの子どもも、サムエルと同じように主に仕える器となれば、本当に感謝いたします。 |